KEEP ALIVE
《とりあえずこんなところか。話し出せば切りがないんだが、――大丈夫か?》
「……うん。なんとか」
その一言が半分は嘘であることにルファは気づいていた。内蔵された対熱感知センサはクレアの体温が平熱とは程遠いことを示していた。それは動揺の揺るぎない証だった。事実クレアの視線は虚ろっていた。
車はサウスエンドに向かって走り続けている。もう内陸部のずいぶんと奥だった。
閑静とした清潔な雰囲気はもう遠い彼方だ。辺りには高層建築や人集りが増えてきた。行く先々で広がるのは何気ない日常ばかり。この島の暴かれ得ぬ実態を露ほども知ることなく人々は行き交っている。
予想していた以上に堪え難い事実の連続だった。思わず目を瞑りたくなるほど。この島の裏側に築かれた非人道的なシステム。根深く蔓延る毒々しい人身流用ネットワーク。ルファの語った真実に付け入る隙は何一つなかった。そのロジックは極めて単純かつ明快。そして何よりも事実に忠実。自分の短いなりの生跡を振り返ってみても島の姿は確かに彼の語ったようにあった。その実態を知らずともそう言わざるを得ない程に。
そしてクレアの生跡は疑いようもなくその一部に呑みこまれた人生だった。
《昔、この島は不思議なほどステレオタイプの根強い国だったらしい。皆が皆、同じ地平に立ち、同じ視線で物を見、同じものを好きになり、同じように着飾り振る舞う。それが義務にも等しかったそうだ。まあ元々経済的に練度の低い国だったからな。国全体のコストを抑えるためには、そういう文化も必要だったんだろう。大量生産の恩恵に与るには、それが一番だからな。だからこそ逆に、文化的には急速に成熟した。オリジナリティの強いこの島独特の文化が出来上がった。延々と一つの文化が終わることなく、二次消費や三次消費を経て世代交替を繰り返したわけだから当然と言えば当然だが。言ってしまえば、君がよくアクセスしていたスピン・ライフのようなサイトもその一つだ。ある特殊な状況下にある一般市民がアイドルとして衆目を集めるというのは大陸では聴いたことがない。――っと、話が逸れたな。兎にも角にも、そうしたステレオタイプへの無意識下の従性が行き着くところまで行き着いた結果、生まれたのがいまのこの島の在り方だ。監督省の定める規準に沿わない限り島民に居場所はない》
「……ネガティブ・ドナー」
《そうだ。島の実益に適わない島民、自身の生活コストを上回る生産性を生み出せない島民は例外なく赤字島民としてドナー候補もしくは消去対象に回される。本人の意志とは関係なくな。そして島を支配する人間たちの意思のままに使用されることになる。そのために策定された大綱がFAPPというわけだ。表向きには島民の志すべきただの行動原理の一つに過ぎないが》
「でも、そんな話、いままで聴いたことない」
《当然だ。表沙汰にできるような話ではない。すべて最重要機密だ》
「いきなり消えた友達とかもいなかった」
《そのまま回収したりしたら当然、家族や知り合いが怪しむ。人が一人、いきなりいなくなるわけだからな。だから監督省も手を打つ。そうなるべくしてなるように裏で色々と動くのさ》
静かな車内に二人の声だけが津々と響く。アメリアがサブネットへの連絡口を探し始めてから二〇分。まだ目的の場所に着く気配はない。そして追跡の手が止む気配もない。むしろ追手の数も追跡の速度も増していた。
《そうして回収されたドナーの行き着く末路は文字通り地獄のようなものだ。被験体として新療法や新薬を死ぬまで施されたり、敗北を義務づけられた兵士に回されたり、島のお偉方の性的玩具として飼い殺されたりな。ネガティブ・ドナーはハイランカーのニーズに合わせて様々な所へ供給される。時には文字通りドナーとして利用されることもある。変質的性癖の持ち主が自身の内臓を摘出して異性の内臓を移植したという話も別に珍しいことではない。己の内蔵を若返らせて延命を図るためだったり、単に倒錯した愛着からだったり、理由は色々だが、そんな狂気が裏では横行している》
そういうルファの口調は淡々としている。しかしその端々に滲む形容し難い情動にクレアは気づいていた。ルファの銃身に重ねた両手を通して。密かに息衝く過去への断ち切れない思いを。それがどのような過去かは当然知る由などない。だが呪縛にも似た怒り。悲しみ。遣る瀬なさ。後悔。――訥々と紡がれる言葉が分厚い銃身すら易々と超えて伝える悲壮の数々。その奔流にクレアは身を寄せる。そこに微塵も明るい気配はない。
