過ぎ来し方、草いきれ
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なまえは思い悩んでいた。
伝え聞いたところによると、実弥が遠方の任務から無事に帰還したらしい。
深手を負ったなどの報せはなく、想定していたよりもずっと早い帰還だったことには毎度のことながら肩の力が抜け一安心する。
お湯を張った桶の中、洗濯板に被せた衣類に石鹸をこすり合わせると、甘爽やかな香りがふわりと一面に花を咲かせた。
蝋梅が練り込まれているという石鹸は頂き物だ。贅沢品なので少しずつ大切に使用している。少量でも泡立ちが良く、乾いたあとにも残る香気は日々の気分を高めてくれる効果もあって重宝している。
天色の空を見上げると、紅葉が自由気ままに上空を旋回していた。
実弥が屋敷に戻ったという報せを受けたのは一昨日。
これまでなら、実弥に稽古をつけてもらうため差し支えのなさそうな暇を見計らい風柱邸を訪れているはずなのだが。
悩んでいるのはこのことだ。
恥ずかしいのである。
恋心を自覚してからというもの、ことあるごとに実弥のことを思い出しては顔から火を噴き出す毎日。
実弥も自分のことを···と考えると、些少ながらも夢心地さは否めない。その一方で二の足を踏む思いも入り交じり、顔を合わせたところで平然としていられる気がしなかった。
(···それに)
抜けるような蒼穹を眺める。
匡近のこと。
文乃のこと。
必ずしも実弥に受け入れてもらえるものではないことも、覚悟している。
「···あら紅葉さん。空の散歩はもういいの?」
「なまえ···桶ノナカガ泡ダラケダヨ」
「え? っ、きゃー!」
見ると、桶の中が洗濯物ごと泡まみれになっていた。
紅葉が呆れたようにカアッと鳴く。
お水お水、と口にしながら、傍らにある井戸の手押し
何度か取っ手を上下させると、すぐにじゃばじゃばと水が出た。
「近頃ノなまえハ、ホントウ二ヘンネエ」
「そ、そんなこと」
「実弥トナニカアッタノカシラァ」
「やっ、やあね紅葉さんてば、なにもないわよう」
ジャバジャバジャバジャバジャバジャバ
明らかな動揺を見せ、なまえは取っ手の動きを速めた。実弥の名前が出たとたんこれである。
「···水、アフレテルヨ」
「きゃーっ」
紅葉はおおよそを悟った。
手紙を書こうと思い立ったのは、それからすぐのことだった。
悩んだ末、なまえは筆をとることに決めた。
拝啓
長途の任務お疲れ様で御座います。御無事でお戻りになられた由、一先ず安堵致しております。御多忙とは承知の上、此の度お話する機会を頂戴願いたく存じます。就きましては、実弥の御都合の程をお聞かせ願い申し上げます。
敬具
ほんのこれしきを一筆箋に綴るのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
度重なる誤字脱字。万年筆を握る手が震えて文字が滲んだ。
何枚もの紙を無駄にし、ようやく書き終えたそれを紅葉の脚にくくりつける。
「紅葉さん、気をつけてね。実弥にもよろしく伝えて」
焼き栗をおねだりする紅葉には、「今度こそちゃんと用意しておきます」と約束し、飛び立つ姿を見送った。
実弥からの返事はすぐにきた。
『三日後の昼、都合がつく。縁日で待ち合わせた神社の境内の大木の下で』との言葉が紅葉の口から伝えられた。
あの神社はなまえが住む村の外れに鎮座していて、拙家からもさほど遠くない場所にある。なまえに無理のない場所を指定してくれたのは、実弥の心遣いだろう。
こちら側から申し出たというのに逆に気を遣わせてしまい、少々心苦しく思う。
思案を巡らせ、けっきょく躊躇いは示さずに承引した。何度もやり取りをすることで手間をかけさせてしまうのも申し訳なく思った。
三日後が、怖くもある。けれど、実弥に会えるのだ。
今はその喜びのほうが勝って、なまえはきゅうと鳴いた鼓動を胸の奥で抱きしめた。
「···うん、やっぱりこの着物にしよう」
約束の当日。
着るものがなかなか決まらず、姿見の前でああでもないこうでもないと頭を抱え続けた結果、普段から着付けることの多いお気に入りの着物に袖を通すことにした。
洋服は特別な用事で街へ出ていくときに着るものしかなく、数もない。そのうえ、山に囲まれたこの田舎の村を歩くような雰囲気のものとも少し違う。
いっそのこと、着なれた隊服で···とも考えた。しかしながらそこは乙女の微妙たる心持ちなのである。
「はあ···。縁日のときは緊張なんてしなかったのに」
あのときは実弥を特別意識していなかったのだから当然だ。
着物を纏い、帯を締め、髪にも少し手を加えて全身を整える。
紺桔梗という青みがかった紫色に、白い小花と縞を染めた小紋の着物。花の周りにほんのりと
やっぱりこれが落ち着くわ、となまえは姿見に映る自分の姿に笑顔を作った。色味や模様も気に入っているし、なにより身体に馴染んだ着物はほっとする。
そうこうしているうちに待ち合わせの時間が迫ってきていた。今から出ても時間ちょうどに到着するくらいだ。のんびりしすぎてしまった。急がなければ。
コロンとした楕円形の小さな鞄を手に掴み、パタパタと玄関口まで駆けてゆく。
