KEEP ALIVE
そこから数日――毎朝の会話は真田のしつこい愚痴から始まった。
「まったく。人に向かって拳銃を投げつけるヤツがどこにいる。咄嗟の弾みで引き金が外れたりしたらどうするんだ。実弾仕様じゃないとは言えどうかしてるぞ」
真田がソファでテレビを眺めながらその元凶を叱りつけている。斜め横のソファではアメリアが似合わない感じでしょぼくれていた。
「だから、何度も謝ったじゃないですか。……もうしませんって……」
その遣り取りをクレアはアメリアの斜向いのソファから眺めていた。二人の顔色を伏し目がちに窺いながら。
いつも少しだけ気まずかった。自分の受けるべき責苦をアメリアに押しつけているような気がして。もちろん真田に悪意がないことも分かってはいるのだが。
その膝の上にはルファを乗せていた。大切なお守りに両手を重ねるようにして。彼はさっきから無言を貫いている。呆れているのか同情しているのか。それとも単純に興味がないのか。もしくはまだ眠っているのか。外身からはまるで分からなかった。
服は以前にアメリアが用意してくれたものをそのまま着ていた。黒い七分丈のレギンスに白のインナー。グレーのショールカラーのフリースという淡白なものだ。他の服は見た目も装飾も賑やかでどうにも肌と好みに合わなくて落ち着かなかった。ただこの服も若干サイズが合わなかった。服に着られている違和感と鬱陶しさが肩幅や手元の遊びに残っていた。
考えてみれば服を自分で選んだことなどなかった。
尤もそれはクレアだけではない。島民のほぼ全員がそうだ。私紋を通してCitizenBoxに登録された身体座標と嗜好を提供すればあとは店舗のコーディネーターが見繕ってくれる。生跡診断を受ければBWHや骨格さらには色やルックスの好みまでが詳細にCitizenBoxに反映される。そうして心も体も監督省のデータベースに明け渡すことを対価に人々は快適を手にした。
当人の望むと望まざるとに関わらず。
テレビにはニュースが映っていた。自動車メーカー各社が連名で監督省に社会の目の情報提供を打診しているという報道だった。
最近なぜか島中で交通事故が頻発していた。そのほとんどが歩行者との接触事故だ。原因は運転手の前方不注意から歩行者の飛び出しまで様々。自動駆動系停止装置――AVSが搭載されているにも関わらず……だ。
その防止策として社会の目の情報を各社のナビに同期させることが提案されているらしい。周囲の歩行者の位置情報を把握することで接触事故を減らすことが狙いだ。微かな危険でも察知するとナビが予め車を減速あるいは緊急停止させる。AVSは対象を《車両の目》が認識しなければ作動しない。だがこれならナビを通して起こり得る事故に事前に対応できるようになる。
その仕組みを解説員が長ったらしく説明している。
「やれやれ、どうせ行政官庁の天下り先が増えるだけだろ。官民合同事業なんてロクなもんじゃない」
ニュースを見ていた真田が辛辣に吐き捨てた。
「また合資で法人を立ち上げるつもりでしょうか」
「おそらくな。規制を緩めてもらう代わりに天下り先を用意するのは民間の常套手段だからな。……まあ、とは言え、これで監督省も交通事故は使えなくなる。次はどうするつもりなのか」
何やら意味深気なことを真田が口走った。しかしアメリアは承知のようで、
「ここ最近、古臭いプロシージャを使い回すケースが多かったですからね。このあいだ気になってあの子たちに頼んで最近のローテーションを洗い出してもらいました。それで大体の先読みはできそうです。あくまで使い回してくれれば、ですけど」
「あまり頼りすぎるなよ。この前のニュースでも、ここ最近クラックが多いのを受けて監視を強めると言っていた。下手すると向こうに火の粉が降りかかる」
「無理はさせませんよ」
なにやら物騒な会話が始まったとクレアは感じた。会話の内容からではない。二人の真面目一辺倒の口調と表情からだ。そして――すぐに感づいた。それが自分にも関係することなのではないかと。
二人の間でクレアが静かにしていると……真田がクレアの方を一瞥して、
「……ところで、彼女にはまだ話してないのか?」
「ええ。とりあえず落ち着いてからと思って」
「なるほど。当然と言えば当然か」
リビングに静寂が張り詰める。アナウンサーの淡々とした報道だけが遠慮なく流れる。
「……まあとりあえず、その娘を連れて朝飯でも食ってきたらどうだ。もうモールも開いた頃だろ。それまでにはルファのメンテも終わると思うからな。気は抜けるときに抜いておけ」