過去に馳せるべき思いを捨てることなく抱えるルファにクレアは甚く心を痛めた。おそらく彼は忘れられないのだろう。あらゆる過去が。数々の絶望の一瞬が。生体型機甲装人である彼の頭脳からは一切の過去が揮発しない。後悔には常に悩まされる。柵にはいつまでも縛られる。その痛々しさは自分の想像など遠く及ばない。
「あの人の狙いも……」
《そういうことだ。アメリアによれば以前からスピン・ライフのアイドルを回収しては自分のオフィスに連れこんでいたらしい。気になって調べてみたが、あのサイトの運営会社が出資を受けている相手に国営のSIerの名前があった。おそらく技術面での協力や社員の出向などの名目で提携関係を結んだんだろう。国のお墨付きという隠れ蓑を手にするためにな》
「その人たちは、……あたしのまえに同じ目に遭った人たちは、どうなったの?」
《分からない。攫われた後の生跡は不明だ。ただメリル・フレイクスの性癖を考えれば明白だろう。つまり言い換えれば、まだどこかで生きている可能性もあるということだ。……確証はないが》
やがて車は交差点で止まった。見晴らしの良い大きな交差点。多くの若者やスーツ姿のビジネスパーソンが信号が変わるのを暢気に待っている。
「さっき言ってた、そのBlackBoxには?」
《あれはあくまでネガティブ・ドナーの候補者リストに過ぎない。彼らの生跡は残っていても、そこにその後の未来は紡がれない。ただ俺たちが救えた者たちに関して言えば、いまはみんなサブネットに隠れている。もちろんCitizenBox上のステータスはClosedだがな》
「クローズ?」
《監督省が島民を管理する上で割り当てているBox上のステータスの一つだ。一般には知られていない管理者専用のコードでな。Aliveは生存中。Stayは処理執行猶予中。Lostは行方不明。Donorはそのままだな。ネガティブ・ドナーのことだ。そしてClosedは死亡確認済を意味する》
「ちょっと待って。あたし、まだ生きてるよ」
《CitizenBoxの中での話だ。監督省はドナーを回収する際に幾つかの手順を踏む。まずドナーが死んだと身内や周囲に思いこませる。それからステータスをClosedにする。最後に本当のドナーを回収する。簡単に言えばそんな所だ。だからこそ俺たちは救い出したドナーをサブネットに避難させなければならないんだ》
信号が変わった。アメリアが車を出す。歩道の人々も螺子を巻いたように再び流れ出す。
「……あたしもそこに行くの? そのサブネットとか言うところに」
《そうだ》
「もう、そこじゃなきゃ生きていけないの? そこだけでしか……」
《……申し訳ないが、いまはそれしか道が残されていない。ただあくまで、今は、だ》
だがそう言うルファの声色は本当に申し訳なさそうだった。それだけにクレアは思い知らされた気がした。この身の現実がいかに否定し難いほど現実であるかを。
クレアは携帯を取り出してCitizenBoxにアクセスした。そして――自分のPerfect No.で検索をかけた。もう二度とするまいと決めていた行為だけにクレアの心は少なからず動揺した。だが意を決した。
しかし……一人も見当たらなかった。
Not Found――そんなナンバーは存在しない。
それが結末だった。
代わりに名前でも検索した。しかし結果は変わらなかった。そんな名前の島民など存在しない。
どこにも――。
クレア・コレットという島民はClosed――既に死亡していた。いまこうして確かに息衝く鼓動も身の底から湧き上がる生存本能も関係ない。自分は不要な存在。文字通り生きながらにして死んでいるのだ。
――クレアの瞳に涙が滲み……零れた。
自分でも驚くほど不意に。脚に乗せたルファの上に一つ。また一つ。瞳を持たないルファも身を打つ涙を感じたようだった。クレアの心の内のすべてを。落涙に宿った苦悶。悲哀。悔恨。そして絶望。彼は一言も発することなくただ静かに黙っていた。なにかを待つように。奥歯を軋らせながら悔し涙そして悲し涙を堪えそれでも零してしまうクレアにルファはただ沈黙を以て応えた。それが島の不条理の根深さを代弁してもいる気がクレアにはした。――言葉で慰められるほど自分たちを牛耳る真実は決して優しくはないのだと……。
《……アメリア。連絡口はどうだ?》
