KEEP ALIVE
定例の管理会議を終えたばかりのグレイは自室のデスクに積み上げられた回収日報を確認していた。
交通事故を装った統一回収は見直すことになった。
自動車メーカーの寛容も流石に限界に達していた。今後の方針は未定。当面は各執行者が案件に応じてフローを立案して事前にグレイに審査をかける。その中から統合型効果分解構造に照らして基準を満たしたフローを正式に採用する段取になっている。
とは言え誰もが慣れないことに手間取っていた。そしてそれはグレイも同じだった。彼のデスクには大量の印刷された日報が山積している。なにせ日々現場の業務フローが変わっているような状況だ。評価どころか理解することすら侭ならない。
だがそれより大きな決定は――。
《チーフ、よろしいですか?》
スリープしていたパソコンのディスプレイが女声と共に復旧した。同時にボイスタッチが立ち上がる。画面に交換士の女性事務員が映った。失敗したなとグレイは片目を閉じて舌を打つ。アプリケーションをInactiveにするのをすっかり失念していた。
「……なんだ? いまちょっと取りこんでるんだ。ご覧の通りの有様でな」
交換士の目線が少しだけ下を向いた。彼女にもこのデスクの上は丸見えだ。肩書がなければ無能の烙印を押されるに充分な書類の散在ぶり。だが彼女に思うところはない様子だ。無表情のまま、
《失礼しました。先ほどの会議の件で情報統合部の方からコールが入っています》
「……分かった。ひとまず接続してくれ」
交換士の女性が頭を下げて辞去した。代わりに画面にはNow Switchingと表示された。その間にグレイは一時保存された彼女との遣り取りを消去する。
すぐに画面に見慣れた男が現れた。獣のように粗野な容貌と窮屈なスーツで包まれたがっしりとした体躯。
《よう。なにやら忙しいらしいな。それとも単に表向きか? まさかお前のような***が****でお楽しみなんてわけじゃあるまいしな。それとも入れるのは****か? まあ俺には関係ないがな》
C・L・フォッグ。情報統合部のチーフにしてAAAランカー。外見には相応しくないが名前の通り掴み所のない男。いまも出会い頭の皮肉と共にグレイのデスクを挑発してみせる。だが彼の言葉の大半はいつもこうしてフィルターが転送禁止用語と判断される。そのためボイスタッチを通した会話の半分は意味を成さない。
グレイは溜め息まじりに、
「いまは色々と忙しいんだ。それより会議の件らしいが何か用か?」
《それは立前だ。用件は別のことさ》
「……録字はオフになってる。ほかのヤツらも全員出払ってる。端的に頼むぞ」
《ならお望み通り端的に言おう。俺のコネから回収依頼が入った。それも聴いて驚け。なんとあのビリオン・モータースの執行役員から名指しで直々のご依頼だ》
「依頼はフロントを通せと言ったはずだ。こっちにはこっちのスケジュールが……」
《まあそう言うな。それにお前は断れんのさ。なんせ先方はメリル・スノウからお前の話を聴いて直々に依頼してきたんだからな。こっちで第四レベルドメインの専用アドレスを発行しておいた。そろそろ発行書が届くだろうから連絡を取り合ってくれ。頼んだぞ》
グレイが答える間もなくフォッグはボイスタッチを切断した。いつもそうだ。あの男は来る時も去る時も漏れなく一方的。おかげで業務のスケジューリングを毎回組み替えなければならなくなる。
グレイは小さな溜め息を一つ漏らした。
「なにやらお疲れのご様子ですね」
いつの間にか部屋に入ってきていた女性が言った。グレイの専属の秘書だ。やはり髪は短く体型は細い。律儀に規定に収まった女性の平均的な外見。一緒に働き続けてもう五年近いが姿は当時のままだ。その胸にバインダーを抱えている。おそらくは例の第四レベルインフラの使用許可書だろう。監督省と特定個人を専用線や特殊な属性ドメインで結ぶ高セキュリティ通信網。
随分と手際が良いものだと感心半ば皮肉りつつグレイは彼女の方に向き直った。