「そうですね……。じゃあお言葉に甘えます」
朝食はいつも下のモールだった。この家で最初に目を覚ました朝にアメリアがこっそり教えてくれた。
(先生の家、白物が洗濯機しかないから食事もまともに出来ないのよ。食器だってゼロ。いい加減にして下さいって言ったんだけど、なんでお前のために揃えなきゃいけないんだの一点張り。ほんっと嫌になるわ)
それに対して真田は即答で、
(余計なお世話だ)
どうやらルファとの無線通信を通して会話を盗み聞きされているようだった。それでも不思議と違和感や嫌悪感を覚えなかったのは真田の外見や性格に依るところが大きかったのだろう。
真田がテレビを消してソファを立つ。そしてクレアの前に立つとルファを貸してくれと手を差し出した。クレアは頷いて応じた。なぜか少し不安な気持ちで。それはこの数日で膨らんだ独特の感覚だった。真田は自分たちが朝食中にルファのメンテで部屋にこもってしまう。そのあいだルファとは会えない。それがまるで……自分の大切な一部を失う感覚に似ていた。
クレアがルファに不思議な思いを寄せていることをアメリアも気づいていた。だから真田の家にいるあいだはクレアに預けていた。クレアは毎朝ルファの銃口を突ついたり銃身を撫でたりしていた。あまり話しかけることはなかった。これで充分――すべてを分かり合えるのだといった風に。そんな他愛ない少女と拳銃の触れ合いがアメリアにとっても見ていて飽きなかった。
ルファが感じ取れるのは人で言えば音――聴覚だけだ。味覚は必要ないと判断された。嗅覚は内蔵予定だった。だが当時の感覚系の評価関数ではあまりに処理が膨大になってしまうので取り除かれた。視覚も当初は内蔵予定だった。だが聴覚と連動性が高く情報処理が複雑化してしまう懸念があった。まして感情系をインストールしたルファは情緒が普通の生体型機甲装人より遥かに豊かだ。よって生体型機甲装人の特徴である情報処理能力やネットワーク接続感度に支障が出てしまうのだ。
触覚はルファ自身が「むず痒い」を理由に取り除かれた。その一言にアメリアが思い切りルファを放り投げて開発期間が延びたのは想像に難くない。
ルファには触覚はない。だが方向感知や平衡感知といった体感は感得できる。だから自分がどちらを向いてどんな状況にいるのか……つまりどこかで横になっていることは把握できる。とは言え結局それだけだ。クレアの柔らかい指先や優しい手つきは直接的な情報としては一切伝わっていない。
だがルファは聴覚で状況の穴を補完する。そうして間接的に状況を把握できる。聴覚代替機能が逐次参照している専用サーバには数万種を超える音のサンプルデータが登録されている。それと体感機能を組み合わせることで自らの状況をある程度まで細かく描き出すことができるのだ。そしてそのデータベースは未聴の音に出逢う度にリアルタイムで自動登録されていく。
クレアの膝の上にいるあいだ……ルファはいつも静かだった。それがアメリアには少し興味深かった。まるで愛猫が飼い主の膝の上で丸まって眠りについているような……そんな印象で妙に愛らしかったから。
ルファをクレアから受け取った真田はそのまま一言もなく隣の自室へ消えた。そして立ち上がったアメリアは大きく背中を伸ばしながら、
「それじゃあ、あたしたちは下へ行きましょう」
二人はリビングを出て玄関に向かった。
「ここには、よく来るの?」
突然声を出したからだろうか。アメリアは大きな瞳を瞬いてきょとんとした。しかしすぐに微笑んで部屋を出るようにクレアを促すと、
「まあ仕事柄ね。先生には前の仕事の時から世話になってるし、あの子のメンテナンスも先生じゃなきゃできないから。そんなこんなでここで暮らしてるようなもんかな。自分の家にはあまり帰らないわね。あなたが昨日寝てた部屋で普段はあたしが寝てるのよ」
その言葉からクレアの脳裏をありきたりな想像が過った。それを察したのかアメリアは、
「ああ。まさか夫婦なんてことないからね。そもそもお互いに恋愛感情や結婚願望なんてゼロ。純粋に仕事上の協力関係にあるってだけ」
そう笑いながらアメリアはドアを開けた。部屋の外はホテルのような造りになっていた。床には継ぎ目のないカーペット。トランプを敷き詰めたようにダイヤやクラブといった柄が並んでいる。建物の中央は一階のエントランスまで吹き抜けていた。空調は見事に管理されているようで廊下は暑くも寒くもない。空気の肌触りも春秋の外気のように快適だった。