「ダメね、近場にはWell-Knownに指定されてるポートしかない。おそらくどこも連中に張られてる。……だけど、どうやらそうも言ってられなくなったわ」
アメリアは眼鏡のテンプルに手をかけてネットワークの接続感度を調整する。
《どういうことだ?》
「たぶん……尾けられてる。ナビに一台、距離を置いてずっとついてきてる車が確認できるわ。このまま潜ると連絡口を掴まれることになる」
《なるほど。……執行者か?》
「もっと性が悪い。警備機構の巡回車よ。おそらくさっきの誤紋を状況証拠に監督省が出動を要請したのね。あたしたちがこの子を誘拐したとでも言って」
《ふざけた理屈だ。だがどうする? 撒くのに時間を取られるわけにはいかないぞ》
アメリアは瞳を閉じた。クレアは涙目を慰めながらその横顔を見た。その口唇を悔し気に噛んでいる。何も告げるべき言葉を持たない自分を容赦なく責めるように。
やがて――進むべき道を見定めたようにアメリアは瞳を開いた。そして普段ルファがいない方の懐から何かを取り出した。銀色に輝く小さな円盤――気品漂う懐中時計だった。いまは失われた時を刻む音がクレアの心の奥底に届いた。神妙な面持でクレアは時計を見た。
「これを渡しておくわ」
そう言うとアメリアはいともあっさりそれをクレアに差し出した。それが来るべき必然のように。
クレアは反射的に手を伸ばして――触れる直前に躊躇した。底知れぬ不安が心臓を鷲掴んだ。恐かった。切り出されたものが突然の別れにしか思えなくて。これは受け取ったが最後。そのまま形見に変わってしまうような気がした。――だがアメリアは差し出されたクレアの手を握るとそっと平の上に時計を置いた。
「開けてみて」
アメリアが蓋を小突いた。クレアはアメリアの方を見た。アメリアは静かに微笑みながら頷いた。
蓋を開けると現れたのはギミックの透き通るクリアな半月状の文字盤だった。両端には昼夜の天頂を与るギリシア数字。そして山なりに一時間置きで数字が並んでいた。どうやら一日一往復する造りのようだ。下半分には私紋認証用のプレートが二枚嵌めこまれている。二重認証だろうか。しかし片方は起動していない。
アメリアが起動している方のプレートに触れた。
柔らかい旋律が流れ出した。聴き覚えのない楽器の音だった。だがどことなく懐かしく思えた。クレアは耳で聴くというより全身で感じていた。
「それね、なかにオルゴールが内蔵されてるの。オルゴールって分かるかな? 簡単に言うと、右のプレートがあたしの私紋を認証すると音楽が流れるの。左はまだ私紋を登録してないんだけど歌詞ね。だから二つ合わせて一曲出来上がるのよ」
その旋律にクレアは我と現実を忘れて聴き惚れていた。寄り添う歌声を失ってしまった孤高のバラード。ただ滴が湖面と触れ合うことでしか生まれないような一縷の静謐な旋律。――だがなぜいきなりこんなものを取り出したのか? クレアは理解に苦しんだ。嫌な予感しかしなかった。だからだろうか。心細い音楽は徐々に鎮魂歌のようにクレアの身に響いた。
「それを持って、……あなたは先に車を降りて」
アメリアの唐突な一言がクレアの虚ろな意識に突き刺さった。クレアは反射的にアメリアの方を向いた。突然の宣告に絶句した口を開けたまま。
「それで、すぐ近くに開かれている連絡口から先にサブネットへ降りて。降りてからあとのことは大丈夫なようにこっちで手配しておくから。――ルファ、急いで先生に連絡を入れて、ナビゲーターの手配を」
「……どういうこと? 一緒じゃないの?」
《このままだと連中に尻尾をつかまれて一網打尽になりかねない。だがいまならまだ追手も少ない。君一人だけなら人混みに紛れて逃げ切れるだろう。――とりあえずメールは送った。ボイスタッチはログアウトされているようだ。繋がる気配がない》
「ありがと。とりあえず次の信号までに出来るだけ後ろのヤツだけでも引き離すわ。車列に紛れてこの娘が歩道に出られるくらいにはね」
「いやだ。一人なんて無理。あたしもここに残る」
クレアは力いっぱい首を振って駄々を捏ねた。それを見たアメリアは哀し気に微笑みながら、
「大丈夫。事が落ち着いたら、あたしたちも下に降りて迎えに行くわ。それまでに……」
そう言うとアメリアはクレアの手のひらの上の懐中時計に手を乗せた。クレアの右手と自分の左手でそっと時計を護るように。その手は震えていた。いや。自分の手が震えていた。
