創作のおはなし

語り得ぬリアリティをどう扱うか? 『ガーリー・エアフォース』を読んで

2024/01/26 03:50
5年前の記事の転載です。

     *

買ったまま積んでいた『ガーリー・エアフォース』を、ようやく読み終わりました。

以下ネタバレ注意です。

     *

まず簡単にあらすじを書いておきます。

・世界は謎の飛翔体(戦闘機)である《ザイ》に襲われている
・主人公たちは《ザイ》から日本および世界を守るために戦っている
・《ザイ》には《ドーター化》という特殊な措置を施された戦闘機《ドーター》しか太刀打ちできない
・《ドーター》は《ザイ》を構成するコアをベースに生み出される
・《ドーター》を操る少女型の自動操縦システムを《アニマ》と呼ぶ
・《アニマ》は通常《ドーター》を1人で操る
・主人公とヒロインの《アニマ》だけは、2人1組でないと《ドーター》を飛ばせない

要は、特殊な戦闘機・ドーターで侵略者たるザイから世界を守る主人公・ヒロインたちの物語です。

主人公の青年は母親を目の前でザイに殺され、以来、自らの手で連中を撃ち落とさんと復讐心を秘めながら避難生活を送ります。

その後、紆余曲折を経て、彼は学生生活と並行しながら、日本のドーター部隊である独立混成飛行実験隊の一員として活動するように。ザイから日本と世界を守るため、ヒロインのアニマである少女とともに空を飛ぶ、そんな物語です。

結論、面白いです。すごく面白い。面白いとしか言いようがないくらい面白かったです。

     *

本題です。
まず前提についてふれておきます。

主人公はザイを消滅させるべく奔走しますが、その中で2つの壁にぶつかります。

1:ヒロインは今まで時間遡行を繰り返し、ザイを過去の世界へ送ることで未来を守ってきたが、主人公は彼女ひとりに全てを押しつける平和はお断り。
2:ザイを消滅させる別の手段が見つかるも、それによってザイと大元を同じくするアニマも消滅することが判明、主人公はそのような手段はお断り。

つまり、ザイの脅威から世界を救うには、ヒロインたちを犠牲にしなければならないジレンマに苦しみます。彼はそのような未来お断りなのですが、そうしないと世界は救えません。では、どうすればいいのか……というわけです。

結果、彼は以下のような経緯を辿って、最終的にヒロインたちを犠牲にして世界を救う決断を下します。なお、犠牲と言い切ってしまうのは正しくないのですが、話の分かりやすさを優先して、あえて言い切ります。ご容赦ください。

1:世界の存亡とヒロイン、そのどちらかを選ばなければならない事実に直面する。
2:ヒロインを選び、世界を救わないと公言して、以降の任務を放棄する。
3:ヒロインを含め、周りから総スカンを食らってしまう。
4:「じゃあ、どうすればいいんだよ」と悩む主人公。
5:色々あった後に、世界もヒロインも救う第3の道を模索する決意を固める。
6:突如、ザイが攻めてくる。
7:そこへ主人公がいきなり戻ってきて、自分も戦闘に参加すると言い出す。
8:身勝手な理由で出ていったにも関わらず、いきなり翻意して戻ってきた主人公に納得できない仲間たち。ですが、一時的に関係を修復してザイを追い払う。
9:任務終了後、仲間たちにこれまでの自己中心的な振る舞いを延々説教される主人公。これにて一旦は雨降って地固まる。
10:第3の道を見つけるも、その先にはアニマたちの消滅という副作用があることを知らされる。
11:再び悩む。
12:色々あった後に、最終的に世界を救う道を選ぶ。
13:世界が救われる。

     *

こうした展開を見ますと、前に知人が言っていた言葉を思い出します。曰く、

「世界の平和と恋人や友人の命を天秤にかけたとき、迷わず前者を取るはず。後者を選ぶのは、リアリティがない」

というもの。

理屈の上では、至極当然の話ですね。世界数十億人と一人の友人や恋人、両者を天秤にかけた時、どう考えても前者に傾きます。命の重さが等しい以上、最大多数を救う道を取るのが合理的な選択です。