「情報統合部からか?」
その呆れたような一言に彼女は両目を見開いて少々驚いた様子だ。
「……ええ、そうですが。どうしてお分かりに?」
「たったいま連絡があってな。イレギュラーの回収依頼だそうだな」
「はい。依頼者はビリオン・モータースの執行役員の一人ですね。調べてみましたが回収専用以外でも第四レベルドメインのアドレスを複数持っていました。それだけイレギュラーの依頼を受けているということは、うちにとっても重要な人物ということでしょう」
秘書から受け取ったバインダーを開いた。やはり思った通り第四レベルドメインの発行許可書が挟まっていた。それを認めると再び気が滅入った。一息を吐きながら椅子に背中を大きく凭れる。一緒に留められていたその人物のプロフィールを天井の灯りに透かしながら。
「過去にも何件か回収を依頼してきています。どれも現場レベルで対応しています。ただ、擬体回収の主流が偽装事故に切り替えられてからは一件もありません」
「自動車メーカーの重役としての体面とリスクの問題だろう。あり得ることじゃないが、仮に回収の件が世間に露見した場合、欠陥車両を回収で潰していることがバレかねんからな」
言い終わるや否やグレイはバインダーを閉じて彼女に差し戻した。
「それにどうやらこいつはパッチワーカーのようだ。彼らにはそうした傾向がある。たとえ擬体であったとしても回収対象が傷つくのをやけに嫌がる。おそらくそれも理由の一つだろう」
戻ったプロフィールを眺めていた彼女は露骨な嫌悪感を目頭に刻みつけた。
「……わたしには理解できません」
「わざわざ擬態を傷つけないようにすることが?」
「どちらもです。自分の体の一部を他人のそれと交換するなんて理解に苦しみます。そんな悪趣味な方々が島の方向性を握っているのかと思うと、どうにも……」
思わずか彼女の口調が乱れる。耳があれば確実にマイナス評価だ。もっともグレイの部屋には一切の情報統合機器がない。逆に言えばだからこその油断だろう。
「理解するしないという話に意味はない。趣味嗜好の問題なんだからな」
とは言え彼女がそう感じるのも無理はない話だ。パッチワーカーたちの嗜好は理解に苦しむ部分の方が圧倒的に多い。しかし島内の権威者にその手の際どい性向を持つ人物が多いのも事実だ。――かつて先住種が蔓延っていた時代。財力に物言わせて異性を買い漁る文化があった。その文化を享受できる者が激減したが故に悪質化した名残の一つがパッチワークだった。為経者の絶対性が揺るがない社会。そんな社会では権威者の道徳性が全く機能しないものなのかもしれない。
「しかしこうも第四レベルドメインの使用申請が通過してしまってはストックが枯渇しかねませんね。その辺りを上はどう考えているんでしょうか」
「なんだ? 今日はずいぶんと手厳しいじゃないかエレン。この部屋に耳があったら、もしかしたら君の人生も今日限りでアウトだぞ」
「い、いえ。特にそういう意図では……」
慌てて狼狽する彼女――ミスティ・エレンは肩を強張らせた。その色白だが健康的な顔色が少し蒼醒めた。
グレイは宥めるように口元を緩めながら、
「分かってるさ、そう畏まるな。……だがまあ言うことはもっともだ。おそらく上としては申請が上がったら誰かを回収することで余分を作ろうって腹なんだろう」
「確かに島民の絶対数が定まっている以上、それしか手段はないですね」
「つまりそれだけ俺たちの仕事が増えるというわけだ」
そう。それしかない。そうグレイは心中で繰り返し呟いた。納得からは程遠い自分の心をあやすように。
事実それしかなかった。島民のボイスタッチのアカウントやアドレスはすべて監督省が発行から回収まで管理している。個人が好き勝手に作成や変更はできない。各人の通信記録や視聴履歴等のコミュニケーションをすべてMassageBoxで管理するためだ。
しかしその数や容量にも限りがある。