ホールにはエレベーターが八基。階数表示によればここは三八階。すぐ到着した一基に二人は乗りこんだ。中は空っぽで先客はない。思えばこんな高層エレベーターに乗ったのはアカデミック・タワーの上層に属していたとき以来だ。減り続ける階数表示を見上げながらクレアはぼんやりと過去を思った。その先で湧き上がる感情の輪郭を確かめるように。
やがてエレベーターが止まった。降り立ったのは地下五階。そこには異国情緒豊かな中庭が広がっていた。
中央には豪華な白銀の噴水が置かれている。その真上は最上階まで高々と吹き抜けていて一定間隔で吹き上がる循環水は一回ごとに地下四階から二階まで届く高さを増していく。それぞれの階にはロの字型の回廊が走り多くの店舗が並んでいる。打ち上がった飛沫は光を反射して宝石のように煌めいていた。
まるで別世界だ……来るたびにそう思う。そして一目惚れしたようにいつも辺りを見回してしまう。樹木。柱廊。彫像。水飛沫。ライト。ディスプレイ。ひとつひとつが圧倒的だが節度ある存在感を醸していた。
一瞬で印象に残りしかし目を離せばすっと溶けて消える。そんな上質な存在感。
だから何度同じものを見ても新鮮だった。
まだ朝も早い時間だ。しかし巨大なショッピングモールのようにどこもかしこも黄色い声や淡い光に溢れている。服の整った子供たちが走り回り上品に彩られた大人たちが見守りながら笑っている。それは不思議な光景だった。まるで夢の一幕のように思えてならなかった。防犯パトロール中の生体型機甲装人もいない。片目に盗撮用の光学機器を埋めこんだ変質者やストーカーも見当たらない。アイ・パス片手に必死に社会の目から逃れようとする若者たちもいない……。
気を張ることなく歩ける世界があるなどとクレアは考えたこともなかった。
無言で驚くクレアを余所にアメリアは近くのエスカレーターに乗って地下四階へ向かった。気を失ったように放心していたクレアもすぐに後を追う。
エスカレーターに運ばれながらクレアは改めて辺りを見回した。マンションの地下街とは思えないほど広大な空間だ。四方の端が指先で隠せてしまうほどに。それに人も多い。こんなにも多くの人が一つの建物に住んでいるのかと思うとかなり信じ難かった。
見慣れない風景。聴き慣れない音楽。歩き慣れない人混み。――人生で数えるほどしか味わったことのない華やかさにクレアは当てられていた。感嘆や感動を通り越して圧倒されるほどに。それにはなぜかいつまでも慣れない。心底染みついた低級市民の感性故だろうか。
しかしそれよりなにより驚くのは子供の数だ。
ここはとにかく子供が多い。大人とほぼ同じ数の子供たちが元気にはしゃぎ回っている。
子供を産むためには監督省の許可が必要だ。まず結婚の。そして出産の。そして婚姻届と出産許可証の双方を医療機関に提出することではじめて子宝は授かれる。
子供は言わば選ばれた島民の証。島内では監督省が優秀と太鼓判を押した人間しか子孫を残せない。だからクレアの暮らしていた低級市民街に子供は少なかった。低級市民街で暮らす家族は例外なくかつては優秀だった落ち零れだ。そのため漏れなく嫉妬や皮肉の格好の的となる。そんな窮屈な街で子供たちが笑わないのは必然だった。それはクレアも例外ではなかった。
ぼんやり歩いていたクレアの脚に小さな女の子がぶつかった。尻餅をついた少女は突然のことにぽかんとしてしまった。しばらく茫然とクレアを見上げていた。クレアも同じように少女を見下ろしていた。すると少女の目尻に薄らと涙がたまり始めた。どきりとしたクレアのもとにすぐ兄と思しき男の子が走り寄ってきて思い切り頭を下げた。
「ご、ごめんなさい」
そう怖い人でも見るように力強く言った。なんだか申し訳なくなったクレアは、
「ああ、ううん。ごめんね。お姉ちゃんの方も、ぼーっとしてたから」
そう言って女の子の頭を撫でてあげるとなんとか涙が止まった。そのまま二人の兄妹は背中を向けて去っていった。仲良く並んで手を繋ぎながら。
その並んだ背中に思わず見惚れなかったと言えば嘘になる。年の近い兄弟姉妹を見ること自体がこの島では稀だ。出産許可は大抵一人分しか下りない。両親の育児に対する適性と一子目の健全かつ優秀な成長が確認できて初めて第二子の出産は許可される。よって兄弟姉妹は年が離れていることが多い。逆に言えば二人の両親が相当に優秀であることはあの子たちを見れば明らかだ。
「どうしたの?」
