旅は道連れ
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建ち並ぶ煉瓦造りの高い建物が見え始めると、喧騒が身体に纏いついた。
街路の中心を走行する市電が眼前を過ぎてゆく。洒落た西洋の洋服に身を包む婦人らがあちこちを優雅に
「それじゃあ、その鬼となった女の子を鬼殺隊として正式に迎え入れたの?」
「俺は、認めてねぇけどなァ」
ひどく不機嫌な面持ちで、実弥は毒々しい声を発した。
先日行われた柱合会議での出来事を聞いたなまえも驚きを隠せず双眸を丸くする。
柱は、半年に一度鬼殺隊本部となる【産屋敷耀哉】の屋敷に集い、鬼に関する情報の交換や隊の今後の策定を行っている。
隊士たちから【お館様】と呼ばれる耀哉。彼は産屋敷家九十七代目となる鬼殺隊の当主だ。
見る者を魅了するしなやかな佇まい。対話する相手に心地よい揺らぎをもたらす不思議な声音。清らかな水のように心に溶け込んでゆく言葉には、誰もが耳を傾けてしまう。
優れた先見の明を持つ、組織を導く若き長。その存在に、隊士たちは皆絶対的な敬意と信頼を置いている。
「けれど、お館様がそこまでおっしゃるのなら、その、竈門くんと鬼の妹さんは、鬼舞辻を追い詰めることのできる特殊な何かを秘めているのかも」
「······」
実弥は顔をしかめた。
『鬼舞辻がはじめて見せたしっぽを掴んで離したくない』
耀哉も、同じようなことを口にしていたのだ。
先日の柱合会議で、実弥は例の鬼をつれた隊士と一悶着を起こしていた。
隊士の名は【竈門炭治郎】という。
鬼は皆殺しを心に決めている実弥にとって、炭治郎の妹を"殺さず生かしておく"という選択には万に一つも賛成できず、真っ向から反論した。
尚且つ、鬼である妹と共に鬼殺隊として戦えるなどと大口を叩いてみせた炭治郎と実弥は衝突。
善良な鬼と悪い鬼の区別もつかないのなら柱なんてやめてしまえと非難されたことにも、実弥は怒り心頭なのだった。
善良もなにもあるものか。鬼に成り下がった瞬間から、奴等は皆、塵屑同然の化け物だ。人間から尊きものを奪い続ける、悪しき害虫だ。鬼が人を守るなどありえない。そんな鬼はいない。
これまでに、どれほどの人間が命を奪われてきたことか。家族や仲間を失ってきたことか。
耀哉の言葉をもっても当然納得も承知もできない実弥は、鬼の醜さを証明すると言い自らの腕に刃をふるったのだった。
「だからまた身体に深い傷を作ったのね···。無茶なことするんだから」
「無茶でもなんでもねぇよォこんなもん」
「手当てはした? 後で見せ」
「必要ねェって。舐めときゃあ治んだろォ」
実弥は少々鬱陶しそうに小指で耳の窪みをかりかりと引っ掻いた。
どう考えても舐めときゃ治る傷ではない···が、よく見ると縫い合わせた跡があり、その少し歪な形から実弥が自分で処置したらしいと見て取れる。
実弥にしてみれば、たかが知れたことなのだろう。
実弥の血は【稀血】と呼ばれる種のものだ。稀血とは血液の中でも珍しい血のことで、鬼はこの血を格別好む。
稀血の栄養価は五十人、または百人に相当するとも云われており、食った人間の数に比例し力を得るとされる鬼にとってはまさにとびきりの獲物といえる。それ故に、稀血の人間は狙われやすい。
実弥の身体が傷だらなのは、鬼殺隊になるより以前、この稀血を利用して戦っていたせいもある。
「それで、結局実弥に襲いかかってくることはなかったのね」
「三度もブッ刺してやったってのにどういうわけだかなァ。竹の口枷をしてやがんだが、滝のような涎は流しても喰らいつくことまではしてこなかったぜェ」
「人間の血肉に喰らいつかない鬼なんて、はじめて聞いたわ。実弥の血は稀血のなかでも特に貴重な種のものなのに···。その子、本当に鬼だったの?」
「あれは鬼だ。確かにちと異質な感じはした。風貌は限りなく人に近いが気配は紛れもなく鬼だった。なまえも目にすればわかるはずだ」
「それなら、尚更じゃないかしら···。その女の子、やっぱり他の鬼とはなにかが違うんじゃ」
「なんと言われようが俺は認めねぇよ」