ゆえに知人は、この手の自己中心的な展開には苛々すると言っていました。「世界の存亡がかかってるのに、自分勝手な我が侭を言った挙げ句、身勝手な自棄を起こすとかあり得ない」というわけです。

この気持ち、正直わからなくもないです。

ですが、同時に悶々とするのも、また事実です。

なぜかといいますと、この手の選択を我々は経験できません。そのため、「世界の平和より、恋人や友人の命を選ぶのは、リアリティがない」という時の「リアリティ」がどのようなものを指すのか、我々は知り得ないからです。

     *

世界の存亡と恋人の命を天秤にかけた経験など、世界中の誰一人として持っていません。そのため、こうした主人公の選択を「あり得ないよね」と言われても、「わからない」としか言いようがありません。

そうである以上、この手の場面のリアリティは、想像するほかありません。

ここでいうリアリティは、納得感とも言い換えられます。つまり、主人公の行動原理が読者にとって納得できるものであれば、それは「リアリティがある」と言ってよいでしょう。

それでは、この納得感は、どのように生み出されるのか?

ことライトノベルに関していいますと、フィクションにおけるリアリティを担保する方法としては、以下の2つがあると考えています。

1:テンプレ、王道を踏襲する
2:現実の体験を延長する

1については、正確には「リアリティの担保から目を逸らす」に近いかもしれません。

たとえば「曲がり角で食パンをくわえた女の子とごっつんこ」というテンプレがあります。このような展開は、現実ではおよそあり得ません=リアリティがありません。ですが、あると嬉しいドラマチックな展開として、わりとすんなりと受け入れられてきました(最近はほとんど見かけなくなりましたが)

このような見せ方の応用で、起こり得るか分からない=そもそもリアリティを担保できない場面に、せめてこうあってほしい=ドラマ性をあてこむ、というのが1の考え方です。

分かりやすい例としては、御都合主義があります。御都合主義にリアリティはありません。あるのは、誰もが「そうあってほしい」と願う内容そのままのドラマです。

対して2は、先の『ガーリー・エアフォース』のような展開です(同作の場合、正確には1と2の折衷という色が強いので、例としては少し不適切ですが、ご容赦ください)

こちらは簡単にいえば、その手の事態に直面したキャラクターが持つパーソナリティ(価値観・性格・知識・経歴など)を踏まえた時、彼・彼女がどう振る舞うのが適当か、現実の事例を延長して模索する方法です。世界の存亡に直面したこどもの選択を考える場合は、現実のこどもが大きな決断を下す場面を想定する、そのようなイメージです。

この場合、子どもが感情的に振る舞うのは、想像に難くないでしょう。感情的な判断や振る舞いを「こどもっぽい」と形容することからも。実際、大きな選択に直面した時、「こどもっぽい」決断を下す大人は少なくないと思います。

もちろん、現実の大きな出来事と世界の存亡は、まったく違うものです。そのため、現実の決断に伴うリアリティを延長して、世界存亡の決断に伴うリアリティを完全に担保はできません。

ただ、現実に立脚してリアリティを担保しようとしますと、どうしてもこうなると思います(少なくとも自分の中では)。そのため、最後は価値観の問題に帰着するのではないか、と。つまり「こどもっぽい選択をしている」とイライラさせてしまうか、「そういうものだよね」と納得してもらえるか。

     *

1と2は、「未体験のリアリティは語り得ない」という認識は共通していますが、1は「語り得ないのだから、理想を追求しよう」を志向し、2は「それでも多少なりリアリティを担保しよう」を志向する点で異なります。

『ガーリー・エアフォース』を読んで感じたのは、ベースを2に置きつつ、1を入れ込んで納得感を担保(あるいはストレスを中和)すると、わりとすんなりした展開になるのではないか、という点。

主人公の決断は「こどもっぽい」展開のため、大人の読者だと苛立つ人も出るのだろうと思う一方、その後の展開(先の5〜9あたり)が完全にテンプレのため、ラノベを読み慣れている人なら、リアリティよりもテンプレに意識が向く=「こういう展開、あるよね」という感覚がストレスを中和してくれる可能性が高いため、そこまで気にならないのではないか、と思います。

コメント

コメントを受け付けていません。