たとえばドメインも自由自在に発行できるわけではない。目下ドメインをはじめとして島内の情報資源は枯渇の危機に瀕している。裏を返せばそれだけハイランカーの我が侭が堂々と罷り通っている現状だ。
「チーフも、らしくもなく辛辣ですね」
他意のなさそうな素直な口調でエレンが言った。どうやら動揺も落ち着いたようだ。声色も穏やかだった。
最近の若者や生体型装人はCSU-Po.への恐怖を真摯に抱くことはない。グレイはそう薄々と感じている。彼らの情動や恐怖は熱するも冷めるも易い。その価値と純度は世代を経るごとに下落する一方だ。とは言えそれに文句をつける気など更々ない。抑圧が長引けば自ずと感性の錬度は衰える。それが道理。そしてその圧制を築いたのは紛れもなく自分たちだ。
「君は嫌気が差したりしたことはないのか? なんせ日常の一挙手一投足から一言一句まで余すところなく管理される世界だ。こういう職場は別にしてな。言いたいこともあまり言えないし、やりたいこともほとんどできやしない。そんな毎日に」
「さあ、……特には。そうなる前の時代を知りませんから何とも言い様が」
エレンは首を傾げる。年に似合わない幼気な戸惑いを目元口元に浮かべながら。それは見逃し様もないほど露骨にグレイの質問の無意味さを代弁していた。
グレイは徐にWhiteBoxにアクセスした。そして一つのPerfect No.を口にした。言葉を認識した端末が該当する人物のプロフィールを引き出した。その唐突な行動をエレンは不思議そうに眺めていた。
「……これは?」
「WhiteBoxだ。一言で言うならBlackBoxの対極にあるBoxだな。BlackBoxが島に存在を許されなくなった市民たちを管理しているならWhiteBoxは言わばその逆。いまこの島から絶対に失ってはならない最重要人物たちのデータが保全されている。ここで守られているアカウントはデータを書き換えることができない。どんな手段を以てしてもな。Sランク以上の役付の連中だけがその例外だ。閲覧できるのも連中だけ。それくらい極秘裏のBoxだ。当然ながら、ここにいる連中はプロトコル制御を通して手が出せないようにされている」
「プロトコル制御?」
「例えば、アカデミック・タワーで行われてる睡眠学習なんかだ。名目上は知識の効率的な習得のためのものだが、中に数回程度、WhiteBox制御用のプログラムを刷りこませている。あれを受けた人間は、WhiteBoxの本人と対面した場合、サブリミナル的に行動と感情の両面に規制がかかる。なにをされてもなぜか憎み切れなかったり、手を出せなかったり、そんな具合にな」
「ということは、……わたしにも?」
「当然だ。タワーを経た人間は、監督省に入った人間だろうと生体型装人だろうと例外はない」
グレイはPCの操作を続けながら、
「加えて彼らの周囲では二四時間体制で警備機構が護衛として動いてる。どちらかと言えば、監督省からの目付の意味合いが強いがな。まあともあれ、それくらい重要なBoxというわけだ」
「そうですか」
エレンはそこで言葉を切った。だがどうしても我慢し切れず、
「……しかし、そんなものを、なんでわたしに?」
「君に見せるために開いたわけじゃないが、……結果的にはそうなったわけか。まあなんだ、特に大した意味はない。もし気になるんだったら忘れろ。俺も別に言い触らしたりはしないさ」
自嘲気味に苦笑いを浮かべるグレイにエレンは目を細めた。不気味なものでも見るように。しかしグレイは涼し気だ。大した意味などないのは本当だったから。
そう。意味などない。理由すらも。
昔からそうだ。唐突に訳もなく課せられた現実に背きたくなる時が自分には訪れる。それをグレイは自覚している。半ば一種の諦念や気紛れに侵され易いのが自分の欠点だ。邂逅一番この仕事に就くものとして相応しくないとあいつに笑われた欠点――。
それは甘い呪いのようにいまでも尾を引き続けている。自分でも不思議なほどに。おそらく死ぬまで治ることも忘れることもできないのだろう。
「この女性は? 知り合いですか?」
「以前そこで働いていたヤツだ」