ひらひらと掌をふりながら、実弥はなまえの言い分を一蹴した。
もう、実弥は頭が固いんだから。
直後はそう思ったなまえも、けれど、そうよね···と思案する。
実弥に襲いかからなかったのだとしても、それは、偶然だったのかもしれない。証明はできたとて、この先もずっと人を襲わないという確証はない。
もしも竈門禰豆子が今後人間に襲いかかった場合、到底「申し訳ありませんでした」では済まされない事態だ。
実弥は、鬼殺隊の中の誰よりも、鬼に対して厭悪の情を剥き出しにしている。なまえにはそう見える。
多くの仲間が命をぞんざいにされてきたのだから当然といえば当然だ。一方で、なまえには時折ふと心に過る思いがあった。
やはり、実弥の家族も鬼によって命を奪われたのではないかということだ。
自分のように代々鬼狩りをしている家であることや、縁者を鬼に殺された仇で入隊した者とは別に、幼い頃に両親を亡くしたり、生まれたときから親がなく孤児として育った者が鬼殺隊には多くいた。
実弥は後者かもしれないとも思っていたが、それにしてはあまりにも鬼への怨恨に満ちている。
「···実弥は」
「ふぎゃ」
「あァ?」
猫の悲鳴にも似たような声がして、なまえは慌てて半歩先にいた実弥の足もとを覗き込んだ。
実弥の足が誤って仔猫でも踏んづけてしまったのではないかと案じた。だとしたならば大変だ。
と思ったのも束の間のこと。
なまえが見たものは猫ではなく、人間の幼子だった。
背丈からして四つか五つくらいだろうか。黒髪の短髪に、珍しい形の帽子を被っているのが最初に目につく。
可愛い形だ。
この被り物、名前はなんといっただろう。確か、どこかで見かけた記憶があるのだけれど。
頭のなかでうーんと唸り、ああ、そうだ。ピンと閃く。
べれーだわ、ベレー帽。
先日、買い出しの道すがら帽子屋の店頭に装飾されていた同じそれを見かけたばかりだったのだ。
幼子はうつむいたまま動こうとする気配がない。
詰め襟の白シャツに、膝小僧を出した黒いズボンを両肩から下げたサスペンダーで挟んでいる装いは、まるで異国の流行りものを纏った
風貌からして男の子であると予想される。それよりもこの子はなぜこんな場所に一人でいるのか。
きょろきょろと周囲を見渡してはみたものの、家族らしき姿は見当たらない。
「······なんだァ坊主。一人かァ?」
膝を折り、しゃがみ込んだ実弥の目線が幼子と平行の高さになる。
ぴくり。実弥の声に反応を示した短い眉が、ベレー帽を乗せた黒髪の下からおもむろに現れた。
「父ちゃんか母ちゃんは一緒じゃねぇのか」
「···ふぇぇ」
「ァ?」
「ふえぇぇええん···っ」
「実弥···っ」
突如幼子が大粒の涙をこぼしたので、実弥はぎょっとした。
なまえに腕を引かれて立ち上がる。
「実弥は顔が極悪人なんだから、もっと細心の注意を払わないとだめよ···っ」
「おい待てェ、それとなく聞き捨てならねぇことを言うんじゃねェ」
「うえぇぇえん」
「坊やごめんね。びっくりしたね。ほら、もう大丈夫よ」
「なんもしてねえだろうがァ、俺はァ」
まったく心外この上ないったらありゃしない。
なまえの言い分にいささか不満は残るものの、実弥はやむなく幼子から一度離れた。こうもぎゃいんと泣かれてしまったのでは致し方なかった。
「坊やはどこから来たの?」
涙で濡れた頬に手を添え、なまえが優しく問いかける。
「ここまでは誰と一緒に?」
「お、お、おかあ、さま」
「そう、お母様と一緒にきたのね。教えてくれてありがとう。もしかして、はぐれちゃったのかな?」
「う、うん···っ、いなく、なっちゃった···っ」
「泣かなくても大丈夫よ。私たちが一緒にお母様を探してあげる。きっとすぐに見つかるわ」
言いながら、なまえは陶器のような幼子の頬を両手で包んだ。すると、たちまち幼子の心細げな表情が和らいでゆく。
実弥は知っている。
なまえのあの柔い手が、ひときわあたたかなものであることを。
あの慈しみを向けられると、誰もがたまらなく心安らいでゆくのだということも。
「しかしなぁなまえよォ、こんだけ人が行き交ってるなかそうそう見つかるもんかねぇ。派出所に預けたほうがいいんじゃねぇか?」
