KEEP ALIVE
一人残されたクレアは泣いていた。
ようやく解放された。だがそれが分かった途端に底抜けの安堵や屈辱がクレアを包んだ。手のひらサイズのアイドルとしての決断を押し通すために捨てた哀しみ。過去に背を向けるために捨てた喜び。もう一人の自分に押しつけたはずの感情の数々が次から次へクレアを嬲り詰った。自分を受け入れ切れないと声高に叫んだ。
呼吸の一つ一つが苦しかった。メリルの薬のせいで内臓の筋肉まで弛んでしまっているようだ。
クレアはウインドウの外を見た。
メリルがどこかに電話をかけている。自分との情事などまるでなかったことのように淡々と。おそらく自分の未来が決められているに違いない。
これから自分はどうなるのだろうか……。いつからか目を逸らすばかりだった未来。それをいまは必死になって追っていた。目的。希望。勇気。いまを生き続けるだけなら必要のないもの。そう思って切り捨てた美徳の数々が脳裏を過る。しかしそれを奮い起こすだけの気力は完全に削がれていた。
それでもクレアは手を伸ばした。自分を弄んだ女に向かって。しかし微塵の憐憫も湧かなかった。ただ必死に助かろうと足掻くことだけを心が望んでいた。しかしメリルはこちらを振り返る気配もない。ずっと長電話がつづいている。
ふと天井を見上げた。バックミラーの社会の目と目が合った。それまで毛嫌いしていた社会の目をいまのクレアは祈るように見つめていた。目の向こうに異常を察してくれた人はいるのだろうか。警備機構に通報は送信されているのだろうか。家族や友人に誘拐被害の連絡は行っているのだろうか……。
そんな淡い希望も湧いた端から無惨に立ち消えた。これはあの女のものだ。あの女は言った。電話一本でどうとでもできると。それが意味する結末は一つ。もはやこの車内に希望などない。メリルの手のひらでしか踊れないアイドル。それがいまの自分だった。
そう思った矢先――堪え難いほどの無気力感がクレアの全身に回った。驚くほど一瞬で。体が心に敗北した瞬間だった。クレアの手元に諦め以外の選択肢はもはやなくなっていた。なにひとつ。
霞む瞳で助手席のウインドウの外を見た。映ったのはクラシック風情の漂う煉瓦通り。肩を寄せ合う何組もの楽し気なカップル。彼や彼女の笑顔を照らし出す幻想的な街灯の数々。その向こうに広がる雄大な断河。
不意に涙が流れた。そして止まらなかった。外の光景があまりにも眩しすぎて。そして自分の過去を呪わずにはいられなくなった。あのまま自分を押し殺していればいずれは手に入ったかもしれないもの。それがいまクレアの目の前にあった。それをかなぐり捨ててまで押し通すだけの価値が自分の選択にはあったのだろうか。
答えは明白だった。いま頬を伝っている涙がなによりも真実だった。
再び運転席側に頭を傾けた。メリルが電話を切ろうとしていた。
その指が咄嗟に止まった。
その表情に一気に狼狽が広がった。
直後。――鈍い破裂音が起こり車が小さく揺れた。タイヤがパンクしたのだろうか。続いて甲高い爆砕音が二発響いた。メリルが咄嗟に車から離れるのが目端を掠めた。なにが起こっているのか。考える間もなく爆走音を轟かせる車と眩しいライトが迫ってくるのが見えた。
急ブレーキとともに暴走車が助手席のドアに横づけされた。驚くほど平行に。まるでこの事態を予期して練習してきたように正確無比な操縦だ。
刹那――。シェア・カーの後部でエンジンが激しく爆発した。車体が大きく跳ね後輪が荒々しく吹き飛ぶ。反動がクレアを助手席に思い切り叩きつけた。呼吸が止まり心臓が麻痺した。そして間断なく空気を切り裂くような悲鳴が方々で上がる。公共車のシェア・カーは耐熱と耐衝撃に優れている。車中のクレアが死ぬ心配はほとんどない。だが人の乗っている車のエンジンを破壊するなど正気の沙汰ではない。爆発自体に巻きこまれたらそれまでだ。しかしクレアにもまだ幸運が残されていたようだった。爆発の衝撃でドアが拉げたのだ。強引に開けば壊せるくらいに。クレアはなんとか目を開いてウインドウ越しに暴走車を見た。その運転席が開いた。現れた女がそうして見せた。ドアを放り投げるように力尽くで引き剥がして横たわるクレアを抱き上げると強引に自分の車へ体ごと飛び移った。
