KEEP ALIVE

 目を覚ますとクレアはベッドで横になっていた。裸のままタオル一枚に包まって。
 部屋は月光で蒼白く染まっていた。終わりかけた花火のような薄暗い灯りが天井に一つ吊られている。
 なんとか体を起こそうとする。だが極度の倦怠感のせいでなかなかうまくいかない。なんとか壁に背中を預けてクレアは部屋の様子を眺めた。
 そこには一切の生活感がなかった。あるのはクレアが寝ているベッドとクローゼットのものと思しき扉。一つしかない小さな窓は少しだけ開け放たれている。あとは部屋のドアだけ。色も純色ばかりで濃淡に乏しい。年齢も性格も性別すらも感じとれない。滅菌処理でも施されているのかと思うほど壁は白かった。その上でカーテンの影だけが思い出したようにときどき揺れている。
 なに一つ状況を掴めるものがない。あるのは物音一つしない痛々しいほどの静寂。
 だがクレアが感じたのは不安よりも安堵だった。ようやく助かったのだという確かな実感。
 徐々に意識と感覚が体に馴染み始めると色々なことが思い出された。この体に刻まれたあまりにも鮮明な恐怖や悲哀。メリルの口唇や愛撫の感触。
 ……胃が反り返ったように唐突に吐気がこみ上げてきた。そこで初めて――そしてようやく気づいた。自分は本当はあんなことを望んでいなかったのだと。

(ちょっと乱暴だけど安心して。もう大丈夫よ)

 悲しみと一緒にその言葉が甦った。自分を助け出してくれた女の言葉。ここは彼女の家なのだろうか。そうだとすれば彼女はいまどこに? クレアは不意に彼女を探していた。人混みに怯える迷子のように。だがここにはいない気がした。ここが彼女の部屋ではない気も。あの時に感じた温かい優しさの名残すらいまこの部屋には微塵も感じられなかったから。
 無味無臭の乾燥したレイアウト。寒暖とも濃淡とも無縁の室内。目的の一切を排した部屋。しかしクレアはそこに妙な懐かしさを覚えてもいた。
 アイドルが誘われて連れこまれるのは大抵こうした殺風景な部屋だった。社会の目の届かない打ち捨てられた建物。廃墟と化したアパートや病院の一室。場所は違えど共通した大きなベッドや小洒落たカーテン。
 クレアが連れていかれたのはいつも同じアパートの同じ一室だった。いつだったか。そこが手のひらサイズのアイドルたち専用のスポットなのだと聴かされた。一人と一緒に寝ることもあった。何人もの男たちが先に待っている時もあった。女が混ざっている時も。一人と事を終えるとすぐ次の一人が入ってくることも。それが延々と続くことも。扉の向こうに続く自分を待ち望む長蛇の列。その事実に得体の知れない恍惚を覚えた。自分で自分に恐怖して身が竦むほど。だが止まらなかった。そして気づいた。すでに自分は溺れかけていた。
 やがていつからか分からなくなった。果たして自分は奪われているのか。それとも与えているのか。
 だが本能では分かっていた。薄々ではなく明確に。思い出された過去を一望して気づいた。そこに自分が本当に望んだ時間など一瞬たりとてなかったのだと。
 ずっと思っていた。思いこんでいた。失うものは純粋だけ。削るものなど心だけだと。
 初めてだった。その事実の重さと傷つけたものの尊さを痛感したのは。
 クレアは裸体に毛布を巻いてベッドを降りた。まだ若干の気怠さが体に残っていた。
 窓から外を見遣る。広がる夜景にはまるで見覚えがなかった。目の高さには星の乏しい夜空しかない。人の話し声や車の疾走音も聴こえない。どうやらかなりの高層だ。見下ろすと多彩な陽光を弾く川面のように地面が輝いている。まだ地上は舞い踊るネオンや人々の往来で賑わっていた。しかし人は小さく光も淡く儚い。おそらく三〇階くらいはありそうだ。
 外に広がる景色は家主のクラスを物語る。それが島の不文律の一つだ。自分の両親は最高でもBBクラス。だからこの絶景を手にすることは叶わなかった。
 ついさっきまでの出来事が唐突にぶり返した。立ち眩むほど漏れもなく鮮明に。堪らずに額を押さえて膝をついた。呼吸を潰すほどの吐気が喉の奥で詰まった。
 あれは夢だったのだろうか?
 うろ覚えで当然だった。半ば意識を絶たれかけた寸前の記憶だ。信じ切るにはどうにも心許ない。いまの状況一つ一つもクレアの不信を駆り立てる。
 ――気づけば窓の外に彼女の姿を探していた。
 見つかるはずなどないことは分かっていた。だがそうせずにはいられなかった。