先を行っていたアメリアが戻ってきた。クレアが事情を説明すると、
「まあたしかにこれだけ多くの子供が普通にはしゃいでる光景って、タワー以外だとほとんど見ないかもね。このあいだ公布された通年計画、もう見た?」
クレアは頭を振った。通年計画。島全体の人的リソースを効率的に管理するための統制計画。毎年の進学枠や就職枠や出生数などを監督省が定めて公布する。島では自分の意志で進学先や就職先を決断することはできない。監督省が毎年策定する通年計画が《所与としての最適な人的配置》として全島民に強制される。そのすべてが限られた匣庭の中であり得ない希望に少しでも近づくために――島民は一つでも上のクラスを目指すのだ。
「出生数が大幅に削減されてるのよ。あと出産許可証の発行条件もBBクラスからAクラスに引き上げられてね。最低収入や健康状態、性格適性なんかの条件も一層厳しくなったの。まあ、ここ数年で子供の数が増えすぎたからだろうけどね。数年以内に高齢世代が軒並み退島するからって対策を急いだツケが回ってきたのよ」
Aクラス。島民の平均はBBクラス。
そしてクレアはBクラスだ。
「どっちにしろ、いまのままじゃムリってことか」
なぜか苦笑いが零れた。別にこどもが欲しいと思ったことなどないのに。その心中を察したからかアメリアが話を少しだけ逸らした。
「でも、今回の条件引き上げは純粋に物理的な理由だろうね。出生数自体が制限されたから必然的にクラスも引き上げざるを得なかったのよ」
「どういうこと?」
「以前、分省に出産許可証の申請で人が殺到したことがあったの。だけどあるとき、出産許可証のダウンロードができなくなってね。職員の誰もが最初はなんでそんなことが起こったのか分からなかった。でも後で調べてみたら、ホントに単純な話でさ。その年に出産を許可されたのはBクラスまでだったの。意外に対象者が多かったのね。でも、その頃は島全体で少子化を進めるために出生数を少しずつ削ってたのよ」
「じゃあ……、許可証を貰える人の数が出生数を上回っちゃったってこと?」
「そういうこと。許可証はどんなに多くても出生数の分しか発行されない。だから通年計画を見て早い者勝ちだって気づいた人が、みんな我れ先に近くの分省へ駆けこんで許可証を申請したのよ。いまじゃ考えられないそんなミスも、運用当時は普通に起こってたのね」
(そこまでして欲しがるものかな……)
クレアは思わず小声で呟いていた。しかしどうやらアメリアには聴こえていたようで笑いながら「そうかもしれないわね」と言った。少し恥ずかしくてクレアは思わず身を縮めた。
「あたしも妹が許可証持って笑いながら報告してきたときには、なんでそんなに欲しいのかなって思ったわ。まあ、あたしは自分の子供なんて、とてもじゃないけど恐くて持てっこないってタイプだからね。幸せにしてあげられる自信だってないし」
「妹、いるんだ」
「一人ね。旦那さんと甥っ子くんと三人暮らし。でもほかのエリアで暮らしてるから、もうほとんど会わないけどさ。たまにボイスタッチで話すくらいかな」
クレアは黙って頷いた。どことなく言葉を挟み難い雰囲気をアメリアから感じた。
「でも甥っ子を見てるとさ、捻くれたり間違えたりしながらだけど、それでも自分が人並の大人になれたのは意外に凄いことなんだなって思ったりもするの。それくらい子供って、それこそ生まれたばっかりのころなんて危なっかしくてさ。文字通り一時も目を離せないって感じで。人の子見ててもそう思うんだから、自分の子だったらって思うと、もう考えられない」
やや芝居がかった口調でアメリアは楽し気に語る。
「でも、だからこそ、大人になれたことがどれだけ幸せか初めて分かった気がしてさ。こんな島で暮らしてると余計にね。親が子供を育てるのって当たり前なんだろうけど、大人になるまで付き添ってくれた母さんは、やっぱり立派だったんだなって、いまなら分かる」
そこでアメリアははっとして言葉を切った。照れ臭そうに自分の頭を撫でながら、
「あ、あれ、……あはは。あたしなに話してんだろ。ごめんね、いきなり」
「ううん、別に。ちょっと驚いたけど」
「なんかついついあの子と一緒にいるときのテンションで話しちゃうのよね。一人言っていうか……、あんな形だと話し相手って感じがしないから」
「分かる気がする」
「こんな話つまんないわね。早く行きましょう」
アメリアは駄々を捏ねるようにクレアの手を引いて急かした。クレアも脚をもつらせながらついていった。それこそ仲睦まじい姉妹のように。
