ふりふられ
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「水、(じゃなかった)······冨岡さん?」
見覚えのある羽織が目にとまり、なまえは男の背に向かって少々ぎこちなく呼びかけた。
振り返った美麗な顔立ち。
その男、冨岡義勇である。
やっぱりそうだわと、道行く人を数人かき分けなまえは義勇との距離を縮めた。
傍らまで歩み寄り、こんにちは。と一礼する。
「先日の柱稽古では大変お世話になりました。冨岡さんもお買い物ですか?」
「······」
町の商店街。鮮魚屋の前だった。
義勇はしばし深い海のような眼球でなまえを眺め、そして、ああ、たしか。とでも気づいたように唇をほんのりと開かせた。
「みょうじか」
「はい。ふふ、覚えていてくださってよかった」
柱稽古中の義勇は隊士たちの名前を違えて呼んだり即座に口にできないことが多かった。
大勢の隊士をまとめてお世話するのだから当然といえば当然である。なまえも隊員すべての顔と名前は一致しない。
数日前の柱稽古ではじめて義勇と対面したなまえ。
『水柱様』と声をかけた際『敬称は不要だ』と義勇が漏らしたこともあり、義勇の呼び名を変更するに至った。
実弥との会話では長いこと柱名で呼んでいたため、しかしまだうっかり水柱様と口にしてしまいそうになる。
「ここのお魚、とっても新鮮で美味しいのでおすすめですよ。あ、親父さんすみません、鮭の切り身を二切れくださいな」
「······、」
鮮魚屋の店主に声をかけると、「はいよ! 鮭ね!」と威勢の良い返事が返った。
義勇の挙動が少々揺らいだことにはなまえも店主も気づかない。
ここは風柱邸から一番近くの町に構える鮮魚屋だ。
なまえは実弥と共によくここへ足を運ぶが、この町で義勇と遭遇したのははじめてだった。
渡された切り身を金銭と引き換えに受け取る。すると、義勇はなぜかなまえの手もとをじっと見つめていた。
「? どうかしました?」
「ああ···いや、鮭が」
「鮭」
鮭が、だけでは義勇の思いをすぐに汲み取ることが出来ず、なまえは不思議そうに小首を傾げた。
「···あ、もしかして、冨岡さんも鮭を買いに? そういえばお大根も持っていらっしゃるし、鮭大根ですか?」
「···そのつもりだったが、思い返せば三日前にもそれを食ったばかりなので鰤にしようか迷っていた」
「ぶり大根も美味しいですよね。ちょうど今が旬ですし。けれど鮭が捨てがたいのもわかります」
「悪いねぇお兄さん! 鮭の切り身は今ので最後になっちまったんだよ!」
「······」
「あ、あら···」
近くにいた店主が義勇に向かって申し訳なさそうに苦笑する。
しん···と沈黙。
義勇は無表情で鮮魚屋の奥まった場所を眺めていた。
そのうえ無言で棒立ちしている義勇に対し、彼のそれはいったいどういう感情を抱いている顔なのだろうとなまえは困惑した。
悲しんでいるように見えないこともないし、愕然としているように見えないこともない。
「あ、あの冨岡さん、もしよろしければ、この鮭差し上げましょうか」
「いや、さすがにそういうわけにはいかない」
「けれど、あんなに真剣に」
悩み抜き、実は鮭に傾いていたところ声をかけてしまったのだとしたら、なんだか横取りしたみたいで申し訳なく思えた。
「みょうじが遠慮する必要はない。鮭か鰤かで決めかねていたがこれで心置きなく鰤を選べる。鮮魚屋には鰤を一切れ見繕ってもらおう」
「あいよ!」
切り身をくるんだ包み紙を差し出そうとするなまえを遮り、義勇は店主に向かって落ち着いた口調でそう告げた。
店主が手早く包装した鰤の切り身を持ってくる。
懐から金銭を取り出す義勇に、なまえは訊ねた。
「冨岡さんのお屋敷からこの町は少し離れていますけれど、どうしてここへ?」
「今日は蕎麦を食ってきた。その帰りだ」
「あ、あの橋を越えたところにある」
「そうだ」
「お蕎麦お好きなんですか?」
「先日その店で蕎麦の早食いをした。それが思いのほか旨かったのでふと思い立ってまた足を運んだ」
「え······早食い、とは」
「後輩の隊士に勝負を持ちかけられたので応じた」
「勝負···? どうしてまた」
「なぜ早食いだったかは俺も知らない」
後輩の隊士と蕎麦の早食い。
義勇の口から飛び出した意外な発言に、なまえは思わず目をしばたたかせた。
義勇は寡黙な人だと思う。物腰は落ち着いていて、稽古の休憩中も一人きりでぼんやりしているところをたびたび見かけた。
一人でいるのがお好きなのかなあと思っていたし、なぜ蕎麦の早食いをしたのかは不明だが、他人と物事を競い合うような人にはとても見えなかったので、驚きを隠せなかった。
ちなみにその後輩の隊士が竈門炭治郎であったことは後に知る。
