* 潜熱の訪れ
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まだ、帰ってきていないみたい。
風柱邸の玄関前で、なまえはくるりと踵を返した。
曙色がのんびりと空全体に広がってゆくさまが美しく、なまえは双眸を細めて微笑んだ。
実弥は任務から戻っていないようだった。
屋敷は扉という扉がすべて締め切られており、ひとの気配もない。
敷地内から外へ出て、なまえは門扉の前で待つことにした。さすがに留守中断りもなく邸内に身を置くのは忍びないと思った。
ぼんやり辺りを眺めていると、バサッ。空中から羽音が聞こえた。
見上げた先では鎹鴉がくちばしに"あるもの"を咥え旋回している。
「も、
「ンンン、クタビレタ! モウ待テナイノヨウ!」
足もとに降り立つと、鴉は狼狽するなまえをよそに咥えていたものを地面に置きくちばしで宙を切る。
「そんなこと言わないで、お願いよ紅葉さん。もう少しで実弥も帰ってくると思うから」
「ツーン」
「紅葉さん~!」
【紅葉】とはなまえの鎹鴉である。しかし刻下の彼女はすこぶる機嫌が悪かった。
本当は、この日のために紅葉の好物の焼き栗を用意しておくはずだった。のだが、忙しなくしているうちになまえの頭からはすっかりと焼き栗が抜け落ちていた。
前日、町へ出かける際確かに約束を交わしていた。
「お土産に焼き栗を買ってくるわね」と言い残して出ていったものだから、紅葉はなまえの帰宅を今か今かと待ちわびていたに違いない。
紅葉に頼みごとをするときは、町に店を構える【久里家】の焼き栗がまずもって効果的なのだ。
昨日に限って忘れていた。などという言い訳が通用するはずもなく、紅葉の機嫌を損ねたまま夜の任務へ向かい、今に至る。
「このあと絶対に忘れずに買ってくるから······ね、紅葉さ」
「···何してんだァ? おめぇらは」
背後から声がして、振り返ると実弥が訝しげな顔つきでなまえたちを見ていた。
「っ、実弥···! お帰りなさい···!」
「朝っぱらからどうしたァ···と言いてぇところだが······なまえお前、"ソレ"、何した?」
なまえの顔を見るなり実弥が短く顎を突き出す。
「あ、これはね······大丈夫、たいしたことないの。ちょっとへましちゃって」
なまえは後頭部に手を当てながら面目なさそうに苦笑した。実弥が早々訝しげな顔をしたのは、なまえの頭に包帯が巻きつけられていたからだった。
任務中に怪我を負い、蝶屋敷で手当てを受けたのは明け方よりも少しだけ前のこと。
「んなとこで待たねぇで中に居りゃあ良かっただろがァ」
「無断では申し訳なくて······玄関も締め切られていたし」
「鍵は掛けてねぇぞ」
「え、そうだったの? 不用心ねえ···」
「別に盗られるようなもんも無ぇしよォ」
言いながら、実弥は片手で木製の門扉を全開させる。
そういう問題でもないと思うんだけどなあ···の言葉が喉まで出かかったが、なまえは口をつぐんだ。
この辺り一帯の土地の所有者は産屋敷家で、近くには藤の花の家もある。鬼殺隊という存在も、実弥という人物も、周辺の村人は皆心得ていると聞いている。
仮に外からの人物が悪事を働いたとしても、実弥に直接害を及ぼせるほどの力を持ち合わせている民間人はまずいない。
「そいつも運ぶんなら貸せェ」
実弥の親指が、なまえの足もとに置かれた風呂敷包みを指した。
それは、紅葉が先刻までくちばしに咥えていたものだ。
「あ、大丈夫よ。これは自分で」
「コレハ、実弥ヘノ贈リ物ダヨ!」
「やだ紅葉さんのばか!」
「ナンダト! 馬鹿ト言ウ奴ガ馬鹿ナノヨ!」
カアカア! コケーッ! ワンッ、ワンッ!