「まったく。人に向かって拳銃を投げつけるヤツがどこにいる。咄嗟の弾みで引き金が外れたりしたらどうするんだ。実弾仕様じゃないとは言えどうかしてるぞ」
真田がソファでテレビを眺めながらその元凶を叱りつけている。斜め横のソファではアメリアが似合わない感じでしょぼくれていた。
「だから、何度も謝ったじゃないですか。……もうしませんって……」
その遣り取りをクレアはアメリアの斜向いのソファから眺めていた。二人の顔色を伏し目がちに窺いながら。
いつも少しだけ気まずかった。自分の受けるべき責苦をアメリアに押しつけているような気がして。もちろん真田に悪意がないことも分かってはいるのだが。
その膝の上にはルファを乗せていた。大切なお守りに両手を重ねるようにして。彼はさっきから無言を貫いている。呆れているのか同情しているのか。それとも単純に興味がないのか。もしくはまだ眠っているのか。外身からはまるで分からなかった。
服は以前にアメリアが用意してくれたものをそのまま着ていた。黒い七分丈のレギンスに白のインナー。グレーのショールカラーのフリースという淡白なものだ。他の服は見た目も装飾も賑やかでどうにも肌と好みに合わなくて落ち着かなかった。ただこの服も若干サイズが合わなかった。服に着られている違和感と鬱陶しさが肩幅や手元の遊びに残っていた。
考えてみれば服を自分で選んだことなどなかった。
尤もそれはクレアだけではない。島民のほぼ全員がそうだ。私紋を通してCitizenBoxに登録された身体座標と嗜好を提供すればあとは店舗のコーディネーターが見繕ってくれる。生跡診断を受ければBWHや骨格さらには色やルックスの好みまでが詳細にCitizenBoxに反映される。そうして心も体も監督省のデータベースに明け渡すことを対価に人々は快適を手にした。
当人の望むと望まざるとに関わらず。
テレビにはニュースが映っていた。自動車メーカー各社が連名で監督省に社会の目の情報提供を打診しているという報道だった。
最近なぜか島中で交通事故が頻発していた。そのほとんどが歩行者との接触事故だ。原因は運転手の前方不注意から歩行者の飛び出しまで様々。自動駆動系停止装置――AVSが搭載されているにも関わらず……だ。
その防止策として社会の目の情報を各社のナビに同期させることが提案されているらしい。周囲の歩行者の位置情報を把握することで接触事故を減らすことが狙いだ。微かな危険でも察知するとナビが予め車を減速あるいは緊急停止させる。AVSは対象を《車両の目》が認識しなければ作動しない。だがこれならナビを通して起こり得る事故に事前に対応できるようになる。
その仕組みを解説員が長ったらしく説明している。
「やれやれ、どうせ行政官庁の天下り先が増えるだけだろ。官民合同事業なんてロクなもんじゃない」
ニュースを見ていた真田が辛辣に吐き捨てた。
「また合資で法人を立ち上げるつもりでしょうか」
「おそらくな。規制を緩めてもらう代わりに天下り先を用意するのは民間の常套手段だからな。……まあ、とは言え、これで監督省も交通事故は使えなくなる。次はどうするつもりなのか」
何やら意味深気なことを真田が口走った。しかしアメリアは承知のようで、
「ここ最近、古臭いプロシージャを使い回すケースが多かったですからね。このあいだ気になってあの子たちに頼んで最近のローテーションを洗い出してもらいました。それで大体の先読みはできそうです。あくまで使い回してくれれば、ですけど」
「あまり頼りすぎるなよ。この前のニュースでも、ここ最近クラックが多いのを受けて監視を強めると言っていた。下手すると向こうに火の粉が降りかかる」
「無理はさせませんよ」
なにやら物騒な会話が始まったとクレアは感じた。会話の内容からではない。二人の真面目一辺倒の口調と表情からだ。そして――すぐに感づいた。それが自分にも関係することなのではないかと。
二人の間でクレアが静かにしていると……真田がクレアの方を一瞥して、
「……ところで、彼女にはまだ話してないのか?」
「ええ。とりあえず落ち着いてからと思って」
「なるほど。当然と言えば当然か」
リビングに静寂が張り詰める。アナウンサーの淡々とした報道だけが遠慮なく流れる。
「……まあとりあえず、その娘を連れて朝飯でも食ってきたらどうだ。もうモールも開いた頃だろ。それまでにはルファのメンテも終わると思うからな。気は抜けるときに抜いておけ」
