KEEP ALIVE

 クレアは不思議な世界を彷徨っていた。ただ暗闇と光明だけが疎らに降りそそぐ世界を。
 見渡すかぎりなにもなかった。空も。地面も。色も形も。虚ろな光陰の交錯する中で得体の知れない浮遊感だけがクレアを支えていた。だが……どことなくその身に馴染んだ感覚のような気もした。
 そう思った矢先。先回りするように周囲の情景が切り替わった。どこまでも重厚そうな暗闇がいとも簡単に端から剥落していく。その下から掘り起こされるように見慣れた鋼の光沢が煌めく空間が現れた。少女は見慣れたエレベーターの中に立っていた。
 かつて乗っていたアカデミック・タワーのエレベーターだ。そこでようやく気づいた。この箱が降下するときの気怠さに包まれていたのだと。行き場のなかった意識が拠り所を与えられたように落ち着いた。周囲を感じて理解して少しだけ余裕が戻ってきた。
 なんでこんなところにいるのだろう。クレアは箱のなかを見回す。大して意味がないと知りつつ。ほかにはだれも乗っていない。耳を劈くような濁音もない。臭いもしない。もっとも普段なにか臭っていた覚えもなかったが。ただクレアは一つだけ違和感を覚えた。なかなかどこの階にも着かないのだ。思わず電光板を見上げた。まだ三〇階にも達していなかった。
 そこではっとした。かつての五三階に在籍していた自分を思い出して。
 そこでまた端から空間が切り替わった。タイルが一枚また一枚と剥がれ落ちていくように。まるでテレビのチャンネルだ。こどもが自分の視界をぱちぱち切り替えて遊んでいるような錯覚が脳裏を過った。
 周囲の光景にクレアは生理的な嫌悪感を覚えた。予期せぬ目眩に足下がふらついた。
 やがて現れたのは五五階の風景だった。
 かつてのクレアにとって憩いの場だった五〇階以上の生徒限定の交流フロア。床以外が一面ガラス張りで透明感に満ちている。しかしそれも気にならない高さがまさに選ばれた者だけの特権を体現している。
 クレアは辺りを見回した。何人もの生徒たちが思い思いの交流を楽しんでいる。やはり声は聴こえない。しかし全員の顔に覚えがあった。かつてのクラスメイトたちだ。しかし誰もクレアのことは見ていない。
 ふと一人。かつて何度も一緒にここでランチを楽しんだ女の子が脇を駆け抜けていった。誰かに笑顔で手を振りながら。かつてクレアに向けられていたのと同じ明るく屈託のない……あんな風に笑いたいと憧れた笑顔。
 クレアの左腕がぴくりと反応した。思わず手を伸ばそうとして。届きそうな距離の誘惑に負けて。しかし指先が女の子の背中に触れた刹那。彼女は無惨にも溶けてしまった。まるでクレアから逃げるように。その姿は全身の先々から光の屑となって舞い散り消えた。
 クレアはただ茫然と立ち尽くした。その目元に細やかな悲痛を滲ませながら。
 やがて女の子の屑が消えてしまうと思わず泣きそうになった。熱いものが下瞼に溜まるのが感じられた。かつて自分がここにいたこと。そしてもういないこと。このすべてが虚構の世界のなかでただそれだけがクレアの胸中に揺るがぬ真実として痛切に残った。わずかな温もりも曇りもない。ただ冷徹に磨きあげられた刃のように。
 そう。クレアは確かにここにいたのだ。
 そして――いまはもういない。
 涙を拭うと三たび光景が変わった。
 交流フロアの個室スペースの中だ。壁際にコの字型に並べられた快適な個室。そこではよく自習や読書をしたり友人と将来を語り合ったりした。
 思えば将来について考えたのはあの頃だけだ。五三階に属していたほんのわずかな間だけ。一八階のクラスのなかに将来を思う生徒などいなかった。誰一人。クレアが落第した年は四〇階以上の生徒だけが進学の特権を与えられた。一昨年そして昨年より八階分も削減されていた。そんな状況では無理もなかった。叶わないと分かった希望に縋るほど夢見がちな生徒は一人もいない。
 それはこの認証管理社会において誰もが潜在的に抱える虚無感にほかならなかった。あらゆる行為や発言が瞬時にCSU-Po.に反映される社会。ここではその結果がすべてだ。人は生まれ落ちると同時に本性的な価値や尊厳を残らず引き剝がされる。そんなものがあればの話ではあるが。そうしてあらゆる監視が生存を保証しつつ奪い去る社会。そんな閉じられた自己言及的システムが紛れもない現実として自分たちを一生に亘って縛り続ける。
 夢と現実の狭間のほとりでクレアは気づいた。
 自分はただ生きたかっただけなのだと。
 この心が望んだものをこの脚で目指してこの手で掴みたかった。行き着いた果てで手に入るものに興味などなかった。それがいかに残酷だろうと。いかに悲愴だろうと。息吹の如く自然と心の水面に浮かんだ欲望の赴くまま。天真にして爛漫。抱けぬ星辰にそれでも手を伸ばそうと空を見上げる無邪気さ。
 そんなクレアを嘲笑うかのように再び世界が剝がれ落ち始めた。笑い合う生徒たちも。どこまでも晴れ渡る外の眺めも。すべてが所詮は偽りに過ぎなかったのだ。そう言わんばかりの無惨な光景だった。
 その裏にはもうなにもなかった。
 最初に迷いこんだ重々しい漆黒だけがクレアを呑みこもうと這い出るように広がり始めた。

(嫌だ、……来ないで)

 思わず心が叫んだ。反射的に振り返って逃げようとした。その右手に暗闇が触れた途端――クレアの右腕が指先から千切れ始めた。皮膚や筋繊維をじわじわと引き剝がされていく激痛が確かな現実としてあった。クレアは痛みに負けて倒れこんだ。爆発したように記憶の断片が押し寄せる。メリルとの邂逅。車内での情事。彼女の浮かべた狂気の微笑み。謎の暴走車。そして爆発。絶えかけた虚ろな意識。有形と無形。過去と現在。そして行動と情動。あらゆる事象が元論の一切を無視して連綿と絡み合い互いの欠落を補完し合うことで理解を執拗に拒んでいた。しかしクレアは瞬時に悟った。この寸分の狂いもなく閉じられた円環から導かれるのは自分の消失だけなのだと。手にできる現実はそれだけに過ぎない。たとえ現実に戻れたとしても。
 獰猛な暗闇がクレアの喉元まで迫ってきた。目に見えそうなほど重々しい恐怖とともに。

(……助けて)

 それでもクレアの口唇は儚く震えた。誰でもいい。せめて誰かに届いて。いもしない誰かに縋るしかない絶望に震えが止まらなかった。零れる涙も頬を伝い落ちる前に闇に呑まれて消えた。
 ――まばゆい光明が射したのはその直後だった。
 幾千もの旋律のような光が漆黒の奥底から揺らめき溢れた。優しく手招くように。そして繭を成すようにクレアを淡く包む。漆黒は一点も残らず消え去った。生まれる前の母胎の中はこんな感じなのだろうか。恐怖の反動がそんな悠長な夢想をもたらした。
 光が明滅を繰り返す。鼓動のように。なにかを待っている。そう思った。

(……お願い)

 もはやないはずの右腕をクレアは伸ばした。
 それで充分だった。
 差し出されたクレアの意志そのものに応えるように光が失われた右半身を紡いでいった。
 やがてクレアは安らかな眠りに包まれた。
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