「……それまでに、このメロディにぴったりの歌を作っておいて。あなただけの歌」
「……歌」
「嫌い? 歌うのって。調査で何本かMC見せてもらって意外と好きなのかなって思ったけど」
アメリアの問いにもクレアは黙っていた。答えがなかったわけではない。答えたくなかったわけでもない。今は全てを少しでも先に延ばしたかった。
アメリアはクレアの手を強く握った。治まらない震えを柔らかい優しさがそっと包む。
「……次に会うときまでの約束ね。なんせあたしの宝物なんだから、なくしたりしないでよ」
そうアメリアは冗談めかしてクレアに託した。そしてクレアの膝の上のルファをそっと手に取った。その重みを失った体が異常に軽くなった気がした。右手の懐中時計が迫るその時までの時を容赦なく刻んでいく。
クレアは歯列を強く軋らせた。声の続く限り泣きたかった。だがそれが自虐的な我が侭であることは流石に分かっていた。だから必死に堪えた。
「大丈夫。心配しないで」
もう多くを訊ねる余裕も時間もないことをクレアは悟っていた。置かれた状況。この先の展開。懐中時計。そして歌。脈絡の乏しいまま並べられる事実を呑みこむことことだけを考えた。苦痛を苦痛のままに。不安を不安のままに。伴う心痛の軋りに堪えながら。
しばらく疾走音だけが低く唸っていた。
やがて車列の流れが落ち着いてきた。見計らったようにアメリアが徐々に車速を落としていく。
《この娘を逃がしたあとはどうするんだ? おそらく真田の所には戻れないぞ》
「とりあえずサウスエンドの低級市民街に隠れる。それから監視の網を抜けて警備機構が手薄のエリアを見定めて、そこの連絡口から下に降りて……、――って、ちょっと?」
唐突にアメリアが言葉を絶った。
クレアは面を上げた。大勢の人々が思い思いに街を歩いている。しかし特に驚きを禁じ得ない光景は見当たらない。あるのは見慣れた日常ばかり。
クレアはアメリアの様子を横目に見た。その面貌は驚愕より怒りに満ちて見えた。――いったいどうしたと言うのか……。彼女の視線を辿り結ばれる先を見た。あったのは向かいの歩道の人混みだった。
そこで――クレアは言葉を失った。
――自分と瓜二つの少女を認めて。
「……あれ、だれ?」
漏らしたクレアは懐中時計を思い切り握り締めていた。無理もなかった。それは不可解なほどに悍ましい光景だった。クレアの痛み切った理性で受け入れ切れないほどに。……決して存在し得ないもう一人の自分。となればいまここでこの胸を苦しめ息を急かしている自分は何者なのか? 目の前を平然と歩いている自分。CitizenBoxに存在しないはずの自分。
《なんだ、一体どうした?》
視覚を持たないルファが怪訝そうに訊ねる。同時に歩行者の信号が点滅し始めた。もう一人のクレアは急いで渡ろうと小走りになった。アメリアは彼女を疑るように強く細めた目を離さない。その強張った横顔にクレアの本能は恐怖した。反射的にアメリアから逸らした視線を再び前に戻す。予兆めいた不穏の影に激しく戦慄きながら。だからクレアは気づかなかった。
刹那――事態の暗転を察したアメリアの表情が見る見る狼狽に染まるのを。
そして響いたのは――危機を知らせるには遅すぎた巨大なクラクション。
「見ないでっ!」
しかし遅かった。咄嗟に伸ばしたアメリアの左手も虚しくその紛うことなき瞬間をクレアの両目は確と焼きつけてしまった。耳を劈く爆発のような轟音と共に。
――もう一人の自分が無惨に轢かれる一瞬を。
もう一人のクレアは宙を舞い――地面に叩きつけられて――痙攣も束の間……二度と動かなくなった。
一帯が静まり返った。だがすぐに社会の目がけたたましい警報を鳴らし始めた。群集も騒ぎ始めた。もうじき最寄の警備機構と救急機構も飛んで来るだろう。
だがもはや手遅れなのは誰の目にも自明だった。
目を閉じたまま微動だにすらしない。その脚はあり得ない角度に曲がっている。頭部からは大量の出血。半分以上が生き血に染まった自分の面。
――全ての現実が生存を否定していた。
アメリアが心底憎々し気にハンドルを強くどんと叩いた。そしてルファも事態を察した。クラクション。衝突音。地響き。叫び。――クレアは茫然と自失した。押し寄せる不条理の連鎖がクレアからすべてを奪った。子供らしく泣くことも。人間らしく悲しむことも。
その身の内に残されたのは……天を衝かんばかりの絶叫の衝動ただ一つ。
その逆巻く激情の奔流に負けてクレアは叫んだ。