グレイは向かいのデスクを指差した。かつて彼女に割り当てられたデスク。いまはもう誰の席でもない。綺麗に片づけられた机上には日毎の塵だけが残っている。
「君にそっくりだろう? 髪の色が少しだけ違うくらいかな。まあそれも当然と言えば当然か」
「だけどこのWhiteBoxで保護されているということは、この人も島になくてはならない存在というわけですか? ここを出たあとはKeepAliveに関わっているとありますが……」
「そうだ。言わば俺たち監督省の方針に公然と楯突いてるわけだな」
「それだけでBlackBoxの登録対象のはずです」
「そうなるな」
何度も聴かれたことだと言わんばかりの素っ気なさだった。エレンは訳が分からなかった。
「では、……なぜここにアカウントが?」
グレイは黙ったままWhiteBoxの画面を閉じた。一切の言及を受けつけない。そう言わんばかりに無言を貫いて。その横顔はどことなく物憂気にも見えた。不意に決別した道を正す理由を持ち合わせていない恋人の片割のように。だからエレンもなにも訊かなかった。
グレイはそのままPCの電源を落とした。
「で、用件はそれだけか? このあと外に出る予定があってな」
突然話を振られたエレンは少し狼狽しながらバインダーを開いた。
「えっ? ああ、ええと。もう一つ、これは会議でも議題に上がったと思いますが、ラインFの強制統制の件です。先ほど正式にアクションプランの承認が下りてきました。こちらが通達書です。あと上級幹部会が来週までに具体的なスケジュールを提出して欲しいと」
渡された通達書を眺めながらグレイはうんざりと苦笑いを浮かべた。
「まったく、どこまで人使いが荒いんだ。……とりあえず明日までに可能なところまででいいから準備しといてくれ。叩き台程度で構わない」
「かしこまりました」
「資材に依頼したロスト・トレインは?」
エレンは手にしたファイルを数枚ほど繰りながら、
「先日、遺物管材人から連絡がありました。すでに閉められたイーストエンドの過廃物最終処分場の底から、それらしいものが幾つか見つかったそうです。ただサブネットのレールに合うのかどうかは判然としません。あと損傷具合も懸念されます。少なくとも前者については担当者曰く、昔の列車の製造工程や規格は統一されていたから問題ないと言っています。それともう一ヶ所。こちらはサウスエンドの廃墟と化した車庫に捨て置かれているのがFlyingEyesから確認されました。サブネットへの運びこみの都合等も勘案しますと、おそらくこちらが有力候補となりそうです。ただ現状、この車庫は不良集団の巣窟となっています。まず彼らを排除しないことには車体の状況確認もできません」
「そうか。ならとりあえずゴミ捨て場の方は任せる。使えそうなら資材の連中になんとか整備してもらってくれ。サウスエンドの方は時間があったら俺が直に確認しよう。ただ念のため、一応お前のスケジュールも空けておいてくれ。代理で行ってもらうかもしれない。――あと別の話だが、最近の消去の進捗、芳しくないみたいだな」
グレイの一言にエレンは表情を曇らせる。
「……はい」
「別に責めてるわけじゃない。だが第一期の予数を下回った以上、今期は相当に厳しく見られるぞ。俺のヘルプで仕事が増えたこともあって、一期は上層部も甘かったからな。俺も頼んだ以上、今期は庇ってきたが、二期は流石に庇い切れない部分も出てくる」
「心得ています」
グレイは通達書をデスクに放り出すとそのまま部屋を後にした。しばしその後ろ姿を眺めていたエレンは電源の落ちたグレイのPCモニターに目を遣った。黒い画面に薄らと映る自分の姿。この島を生き延びるために欠かせない個性を没した外見。
エレンはモニターから目を逸らした。そこに浸れるだけの感慨など湧くはずもなかった。街の至る所に溢れている体型。毎日のように見かける髪型。天辺から爪先まで型という型に憑かれた一人の女。
(君は嫌気が差したりしたことはないのか?)