紅葉が金切り声を上げたとたん、近くの家屋で飼育されている鶏と犬が鳴き出す。
「オォイこらァ···近所迷惑だろうがァ···」
実弥は寸刻めまいを覚え片耳に小指を突っ込んだ。
なにせ鬼狩りに奮戦した直後なのである。
疲労困憊というわけではないにしろ、いくらか消耗した神経にわめき声というものは少々耳に障るもの。
「まだ内緒にしておきたかったのに、どうして先に言っちゃうの紅葉さん···!」
「カアァ! イツ渡シタッテ同ジダヨ! 栗ヲ忘レタ罪ハ重イノダァ!」
「だからそれは何度も謝って···っ、もう、紅葉さんのわからず屋!」
「ムカア! 何ヲソンナニムキニナッテイル! マッタク、なまえラシクナイノヨウ!」
内緒? 栗? わからず屋?
話が読めず、実弥は思わず眉を潜めた。そして、滅多に憤慨しないなまえがなにやら立腹しているらしいことに内心少々戸惑った。
「おいおい落ち着けェ······なんだぁなまえ、俺はお前に何か買い物でも任せたかァ?」
記憶はなかった。しかし念のため問うてみる。すると、なまえは眉をハの字にし、同情するような眼差しで実弥を見つめた。
「そんなことだろうとは思っていたけれど、やっぱり忘れちゃったのね実弥。自分の誕生日」
───誕生日?
ああ、と、思い出したように双眸を見開く。
近頃はめっきり肌寒い日々が続くようになり、山の装いも間もなく終わりを迎えようとしている。
着々と冬ごもりへ向かう生き物たち。土に還る植物。厳しい冬の訪れを匂わせる風が吹く季節、自分はこの世に生を享けた。
あまねく、実りあるように。母が最初に自分にくれた
今年も言えてよかったと、一転、なまえは表情を穏やかにした。
「お誕生日おめでとう、実弥」
ふんわりと、目の前で咲いた微笑みが朝日に染まる。
「···すっかり抜け落ちてたぜぇ」
「毎年そんなこと言ってる」
「んなもんいちいち気にしてらんねェんだよォ」
「あら、私の誕生日はいつもちゃんと覚えていてくれるのに?」
「······そりゃ、匡近がしつこく言うから、覚えちまっただけだ」
「ふふ、そうなの」
「そのためだけに朝っぱらからわざわざ来たってェのかよォ」
「···そう、そうよね···。こんな時間じゃなくてもよかったのに、変ね。なんだか気持ちが逸ってしまって···。実弥の都合も考えるべきだったわ」
「別に···俺の都合なんざどうでもいいが」
「紅葉さんもごめんね。私のわがままで付き合ってもらっちゃったのに」
しゃがみ込み、なまえは艶のある小さな黒い頭に親指を滑らせた。
紅葉は気持ち良さそうに目を瞑り、同じく詫び入るようになまえの膝にすり寄ってゆく。
しょげた顔でうつむくなまえの頭頂に、ぽん、と温かなものが乗っかった。
実弥の手だった。
「···怪我してんだから、無理はすんなって話だ」
いつかの "いいこいいこ"とは少し異なる、はじめから、優しさだけをふんだんに乗せたような音が響いた。
触れられた場所からじんわりとあたたかみが広がる心地。
外気はとても冷えているのに、身体の芯が熱を帯びているのがわかる。
夏の縁日、浴衣の内側に伝った汗をふと思い出し、やや心拍数を上げた心臓に困惑を隠せないまま、なまえは頬を赤らめた。
わざわざ、悪かったなァ。と、彼方を見ている実弥の小声が落ちてくる。これも実弥が照れたときの素振りのひとつ。
どうしてだろう。
こっそりと、下から盗み見るようにしか、実弥の顔が見られない。