きみに、幸あれ
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まぶたを開くと、実弥は花畑に埋もれていた。
髪をくすぐる柔い風に、心が凪ぐ。
周囲に咲き乱れる花々がこれまでに嗅いだことのない不思議な香りを漂わせていて、それが大層心地がいい。
深い呼吸を繰り返し、飽きることなくここに寝転んでいられそうな思いでいると、近くで小川のせせらぎの音がしていることに気づいた。
眼前を優雅に行き交う鮮やかな色の蝶。すべてを包み込むように広がる空は青く澄んでいて美しい。
ここには、褪せていたはずの色がある。
(······あの世ってやつかァ······?)
ぼんやりと思う。
ああ、死んだのだ、と。
そこに、チャポン、と水の音が滑り込んだ。川に小石でも投げ込まれたような、そんな音だった。
のろりと上体を起こし上げ、双眸を細める。
遥か彼方まで続く色とりどりの花畑。清らかな小川。
見やった先には、匡近の姿があった。
「久しいな、実弥」
小川を隔てた向こう岸から、同じ目線の高さで匡近が笑いかけてくる。下肢は花に埋もれているため拝むことはできないが、匡近も自分と同じようにあぐらをかいているのだろう姿勢が想像できた。
実弥はしばし面食らった表情で匡近を見た。
二人の間を緩やかに流れる小川には、時折陽光を弾くような閃光が揺蕩う。太陽とおぼしきものは見当たらず、どこからやってくる光なのかは不明だ。
三途の川も想像していたよりいささか小さく、しかし匡近がいるのだからやはりここはあの世で間違いないのだろう。
「ははっ、どうしたんだ実弥そんな顔して。兄弟子との感動の再会だぞ。もっと喜んでくれてもいいんじゃないか?」
いたずらな笑みを見せる兄弟子に、実弥は笑い返すことができなかった。
匡近を前にしてよみがえる。なまえの死を目の当たりにした瞬間が。
匡近の、『なまえを頼む』という約束を、自分は果たすことができなかったのだ。
「······悪ィ、匡近」
「うん?」
「お前との約束を、俺はァ、駄目にしちまった······あいつを······なまえを、守りきれなかった」
ぽつぽつと言葉を紡ぐ。
不思議なもので、実弥の小声も離れた場所にいるはずの匡近にはしかと届いているようだった。
「顔を上げろ実弥。らしくないぞ?」
うつむく実弥に、匡近がはっぱをかけるように言う。
実弥はほのかな苦笑を落とし、ああ、らしくねェなァと内心で呟いた。
だがよォ匡近。玄弥も、死んじまったんだ。守ろうと決めたもの、みんなこの手からすり抜けて行っちまったんだ。
俺は、何一つ、守り抜けなかったんだ。
儚げな白い蝶が黄の花に止まり揺れる。
不死川さんの嘘つきと言った蜜璃の言葉を思い出し、その通りだと図星をつかれた。本望だろうだなんて、己で己にそう説き伏せただけの戯言に過ぎない。
「······やっぱり、実弥は優しい奴だなあ」
柔い声が返った。
匡近があまりにぬるいことを口にしたものだから、実弥は若干呆れた面持ちで目線を上げた。
「匡近······テメェは何を聞いてやがった······それに、何遍も言ってんだろォ。俺は優しくなんか」
言い切る前に、ふと気づいて言葉が切れる。
匡近は相も変わらずにこにこと張り合いのない笑顔を浮かべている。
「······匡近······なまえは一緒じゃァねぇのか?」
どこを向いても、匡近の姿しか見えないのだ。
ここへ来れば、なまえにもすぐに会えると思った。匡近の隣には、なまえがいてくれるだろうとばかり思っていた。
それとも、今はまだその姿が見えないだけで、この、目の前にある小川を渡り、匡近のいるほうへと向かってゆけば会えるのだろうか。
さらに奥へと進んでゆけば、そこになまえはいるのだろうか。
会えたら、一言、「馬鹿野郎が」と言ってやらなきゃ気が済まねぇ。その前に、思い切り抱きしめてやらなきゃ気が済まねぇ。
「言っておくけど、実弥はこっちには来れないよ」
そんな思いを見透かすように、匡近はさらりと言った。
「あァ? 何でだよ。俺はもう」
「実弥はまだ、自分の人生をまっとうしていないだろう?」
「もう十分だろォ? 鬼どもを殲滅するっつう、俺の思いは遂げられたんだからよォ」
実弥は納得のいかない表情を顔に浮かべた。
来れないと言われても、戻ったところで何をしたらいいのかわからない。家族も、玄弥も、なまえもいない。どのみち残された寿命は数年だろう。
俺は黒死牟との戦いで痣を発現させたのだから。
すると、匡近の口から予期せぬ言葉が放たれた。
「なまえはこっちには来てないよ」
実弥は呆けた。
「······どういうことだァそりゃあ? まさか、あいつに限って地獄に行っちまったっつうわけでもねぇだろ? あんな虫も殺さねぇような女が······野郎共をしょっちゅうどやしつけてた俺ならともかくよォ」
「ぶはは、なんだ、自覚あったのか」
「あァ?」
「思い出すなあ、怪我の手当てしろって言ってもまったく耳を貸さない実弥とボコボコになるまで
「テメェは何を呑気なことを······」
こいつは死んでもこんな調子なのかと、ついつい実弥も気が抜ける。
匡近はどこまでも匡近で、だからこそ実弥はここでも実弥でいられた。独りだったら、この川を渡ってゆく気力さえ湧かないところだ。
「実弥には、なまえとの未来がある」
──は?