「よっと。――どうやらまだ意識はあるみたいね。あたしの声、聴こえる?」
女の声だった。ふやけた視界で顔はよく見えない。クレアは小さく頷いた。半ば反射的に。
「ちょっと乱暴だけど安心して。もう大丈夫よ」
そう言いながら女はクレアの頭を撫でた。突然の事態に当のクレアは訳が分からなかった。この声は誰のものだろうか? 自分を助けてくれそうな人など思いつかない。しかし確かに声は言った。聴き逃さなかった。もう大丈夫だと。その一言に瞳が再び涙で濡れた。温かい手に心が弛んだ。今度は悲しみからではなかった。
クレアはもう一度だけ頷いた。そして女の体に縋りついた。なぜだかそうせずにはいられなかった。女も拒まなかった。その手がクレアの頬に触れた。温かい手のひら。穏やかな口調。柔らかい抱擁。その身の奥まで届く澄んだ言葉。すべてが本当にもう大丈夫なのだと自分を慰めてくれている気がした。
「じゃあ、あとは任せるわよ。準備はいい?」
女が言った。もう一人乗っているのだろうか。
《人使いの荒いヤツだな》
しかしその声はすぐ耳元で響いた。
「あんた人じゃないじゃない」
女は逆の手に持っていた銃に話しかけていた。
《言葉の綾だ。いいからさっさと構えろ》
不思議なことにまさにその銃が応じていた。だが憔悴しきったクレアの意識に疑問を感じる余裕はなかった。
返答を合図に女が車のアクセルを踏みつけた。持っていた銃のスライドを口で引く。タイヤの空回る音以上に甲高い排気音が響き――残響が尾を引く。そして発車と同時に乾いた破裂音が炸裂した。女がシェア・カーのエンジンになにかを撃ちこんだのだ。
シェア・カーは轟音とともに炎上した。天を喰らわんとする野犬の咆哮にも似た爆炎が何発も打ち上がった。
その光景もあっという間に遠ざかった。そしてそれを待っていたかのようにシェア・カーは最後の大爆発とともに木っ端微塵に砕け散った。
クレアの意識はそこで途絶えた。
ようやく解放された。だがそれが分かった途端に底抜けの安堵や屈辱がクレアを包んだ。手のひらサイズのアイドルとしての決断を押し通すために捨てた哀しみ。過去に背を向けるために捨てた喜び。もう一人の自分に押しつけたはずの感情の数々が次から次へクレアを嬲り詰った。自分を受け入れ切れないと声高に叫んだ。
呼吸の一つ一つが苦しかった。メリルの薬のせいで内臓の筋肉まで弛んでしまっているようだ。
クレアはウインドウの外を見た。
メリルがどこかに電話をかけている。自分との情事などまるでなかったことのように淡々と。おそらく自分の未来が決められているに違いない。
これから自分はどうなるのだろうか……。いつからか目を逸らすばかりだった未来。それをいまは必死になって追っていた。目的。希望。勇気。いまを生き続けるだけなら必要のないもの。そう思って切り捨てた美徳の数々が脳裏を過る。しかしそれを奮い起こすだけの気力は完全に削がれていた。
それでもクレアは手を伸ばした。自分を弄んだ女に向かって。しかし微塵の憐憫も湧かなかった。ただ必死に助かろうと足掻くことだけを心が望んでいた。しかしメリルはこちらを振り返る気配もない。ずっと長電話がつづいている。
ふと天井を見上げた。バックミラーの社会の目と目が合った。それまで毛嫌いしていた社会の目をいまのクレアは祈るように見つめていた。目の向こうに異常を察してくれた人はいるのだろうか。警備機構に通報は送信されているのだろうか。家族や友人に誘拐被害の連絡は行っているのだろうか……。
そんな淡い希望も湧いた端から無惨に立ち消えた。これはあの女のものだ。あの女は言った。電話一本でどうとでもできると。それが意味する結末は一つ。もはやこの車内に希望などない。メリルの手のひらでしか踊れないアイドル。それがいまの自分だった。
そう思った矢先――堪え難いほどの無気力感がクレアの全身に回った。驚くほど一瞬で。体が心に敗北した瞬間だった。クレアの手元に諦め以外の選択肢はもはやなくなっていた。なにひとつ。