「そうですね……。じゃあお言葉に甘えます」
朝食はいつも下のモールだった。この家で最初に目を覚ました朝にアメリアがこっそり教えてくれた。
(先生の家、白物が洗濯機しかないから食事もまともに出来ないのよ。食器だってゼロ。いい加減にして下さいって言ったんだけど、なんでお前のために揃えなきゃいけないんだの一点張り。ほんっと嫌になるわ)
それに対して真田は即答で、
(余計なお世話だ)
どうやらルファとの無線通信を通して会話を盗み聞きされているようだった。それでも不思議と違和感や嫌悪感を覚えなかったのは真田の外見や性格に依るところが大きかったのだろう。
真田がテレビを消してソファを立つ。そしてクレアの前に立つとルファを貸してくれと手を差し出した。クレアは頷いて応じた。なぜか少し不安な気持ちで。それはこの数日で膨らんだ独特の感覚だった。真田は自分たちが朝食中にルファのメンテで部屋にこもってしまう。そのあいだルファとは会えない。それがまるで……自分の大切な一部を失う感覚に似ていた。
クレアがルファに不思議な思いを寄せていることをアメリアも気づいていた。だから真田の家にいるあいだはクレアに預けていた。クレアは毎朝ルファの銃口を突ついたり銃身を撫でたりしていた。あまり話しかけることはなかった。これで充分――すべてを分かり合えるのだといった風に。そんな他愛ない少女と拳銃の触れ合いがアメリアにとっても見ていて飽きなかった。
ルファが感じ取れるのは人で言えば音――聴覚だけだ。味覚は必要ないと判断された。嗅覚は内蔵予定だった。だが当時の感覚系の評価関数ではあまりに処理が膨大になってしまうので取り除かれた。視覚も当初は内蔵予定だった。だが聴覚と連動性が高く情報処理が複雑化してしまう懸念があった。まして感情系をインストールしたルファは情緒が普通の生体型機甲装人より遥かに豊かだ。よって生体型機甲装人の特徴である情報処理能力やネットワーク接続感度に支障が出てしまうのだ。
触覚はルファ自身が「むず痒い」を理由に取り除かれた。その一言にアメリアが思い切りルファを放り投げて開発期間が延びたのは想像に難くない。
ルファには触覚はない。だが方向感知や平衡感知といった体感は感得できる。だから自分がどちらを向いてどんな状況にいるのか……つまりどこかで横になっていることは把握できる。とは言え結局それだけだ。クレアの柔らかい指先や優しい手つきは直接的な情報としては一切伝わっていない。
だがルファは聴覚で状況の穴を補完する。そうして間接的に状況を把握できる。聴覚代替機能が逐次参照している専用サーバには数万種を超える音のサンプルデータが登録されている。それと体感機能を組み合わせることで自らの状況をある程度まで細かく描き出すことができるのだ。そしてそのデータベースは未聴の音に出逢う度にリアルタイムで自動登録されていく。
クレアの膝の上にいるあいだ……ルファはいつも静かだった。それがアメリアには少し興味深かった。まるで愛猫が飼い主の膝の上で丸まって眠りについているような……そんな印象で妙に愛らしかったから。
ルファをクレアから受け取った真田はそのまま一言もなく隣の自室へ消えた。そして立ち上がったアメリアは大きく背中を伸ばしながら、
「それじゃあ、あたしたちは下へ行きましょう」
二人はリビングを出て玄関に向かった。
「ここには、よく来るの?」
突然声を出したからだろうか。アメリアは大きな瞳を瞬いてきょとんとした。しかしすぐに微笑んで部屋を出るようにクレアを促すと、
「まあ仕事柄ね。先生には前の仕事の時から世話になってるし、あの子のメンテナンスも先生じゃなきゃできないから。そんなこんなでここで暮らしてるようなもんかな。自分の家にはあまり帰らないわね。あなたが昨日寝てた部屋で普段はあたしが寝てるのよ」
その言葉からクレアの脳裏をありきたりな想像が過った。それを察したのかアメリアは、
「ああ。まさか夫婦なんてことないからね。そもそもお互いに恋愛感情や結婚願望なんてゼロ。純粋に仕事上の協力関係にあるってだけ」
そう笑いながらアメリアはドアを開けた。部屋の外はホテルのような造りになっていた。床には継ぎ目のないカーペット。トランプを敷き詰めたようにダイヤやクラブといった柄が並んでいる。建物の中央は一階のエントランスまで吹き抜けていた。空調は見事に管理されているようで廊下は暑くも寒くもない。空気の肌触りも春秋の外気のように快適だった。
