KEEP ALIVE
「――あなたはこれから、私の妹になるのよ」
刹那。クレアを抱き寄せるメリルの両腕から一切の遠慮が消えて一層の力がこもる。その細腕からは想像し得ないほどの力が。思わず呻き声が漏れるほどの。
その一言は聴き覚えがあった。そうだ。確かスピン・ライフで生まれた小説の一節だ。どんな話だっただろうか。――クレアは記憶を手繰り寄せた。そして開けてはいけない箱を開けた。
息を呑んだ。メリルの変貌の真意に気づいた理性が悲鳴を上げた。違う。この人は違う。そう理性がけたたましく騒ぎ立てる。そして恐怖に凍りついた。女の呟いた一言は紛れもない宣告にほかならないのだと。だが言葉以上に恐怖したのが不気味な笑みだ。瞳の奥だけで嗤い口元が耳元まで裂けんばかりに歪んでいる。そんな魔女のような表情にクレアは堪え難い狂気を感じた。それが自然なほど似合いすぎていることも恐怖の純度を一気に引き上げた。
違和感。疑問。相違。なんでもいい。その恐怖を騙せるものが欲しかった。クレアはメリルの抱擁から抜け出そうとした。しかし力尽くであっさりと封じられた。
身の内で本能が喚いた。
離れて。放して。触らないで。降ろして。助けて!
生存本能がありとあらゆる欲望を総動員してクレアの体を奮い起こそうとした。しかし指一本を動かす程度の力すら入らない。全身は隅々まで弛緩していた。意識も朦朧と霞み出している。そのときようやく気づいた。あのとき喉を伝い落ちたものがすべてのはじまりだと。
「動こうとしても無駄よ。そう簡単にあの違薬品の効果は切れないわ。それにあなたはモデル。モデルは暴れちゃダメ。じっとしていてこそ映えるんだから」
しかしクレアはなんとか逃げようと抵抗した。
だがまるで意味がなかった。むしろ逆効果だった。敢えて許した健気な抵抗を制して焦心を慰める。ペットを愛でるように手を回しては抱き寄せる。そのたびにメリルの瞳が愉悦で滲み潤んだ。
やがて搾り出せるだけの体力も尽きた。意識もゆっくりと遠退き始めた。そのままクレアはメリルに縋るように項垂れた。メリルはその頬を優しく撫でながら、
「いい子ね。いい子は好きよ。知ってる? いい子の秘訣は三つ。一つ。ちゃんと言うことを聴く。一つ。口を開かない。そして一つ。疑問を持たない」
クレアに見えるように指を立てながらメリルは囁いた。耳元でゆっくりと。そしてちゃんと理解したか確かめるように甘く噛んだ。痛みはなかった。もう声も出なかった。ただ涙だけが流れた。もはや自分の意志で搾り出せるものなどなに一つなかった。その無力感がクレアを絶望の底に突き落とした。すべてを奪われたのだと。この女の理不尽によって。足掻くことも叶わないほど。
メリルは泣き止まない我が子をあやすように、
「それさえ守っていれば、あなたは誰から見ても、愛らしい存在として認めてもらえる」
もはや反射的に零れる涙だけがクレアの意志そのものだった。それをメリルが唾液に塗れた舌で舐めとる。ほんのわずかに残されていた気力もそれで根こそぎ奪われた。頬に気色悪い粘液と温い吐息が感じられた。人のものとは思えないほど悪意に満ちた執着の名残が。
メリルは助手席を倒してクレアを寝かした。躊躇なくブラウスの奥まで右手を潜りこませてその体を無造作に撫で回す。果実の熟れ具合を確かめるように。
「綺麗よ。そう、じっとしてるの。動いちゃダメ。喋るのもダメ。あなたはモデル。使いやすいアイドル。使われることで磨かれるんだから」