「そうねえ···」
実弥の言うことはもっともだと、なまえは宙を仰いでうーんと考える仕草を見せた。
もしかしたら、幼子の母親はすでに派出所へ出向いているかもしれない。
「でも、こんな小さな子の足だもの。案外まだ近くにいるかもしれないわ。少し探してみて、見つからないようならお巡りさんのところへ連れていきましょう」
「遅くなると師範が心配するんじゃねぇのか」
「まだ日も高いし平気よ。ひどく遅れるようなら鴉に言付けを頼むわ」
二人はなまえの生家へ出向く途中だった。
なまえは鬼殺隊入隊と同時に生まれ育った家を出て、現在は山間のふもとで一人で暮らしている。
ことあるごとに生家へ立ち寄るなまえとは反対に、実弥は長らく師範のもとを訪ねることはしておらず、今日はしばし時間も空いたことからなまえと共にみょうじの家へ出向くことを決めたのだった。
この華々しい街を越えた場所にある、幾ばくか閑静な土地にみょうじの家はひっそりと佇んでいる。
急ぎ足で向かっても、刻二つほど数える距離を歩かなければならない。
「ね、大丈夫だから、実弥もお願い」
こうと決めたら引かないところがあるなまえ。
仕方がねぇなァと口にしながらも、こんなとき、実弥は毎度なまえに従ってくれるのだった。
「おい坊主ゥ。母ちゃんはどんな格好してやがる」
「ひぃ」
「実弥、顔、もっと優しく」
「優しぃだろうがァ、つぅか顔はどうにもなんねぇだろォ」
「うわぁあん」
「大丈夫、大丈夫よ坊や。怖くない怖くない」
実弥がちょいと近づくだけで、幼子は肩を震え上がらせなまえの後ろに隠れてしまう。
無理もない。実弥は鬼殺隊の中でも群を抜いて下の隊士らに恐れられている存在なのだ。その理由は、厳しさや口の悪さ、威圧感といったものであるのだが、一番は"目がヤバイ"からである。
大の大人でさえそうなのだから、この年頃の子にはさぞかし地獄の番人のように見えていることだろう。
「···たく、男がいつまでもびいびい泣いて縮こまってんじゃねぇぞォ」
「ひ、」
なまえはぎょっとした。なぜなら実弥が唐突に幼子へと接近したからだ。
幼子は一層と身を縮め、まぶたをぎゅっと閉ざしてうつむく。
実弥はなにを···! なまえの足が半歩、前へ踏み込んだ次の瞬間。
幼子の身体がひょいと高く持ち上げられた。
「っ、わ、あぁぁああ」
「これなら良ぉく見えんだろォ、坊主」
「すごい···! たかい···! いっぱいみえる!」
「そりゃァよかったなァ」
なまえの背よりもぐんと上に、あどけない笑顔が昇っている。
実弥が幼子を抱えたのは、肩車をするためだったのだ。
怯えていたことなどすっかり忘れてしまった様子の幼子は、見通しのよい高さから見る街並みをそちこち楽しそうに見渡している。
「坊主、名前はなんだ」
「···ぼくは、かずま」
「カズマか。字は書けんのかァ?」
「ぼく、まだかけないけどしってるよ。ぼくのなまえはひとつにまっすぐなんだって、おかあさまがおしえてくれたから」
「ほぉ。なら 【一真】ってやつだなァ。いい名じゃねぇかァ」
へへ、と、一真が得意そうに笑む。
なまえはしばし面食らっていた。
実弥が子供と戯れているところなど、はじめて目にしたからだ。満面とは程遠いものの、実弥の表情は普段よりも柔らかで、微かに下がった目尻が如実にそれを物語っている。
肩車も、少なからず幼子の扱いに慣れていなければできない芸当だろう。
「なんだァ、鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔しやがって」
はっとして、なまえは実弥を繁々と見つめた。
「手慣れてるなって、少し驚いちゃって」
「あぁ、まァ、下に六人
「え?」
なんと、下に六人。
仰々しく驚くほど珍しいわけではないにしろ、二人姉妹だったなまえにとっては十分な大家族である。
「上に、兄様や姉様は」
「いねぇ。俺が長男だ」
なるほど···。
なまえは妙に納得した。
出会ってからこれまで、実弥は誰かに甘えるような態度を見せることはなかったし、炊事洗濯掃除全般、なんでも一人でこなしてしまえる。