ホールにはエレベーターが八基。階数表示によればここは三八階。すぐ到着した一基に二人は乗りこんだ。中は空っぽで先客はない。思えばこんな高層エレベーターに乗ったのはアカデミック・タワーの上層に属していたとき以来だ。減り続ける階数表示を見上げながらクレアはぼんやりと過去を思った。その先で湧き上がる感情の輪郭を確かめるように。
やがてエレベーターが止まった。降り立ったのは地下五階。そこには異国情緒豊かな中庭が広がっていた。
中央には豪華な白銀の噴水が置かれている。その真上は最上階まで高々と吹き抜けていて一定間隔で吹き上がる循環水は一回ごとに地下四階から二階まで届く高さを増していく。それぞれの階にはロの字型の回廊が走り多くの店舗が並んでいる。打ち上がった飛沫は光を反射して宝石のように煌めいていた。
まるで別世界だ……来るたびにそう思う。そして一目惚れしたようにいつも辺りを見回してしまう。樹木。柱廊。彫像。水飛沫。ライト。ディスプレイ。ひとつひとつが圧倒的だが節度ある存在感を醸していた。
一瞬で印象に残りしかし目を離せばすっと溶けて消える。そんな上質な存在感。
だから何度同じものを見ても新鮮だった。
まだ朝も早い時間だ。しかし巨大なショッピングモールのようにどこもかしこも黄色い声や淡い光に溢れている。服の整った子供たちが走り回り上品に彩られた大人たちが見守りながら笑っている。それは不思議な光景だった。まるで夢の一幕のように思えてならなかった。防犯パトロール中の生体型機甲装人もいない。片目に盗撮用の光学機器を埋めこんだ変質者やストーカーも見当たらない。アイ・パス片手に必死に社会の目から逃れようとする若者たちもいない……。
気を張ることなく歩ける世界があるなどとクレアは考えたこともなかった。
無言で驚くクレアを余所にアメリアは近くのエスカレーターに乗って地下四階へ向かった。気を失ったように放心していたクレアもすぐに後を追う。
エスカレーターに運ばれながらクレアは改めて辺りを見回した。マンションの地下街とは思えないほど広大な空間だ。四方の端が指先で隠せてしまうほどに。それに人も多い。こんなにも多くの人が一つの建物に住んでいるのかと思うとかなり信じ難かった。
見慣れない風景。聴き慣れない音楽。歩き慣れない人混み。――人生で数えるほどしか味わったことのない華やかさにクレアは当てられていた。感嘆や感動を通り越して圧倒されるほどに。それにはなぜかいつまでも慣れない。心底染みついた低級市民の感性故だろうか。
しかしそれよりなにより驚くのは子供の数だ。
ここはとにかく子供が多い。大人とほぼ同じ数の子供たちが元気にはしゃぎ回っている。
子供を産むためには監督省の許可が必要だ。まず結婚の。そして出産の。そして婚姻届と出産許可証の双方を医療機関に提出することではじめて子宝は授かれる。
子供は言わば選ばれた島民の証。島内では監督省が優秀と太鼓判を押した人間しか子孫を残せない。だからクレアの暮らしていた低級市民街に子供は少なかった。低級市民街で暮らす家族は例外なくかつては優秀だった落ち零れだ。そのため漏れなく嫉妬や皮肉の格好の的となる。そんな窮屈な街で子供たちが笑わないのは必然だった。それはクレアも例外ではなかった。
ぼんやり歩いていたクレアの脚に小さな女の子がぶつかった。尻餅をついた少女は突然のことにぽかんとしてしまった。しばらく茫然とクレアを見上げていた。クレアも同じように少女を見下ろしていた。すると少女の目尻に薄らと涙がたまり始めた。どきりとしたクレアのもとにすぐ兄と思しき男の子が走り寄ってきて思い切り頭を下げた。
「ご、ごめんなさい」
そう怖い人でも見るように力強く言った。なんだか申し訳なくなったクレアは、
「ああ、ううん。ごめんね。お姉ちゃんの方も、ぼーっとしてたから」
そう言って女の子の頭を撫でてあげるとなんとか涙が止まった。そのまま二人の兄妹は背中を向けて去っていった。仲良く並んで手を繋ぎながら。
その並んだ背中に思わず見惚れなかったと言えば嘘になる。年の近い兄弟姉妹を見ること自体がこの島では稀だ。出産許可は大抵一人分しか下りない。両親の育児に対する適性と一子目の健全かつ優秀な成長が確認できて初めて第二子の出産は許可される。よって兄弟姉妹は年が離れていることが多い。逆に言えば二人の両親が相当に優秀であることはあの子たちを見れば明らかだ。
「どうしたの?」
先を行っていたアメリアが戻ってきた。クレアが事情を説明すると、