夜に怯える獣の断末魔の如く――。
「……うん。なんとか」
その一言が半分は嘘であることにルファは気づいていた。内蔵された対熱感知センサはクレアの体温が平熱とは程遠いことを示していた。それは動揺の揺るぎない証だった。事実クレアの視線は虚ろっていた。
車はサウスエンドに向かって走り続けている。もう内陸部のずいぶんと奥だった。
閑静とした清潔な雰囲気はもう遠い彼方だ。辺りには高層建築や人集りが増えてきた。行く先々で広がるのは何気ない日常ばかり。この島の暴かれ得ぬ実態を露ほども知ることなく人々は行き交っている。
予想していた以上に堪え難い事実の連続だった。思わず目を瞑りたくなるほど。この島の裏側に築かれた非人道的なシステム。根深く蔓延る毒々しい人身流用ネットワーク。ルファの語った真実に付け入る隙は何一つなかった。そのロジックは極めて単純かつ明快。そして何よりも事実に忠実。自分の短いなりの生跡を振り返ってみても島の姿は確かに彼の語ったようにあった。その実態を知らずともそう言わざるを得ない程に。
そしてクレアの生跡は疑いようもなくその一部に呑みこまれた人生だった。
《昔、この島は不思議なほどステレオタイプの根強い国だったらしい。皆が皆、同じ地平に立ち、同じ視線で物を見、同じものを好きになり、同じように着飾り振る舞う。それが義務にも等しかったそうだ。まあ元々経済的に練度の低い国だったからな。国全体のコストを抑えるためには、そういう文化も必要だったんだろう。大量生産の恩恵に与るには、それが一番だからな。だからこそ逆に、文化的には急速に成熟した。オリジナリティの強いこの島独特の文化が出来上がった。延々と一つの文化が終わることなく、二次消費や三次消費を経て世代交替を繰り返したわけだから当然と言えば当然だが。言ってしまえば、君がよくアクセスしていたスピン・ライフのようなサイトもその一つだ。ある特殊な状況下にある一般市民がアイドルとして衆目を集めるというのは大陸では聴いたことがない。――っと、話が逸れたな。兎にも角にも、そうしたステレオタイプへの無意識下の従性が行き着くところまで行き着いた結果、生まれたのがいまのこの島の在り方だ。監督省の定める規準に沿わない限り島民に居場所はない》
「……ネガティブ・ドナー」
《そうだ。島の実益に適わない島民、自身の生活コストを上回る生産性を生み出せない島民は例外なく赤字島民としてドナー候補もしくは消去対象に回される。本人の意志とは関係なくな。そして島を支配する人間たちの意思のままに使用されることになる。そのために策定された大綱がFAPPというわけだ。表向きには島民の志すべきただの行動原理の一つに過ぎないが》
「でも、そんな話、いままで聴いたことない」
《当然だ。表沙汰にできるような話ではない。すべて最重要機密だ》
「いきなり消えた友達とかもいなかった」
《そのまま回収したりしたら当然、家族や知り合いが怪しむ。人が一人、いきなりいなくなるわけだからな。だから監督省も手を打つ。そうなるべくしてなるように裏で色々と動くのさ》
静かな車内に二人の声だけが津々と響く。アメリアがサブネットへの連絡口を探し始めてから二〇分。まだ目的の場所に着く気配はない。そして追跡の手が止む気配もない。むしろ追手の数も追跡の速度も増していた。
《そうして回収されたドナーの行き着く末路は文字通り地獄のようなものだ。被験体として新療法や新薬を死ぬまで施されたり、敗北を義務づけられた兵士に回されたり、島のお偉方の性的玩具として飼い殺されたりな。ネガティブ・ドナーはハイランカーのニーズに合わせて様々な所へ供給される。時には文字通りドナーとして利用されることもある。変質的性癖の持ち主が自身の内臓を摘出して異性の内臓を移植したという話も別に珍しいことではない。己の内蔵を若返らせて延命を図るためだったり、単に倒錯した愛着からだったり、理由は色々だが、そんな狂気が裏では横行している》
そういうルファの口調は淡々としている。しかしその端々に滲む形容し難い情動にクレアは気づいていた。ルファの銃身に重ねた両手を通して。密かに息衝く過去への断ち切れない思いを。それがどのような過去かは当然知る由などない。だが呪縛にも似た怒り。悲しみ。遣る瀬なさ。後悔。――訥々と紡がれる言葉が分厚い銃身すら易々と超えて伝える悲壮の数々。その奔流にクレアは身を寄せる。そこに微塵も明るい気配はない。
