その蝶、侮ることなかれ
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田園の中心を流れる広大な用水路では、村の子供たちが随所で水遊びを楽しんでいた。水嵩も浅く透明度の高いこの場所は、夏に涼を求める村人たちの格好の憩いの場だ。
「─っ、」
水しぶきに頬が濡れ、なまえは驚いて立ち止まった。
指先で水滴をぬぐっていると、横合いから「あわ、わ」と慌てふためくみずみずしい声がかかる。
直後「すみません」と詫び入ったのは、袖のない真っ白な綿の服から浅黒い二の腕が伸びている、虫取り網を持った少年だった。見渡せる数の子供たちのなかでも一番に背丈が大きく、発音からは幼さが抜け、芯が感じられる。
彼の傍らにいる二人はさほど変わらぬ背丈の男児と女児で、三人の関係性はまだ不明だが、この、網を持った少年が年長者だろうと思われた。
「そんなそんな、
大人顔負けの礼儀正しさに、なまえのほうがあたふたとしてしまう。
「でも、浴衣のほうが」
少年に指摘され、「あら、本当」
よく見ると、おろしたての浴衣にも水滴が跳ねていた。胸もとの辺りに小さなものが点々と。それから、膝下にかんざしの長さ程度のものが幾つか。
「今日はとっても暑いもの。このくらいあっという間に乾いちゃうわよ」
よく晴れた空を仰ぎ見て、なまえは「ね」と少年に笑顔を返した。
お前たちもほら、ちゃんと謝るんだ。
そう促され、二人がごめんなさい、と小腰をかがめる。なまえの浴衣は白地のもので、濡れた箇所が際立って透けていた。
とはいえ八月の炎天下である。燦々と照りつける太陽。気温は現在も上昇中。この程度の湿り気ならあっという間に蒸発してしまうだろう。困るほどのことではない。
「いいのいいの。本当に気にしないでね。それより、ここにはお魚がいるの?」
「うん! ほら見てくれよ。これ、全部兄ちゃんが取ったんだ」
脇に置いてある銀色のたらいを覗けば、透明に近い小さな淡水魚が数匹そよそよと泳いでいた。
「わあ、すごい! 随分と小さなお魚なのね。ここ、よく通る道なのに全然気がつかなかったわ」
「兄ちゃんは魚取りの天才なんだぜ」
「こら、大げさなことをいうなよ三夫」
「ふふ。そっか、三人は兄妹なの」
「はい。お姉さんは、今から縁日ですか?」
「そうよ」
「あたしたちもね、おかあさんがかえってきたら、みんなでいくの!」
「好きなもの、なんでもひとつ買ってもらえるんだ!」
「それじゃあお母さんの帰りが待ち遠しいわね」
「でも、金魚すくいはだめだって母ちゃんが」
「しかたないだろ。うちじゃ飼えないんだから」
「ねえにぃに、あたし、あかいおさかながほしい」
「いつか取ってやるから、今はこれで我慢な」
ぽんぽんと、兄が妹の頭に掌を優しく弾ませる。
生まれては消える光彩。
眩しくて、ほんの少しだけまぶたを細める。
(···気持ち良さそう)
思わず下駄を放り投げ、自分も水面に飛び込んでしまいたい衝動に駆られてしまう。日傘を忘れてしまったせいで、じりじりとうなじを焼く酷熱が憎らしくてたまらない。
けれど、だめだめ。今日は実弥と待ち合わせをしているのだから。
ぶんぶんと頭を左右に揺らし、なまえは中腰にかがめていた姿勢をしゃんと正した。
「おねえちゃんのゆかたにも、きんぎょがおよいでる!」
「わ、そうなの。よくわかったね。気づいてもらえて嬉しいな」
「しっぽがながくって、くろくって、とってもすてきね」
そう言いながら、にっこりと笑ってみせた女の子にハッとした。
まるで花のようだと思った。強い陽射しの下でもへこたれずに咲く、日輪の花。女の子の笑顔はそれだった。
刹那、なまえの心に柔らかな風が吹き抜ける。胸底に折り重なる優しい記憶が、乾いた音をたて開く。
(···カナエも、花のように咲う子だったな)
見目形は似ていない。それなのに、女の子の笑顔が亡き友と重なって見えた。
なまえは帯に手を添えた。
浴衣はこの日のために新調したものだ。
縁日や夜店からはしばらく遠ざかっていたこともあり、思いきって呉服屋を訪ね、店主の女将に見立ててもらった。
白地の布に水墨画で描いたような金魚が散りばめられている、
帯は、赤色をくすませた
カナエから譲り受けた、大切な帯。
三兄妹に手を振って、なまえは再び歩き始めた。
過日、匡近と実弥と三人で足を運んだ縁日を思い出す。
確か、あの日は実弥だけ隊服で来たのよね。と、なまえは道すがら「ふふふ」と静かに笑みをこぼした。
実弥の羽織は背中に"殺"と書かれているため、鬼殺隊の存在を知らぬ者は必ず実弥を二度見する。
さらにはあの容貌だ。実弥が隊服で道を歩けば、大抵の民間人が道中を譲るのだった。