その手つきが過去の容れ物と化したクレアの記憶を曇りなく掘り起こしていった。一切の雑念や感情と無縁になった真っ白な脳裏に。――メリルは辿っていた。常軌を逸した自分好みの物語を。クレアの無意識にその顛末が映りこんだ。物語の自分が最後に行き着いた運命。しかしもはやどうしようもなかった。どうでも良かった。
もしかしたらあの物語を書いたのはメリルではないだろうか? そんな手遅れの疑問が不意に胸の内で空回った。そうだ。いままでにもあったことだ。自分の欲望のままに生み出された作品に堪えられないでリアライズに没入した人間は山のようにいた。
メリルの手触りはもはや遠く意識の彼方へ吹き飛んでいた。ただ彼女を感じる器官としてクレアの体はそこにあった。ただ黙ったまま。息の一つも自由に吐かせてもらえなかった。いつの間にかパンツは脱がされておりショーツは片足が抜かれていた。ブラウスは着崩れ右肩が鎖骨のあたりまでだらしなく露出していた。メリルの為すがままに。思うがままに。
「使いやすいアイドルの美徳は与えられた作品を拒まないこと。決してなにかを与えることではないわ。何色にでも染まること。それが大事なのよ」
メリルは囁いた。我が子に優しく刷りこむように。その言葉通りにあることがなによりも正しいことなのだと。しかしその言葉は違った意味でクレアを振り回した。
自分は一体どこで間違えたのだろう? 残された最後の苦悶が脳裏で反響した。
そんな疑問には当然だが意味などなかった。もはや正すことのできない過去なのだから。しかしそれでも考えずにはいられなかった。我がままが過ぎたのか。高望みが過ぎたのか。そうしたすべてを否定できた先でようやく手に入るような気がした。自分は決して間違ってはいなかったのだという確かな安らぎ。何者にも揺るがせない心の拠り所が。
「いろんな物語を辿って、いろんな色に染まって、何色にも染まり尽くして、いつかどんな色にも染まれなくなるときがくる」
しかしそんな希望もやがて混濁する意識と無意識の狭間に呑みこまれた。視界は溶け感覚は潰れ思考は霧散した。ただの現象――生理的な反応の連続としてクレアはあった。触れられるたびに体の表面ではなく本能を直接弄ばれている気がした。だが本来なら堪え難いはずのそんな屈辱もいまのクレアには単なる淡い刺激以外の何物でもなくなっていた。
「そうすれば、あなたはだれのものにでもなれる」
そう口にするとメリルはクレアから離れた。その表情が一瞬にして整えられた。本性を上辺で隠した生気に乏しい無表情に。そしてメリルは窓を開けて外に出た。
クレアは一人残された。
刹那。クレアを抱き寄せるメリルの両腕から一切の遠慮が消えて一層の力がこもる。その細腕からは想像し得ないほどの力が。思わず呻き声が漏れるほどの。
その一言は聴き覚えがあった。そうだ。確かスピン・ライフで生まれた小説の一節だ。どんな話だっただろうか。――クレアは記憶を手繰り寄せた。そして開けてはいけない箱を開けた。
息を呑んだ。メリルの変貌の真意に気づいた理性が悲鳴を上げた。違う。この人は違う。そう理性がけたたましく騒ぎ立てる。そして恐怖に凍りついた。女の呟いた一言は紛れもない宣告にほかならないのだと。だが言葉以上に恐怖したのが不気味な笑みだ。瞳の奥だけで嗤い口元が耳元まで裂けんばかりに歪んでいる。そんな魔女のような表情にクレアは堪え難い狂気を感じた。それが自然なほど似合いすぎていることも恐怖の純度を一気に引き上げた。
違和感。疑問。相違。なんでもいい。その恐怖を騙せるものが欲しかった。クレアはメリルの抱擁から抜け出そうとした。しかし力尽くであっさりと封じられた。
身の内で本能が喚いた。
離れて。放して。触らないで。降ろして。助けて!