「……あまり立ち歩かない方が良い」

 突然の忠告にクレアははっと後ろを振り返った。
 音もなく一人の男が立っていた。
 多少の面識どころか欠片も見覚えのない男だ。心身ともに必要最低限を匂わせる痩躯と無表情。漆黒にも映えそうなほどの黒瞳黒髪が異様に目を惹いた。出立ちは濃紺のスラックスに白いワイシャツ。上から薄手のカーディガンを羽織っている。無精な研究者か学者といった風情だ。選ばれた景色を手にするには足りないものが多すぎる。そんな気がした。
 男が一歩また一歩と近づいてくる。クレアは反射的に怯えて身を引いた。なぜだか容赦なく心を鷲掴みにされた気がして。だが男の挙動は威圧的ではない。しかし無理もなかった。その身を必死に抱き寄せた。心を守るように。不信と拒絶。それがクレアが男に見せた最初の生きた感情だった。そして不安気に周囲を見回す。縋るものを探すこどものように。しかし目に入るのはやはり殺風景だけ。一切と無縁の寂れた空間。
 男は呆れた風に後頭部を掻いた。切り出すべき言葉に迷っている様子だ。

「……そんなに怯えなくても大丈夫だ。別に捕って喰おうってわけじゃない。こんなヤブ医者みたいな格好だけど、会社の生跡診断でも一切問題なしと出てる」

 その一言はむしろクレアを不安にした。ついさっきのことだ。自分は社会的に最も認められている人間に弄ばれたのだ。そう簡単に信じ切れるものではない。
 なにしろいまの自分は……。
 その不安を察したのか男は目を逸らしながら、

「ああ。君の服だが、いま準備してるところだ。この部屋に女物の服はなくてな。すまないがもう少しだけ待ってくれ。もうすぐあいつも戻るだろう」

 照れを誤摩化しながら男は言った。クレアはなにも応じなかった。代わりに両肘を引き寄せて自分を強く締めつけた。そうしないとばらまいてしまいそうだった。なに一つ得体の知れない衝動の数々を。手に負えないまま野放図に。堪らずに男から瞳を逸らした。ぎゅっと閉じようとして――止めた。恐かった。閉じた瞼の裏に痛々しい記憶が焼きついている気がして。
 そんなクレアに遠慮することもなく男は近づいてきた。右手を当然のようにクレアの額に伸ばした。クレアは反射的に目を瞑った。

「ちょっと失礼。……発熱も治まったようだし、だいぶ副作用も抜けたかな」

 安心したのか男は手を離した。微かな体温の名残だけがクレアの額に淡く残った。それで少なくとも男が血も涙もない冷血漢ではないことは分かった気がした。クレアはようやく少しだけ落ち着いた。いまの状況に斜から向き合えるだけの平静は取り戻せた。

「まあ、とは言え、まだ体調が万全じゃないことは君が一番良く分かってるはずだ。違薬品の副作用は強烈だから完全に抜けるまでに最低でも丸一日はかかる。とりあえずしばらくは横になってるといい。俺は隣の部屋にいるから、なにかあったら呼んでくれ」

 それだけ言い残してあっさり部屋を去ろうとした男の背中にクレアは、

「……ここは?」

 反射的にクレアは訊いていた。自分の声がやけに新鮮に響いた。耳の奥まで。あまりに聴くのが久しぶりすぎて。男は踏み出しかけた足を止めた。そしてクレアの方をゆっくりと振り返って、

「ここは俺の自宅。イーストエンドの中級市民街にあるAレイヤー専用のマンションだ。と言っても、だいたい家にいないから内装はご覧の通り。ほとんどなにも置いてない。けど何か欲しいものがあれば、遠慮なく言ってもらって構わない。地下の店から送ってもらうよ。食べる物に洋服、本なんかの趣味や娯楽関係、一通り思いつきそうなものは大体揃ってる」