過去に馳せるべき思いを捨てることなく抱えるルファにクレアは甚く心を痛めた。おそらく彼は忘れられないのだろう。あらゆる過去が。数々の絶望の一瞬が。生体型機甲装人である彼の頭脳からは一切の過去が揮発しない。後悔には常に悩まされる。柵にはいつまでも縛られる。その痛々しさは自分の想像など遠く及ばない。
「あの人の狙いも……」
《そういうことだ。アメリアによれば以前からスピン・ライフのアイドルを回収しては自分のオフィスに連れこんでいたらしい。気になって調べてみたが、あのサイトの運営会社が出資を受けている相手に国営のSIerの名前があった。おそらく技術面での協力や社員の出向などの名目で提携関係を結んだんだろう。国のお墨付きという隠れ蓑を手にするためにな》
「その人たちは、……あたしのまえに同じ目に遭った人たちは、どうなったの?」
《分からない。攫われた後の生跡は不明だ。ただメリル・フレイクスの性癖を考えれば明白だろう。つまり言い換えれば、まだどこかで生きている可能性もあるということだ。……確証はないが》
やがて車は交差点で止まった。見晴らしの良い大きな交差点。多くの若者やスーツ姿のビジネスパーソンが信号が変わるのを暢気に待っている。
「さっき言ってた、そのBlackBoxには?」
《あれはあくまでネガティブ・ドナーの候補者リストに過ぎない。彼らの生跡は残っていても、そこにその後の未来は紡がれない。ただ俺たちが救えた者たちに関して言えば、いまはみんなサブネットに隠れている。もちろんCitizenBox上のステータスはClosedだがな》
「クローズ?」
《監督省が島民を管理する上で割り当てているBox上のステータスの一つだ。一般には知られていない管理者専用のコードでな。Aliveは生存中。Stayは処理執行猶予中。Lostは行方不明。Donorはそのままだな。ネガティブ・ドナーのことだ。そしてClosedは死亡確認済を意味する》
「ちょっと待って。あたし、まだ生きてるよ」
《CitizenBoxの中での話だ。監督省はドナーを回収する際に幾つかの手順を踏む。まずドナーが死んだと身内や周囲に思いこませる。それからステータスをClosedにする。最後に本当のドナーを回収する。簡単に言えばそんな所だ。だからこそ俺たちは救い出したドナーをサブネットに避難させなければならないんだ》
信号が変わった。アメリアが車を出す。歩道の人々も螺子を巻いたように再び流れ出す。
「……あたしもそこに行くの? そのサブネットとか言うところに」
《そうだ》
「もう、そこじゃなきゃ生きていけないの? そこだけでしか……」
《……申し訳ないが、いまはそれしか道が残されていない。ただあくまで、今は、だ》
だがそう言うルファの声色は本当に申し訳なさそうだった。それだけにクレアは思い知らされた気がした。この身の現実がいかに否定し難いほど現実であるかを。
クレアは携帯を取り出してCitizenBoxにアクセスした。そして――自分のPerfect No.で検索をかけた。もう二度とするまいと決めていた行為だけにクレアの心は少なからず動揺した。だが意を決した。
しかし……一人も見当たらなかった。
Not Found――そんなナンバーは存在しない。
それが結末だった。
代わりに名前でも検索した。しかし結果は変わらなかった。そんな名前の島民など存在しない。
どこにも――。
クレア・コレットという島民はClosed――既に死亡していた。いまこうして確かに息衝く鼓動も身の底から湧き上がる生存本能も関係ない。自分は不要な存在。文字通り生きながらにして死んでいるのだ。
――クレアの瞳に涙が滲み……零れた。
自分でも驚くほど不意に。脚に乗せたルファの上に一つ。また一つ。瞳を持たないルファも身を打つ涙を感じたようだった。クレアの心の内のすべてを。落涙に宿った苦悶。悲哀。悔恨。そして絶望。彼は一言も発することなくただ静かに黙っていた。なにかを待つように。奥歯を軋らせながら悔し涙そして悲し涙を堪えそれでも零してしまうクレアにルファはただ沈黙を以て応えた。それが島の不条理の根深さを代弁してもいる気がクレアにはした。――言葉で慰められるほど自分たちを牛耳る真実は決して優しくはないのだと……。
《……アメリア。連絡口はどうだ?》
