創作のおはなし

褒めるのが(感想が)難しいのは、おそらく過去の追体験を伴っていないから

2024/01/31 20:53
5年ほど前の記事の転載です。

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最近、SNS上で「褒めるのは批判するより難しい。知識がいるから」という言葉をよく目にします。クリエイターの方による発信が多い印象でしょうか。
自分はtwitter上で小説・ラノベ関係のネットワークしか持っていませんが、その界隈でも何度か同じ言葉を聞きました。「感想が書けない、書き方がわからない」「褒めたいけど、いい言葉が見つからない」など。

ここ数日ずっと、この言葉についてモヤモヤしており、少し考えていたことを整理しておこうと思います(結論はタイトルにあるとおりです)

※なお、ここでいう批判とは、イコール非難・否定と判断し、その前提で書きます。

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褒めるの定義
そもそも褒めるとは、どういう行為なのでしょう。

ある論文によりますと、次のように定義されます。
「ほめ」とは、話し手が話し手以外の人の持っている、話し手と聞き手の双方が価値を認めるなにか(例えば、持ち物、性格、技術など)を自発的に見つけだし、それに対して明示的にあるいは暗示的に「良い」と認める行為であり、結果的には人間関係の潤滑油として機能すべきものである。

小玉安恵「ほめ言葉にみる日米の社会文化的価値観 : 外見のトピックを中心に」(言語文化と日本語教育 6巻 1993)より

いくつか論文を眺めた中で、こちらの定義が最もしっくりきたので、ここではこちらをベースに話を進めます。

こちらの定義に沿うなら、褒めることの難しさは、以下の2つの難しさに還元できます。

・「価値を認めるなにか(例えば、持ち物、性格、技術など)を自発的に見つけ」だすのが難しい
・それを「明示的にあるいは暗示的に『良い』と認める」のが難しい

前者は良い点を見つける「技術」、後者はそれを素直に受け入れる「精神」。つまり褒めるには、この「技術」と「精神」の2つが必要だと考えられます。

褒めるより批判(非難・否定)に走ってしまう方は、後者の精神が不足しているケースに該当すると思われます。たとえ何が良いのか理解はできても、納得はできないというイメージです。嫉妬がわかりやすいでしょうか。

対して、後者はあっても前者が不足している場合は「褒め方がわからない」「小学生なみの感想しか言えない」などの悩みとして表出すると思われます。

では、両方あれば、褒められるのでしょうか。

個人的にはNOだと思います(正確には、半分正しくて、半分違う)

なぜか。

知識と感情を結びつけるものとして「経験」が必要だと思うからです。

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ある料理研究家の方のお話
経験の話のまえに、ひとつ潤滑油として昔話をします。

以前、とある料理研究家・フードライターの方に「記事にする目的で食べる料理と、普通に家で好きに食べる料理、どちらがおいしいですか?」と聞いたことがあります。個人的に、前者はいろいろ考えながら食べるため、後者に劣るのではないかと思っていました。

ですが、答えは以下のような感じでした。
記事に書かれていることは、理屈で考えていることじゃないんですよ。今まで色んなものを食べて、飲んで、話を聞いて、調べて、試して、そうして積み上げた知識や経験によって体系化された自分なりの理屈が、舌が料理にふれて、鼻が香りに刺激されたとき、自然と脳内から引っ張り出されるんです。だから、どっちも同じように美味しいですよ。ただ普通に食べて、普通に思ったことを言葉に起こしてるだけなんで。

実際より言葉を繕いましたが、内容は同じです。

当時は正直、「そんな魔法みたいなことあるの?」と思いましたが、今になると少しわかる気がします。
そして、ここに「褒める」の本質が潜んでいる気もします。

ニート時代に小説(ラノベ)をたくさん読んできて、また新人賞に応募してレビューをたくさん頂いて、作品を見る切り口・視点がたくさん手に入りました。そのおかげで、ある作品の「なにが」「どうして」面白いのかを、多少は言語化できるようになった気がします。

創作の界隈で、たまに「小説の感想を書く・言うのが難しい」という方を見かけます。その理由のひとつは、冒頭にある知識の不足で間違いないでしょう。つまり先の定義から導いた2つの困難に照らしますと、精神はあっても知識がない状態です(なお、ここでは「感想」を「褒める」と同義とみなします。同義で使われているケースが大半のため)

では、こうした方が十分な知識を手にしたら、感想は書ける(作品を褒められる)かというと、それは違うのではないかと思います。

なぜか。

その知識によって作品を切り取る行為は、感想を書く(褒める)という行為ではなく、分析するという行為だと思うからです。

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経験というインデックスが、分析を感想(褒める)に変える
分析とは、手にした知識を使って作品のなかに意味を読み取る行為です。「この作品には、作者のこんな意図がこめられている」「この演出は、こういう効果を狙っている」「このゲームはコンセプトがこうだから、こういうゲームシステムになっている」など。

一方、感想における知識は、作品を見て・読んで・聞いて、なにかを感じたとき(つまり感情が湧いたとき)、自然と頭の中から引っ張り出されるイメージです。先の料理研究家の方の談話です。

両者の特徴を比較しますと、このような感じになるかと思います。

・分析:主客分離・理性的・主体的思考
・感想:主客同一・感性的・受動的反応

それでは、両者を分けるのはいったいなんでしょうか。
それが「経験」だと思っています。

メカニズムとしては、共感が近いと思います。過去の自分と同じ苦労を誰かが味わっていますと、自然と「わかる」となる現象です。
分析と感想の違いは、おそらくこの共感めいた感覚にある気がします。言い換えますと、共感(経験)のある分析が感想、なければ分析のまま。そのようなイメージです。
過去の体験がインデックスとして機能し、そのときに用いた知識が自然と引っ張り出される。それが感想(褒める)のメカニズムではないかと思います。

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類似経験の回数が、インデックスの磁力を強固にする
ただし、類似の経験の回数が少ないと、こうした追体験による意味づけは起こらないと思います。言い換えますと、褒めたいけれど言葉が見当たらない、感想が書けないという方は、類似の経験(創作でいいますと、小説を読んだ回数、アニメを見た回数、ゲームをプレイした回数など)が少ないのではないかと。

経験の回数が、このインデックスを強固にしてくれる=知識を引き出しやすくするのではないかと思います。磁力が強まるような感じで。

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褒め方・感想に正解はない
補足しておきますと、感想は「面白かった」の一言でも十分だと思っています。ブログなどで長い感想を書いている人の大半は「書きたくて仕方なくなった結果」だと思います。感情を発散させるために。頭と心のバッファを空けるために。

加えて、褒め方や感想には正解があると勘違いしてしまっていて、それで褒められない・感想が書けないという方も多い気がします。

もちろんそのようなことはないわけですが、世の中の感想が「感想」ではなく「レビュー」の形式をとっている、つまり分析的に書かれていることが、この「正解がある」という誤解を量産してしまっているような気もします。

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