なまものを手に長話するのも気が引けて、そろそろ失礼しますねと一礼し顔を上げたところで、ふと、義勇がなまえの顔を凝視していることに気づいた。
適度に保たれていた二人の距離が、義勇が足を踏み出したことにによりぐたと縮まる。
「?」
眼前までやってきた義勇を見上げ、なにかしら? と思った矢先、義勇の手がなまえの頬へと伸びてきた。
「「············」」
なまえは無心で義勇の顔をぼんやりと眺めていた。というのも、普段のなまえならば驚いて後退りするような状況なのだが、このときなまえはまるで別のことを考えていた。
(冨岡さんて、こうして近くで眺めるととっても綺麗なお顔立ちをしているのねえ)
同じく義勇も無言である。顔色ひとつとして変えず、なまえの頬へ指先を滑らせる。
「オイテメェ冨岡ァ······なにしてやがる」
背後から低く地を割るような声がしたのはそのときだった。
ハッとして振り向くと、別で米屋へ向かっていた実弥が立っていた。
「さ、実弥」
「気安く人のモンに触れてくれるたァ···いい度胸してんじゃねェかァァ」
一俵の米俵を担いだ実弥が黒々しい空気を纏ってずん、ずん、とこちらに近づいてくる。
顔が怖い。さらに怖い。
ぐいっと強く腕を引かれ、なまえは義勇から引き剥がされた。
なまえと義勇の間に割って、実弥が入る。
「不死川······? なぜここに」
「そりゃあこっちの台詞だァ。なんでテメェがこんなとこにいやがる」
「あ、あのね実弥、冨岡さんお蕎麦を食べにいらしたんですって。ほらあそこの、私たちもよく行くところ。美味しいわよね」
実弥の怒気を紛らわそうと、なまえは慌てて実弥の傍らへ身を寄せた。
「ああ? 蕎麦ァ?」
「鮮魚屋さんに立ち寄っていたところを偶然お見かけして、私が声をお掛けしたのよ」
「不死川の屋敷は、この付近なのか」
「ハ、テメェにゃ関係ねぇがなァ! 蕎麦食いに来ただけってんならとっとと帰れやァ! 真っ昼間から大衆の面前で粉かける真似なんざしやがってみっともねェ!!」
「実弥ってばなにを言うの···っ、ほら、鮮魚屋さんにもご迷惑がかかるから···っ」
青空のもと、土埃舞う大通りの商店街に実弥の捲し立てる声が響いた。
鮮魚屋の店主は店先で捌こうとしていた魚を前に呆気に取られたような顔で硬直している。
軒を連ねる店からも、なんだなんだと店の者や客がちらほらと顔を出し、近づいちゃいかんとばかりにそそくさと去ってゆく通行人を横目に見ながら、なまえは実弥の片腕に懸命にしがみついていた。
「俺は鰤を買っただけだ。粉をかけた覚えはない」
義勇は涼しい顔で言う。
相も変わらずの義勇に加え、前回の柱会議での発言をいまだ許せずにいる実弥。
肩に担いだ米俵に、実弥の指先がぐぐぐぐっと食い込んでゆく。
「俺はなァ···テメェのそういうとぼけ腐ったところも好かねェんだよォ···! 覚えはねェだァ? たった今こいつに触れてたろうがァ···っ!」
「実弥お願いよ、落ち着いて···っ」
ダンッ! 真沙土を踏み鳴らし食ってかかる実弥の腕を力一杯で引き止める。
片腕で米俵を担いでいるのがせめてもの救いだった。でなければ、実弥は即座に義勇に掴みかかっていただろう勢いだ。
「不死川、まつげだ」
「···ァア"!?」
「みょうじの顔にまつげが付いていた。俺はそれを取り払っただけだ」
あっさりと、淡々と、義勇はそう口にした。
実弥の威勢がピタリと止む。
義勇から放たれた一言に、なまえも「ぇ、」とすっとんきょうな小声を漏らした。
そもそも、なまえは訳もなく義勇の美麗な顔立ちに感心していただけである。実弥が憤慨している事柄に対してさほど気には止めておらず、つい今しがたの出来事であるのにたいした記憶にも残っていない。
言われてみれば触れられていたなあ、くらいなもので、とはいえそれは本当になんてことのない理由で拍子抜けした。
寸刻後、わなわなと実弥の身体が震え出す。
「──···不死川?」
「きゃ···」
なまえから片腕を振り払い、とうとう実弥は義勇の羽織の襟に掴みかかった。
「そういうことなんだよォテメェはァア···ッ!」
「? 不死川···」
「ンなもん、口で言やァ済むことだろうがァア······ッ!!」
チッ!! と盛大な舌打ちをこぼし、肩を怒らせたまま去ってゆく実弥の背中を義勇はまだ不思議そうな面持ちで眺めている。
なまえはお騒がせしたことを鮮魚屋の店主に深く詫び、義勇にも頭を下げて実弥の後を追いかけた。
「さ、実弥待って」
「不死川」
「え?」
実弥に追い付いてすぐのこと、背後から実弥を呼ぶ別の声がして振り向く。瞬間、なまえは肩を跳び上がらせた。
なんと、義勇がなまえの背にぴたりと付いてきていているではないか。