「ダメね、近場にはWell-Knownに指定されてるポートしかない。おそらくどこも連中に張られてる。……だけど、どうやらそうも言ってられなくなったわ」
アメリアは眼鏡のテンプルに手をかけてネットワークの接続感度を調整する。
《どういうことだ?》
「たぶん……尾けられてる。ナビに一台、距離を置いてずっとついてきてる車が確認できるわ。このまま潜ると連絡口を掴まれることになる」
《なるほど。……執行者か?》
「もっと性が悪い。警備機構の巡回車よ。おそらくさっきの誤紋を状況証拠に監督省が出動を要請したのね。あたしたちがこの子を誘拐したとでも言って」
《ふざけた理屈だ。だがどうする? 撒くのに時間を取られるわけにはいかないぞ》
アメリアは瞳を閉じた。クレアは涙目を慰めながらその横顔を見た。その口唇を悔し気に噛んでいる。何も告げるべき言葉を持たない自分を容赦なく責めるように。
やがて――進むべき道を見定めたようにアメリアは瞳を開いた。そして普段ルファがいない方の懐から何かを取り出した。銀色に輝く小さな円盤――気品漂う懐中時計だった。いまは失われた時を刻む音がクレアの心の奥底に届いた。神妙な面持でクレアは時計を見た。
「これを渡しておくわ」
そう言うとアメリアはいともあっさりそれをクレアに差し出した。それが来るべき必然のように。
クレアは反射的に手を伸ばして――触れる直前に躊躇した。底知れぬ不安が心臓を鷲掴んだ。恐かった。切り出されたものが突然の別れにしか思えなくて。これは受け取ったが最後。そのまま形見に変わってしまうような気がした。――だがアメリアは差し出されたクレアの手を握るとそっと平の上に時計を置いた。
「開けてみて」
アメリアが蓋を小突いた。クレアはアメリアの方を見た。アメリアは静かに微笑みながら頷いた。
蓋を開けると現れたのはギミックの透き通るクリアな半月状の文字盤だった。両端には昼夜の天頂を与るギリシア数字。そして山なりに一時間置きで数字が並んでいた。どうやら一日一往復する造りのようだ。下半分には私紋認証用のプレートが二枚嵌めこまれている。二重認証だろうか。しかし片方は起動していない。
アメリアが起動している方のプレートに触れた。
柔らかい旋律が流れ出した。聴き覚えのない楽器の音だった。だがどことなく懐かしく思えた。クレアは耳で聴くというより全身で感じていた。
「それね、なかにオルゴールが内蔵されてるの。オルゴールって分かるかな? 簡単に言うと、右のプレートがあたしの私紋を認証すると音楽が流れるの。左はまだ私紋を登録してないんだけど歌詞ね。だから二つ合わせて一曲出来上がるのよ」
その旋律にクレアは我と現実を忘れて聴き惚れていた。寄り添う歌声を失ってしまった孤高のバラード。ただ滴が湖面と触れ合うことでしか生まれないような一縷の静謐な旋律。――だがなぜいきなりこんなものを取り出したのか? クレアは理解に苦しんだ。嫌な予感しかしなかった。だからだろうか。心細い音楽は徐々に鎮魂歌のようにクレアの身に響いた。
「それを持って、……あなたは先に車を降りて」
アメリアの唐突な一言がクレアの虚ろな意識に突き刺さった。クレアは反射的にアメリアの方を向いた。突然の宣告に絶句した口を開けたまま。
「それで、すぐ近くに開かれている連絡口から先にサブネットへ降りて。降りてからあとのことは大丈夫なようにこっちで手配しておくから。――ルファ、急いで先生に連絡を入れて、ナビゲーターの手配を」
「……どういうこと? 一緒じゃないの?」
《このままだと連中に尻尾をつかまれて一網打尽になりかねない。だがいまならまだ追手も少ない。君一人だけなら人混みに紛れて逃げ切れるだろう。――とりあえずメールは送った。ボイスタッチはログアウトされているようだ。繋がる気配がない》
「ありがと。とりあえず次の信号までに出来るだけ後ろのヤツだけでも引き離すわ。車列に紛れてこの娘が歩道に出られるくらいにはね」
「いやだ。一人なんて無理。あたしもここに残る」
クレアは力いっぱい首を振って駄々を捏ねた。それを見たアメリアは哀し気に微笑みながら、
「大丈夫。事が落ち着いたら、あたしたちも下に降りて迎えに行くわ。それまでに……」
そう言うとアメリアはクレアの手のひらの上の懐中時計に手を乗せた。クレアの右手と自分の左手でそっと時計を護るように。その手は震えていた。いや。自分の手が震えていた。
「……それまでに、このメロディにぴったりの歌を作っておいて。あなただけの歌」