グレイの言葉を脳裏で反芻した。
不自由を嫌えるだけの生跡がそもそも自分のなかにはない。ましてそれを悔いたことなど一度も。
だがいまは少し違った。芽吹いたばかりの淡い興味がエレンの胸中を去来して止まない。自らの生跡の辿り着く先。その果てを覆した一人の女性。
――アメリア・レイン。
その名前がエレンの耳元を離れなかった。
交通事故を装った統一回収は見直すことになった。
自動車メーカーの寛容も流石に限界に達していた。今後の方針は未定。当面は各執行者が案件に応じてフローを立案して事前にグレイに審査をかける。その中から統合型効果分解構造に照らして基準を満たしたフローを正式に採用する段取になっている。
とは言え誰もが慣れないことに手間取っていた。そしてそれはグレイも同じだった。彼のデスクには大量の印刷された日報が山積している。なにせ日々現場の業務フローが変わっているような状況だ。評価どころか理解することすら侭ならない。
だがそれより大きな決定は――。
《チーフ、よろしいですか?》
スリープしていたパソコンのディスプレイが女声と共に復旧した。同時にボイスタッチが立ち上がる。画面に交換士の女性事務員が映った。失敗したなとグレイは片目を閉じて舌を打つ。アプリケーションをInactiveにするのをすっかり失念していた。
「……なんだ? いまちょっと取りこんでるんだ。ご覧の通りの有様でな」
交換士の目線が少しだけ下を向いた。彼女にもこのデスクの上は丸見えだ。肩書がなければ無能の烙印を押されるに充分な書類の散在ぶり。だが彼女に思うところはない様子だ。無表情のまま、
《失礼しました。先ほどの会議の件で情報統合部の方からコールが入っています》
「……分かった。ひとまず接続してくれ」
交換士の女性が頭を下げて辞去した。代わりに画面にはNow Switchingと表示された。その間にグレイは一時保存された彼女との遣り取りを消去する。
すぐに画面に見慣れた男が現れた。獣のように粗野な容貌と窮屈なスーツで包まれたがっしりとした体躯。
《よう。なにやら忙しいらしいな。それとも単に表向きか? まさかお前のような***が****でお楽しみなんてわけじゃあるまいしな。それとも入れるのは****か? まあ俺には関係ないがな》
C・L・フォッグ。情報統合部のチーフにしてAAAランカー。外見には相応しくないが名前の通り掴み所のない男。いまも出会い頭の皮肉と共にグレイのデスクを挑発してみせる。だが彼の言葉の大半はいつもこうしてフィルターが転送禁止用語と判断される。そのためボイスタッチを通した会話の半分は意味を成さない。
グレイは溜め息まじりに、
「いまは色々と忙しいんだ。それより会議の件らしいが何か用か?」
《それは立前だ。用件は別のことさ》
「……録字はオフになってる。ほかのヤツらも全員出払ってる。端的に頼むぞ」
《ならお望み通り端的に言おう。俺のコネから回収依頼が入った。それも聴いて驚け。なんとあのビリオン・モータースの執行役員から名指しで直々のご依頼だ》
「依頼はフロントを通せと言ったはずだ。こっちにはこっちのスケジュールが……」
《まあそう言うな。それにお前は断れんのさ。なんせ先方はメリル・スノウからお前の話を聴いて直々に依頼してきたんだからな。こっちで第四レベルドメインの専用アドレスを発行しておいた。そろそろ発行書が届くだろうから連絡を取り合ってくれ。頼んだぞ》
グレイが答える間もなくフォッグはボイスタッチを切断した。いつもそうだ。あの男は来る時も去る時も漏れなく一方的。おかげで業務のスケジューリングを毎回組み替えなければならなくなる。
グレイは小さな溜め息を一つ漏らした。
「なにやらお疲れのご様子ですね」
いつの間にか部屋に入ってきていた女性が言った。グレイの専属の秘書だ。やはり髪は短く体型は細い。律儀に規定に収まった女性の平均的な外見。一緒に働き続けてもう五年近いが姿は当時のままだ。その胸にバインダーを抱えている。おそらくは例の第四レベルインフラの使用許可書だろう。監督省と特定個人を専用線や特殊な属性ドメインで結ぶ高セキュリティ通信網。