生存本能がありとあらゆる欲望を総動員してクレアの体を奮い起こそうとした。しかし指一本を動かす程度の力すら入らない。全身は隅々まで弛緩していた。意識も朦朧と霞み出している。そのときようやく気づいた。あのとき喉を伝い落ちたものがすべてのはじまりだと。
「動こうとしても無駄よ。そう簡単にあの違薬品の効果は切れないわ。それにあなたはモデル。モデルは暴れちゃダメ。じっとしていてこそ映えるんだから」
しかしクレアはなんとか逃げようと抵抗した。
だがまるで意味がなかった。むしろ逆効果だった。敢えて許した健気な抵抗を制して焦心を慰める。ペットを愛でるように手を回しては抱き寄せる。そのたびにメリルの瞳が愉悦で滲み潤んだ。
やがて搾り出せるだけの体力も尽きた。意識もゆっくりと遠退き始めた。そのままクレアはメリルに縋るように項垂れた。メリルはその頬を優しく撫でながら、
「いい子ね。いい子は好きよ。知ってる? いい子の秘訣は三つ。一つ。ちゃんと言うことを聴く。一つ。口を開かない。そして一つ。疑問を持たない」
クレアに見えるように指を立てながらメリルは囁いた。耳元でゆっくりと。そしてちゃんと理解したか確かめるように甘く噛んだ。痛みはなかった。もう声も出なかった。ただ涙だけが流れた。もはや自分の意志で搾り出せるものなどなに一つなかった。その無力感がクレアを絶望の底に突き落とした。すべてを奪われたのだと。この女の理不尽によって。足掻くことも叶わないほど。
メリルは泣き止まない我が子をあやすように、
「それさえ守っていれば、あなたは誰から見ても、愛らしい存在として認めてもらえる」
もはや反射的に零れる涙だけがクレアの意志そのものだった。それをメリルが唾液に塗れた舌で舐めとる。ほんのわずかに残されていた気力もそれで根こそぎ奪われた。頬に気色悪い粘液と温い吐息が感じられた。人のものとは思えないほど悪意に満ちた執着の名残が。
メリルは助手席を倒してクレアを寝かした。躊躇なくブラウスの奥まで右手を潜りこませてその体を無造作に撫で回す。果実の熟れ具合を確かめるように。
「綺麗よ。そう、じっとしてるの。動いちゃダメ。喋るのもダメ。あなたはモデル。使いやすいアイドル。使われることで磨かれるんだから」
その手つきが過去の容れ物と化したクレアの記憶を曇りなく掘り起こしていった。一切の雑念や感情と無縁になった真っ白な脳裏に。――メリルは辿っていた。常軌を逸した自分好みの物語を。クレアの無意識にその顛末が映りこんだ。物語の自分が最後に行き着いた運命。しかしもはやどうしようもなかった。どうでも良かった。
もしかしたらあの物語を書いたのはメリルではないだろうか? そんな手遅れの疑問が不意に胸の内で空回った。そうだ。いままでにもあったことだ。自分の欲望のままに生み出された作品に堪えられないでリアライズに没入した人間は山のようにいた。
メリルの手触りはもはや遠く意識の彼方へ吹き飛んでいた。ただ彼女を感じる器官としてクレアの体はそこにあった。ただ黙ったまま。息の一つも自由に吐かせてもらえなかった。いつの間にかパンツは脱がされておりショーツは片足が抜かれていた。ブラウスは着崩れ右肩が鎖骨のあたりまでだらしなく露出していた。メリルの為すがままに。思うがままに。
「使いやすいアイドルの美徳は与えられた作品を拒まないこと。決してなにかを与えることではないわ。何色にでも染まること。それが大事なのよ」
メリルは囁いた。我が子に優しく刷りこむように。その言葉通りにあることがなによりも正しいことなのだと。しかしその言葉は違った意味でクレアを振り回した。
自分は一体どこで間違えたのだろう? 残された最後の苦悶が脳裏で反響した。
そんな疑問には当然だが意味などなかった。もはや正すことのできない過去なのだから。しかしそれでも考えずにはいられなかった。我がままが過ぎたのか。高望みが過ぎたのか。そうしたすべてを否定できた先でようやく手に入るような気がした。自分は決して間違ってはいなかったのだという確かな安らぎ。何者にも揺るがせない心の拠り所が。
「いろんな物語を辿って、いろんな色に染まって、何色にも染まり尽くして、いつかどんな色にも染まれなくなるときがくる」
しかしそんな希望もやがて混濁する意識と無意識の狭間に呑みこまれた。視界は溶け感覚は潰れ思考は霧散した。ただの現象――生理的な反応の連続としてクレアはあった。触れられるたびに体の表面ではなく本能を直接弄ばれている気がした。だが本来なら堪え難いはずのそんな屈辱もいまのクレアには単なる淡い刺激以外の何物でもなくなっていた。
「そうすれば、あなたはだれのものにでもなれる」
そう口にするとメリルはクレアから離れた。その表情が一瞬にして整えられた。本性を上辺で隠した生気に乏しい無表情に。そしてメリルは窓を開けて外に出た。
クレアは一人残された。