実弥は怪訝な顔で匡近を眺めた。匡近の言う意味が、まったく理解できなかった。
未来?
なまえとの?
「だから、言っただろォが匡近······俺は、なまえを守りきれなかったんだ。あいつはもう」
「なあ、それって、本当になまえだったのか?」
「あ?」
「なまえの
そう言われ、再び実弥の記憶によみがえったのは、あまりにむごたらしい姿だった。
亡骸は、
首から上が無かった。
しばし辺りを探してみたが見つからず、絹布を被せて路地に運んだ。だが、隊服の形も履き物も、なまえのものと一致した。
なにより、亡骸の胸もとの衣嚢に見つけたものがある。
「······これはァ、俺があいつに、なまえにくれてやったもんだ。······なまえの誕辰に」
実弥は、亡骸から抜き取ったそれを隊服の衣嚢から取り出した。
万年筆だ。
匡近が死んだ年、なまえの誕辰に実弥から贈ったはじめての物。それ以来、なまえの胸の衣嚢にはこの万年筆が光っていた。
間違いない。これは、俺がなまえに贈ったものだ。
「ふ~ん? 実弥もそんなことするようになったんだなあ」
「ッ"、アァ"!?」
匡近はにやにやしながらますますいたずらっぽい笑顔を作り実弥をおちょくる。兄弟子のその振る舞いに、実弥は眉を吊り上げ耳殻をカッと赤くした。
「ッ"、だいたいなァ······っ、テメェが先に逝っちまいやがるから、なまえが」
「わかってるわかってる。実弥もなまえのことが大好きだもんな」
「うるせェ! 話を逸らすんじゃねェ!!」
勢いあまって立ち上がる。ところが踏み出そうとしたとたん、実弥の足もとに複数の蝶々がまといついてきた。踏みつけてしまいそうで、前に進むことを躊躇う。
ググ···ッとこらえ、実弥は一呼吸おき口を開いた。
「······なまえのことは、心底、申し訳ねぇと思ってる」
「うん?」
「お前の許嫁だった女だ。そいつを、好いちまったこと」
「知ってたよ」
匡近は、終止穏やかな顔をしていた。
許嫁だった女が弟弟子と···など、気の済むまで殴られても文句は言えないようなことだとずっと心に留めていたのに、匡近からは負の感情が雫も滲みでていない。
「実弥がなまえを特別に慕っていたこと、俺、本当は知ってたんだ。知ってたけど、黙ってた。知らないふりをしてた。なまえは、実弥の気持ちに気づかないでくれと思ってた。なまえを、自分だけのものにしておきたかったから」
匡近は、生前の自分を懐かしむような、どこか罪悪感を拭い切れないとでもいうような眼差しを残し微笑んだ。
打ち明けられた匡近の想いをたった今はじめて知る。匡近は、そんな素振りを一度だって表に出したことはなかったから。
なまえへの想いを悟られていたという事実よりも、匡近が密かに抱えていた胸の内に実弥は言葉を詰まらせた。
好いた女を独り占めしたくなる。
実弥にも覚えのある恋慕の情だ。
「だから、それでおあいこだ」
一転し、にかっと笑ってみせる匡近。
「お前になまえを頼むと言ったのは、実弥にならなまえを任せてもいいと思ったからだ。俺はあのとき、心から、お前となまえがそうなることを望んだんだ」
笑顔が、言葉が、心に染み渡ってゆく。
じくりと眼裏に生まれる灼熱。実弥はぐっと涙を堪えた。
親友の顔だ。双眸を見ればわかる。伝わる。匡近の真っ直ぐな眼差しに、嘘偽りは映らない。
「言っただろ? お前は幸せになるんだぞって。俺は、実弥となまえの幸せを、今も心から願ってる」
匡近の笑顔が好きだった。
最高の兄弟子で、親友で。
それは今でも変わっていない。
「実弥、お前は向こうへ戻るんだ。いいか、感覚を研ぎ澄ませ。なにか、現世からの道しるべみたいなものを感じないか」
言われる通りに集中し、実弥は五感を研ぎ澄ませた。
今は全集中の呼吸も巡っていない。感覚でわかる。この場所にいる間、すべてから解き放たれたように、何もかもが軽かった。
唐突に、実弥の鼻先をこれまでとは違った香りが掠める。
これは自分がよく知る香りだ。
「······蝋梅、か?」
匡近が、満足そうに破顔した。
風が吹く。
あたたかく、柔い風が。
ふわりと上空から舞い降りてきた薄布が、実弥の肩に優しくかかった。羽根のように軽く、半透明に虹色がかった美しいそれは、まるではごろものようだった。
「──ッ、!?」
身体が浮かび、はごろもと一体化した自分が幽体であることを自覚する。柔い風に吹かれれば、ゆらゆらと遠ざかってゆく匡近に向かって実弥は思わず腕を伸ばした。
「匡近······!」
匡近は、笑みを絶やさず実弥を見上げ続けていた。
『ちゃんと、お前の人生を、生きろよ』
『幸せに───···』
もう一度、そう言われているような、そんな気がした。
ビュオ······ッ!
「ッ"、」
突如突風が吹き荒れる。
そして、
ぷつん。
眼前から光が消えた。