神社の鳥居をくぐり抜けた先に聳える大木の下の陰で、すでに実弥は待っていた。
おぼつかない足取りで、なまえは履き慣れない下駄の音を速める。
「実弥お待たせ。早いのね。暑かったでしょう?」
「···いいや······俺も、今しがた着いたとこだ」
確認する程度になまえを見ると、実弥はすぐに横顔を向けてしまった。
それ以上はなにも言わない。
まあ、多少の期待はしていたものの、実弥のことだ。そうなるだろうとの予想はついていた。
前回も実弥はこんな感じだったので、なまえは気を落とすこともなくくすりと笑んだ。
「実弥もちゃんと着てきてくれたのね、浴衣」
「あァ? そりゃあ、てめぇがしつこく言うからだろうがァ」
「素敵。良い柄だわ」
「そうかァ? 寝間着とたいして変わんねぇだろこんなもん」
「そんなことないわよ。すごく似合ってる」
遠目では黒色一色に見えた実弥の浴衣は、
帯は青緑の深い
(ただし、隊服ほどではないが胸もとははだけ気味である。本人曰く、首周りが詰まるのが苦痛だそう)
「昼間なのに思ったよりも人がいるのねえ」
「しかし、なんでまた縁日に行きてぇなんて言い出すかねェ」
「だって、夏だもの。しばらくこういう場所とは疎遠だったし、せっかくならまた季節の催しを楽しんでいきたいなって思ったの。忙しいのに付き合ってくれてありがとう、実弥」
「···別に···こんなもんで満足すんなら俺は構わねぇよ」
普段は閑寂としている境内も、夏のこの時期ばかりは賑やかい。
狐の面を頭に乗せた幼子が、息を弾ませ笑顔で傍らを駆け抜けていった。続くように、なまえと実弥も揃って奥へと歩き出した。
匡近がいた頃は、一年を通し羽を伸ばしがてら三人で遠出することもよくあった。
それらはたいていなまえの思いつきからはじまり、匡近が計画を立て、日々鍛練に明け暮れる実弥を半ば強引に連れ出すという、当初、実弥にしてみればなんとも煩わしい誘いであったわけなのだが、幾度となく繰り返されるうち徐々に慣れ、いつしかそれは実弥にとってもほどよい息抜きとなっていた。
「あら? 不死川さん?」
前方からやってきた知った顔にぎくりとし、実弥は即座に対象者に背を向けた。が、時すでに遅かった。
思いのほか人の行き交う境内で、気づくのに遅れた。油断もしていた。
ふわりと藤の花の匂いがしたと思えば、ぽん、と、小さな掌が実弥の背中を軽く叩いた。
「一瞬誰なのかわかりませんでした。不死川さんも、浴衣で縁日なんて来られるんですねえ」
「······浴衣くらい、着るだろォ···。つぅか、オメェはこんなとこでなにしてんだァ」
───胡蝶。
渋々振り返ると、胡蝶しのぶが近距離から実弥を見上げにっこりと笑んでいた。
「私は日用品の買い物ついでにちょこっと寄って······あら? 不死川さんのその手に持っているものはラムネですか? 涼しげで良いですねえ。けれど、あらら? おふたつ、ですか?」
見過ごしてほしいものに限ってしのぶは目ざとく突いてくる。
とっととどっか行っちまえェ······。
無言を貫き、実弥はあからさまに淀んだ空気を醸し出してみせた。
若干天然気質のしのぶは実弥の心情などどこ吹く風で、一切微笑みを崩さない。
「もしかして、どなたかとご一緒なんですか?」
【胡蝶しのぶ】
彼女もまた鬼殺の隊士で、実弥と同じ柱として組織を支える最高位の剣士である。
身長百五十ほどの小柄で華奢な体躯。
故に鬼の頸を斬る力はないが、薬学に長けた知識は毒を作り出すことも可能で、刃に仕込んだ毒を使い鬼を死に至らしめる。
鬼殺隊唯一の、鬼の頸を斬らない剣士だ。
「なんだってかまわねぇだろォ、どっちも俺んだ、」
「ああ、いたいた、実弥ごめんね。思っていたよりも早く順番がまわって、······あら」
石畳がからころと鳴り、しのぶの背後から大きなわたあめを手に小走りで駆けてくるなまえの姿を目にした瞬間、実弥の思考は停止した。
「しのぶちゃん?」
「まあ、なまえさんではないですか」
「こんなところで会えるなんて~! お久しぶりね~!」
「ええ。なまえさんお元気そうでなにより」
「しのぶちゃんも」
「オイ、あぶねぇだろうがァ···っ」
危うく胸もとに触れるか触れないかの距離を掠めた綿状の砂糖菓子を
「なんて立派なわたあめでしょう」
「ちょっと欲張りすぎちゃったかしら。久しい縁日だからつい······しのぶちゃんはおひとり?」
「ええ。私は買い物のついでに立ち寄っただけですのですぐにお暇致しますが」
「そうだ、せっかくならしのぶちゃんも一緒に回らない?」
「ゲホッ」
はしゃぐ女二人を横目に、ラムネ瓶に口づけていた実弥が噎せて咳き込んだ。
「あらあら」「大丈夫?」
しのぶとなまえが各々実弥に同情の目を向ける。