随分と手際が良いものだと感心半ば皮肉りつつグレイは彼女の方に向き直った。
「情報統合部からか?」
その呆れたような一言に彼女は両目を見開いて少々驚いた様子だ。
「……ええ、そうですが。どうしてお分かりに?」
「たったいま連絡があってな。イレギュラーの回収依頼だそうだな」
「はい。依頼者はビリオン・モータースの執行役員の一人ですね。調べてみましたが回収専用以外でも第四レベルドメインのアドレスを複数持っていました。それだけイレギュラーの依頼を受けているということは、うちにとっても重要な人物ということでしょう」
秘書から受け取ったバインダーを開いた。やはり思った通り第四レベルドメインの発行許可書が挟まっていた。それを認めると再び気が滅入った。一息を吐きながら椅子に背中を大きく凭れる。一緒に留められていたその人物のプロフィールを天井の灯りに透かしながら。
「過去にも何件か回収を依頼してきています。どれも現場レベルで対応しています。ただ、擬体回収の主流が偽装事故に切り替えられてからは一件もありません」
「自動車メーカーの重役としての体面とリスクの問題だろう。あり得ることじゃないが、仮に回収の件が世間に露見した場合、欠陥車両を回収で潰していることがバレかねんからな」
言い終わるや否やグレイはバインダーを閉じて彼女に差し戻した。
「それにどうやらこいつはパッチワーカーのようだ。彼らにはそうした傾向がある。たとえ擬体であったとしても回収対象が傷つくのをやけに嫌がる。おそらくそれも理由の一つだろう」
戻ったプロフィールを眺めていた彼女は露骨な嫌悪感を目頭に刻みつけた。
「……わたしには理解できません」
「わざわざ擬態を傷つけないようにすることが?」
「どちらもです。自分の体の一部を他人のそれと交換するなんて理解に苦しみます。そんな悪趣味な方々が島の方向性を握っているのかと思うと、どうにも……」
思わずか彼女の口調が乱れる。耳があれば確実にマイナス評価だ。もっともグレイの部屋には一切の情報統合機器がない。逆に言えばだからこその油断だろう。
「理解するしないという話に意味はない。趣味嗜好の問題なんだからな」
とは言え彼女がそう感じるのも無理はない話だ。パッチワーカーたちの嗜好は理解に苦しむ部分の方が圧倒的に多い。しかし島内の権威者にその手の際どい性向を持つ人物が多いのも事実だ。――かつて先住種が蔓延っていた時代。財力に物言わせて異性を買い漁る文化があった。その文化を享受できる者が激減したが故に悪質化した名残の一つがパッチワークだった。為経者の絶対性が揺るがない社会。そんな社会では権威者の道徳性が全く機能しないものなのかもしれない。
「しかしこうも第四レベルドメインの使用申請が通過してしまってはストックが枯渇しかねませんね。その辺りを上はどう考えているんでしょうか」
「なんだ? 今日はずいぶんと手厳しいじゃないかエレン。この部屋に耳があったら、もしかしたら君の人生も今日限りでアウトだぞ」
「い、いえ。特にそういう意図では……」
慌てて狼狽する彼女――ミスティ・エレンは肩を強張らせた。その色白だが健康的な顔色が少し蒼醒めた。
グレイは宥めるように口元を緩めながら、
「分かってるさ、そう畏まるな。……だがまあ言うことはもっともだ。おそらく上としては申請が上がったら誰かを回収することで余分を作ろうって腹なんだろう」
「確かに島民の絶対数が定まっている以上、それしか手段はないですね」
「つまりそれだけ俺たちの仕事が増えるというわけだ」
そう。それしかない。そうグレイは心中で繰り返し呟いた。納得からは程遠い自分の心をあやすように。
事実それしかなかった。島民のボイスタッチのアカウントやアドレスはすべて監督省が発行から回収まで管理している。個人が好き勝手に作成や変更はできない。各人の通信記録や視聴履歴等のコミュニケーションをすべてMassageBoxで管理するためだ。
しかしその数や容量にも限りがある。
たとえばドメインも自由自在に発行できるわけではない。目下ドメインをはじめとして島内の情報資源は枯渇の危機に瀕している。裏を返せばそれだけハイランカーの我が侭が堂々と罷り通っている現状だ。