 そう言う男に嫌味はなかった。純粋に親切心から出た言葉のように口調が柔らかい。
 男は質問を促すように片手を挙げて、

「ほかに知りたいことは? なければ失礼するよ。これでも意外と忙しい身でね」

 その一言にクレアは咄嗟に、

「……あなたは?」

 そう訊き返していた。いまさら知りたいことではなかった。まだ一人になりたくなかっただけだった。誰でもいい。側にいて欲しかった。だが本音とは裏腹にまだ怯えてもいた。男の得体の知れなさに。それを少しでも和らげたかった。その声。雰囲気。素性に慣れることで。
 そんな意図を男は知る由もなかった。だからかだろうか。幾分意外そうな面持を伏して、

「自己紹介ってことか。……自分のことを話すのはあんまり好きじゃないんだが……、まあ、あいつが戻るまでの暇潰しには丁度良いか」

 頭を掻きながら愚痴っぽく言った。

「名前は真田陽明。名字は真実の《真》に田園の《田》で、名前は太陽の《陽》に《明るい》という字だ。この島の旧字は知ってるかな? まあ一目瞭然だろうが、この島の先住種の純血を継いでる。アカデミック・タワーで習っただろう?」

 男の言葉にクレアは小さく頷いた。
 数世代ほど昔のことだ。周囲の島々を含めて列島国を築いていた先住種。彼らの特徴は世にも珍しい純粋な黒髪と一点の曇りもない澄んだ黒瞳を持つことだった。もっともクレアの先祖たちはそれを不吉の象徴として忌み嫌っていた。先祖の罪深さ故に贖うべき業を背負った人種なのだと。当然ながら……その業の正体や贖うべき罪の実態を知る人など誰一人いなかった。
 一息入れてから真田は話を続ける。

「大陸からの移住者によってサブネットに追いやられて、絶滅を危惧されなかった哀れな人種さ。俺はその数少ない生き残りだ。もっとも、こうして君と話してるから当然だけど、俺は言葉が通じる。ジョークやスラングだって問題ない。なんなら披露しようか?」

 クレアは目を伏せるだけで応じなかった。
 代わりに考えていた。あの車に乗っていた二人のことを。一人は男声だった。だがどうやらこの男ではなさそうだ。あれはもう少し幼い声だった。タワーで耳にしていたような世間と怖いものを知らない声色。
 あの二人はいまどこにいるのだろうか。この男はそれを知っているのだろうか。クレアは再び反芻した。
 この男は間違いなく知っているはずだった。男はこちらのことをなに一つ詮索してこない。それは事態の全てを把握しているからにほかならない。自分がなぜここにいるのか。誰が連れてきたのか。そしてこれからどうなるのか。そうしたいまのクレアを苛む疑問のすべての答えを。しかしいざ訊ねる勇気がクレアにはなかった。どうにも意を決しきれない。固めたはずの言葉が喉元を過ぎる頃には綺麗に霧散してしまった。
 クレアは本能的に恐れていた。男をではない。打ち明けた本心に予期せぬ真実が降りかかるのを。

「……まあ戯言は程々にしておこう。ほかに俺について知りたければ、あとはCitizenBoxから生跡を覗いてみてくれ。別に面白いことは載ってないがね」

 そして男はクローゼットを指差しながら、

「そこにノートパソコンが数台入ってる。どれもクラスフリーでアカウントは不要だ。好きに使ってもらって構わない。ただ一台だけ銀色のものがあるけど、それは社用のパソコンだから使わないでくれ。私紋認証が必要だからログインは不可能だけど、誤紋を検知したら会社のSSが盗難だと勘違いしてすっ飛んでくる」