「まあたしかにこれだけ多くの子供が普通にはしゃいでる光景って、タワー以外だとほとんど見ないかもね。このあいだ公布された通年計画、もう見た?」
クレアは頭を振った。通年計画。島全体の人的リソースを効率的に管理するための統制計画。毎年の進学枠や就職枠や出生数などを監督省が定めて公布する。島では自分の意志で進学先や就職先を決断することはできない。監督省が毎年策定する通年計画が《所与としての最適な人的配置》として全島民に強制される。そのすべてが限られた匣庭の中であり得ない希望に少しでも近づくために――島民は一つでも上のクラスを目指すのだ。
「出生数が大幅に削減されてるのよ。あと出産許可証の発行条件もBBクラスからAクラスに引き上げられてね。最低収入や健康状態、性格適性なんかの条件も一層厳しくなったの。まあ、ここ数年で子供の数が増えすぎたからだろうけどね。数年以内に高齢世代が軒並み退島するからって対策を急いだツケが回ってきたのよ」
Aクラス。島民の平均はBBクラス。
そしてクレアはBクラスだ。
「どっちにしろ、いまのままじゃムリってことか」
なぜか苦笑いが零れた。別にこどもが欲しいと思ったことなどないのに。その心中を察したからかアメリアが話を少しだけ逸らした。
「でも、今回の条件引き上げは純粋に物理的な理由だろうね。出生数自体が制限されたから必然的にクラスも引き上げざるを得なかったのよ」
「どういうこと?」
「以前、分省に出産許可証の申請で人が殺到したことがあったの。だけどあるとき、出産許可証のダウンロードができなくなってね。職員の誰もが最初はなんでそんなことが起こったのか分からなかった。でも後で調べてみたら、ホントに単純な話でさ。その年に出産を許可されたのはBクラスまでだったの。意外に対象者が多かったのね。でも、その頃は島全体で少子化を進めるために出生数を少しずつ削ってたのよ」
「じゃあ……、許可証を貰える人の数が出生数を上回っちゃったってこと?」
「そういうこと。許可証はどんなに多くても出生数の分しか発行されない。だから通年計画を見て早い者勝ちだって気づいた人が、みんな我れ先に近くの分省へ駆けこんで許可証を申請したのよ。いまじゃ考えられないそんなミスも、運用当時は普通に起こってたのね」
(そこまでして欲しがるものかな……)
クレアは思わず小声で呟いていた。しかしどうやらアメリアには聴こえていたようで笑いながら「そうかもしれないわね」と言った。少し恥ずかしくてクレアは思わず身を縮めた。
「あたしも妹が許可証持って笑いながら報告してきたときには、なんでそんなに欲しいのかなって思ったわ。まあ、あたしは自分の子供なんて、とてもじゃないけど恐くて持てっこないってタイプだからね。幸せにしてあげられる自信だってないし」
「妹、いるんだ」
「一人ね。旦那さんと甥っ子くんと三人暮らし。でもほかのエリアで暮らしてるから、もうほとんど会わないけどさ。たまにボイスタッチで話すくらいかな」
クレアは黙って頷いた。どことなく言葉を挟み難い雰囲気をアメリアから感じた。
「でも甥っ子を見てるとさ、捻くれたり間違えたりしながらだけど、それでも自分が人並の大人になれたのは意外に凄いことなんだなって思ったりもするの。それくらい子供って、それこそ生まれたばっかりのころなんて危なっかしくてさ。文字通り一時も目を離せないって感じで。人の子見ててもそう思うんだから、自分の子だったらって思うと、もう考えられない」
やや芝居がかった口調でアメリアは楽し気に語る。
「でも、だからこそ、大人になれたことがどれだけ幸せか初めて分かった気がしてさ。こんな島で暮らしてると余計にね。親が子供を育てるのって当たり前なんだろうけど、大人になるまで付き添ってくれた母さんは、やっぱり立派だったんだなって、いまなら分かる」
そこでアメリアははっとして言葉を切った。照れ臭そうに自分の頭を撫でながら、
「あ、あれ、……あはは。あたしなに話してんだろ。ごめんね、いきなり」
「ううん、別に。ちょっと驚いたけど」
「なんかついついあの子と一緒にいるときのテンションで話しちゃうのよね。一人言っていうか……、あんな形だと話し相手って感じがしないから」
「分かる気がする」
「こんな話つまんないわね。早く行きましょう」
アメリアは駄々を捏ねるようにクレアの手を引いて急かした。クレアも脚をもつらせながらついていった。それこそ仲睦まじい姉妹のように。