「チーフも、らしくもなく辛辣ですね」
他意のなさそうな素直な口調でエレンが言った。どうやら動揺も落ち着いたようだ。声色も穏やかだった。
最近の若者や生体型装人はCSU-Po.への恐怖を真摯に抱くことはない。グレイはそう薄々と感じている。彼らの情動や恐怖は熱するも冷めるも易い。その価値と純度は世代を経るごとに下落する一方だ。とは言えそれに文句をつける気など更々ない。抑圧が長引けば自ずと感性の錬度は衰える。それが道理。そしてその圧制を築いたのは紛れもなく自分たちだ。
「君は嫌気が差したりしたことはないのか? なんせ日常の一挙手一投足から一言一句まで余すところなく管理される世界だ。こういう職場は別にしてな。言いたいこともあまり言えないし、やりたいこともほとんどできやしない。そんな毎日に」
「さあ、……特には。そうなる前の時代を知りませんから何とも言い様が」
エレンは首を傾げる。年に似合わない幼気な戸惑いを目元口元に浮かべながら。それは見逃し様もないほど露骨にグレイの質問の無意味さを代弁していた。
グレイは徐にWhiteBoxにアクセスした。そして一つのPerfect No.を口にした。言葉を認識した端末が該当する人物のプロフィールを引き出した。その唐突な行動をエレンは不思議そうに眺めていた。
「……これは?」
「WhiteBoxだ。一言で言うならBlackBoxの対極にあるBoxだな。BlackBoxが島に存在を許されなくなった市民たちを管理しているならWhiteBoxは言わばその逆。いまこの島から絶対に失ってはならない最重要人物たちのデータが保全されている。ここで守られているアカウントはデータを書き換えることができない。どんな手段を以てしてもな。Sランク以上の役付の連中だけがその例外だ。閲覧できるのも連中だけ。それくらい極秘裏のBoxだ。当然ながら、ここにいる連中はプロトコル制御を通して手が出せないようにされている」
「プロトコル制御?」
「例えば、アカデミック・タワーで行われてる睡眠学習なんかだ。名目上は知識の効率的な習得のためのものだが、中に数回程度、WhiteBox制御用のプログラムを刷りこませている。あれを受けた人間は、WhiteBoxの本人と対面した場合、サブリミナル的に行動と感情の両面に規制がかかる。なにをされてもなぜか憎み切れなかったり、手を出せなかったり、そんな具合にな」
「ということは、……わたしにも?」
「当然だ。タワーを経た人間は、監督省に入った人間だろうと生体型装人だろうと例外はない」
グレイはPCの操作を続けながら、
「加えて彼らの周囲では二四時間体制で警備機構が護衛として動いてる。どちらかと言えば、監督省からの目付の意味合いが強いがな。まあともあれ、それくらい重要なBoxというわけだ」
「そうですか」
エレンはそこで言葉を切った。だがどうしても我慢し切れず、
「……しかし、そんなものを、なんでわたしに?」
「君に見せるために開いたわけじゃないが、……結果的にはそうなったわけか。まあなんだ、特に大した意味はない。もし気になるんだったら忘れろ。俺も別に言い触らしたりはしないさ」
自嘲気味に苦笑いを浮かべるグレイにエレンは目を細めた。不気味なものでも見るように。しかしグレイは涼し気だ。大した意味などないのは本当だったから。
そう。意味などない。理由すらも。
昔からそうだ。唐突に訳もなく課せられた現実に背きたくなる時が自分には訪れる。それをグレイは自覚している。半ば一種の諦念や気紛れに侵され易いのが自分の欠点だ。邂逅一番この仕事に就くものとして相応しくないとあいつに笑われた欠点――。
それは甘い呪いのようにいまでも尾を引き続けている。自分でも不思議なほどに。おそらく死ぬまで治ることも忘れることもできないのだろう。
「この女性は? 知り合いですか?」
「以前そこで働いていたヤツだ」
グレイは向かいのデスクを指差した。かつて彼女に割り当てられたデスク。いまはもう誰の席でもない。綺麗に片づけられた机上には日毎の塵だけが残っている。
「君にそっくりだろう? 髪の色が少しだけ違うくらいかな。まあそれも当然と言えば当然か」