 それだけ言い残すと男は部屋を去った。こちらを振り返ることもなく。
 あまりにもあっさりした去り際に残されたクレアは茫然とした。結局知りたいことはなに一つ分からないままだ。そんな自分をからかうように静寂が部屋中に広がり出す。肩を撫でる無音の冷気に負けて窓際を離れた。
 誘われるようにクレアはクローゼットを開けた。中は意外と空いていた。数台のノートパソコンのうち一台は確かに銀色だった。ほかにはセカンダリモニタや外付け用のドライブなどが数台。あとは色も長さも様々なケーブルが数本。衣服は一着も見当たらない。
 男は言っていた。一台以外はクラスフリーだと。それは本来あり得ないことだ。電機関連機器や自動車といった各種メーカーには自社製品への認証パネルの搭載義務がある。そのためデフォルトで搭載されていないことはまずあり得ない。そして当然それを取り外そうとすれば機器自体が故障して警備機構にも通報が飛ぶ。
 その本来あり得ないパソコンが何台も転がっている可能性は二つだ。男は島の重鎮中の重鎮か――もしくはとんでもない犯罪者か類する何かか……。
 どちらにしても警戒が必要だ。
 恐る恐るノートパソコンを引っ張り出すとクレアはベッドへ戻った。口頭検索対応の最新型だ。
 起動すると真っ白なデスクトップが表示された。アイコン一つ置かれていない。幾つか知っているブラウザの名前を口にすると三つ目が自動で立ち上がった。続けてサイトの名前をブラウザへ伝える。一瞬にして監督省の公開しているCitizenBoxの検索サイトへ飛んだ。男の名前を丁寧に告げると検索の残り時間を示すエメラルド色のバーが現れた。何人か候補がいるようだ。しばらく時間がかかりそうだった。
 画面を眺めながらクレアは思い返していた。
 最後に自分のCitizenBoxのデータにアクセスした時のこと――一八階まで落第してスピン・ライフに身を委ねてすべてを捨てた日を。そして――あのときに失ったものとあれから手に入れたものを。……それぞれの価値と向き合うのはクレア自身初めてだった。
 捨てる前の生跡は綺麗だった。周りの誰もが羨んでくれた。その全てを捨て去った。だがまるで抵抗などなかった。もちろん最初は正直恐かった。それまでの自分の一切を否定するようで。だが……実際そんな後悔は微塵も湧かなかった。その気持ちはおそらく父と母のものだった。そこでクレアは気づいた。否定されたのは自分ではない。その身を必死に削って自分を護り磨き上げてきた両親だったのだと。その結果として祭り上げられた借り物の自分だったのだと。珠玉の娘に裏切られたクレアの父と母。被り物を剝いだだけの本当の自分。
 結局自分は磨かれていただけなのだ。汚れがあれば拭われる。穢れがあれば雪がれる。そのために父は自分を社会の目で監視して母はそれが娘のためだと黙り続けた。欲望は削がれ希望は奪われた。人として大事なものを与えられた。代わりに当たり前のものを失っていた。クレアには――そう感じられた。それは果たして本当に幸せなことなのだろうか? 延々と考えてみたが結局無益に終わった。求めるものの片鱗すら見えなかった。あれだけ多くのことをタワーで学んできたはずなのに。
 ――検索が終了。数人の候補が表示された。並んだ顔写真のサムネイルから男を見つけて生跡を表示した。
 男のすべてが目の前に晒された。
 氏名は真田陽明。年齢は三四。クラスはAA。移住権を持ってはいるが引っ越した生跡は一度も見当たらない。父親が手にした城をそのまま継いだようだ。その父親もいまはもういない。まず一五で父親。次いで一七で母親を失っている。身内は弟が一人だけ。二二でアカデミック・タワーを四九階で卒業。そしてキュリオス&ティンバーレイク社に入社。誰もが憧れる総合医療機器メーカーだ。そこで一貫してR&Dディビジョンに所属。現在は研究主任を務めている。主な職務は感情系や行動系の評価関数の研究と実用化。見た限りでは生体型装人の開発に長く関わっている。警備用から介護用まで過去の開発歴は様々だ。組みこまれた評価関数を通して目の前の状況を分析。複数の条件分岐を経て最善の行動を選択する。ただそれだけの人型機械。その生みの親。
 販売員用のものはクレアも父から構造を習ったことがあった。父親は仕事柄か生体型装人に関する知識も豊富だった。――販売員用のものはまず商品のバーコードを認識。商品データベースから在庫と金額を検索。そして合計額を私紋認証機に転送する。客の私紋が認証されると当人のPayrollBoxから自動的に料金が引き落とされる。それを確認すると謝意を示す。その鈍色の瞳は商品バーコードの認識のためだけに。その電脳は顧客情報を半永久的に保存するためだけに。そしてその口は形式張った御礼のためだけに用意されている。
 どうやらその裏には真田もいたらしい。
 クレアが生まれる前から生体型装人の実用は進んでいた。いまでは大半の仕事が人々の手を離れている。受付嬢。販売員。運転士。料理人。整備工。熟練を要さない仕事は軒並み生体型装人の手に委ねられた。
 当然だがそれによって大量の人間が仕事を失った。
 同じ仕事を遂行できるならコストのかからない人材を登用するのは必定。確かに生体型装人も部品交換や知識のアップデート等のメンテナンスは必要だ。しかし給与や休暇で文句は言わないし疲れることもない。知識の取得も時間を要さない。搭載するソフトウェアをアップデートするだけで良い。怪我や病気で休むこともない。勤怠は健全だ。故障したら部品を交換すれば良い。体の多くが監督省の統一した汎用規格部品のため入手は極めて容易だ。そして人の手と異なり業務品質が落ちることもない。――とまるで非の打ち所がない。
 代わりに職を失った彼や彼女は様々な道を選んだ。転職や浮浪。暴動や自殺。告発や布教。しかしその末路のどこにも幸福は待っていなかった。
 もう随分と昔の話だ。いまは歴史の教科書に数行程度の一史実にしか過ぎない。その哀しみに同情する者はいるが悼む者は一人もいない。
 ほかの生跡も見て回った。身長や体重。各部位の相関比率をまとめた身体座標。性格や価値観などの内面。思想的な歩み。政治的な背景。家族や親戚の宗教観。そうして男の表側を眺めては裏返して裏側を踏み荒らしてはまた裏返す。――島は半期ごとに全島民へ生跡診断を義務づけている。そのたびに外面をあらゆる角度から測定して内面を七五〇問に及ぶ問答で引き摺り出す。殻に護られた黄身を丁寧にしかし執拗に抉り出すように。
 男の素性をすべて閉じる。
 ――ふと自分の生跡を覗く誘惑に駆られた。
 しかし頭を振ってパソコンの電源を落とした。眺めるに値するものなど自分にはもうなにもないのだから。
 そうそっと言い聴かせて……。