「……歌」
「嫌い? 歌うのって。調査で何本かMC見せてもらって意外と好きなのかなって思ったけど」
アメリアの問いにもクレアは黙っていた。答えがなかったわけではない。答えたくなかったわけでもない。今は全てを少しでも先に延ばしたかった。
アメリアはクレアの手を強く握った。治まらない震えを柔らかい優しさがそっと包む。
「……次に会うときまでの約束ね。なんせあたしの宝物なんだから、なくしたりしないでよ」
そうアメリアは冗談めかしてクレアに託した。そしてクレアの膝の上のルファをそっと手に取った。その重みを失った体が異常に軽くなった気がした。右手の懐中時計が迫るその時までの時を容赦なく刻んでいく。
クレアは歯列を強く軋らせた。声の続く限り泣きたかった。だがそれが自虐的な我が侭であることは流石に分かっていた。だから必死に堪えた。
「大丈夫。心配しないで」
もう多くを訊ねる余裕も時間もないことをクレアは悟っていた。置かれた状況。この先の展開。懐中時計。そして歌。脈絡の乏しいまま並べられる事実を呑みこむことことだけを考えた。苦痛を苦痛のままに。不安を不安のままに。伴う心痛の軋りに堪えながら。
しばらく疾走音だけが低く唸っていた。
やがて車列の流れが落ち着いてきた。見計らったようにアメリアが徐々に車速を落としていく。
《この娘を逃がしたあとはどうするんだ? おそらく真田の所には戻れないぞ》
「とりあえずサウスエンドの低級市民街に隠れる。それから監視の網を抜けて警備機構が手薄のエリアを見定めて、そこの連絡口から下に降りて……、――って、ちょっと?」
唐突にアメリアが言葉を絶った。
クレアは面を上げた。大勢の人々が思い思いに街を歩いている。しかし特に驚きを禁じ得ない光景は見当たらない。あるのは見慣れた日常ばかり。
クレアはアメリアの様子を横目に見た。その面貌は驚愕より怒りに満ちて見えた。――いったいどうしたと言うのか……。彼女の視線を辿り結ばれる先を見た。あったのは向かいの歩道の人混みだった。
そこで――クレアは言葉を失った。
――自分と瓜二つの少女を認めて。
「……あれ、だれ?」
漏らしたクレアは懐中時計を思い切り握り締めていた。無理もなかった。それは不可解なほどに悍ましい光景だった。クレアの痛み切った理性で受け入れ切れないほどに。……決して存在し得ないもう一人の自分。となればいまここでこの胸を苦しめ息を急かしている自分は何者なのか? 目の前を平然と歩いている自分。CitizenBoxに存在しないはずの自分。
《なんだ、一体どうした?》
視覚を持たないルファが怪訝そうに訊ねる。同時に歩行者の信号が点滅し始めた。もう一人のクレアは急いで渡ろうと小走りになった。アメリアは彼女を疑るように強く細めた目を離さない。その強張った横顔にクレアの本能は恐怖した。反射的にアメリアから逸らした視線を再び前に戻す。予兆めいた不穏の影に激しく戦慄きながら。だからクレアは気づかなかった。
刹那――事態の暗転を察したアメリアの表情が見る見る狼狽に染まるのを。
そして響いたのは――危機を知らせるには遅すぎた巨大なクラクション。
「見ないでっ!」
しかし遅かった。咄嗟に伸ばしたアメリアの左手も虚しくその紛うことなき瞬間をクレアの両目は確と焼きつけてしまった。耳を劈く爆発のような轟音と共に。
――もう一人の自分が無惨に轢かれる一瞬を。
もう一人のクレアは宙を舞い――地面に叩きつけられて――痙攣も束の間……二度と動かなくなった。
一帯が静まり返った。だがすぐに社会の目がけたたましい警報を鳴らし始めた。群集も騒ぎ始めた。もうじき最寄の警備機構と救急機構も飛んで来るだろう。
だがもはや手遅れなのは誰の目にも自明だった。
目を閉じたまま微動だにすらしない。その脚はあり得ない角度に曲がっている。頭部からは大量の出血。半分以上が生き血に染まった自分の面。
――全ての現実が生存を否定していた。
アメリアが心底憎々し気にハンドルを強くどんと叩いた。そしてルファも事態を察した。クラクション。衝突音。地響き。叫び。――クレアは茫然と自失した。押し寄せる不条理の連鎖がクレアからすべてを奪った。子供らしく泣くことも。人間らしく悲しむことも。
その身の内に残されたのは……天を衝かんばかりの絶叫の衝動ただ一つ。
その逆巻く激情の奔流に負けてクレアは叫んだ。
夜に怯える獣の断末魔の如く――。