「だけどこのWhiteBoxで保護されているということは、この人も島になくてはならない存在というわけですか? ここを出たあとはKeepAliveに関わっているとありますが……」
「そうだ。言わば俺たち監督省の方針に公然と楯突いてるわけだな」
「それだけでBlackBoxの登録対象のはずです」
「そうなるな」
何度も聴かれたことだと言わんばかりの素っ気なさだった。エレンは訳が分からなかった。
「では、……なぜここにアカウントが?」
グレイは黙ったままWhiteBoxの画面を閉じた。一切の言及を受けつけない。そう言わんばかりに無言を貫いて。その横顔はどことなく物憂気にも見えた。不意に決別した道を正す理由を持ち合わせていない恋人の片割のように。だからエレンもなにも訊かなかった。
グレイはそのままPCの電源を落とした。
「で、用件はそれだけか? このあと外に出る予定があってな」
突然話を振られたエレンは少し狼狽しながらバインダーを開いた。
「えっ? ああ、ええと。もう一つ、これは会議でも議題に上がったと思いますが、ラインFの強制統制の件です。先ほど正式にアクションプランの承認が下りてきました。こちらが通達書です。あと上級幹部会が来週までに具体的なスケジュールを提出して欲しいと」
渡された通達書を眺めながらグレイはうんざりと苦笑いを浮かべた。
「まったく、どこまで人使いが荒いんだ。……とりあえず明日までに可能なところまででいいから準備しといてくれ。叩き台程度で構わない」
「かしこまりました」
「資材に依頼したロスト・トレインは?」
エレンは手にしたファイルを数枚ほど繰りながら、
「先日、遺物管材人から連絡がありました。すでに閉められたイーストエンドの過廃物最終処分場の底から、それらしいものが幾つか見つかったそうです。ただサブネットのレールに合うのかどうかは判然としません。あと損傷具合も懸念されます。少なくとも前者については担当者曰く、昔の列車の製造工程や規格は統一されていたから問題ないと言っています。それともう一ヶ所。こちらはサウスエンドの廃墟と化した車庫に捨て置かれているのがFlyingEyesから確認されました。サブネットへの運びこみの都合等も勘案しますと、おそらくこちらが有力候補となりそうです。ただ現状、この車庫は不良集団の巣窟となっています。まず彼らを排除しないことには車体の状況確認もできません」
「そうか。ならとりあえずゴミ捨て場の方は任せる。使えそうなら資材の連中になんとか整備してもらってくれ。サウスエンドの方は時間があったら俺が直に確認しよう。ただ念のため、一応お前のスケジュールも空けておいてくれ。代理で行ってもらうかもしれない。――あと別の話だが、最近の消去の進捗、芳しくないみたいだな」
グレイの一言にエレンは表情を曇らせる。
「……はい」
「別に責めてるわけじゃない。だが第一期の予数を下回った以上、今期は相当に厳しく見られるぞ。俺のヘルプで仕事が増えたこともあって、一期は上層部も甘かったからな。俺も頼んだ以上、今期は庇ってきたが、二期は流石に庇い切れない部分も出てくる」
「心得ています」
グレイは通達書をデスクに放り出すとそのまま部屋を後にした。しばしその後ろ姿を眺めていたエレンは電源の落ちたグレイのPCモニターに目を遣った。黒い画面に薄らと映る自分の姿。この島を生き延びるために欠かせない個性を没した外見。
エレンはモニターから目を逸らした。そこに浸れるだけの感慨など湧くはずもなかった。街の至る所に溢れている体型。毎日のように見かける髪型。天辺から爪先まで型という型に憑かれた一人の女。
(君は嫌気が差したりしたことはないのか?)
グレイの言葉を脳裏で反芻した。
不自由を嫌えるだけの生跡がそもそも自分のなかにはない。ましてそれを悔いたことなど一度も。
だがいまは少し違った。芽吹いたばかりの淡い興味がエレンの胸中を去来して止まない。自らの生跡の辿り着く先。その果てを覆した一人の女性。
――アメリア・レイン。
その名前がエレンの耳元を離れなかった。
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