「あら、もう終わり?」

 突然の声にクレアは反射的に振り返る。人の気配などしなかった。ましてやドアの開いた音など。
 しかし振り返ったそこには確かに立っていた。
 自分を助け出してくれた――あの人が。

「まあ確かに先生の生跡なんて別に面白くないわね。あの人、良くも悪くも手抜きでさ。クラスを痛めない程度に遊ぶ方法を身につけてるのよ。だからここ一〇年ずっとクラスはAAのままなのに研究主任に上がるまでに苦節八年。ほんと見事なものよ」

 話の内容はまるで耳に入らなかった。聴き覚えのある声。穏やかな微笑み。そのすべてをクレアは体で感じていた。半ば霞んだままの記憶を克明に甦らせるほど。
 クレアは茫然と女を見上げていた。瞬き一つすら忘れて。その親鳥を見上げる小鳥のような眼差しに戸惑ったのだろうか。女は気恥ずかしそうに目を逸らして、

「ああ、ええと、……とりあえず着替えない? 流石に毛布一枚のままじゃ、この季節でも体調を崩しかねないわ。もう夜も遅いことだしね」

 手にしていた紙袋を持ち上げて見せた。かなり膨らんだ二つの薄桃色の買い物袋だ。

「って言っても、あたしのセンスだからどうかな。小柄な子に似合う服って正直分かんないのよね。こんな形だと男物で片づけることが多くて」

 そう言う女は背が高かった。先ほどの男よりもやや低いくらいで優に成人男性の平均以上はありそうだ。それはつまり成人女性の適性身長を超えていることを意味する。CSU-Po.としてはマイナスだ。過剰な長身や肥満はただそれだけで社会不適合者と看做される。特に監督省は肥満には優しくない。一人で二人分の空間を占めることはそれだけで大罪。交通機関の利用など公共空間での活動を徹底的に制限されることになる。
 女は袋の中身をベッドに並べていく。その一つ一つをクレアは目で追った。少し大人っぽい服が多かった。そしてどれも高そうな服ばかりだ。見ているだけで萎縮してしまう。おそらく男の言っていた地下のモールで買ったものだろう。ここはAレイヤー専用のマンション。すべての店はAクラス相当の住人向けの商品を揃えている。作りはシンプル。しかしその中に見る者の嫉妬を誘わない程度の上質な気品が編みこまれている。

「悪いんだけど寝間着が見つからなくてさ。とりあえずこの中から選んで。気に入らなかったらゴメンね。申し訳ないけど、明日までは我慢してくれる?」
《だから先に彼女の生跡を調べろと言ったんだ》

 不意にどこからか機械音声が聴こえた。それは女の懐からだった。突然の声にクレアは驚いたがすぐに気づいた。あのときの拳銃の声だ。車の中でこの人と話していた喋る不思議な拳銃。