なまえのほうが歳が上であるというのに、実弥には感心させられることが多かった。
長子という点ではなまえもまた同じだが、文乃は病床に伏すことが多く、年子で大人しい性格でもあったため、なまえが世話を焼いた記憶はほとんどなかった。
「···ねえ、聞いてもいい?」
「なんだ」
実弥が家族の話をするのは珍しいことだ。もしかしたら、今なら、聞けるかもしれない。これまでなかなか踏み込めずにいたことを。
しばし間を置き、なまえは再びおもむろに口を開いた。
「···実弥の、ご両親のこと」
喧騒の中、流れたのは沈黙。
実弥が口を噤んでしまったのがわかった。
「あの···話したくなければ、大丈夫だから」
掌を胸もとに翳し、なるべく明るい声音に切り替えて言い足す。
自分の聞き方が深刻すぎたせいで、空気が重たくなってしまったと感じた。同時に、やはりまだ実弥にとっては触れられたくないことなのだと確信した。
なまえは訊ねたことを悔いた。
決して興味本意ではない。とはいえ自分が話を振ったことで無理に過去を掘り起こさせてしまったのではないか。そう思うととたんに気が進まなくなってくる。
実弥が自ら話したいと思うまで待つべきだったのに、なにを焦っていたのだろう。
せっかく久方ぶりに実弥と生家へ帰れるのだ。この道のりが、実弥にとって心休まるものであってほしい。
この話は終わりにしよう。そう思ったとき。
いや、と、実弥の静かな声がした。
「親父は、もともとろくでもない奴でなァ」
傍らを歩く実弥を見上げる。
実弥は、昔を振り返るような双眸で、しかし真っ直ぐに前を見据えながら、抑揚なくぽつぽつと語りはじめた。
肩の上では、一真が宙を往き来するトンボに手を伸ばしはしゃいでいる声がする。
ただ、黙って耳を傾けた。
ひとつひとつ紡がれてゆく、実弥の過去に。
五臓六腑をひどく揺さぶられるような衝撃とは、このようなものなのだろう。
実弥の過去は、まさに筆舌に尽くしがたいものだったのだ──。
家族に暴力を振るう凶暴な父親のいる家で、実弥は七人兄弟の長男として生まれ育った。
図体の大きな父親が振り上げる手足はもはや凶器で、母が身を呈して実弥や弟妹たちを守らなければ殺されていたかもしれないほどだった。
ところがある日、どこの誰かも知らぬ人間に刺された父は呆気なく息絶えた。
女子供にも見境なく拳を振るい上げていたあの男のことだ。外でも他人に恨みを買っていたのだろう。
悲しみという感情は湧かなかった。あんな男は死んでくれて清々したとさえ実弥は思った。
反対に、母は小柄で、優しく温かな人だった。家族のために、いつ眠りについていたのかも知らぬほど働いていた。
苦労をかけていたと思う。
母の身体が心配だった。ろくに眠らず、食べるものも家族が残したもので十分だと笑う。いつか、母の好物を腹一杯食わせてやりたいと思うようになった。
仕事を見つけて金を稼ごう。少しでも家計の足しになってくれれば母も働き詰めから解放される。
寿美、貞子、弘、こと、就也。
幼い弟妹たちには学舎へ通わせてやりたい。好きな道へ進ませてやりたい。
寿美は物覚えが良いから勉強も得意だろう。貞子が描く絵は誰より上手いし、弘やことは手先が器用だ。就也だって、これから何にだってなれる可能性を秘めている。
実父はろくでもなかったが、父親という存在がいないとなると不安に思うこともあるかもしれない。だったら自分が父親代わりになればいい。
迷いや心細さはない。俺には玄弥がいてくれる。
家族は二人で守るんだ。
そう決意したばかりの、とある夜──。
母の帰りを待つ家の扉を、
鬼と化した母が叩いた───。
「······っ、」
実弥の言葉がしばし途切れる。
なまえはいつしか震える唇に手を添えていた。
それから、どうしたの。などと聞かなくても大方予想がついてしまう。
嫌だ。
口にするのが恐ろしい。
実弥にもこれ以上を言葉にしてほしくない。もう、なにも語らなくていい。
思うのに、喉が詰まる。声が出ない。
「······した」
喧騒が、遠く、遠くなってゆく。
「──···お袋を殺めたのは、俺だ」
刹那、世の音が途絶えた。