霞む瞳で助手席のウインドウの外を見た。映ったのはクラシック風情の漂う煉瓦通り。肩を寄せ合う何組もの楽し気なカップル。彼や彼女の笑顔を照らし出す幻想的な街灯の数々。その向こうに広がる雄大な断河。
不意に涙が流れた。そして止まらなかった。外の光景があまりにも眩しすぎて。そして自分の過去を呪わずにはいられなくなった。あのまま自分を押し殺していればいずれは手に入ったかもしれないもの。それがいまクレアの目の前にあった。それをかなぐり捨ててまで押し通すだけの価値が自分の選択にはあったのだろうか。
答えは明白だった。いま頬を伝っている涙がなによりも真実だった。
再び運転席側に頭を傾けた。メリルが電話を切ろうとしていた。
その指が咄嗟に止まった。
その表情に一気に狼狽が広がった。
直後。――鈍い破裂音が起こり車が小さく揺れた。タイヤがパンクしたのだろうか。続いて甲高い爆砕音が二発響いた。メリルが咄嗟に車から離れるのが目端を掠めた。なにが起こっているのか。考える間もなく爆走音を轟かせる車と眩しいライトが迫ってくるのが見えた。
急ブレーキとともに暴走車が助手席のドアに横づけされた。驚くほど平行に。まるでこの事態を予期して練習してきたように正確無比な操縦だ。
刹那――。シェア・カーの後部でエンジンが激しく爆発した。車体が大きく跳ね後輪が荒々しく吹き飛ぶ。反動がクレアを助手席に思い切り叩きつけた。呼吸が止まり心臓が麻痺した。そして間断なく空気を切り裂くような悲鳴が方々で上がる。公共車のシェア・カーは耐熱と耐衝撃に優れている。車中のクレアが死ぬ心配はほとんどない。だが人の乗っている車のエンジンを破壊するなど正気の沙汰ではない。爆発自体に巻きこまれたらそれまでだ。しかしクレアにもまだ幸運が残されていたようだった。爆発の衝撃でドアが拉げたのだ。強引に開けば壊せるくらいに。クレアはなんとか目を開いてウインドウ越しに暴走車を見た。その運転席が開いた。現れた女がそうして見せた。ドアを放り投げるように力尽くで引き剥がして横たわるクレアを抱き上げると強引に自分の車へ体ごと飛び移った。
「よっと。――どうやらまだ意識はあるみたいね。あたしの声、聴こえる?」
女の声だった。ふやけた視界で顔はよく見えない。クレアは小さく頷いた。半ば反射的に。
「ちょっと乱暴だけど安心して。もう大丈夫よ」
そう言いながら女はクレアの頭を撫でた。突然の事態に当のクレアは訳が分からなかった。この声は誰のものだろうか? 自分を助けてくれそうな人など思いつかない。しかし確かに声は言った。聴き逃さなかった。もう大丈夫だと。その一言に瞳が再び涙で濡れた。温かい手に心が弛んだ。今度は悲しみからではなかった。
クレアはもう一度だけ頷いた。そして女の体に縋りついた。なぜだかそうせずにはいられなかった。女も拒まなかった。その手がクレアの頬に触れた。温かい手のひら。穏やかな口調。柔らかい抱擁。その身の奥まで届く澄んだ言葉。すべてが本当にもう大丈夫なのだと自分を慰めてくれている気がした。
「じゃあ、あとは任せるわよ。準備はいい?」
女が言った。もう一人乗っているのだろうか。
《人使いの荒いヤツだな》
しかしその声はすぐ耳元で響いた。
「あんた人じゃないじゃない」
女は逆の手に持っていた銃に話しかけていた。
《言葉の綾だ。いいからさっさと構えろ》
不思議なことにまさにその銃が応じていた。だが憔悴しきったクレアの意識に疑問を感じる余裕はなかった。
返答を合図に女が車のアクセルを踏みつけた。持っていた銃のスライドを口で引く。タイヤの空回る音以上に甲高い排気音が響き――残響が尾を引く。そして発車と同時に乾いた破裂音が炸裂した。女がシェア・カーのエンジンになにかを撃ちこんだのだ。
シェア・カーは轟音とともに炎上した。天を喰らわんとする野犬の咆哮にも似た爆炎が何発も打ち上がった。
その光景もあっという間に遠ざかった。そしてそれを待っていたかのようにシェア・カーは最後の大爆発とともに木っ端微塵に砕け散った。
クレアの意識はそこで途絶えた。