「仕方ないでしょ。閉店直前だったんだから」

 想像通り女が懐から拳銃を取り出した。初めて目にする実銃に驚いてクレアは反射的に身を引いた。向けられることがないと分かっている銃口に怯えて。

《だから言っただろ。真田に頼んで調べてもらえば良かったんだ。サイズや身体座標も分からずに、どうやって他人の服を買おうと思ってたんだ、お前は》
「悪かったわね。次から気をつけるわよ」
「………それ」

 衝動に負けてクレアは銃を指差した。無骨に黒光りする狂気そのものの外見。それが若干ぎこちない幼い声色と豊かな口調で女と話している。改めて見るとそれがあまりにも不思議でならなかった。
 女は「ああ」と笑うと、

「これは生体型機甲装人の亜種みたいなものよ。人型じゃないから装人じゃなくて、純粋に装備ってとこかしらね。一般流通品にも喋る車とか、パソコンとか、あったりするのよ。あたしのこの子は特注だけどね。まあ護身用、兼、暇潰しの話し相手ってとこ。ジョークの一つも言えないからまるで盛り上がらないけど」
《それは俺のせいではない。評価関数をアップデートしないお前が悪い》
「いまさらしてみなさいよ。気色悪くてそれこそついていけなくなるわ。このまま無愛想でいてくれた方がよっぽどマシよ」
《とにかくいまはそんなことはどうでもいい。……まあこんな適当なヤツだが、頼りにならないことはない。これからしばらくは君の面倒を見ることになる、言わば保護者だ。気に入らないことがあったらなんでも気兼ねなく言ってくれて構わない》

 クレアはきょとんと銃を眺めていた。どうやら自分に話しかけているらしかった。もしかしたら向き合っていたのかもしれない。そう思うと見つめ合っているような気がしてきた。そして少しだけ心も楽になった。無愛想なはずの銃が紡ぐ似合わない優しさのおかげで。

「はいはい。どうせあたしは適当な女ですよ」

 そう言うと女は銃をベッドに放り投げた。それをクレアは拾い上げた。水を丁寧に掬うように。銃身は金属らしく冷たい。だが触れた先から身の内に温かいものがこみ上げるのが分かった。不意に思った。それが銃の注いでくれた優しさそのものなのではないかと。
 クレアは銃を両手で包んだ。その愛情の一欠片すら零すまいと抱き止めるように。銃は静かだった。すべてを受け入れてくれていた。
 ふと――その銃口の辺りを突いてみた。完全に思いつきだった。なぜだか銃がうんうんと頷いたような気がした。それがなんだか妙に愛らしかった。もう何度か恐る恐る突いてみた。女は照れ臭そうに頬を掻きながらも愛おしそうに少女の様子を眺めていた。
 二人の優しさに微塵も嘘はない気がした。正確には一人と一丁だが。メリルの恐怖の反動が大きいだけかもしれない。だがいまはそれでも良かった。この温もりが続く限り自分は確かに大丈夫なのだと固く実感できた。
 気合を入れるようにぱんと両手を叩くと女は、

「さって、じゃあとりあえず着替えましょう。色々と訊きたいこともあるだろうけど、今日のところはもう遅いから、また明日ね」

 そう言うと女は優しくクレアの手から銃を取り上げた。クレアは「あっ……」と小さく呟いた。

「あんたは先に外に出てなさい。こっからは男子禁制」
《俺に視覚代替機能は内蔵されてないぞ》
「そういう問題じゃないの」
《ならどういう問題なんだ?》
「男には一生解けない難問よ。魔法の公式は女の子だけの秘密ってね」

 女はドアに向かって歩き出した。指一本をトリガーに搦めて銃を器用に回しながら。その銃は文句の一つもなく静かだったが……どうやら言おうか言うまいか考えこんでいたようで、

《……しれっと似合わないことを言うな。リアルに少し気色悪いぞ》

 直球の一言に女はぴくりと立ち止まったかと思うと、

「……っ、余計なお世話よ!」

 ただ怒りのままに銃を隣の部屋に投げつけた。それがたまたま扉の前を横切った男にぶつかったのか物凄い叫び声が上がった。クレアは驚いて目を閉じた。そっと片目だけ開くと慌てて部屋を出て行った女が何か必死に謝っている声がした。その声を聴いているうちにクレアの表情が自然と綻んだ。なんだか妙に可笑しくて。
 自分でも随分と久しぶりに笑った気がした。
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