間違えて隊服時の履き物に手を伸ばし、違う違う、と独り言。隣に並んだ草履を取り出し足を入れ、玄関の引き戸を滑らせた。
そのときだった。
「──!?」
目の前に、とある人物が立っていた。
「あなたは───」
「みょうじ様、久方ぶりでございます」
言いながら、その人物はなまえに深々と頭を下げた。
思い出したように、なまえは唇を小さく開いた。
「えっと、確か、以前お薬を届けてくださった」
隠の男だった。
「覚えていてくださり光栄に存じます」
姿勢を正した隠に向かい、「その節は大変お世話になりました」となまえも続いて腰をかがめる。
「滅相もございません。隠としての任務に努めただけのことですから」
「なにか、あったのですか?」
「はい。実は、みょうじ様だけにこっそりとご相談させて頂きたい旨があり参りました。恐れ入りますが、少々お時間をいただくことは可能でございますか」
隠は、業務連絡をするときとなんら変わらず淡々とした調子でなまえとの距離をすっと縮めた。
眼前までやって来られると思わず改まってしまう。
上背がある男だった。
以前対面したときには別段気に止めることはなかったものの、こうして見ると、実弥と同じくらいか、もしくはそれ以上。肩幅も広く、隠のなかでは大柄といえる体躯だ。
隠が僚友や上役とごたついた場合、一般隊士が仲介に回ることがあると聞く。相談とはその類いだろうか。
聞き入れたい気持ちはやまやまなのだが、実弥との時間も容易に変更できるものではなく弱ってしまう。
「すみません······今日は所用で、今、少し急いでいて」
「そうなのですね。道理でお召し物が異なると」
「急を要するご相談ですか? もしそうなら鴉に伝言を頼みますから、少しなら──っ!?」
突如、隠がグン、と前に踏み込んだ。
「──!」
なにが起きたのかわからない間に、気づけば大判の布切れがなまえの口に強く押し当てられていた。
とっさに後方へ退いたものの、さらにぐっと迫った隠がなまえの身体に手を回す。口を塞ぐ布切れは、一般的な綿の手巾。薬品らしき匂いはしない。
感覚で相手の力を推し量る。力では敵いそうもなかった。おそらく強引に振りほどくことはできないだろう。
「───紅葉さ···っ! ン"グ!!」
「おっと、慎ましくしていてもらいましょう。もっとも、この辺りは皆隣接する家まで距離がありますから、よほどのことがない限りは悟られたりもしないでしょうが」
「···ンぐ、──っ」
手巾を口の中にねじ込まれ、ぐるん、と身体が半回転したと思ったら、両手首を腰の後ろで固定され、なまえは捕らわれた罪人のような格好で身動きを封じられていた。
背後にいる隠の息遣いは、恐ろしいほど静かだ。
こんなときに限って着物であることが悔やまれる。隊服に比べ動きは格段に鈍ってしまうし、意のままに動けない。
そのせいばかりであるとも言えず、この隠の動きも相当なものであることは確か。
このひとは、いったい何者なの。
(っ、せめて、紅葉さんに)
なまえは隠の足の隙間を狙って履いていた草履を一思いに背後に飛ばした。
バン···ッ!!
草履は玄関扉に見事に当たり、庭にいる紅葉に異常を知らせるぐらいの物音にはなったはずだと手応えを感じた。
これで紅葉が異変に気づけば、すぐに人を呼びにいってくれるだろうとの望みを懸ける。
「もしかして、鴉に助けを乞うたのですか? では、残念なお知らせをいたしましょう。あなたの鴉はさきほど私が身動きを封じておきました」
「んっ、!! んんん"ん"」
なまえは身体を思い切り揺さぶった。紅葉の名前を懸命に叫んでも、捩じ込められた手巾が発声の邪魔をする。
紅葉さんになにをしたの···っ。背後に首を回して隠に鋭い視線を向ける。
「ご安心くださいませ。殺めたわけではございません。ただ、少しばかり
礼儀正しい口調の反面、覆面頭巾の下に冷ややかな笑みが透けて見えるようだった。唯一表情を読み取れる双眸は、心なしか静かな怒りを滲ませているように思えた。
「そんな綺麗な着物を召して、どこへ行かれるんですか? みょうじなまえさん」
「──か、は」
取り出された手巾になまえの唾液の糸が引く。
「っは、······っ、あなた、誰?」
呼吸を整え、問う。
唇を、ひやりとした空気がなぞった。
「···"あのこと"を、忘れたとは言わせませんよ。みょうじさん」
利き手とは逆の耳もとへ手を交差させ、男ははらりと口隠しの布をほどいた。
素顔を見た瞬間、なまえは戦慄した。
このひとは······ううん違う。本人じゃ、ない。
でも、似ている。
───あのひとに。
「塚本清二を、ご存じでしょう」
その名を、なまえはよく知っている。そして、たった今明らかになったばかりの隠の素顔は、そこかしこに清二の
すっと通った鼻筋や、薄い唇。頬から顎にかけての肉付きの少ない輪郭も、清二のそれとよく似ている面様に怖気が走った。
「···清二、さんの」
「彼は、私の兄です」
青い炎を孕んでいるような双眸が、なまえを無慈悲に見下ろしていた。
眩暈がした。
忘れ得ぬ夏の日。蝉の死骸。
むせるような草いきれ。
「あなたの妹の婚約者だった兄を······兄の人生を······不幸のどん底へ追いやったのは、あなただ」
決して消えない記憶の端で、
夕蝉が鳴いている。