KEEP ALIVE

「ほら、あのお店。あそこの三階のテラスの隣にあるお店、分かる? その服もほかの服も全部あそこで買ったのよ。あたしのお気に入りのお店でね。いまどき珍しくCitizenBoxに頼らない純なコーディネーターがいることで有名なお店なの」

 クレアはアメリアの示した先を見た。回廊から突き出たテラス風の休憩スペース。その隣にカジュアルファッションの専門店が入っているのが見えた。もっともいまの目的はそこではなかったが。

「CitizenBoxに頼らないって……、大丈夫なの?」
「別にCitizenBoxの存在を批判してるわけじゃないからね。オリジナルのコーディネートを拒むお客さんには無理に勧めないでCitizenBoxを通して提案するし、会計もPayrollBox経由で、現金を使ったりしてるわけじゃないから」

 そんな風に話しながら二階の一角に向かった。そしてクラシックな風情漂うカフェに入った。
 クレアは初めての店だったがアメリアは店員と顔見知りのようで気さくに挨拶を交わしていた。どうやらこの店ではまだ生体型装人ではなく生身の人間が接客をしているようだ。だがそこに大した違いは相変わらず感じない。装人の振る舞いが自然なのかプロの接客業が機械じみているのか。少しだけ考えてみたがすぐにどうでもよくなって止めた。どちらでも良いことだ。
 そのまま奥のテーブル席へ通された。

「さって。なんでも好きなもの頼んでいいわよ。先に行っとくけど、いつも通りお金の心配は禁止ね」

 テーブルに着くなりアメリアからタブレットを渡された。クレアはそれを受け取り少し迷った振りをしてから一番安いモーニングのセットの画像に指を触れた。禁止と言われても遠慮せずにはいられなかった。だがやはりアメリアは「ホントにそれでいいの?」といつも通り訝し気に念を押してきた。クレアは恐る恐る頷いた。アメリアは暫く値踏みでもするようにクレアを見ていたが諦めたように小さく頷いた。それから自分のコーヒーを頼んで送信のボタンをタッチした。
 アメリアは何故か朝食を食べない。訊ね難くて理由は知らなかったが朝と夜は食事をしないことが多い。

「……今日も、なにも食べないの?」

 わざわざ振り絞る必要のない勇気を余計に出して訊ねるとアメリアは脚を組みながら、

「ああ……、そういえば、言ってなかったっけ? どうにも低燃費な人間らしくてね。一日一食、昼しか食べないの。小さい頃から、それ以上だと必ず体調を崩しちゃってさ。ずっと原因が分からなかったんだけど、タワーに通ってた時、生跡診断のフィードバックで指導医に指摘されてね。それ以来ずっとこんな感じってわけ」

 そうアメリアは淀みなく答えた。だが心中でクレアは勘繰っていた。もしかして……自分のために身を削っているのではないかと。もしそれが真実なら――親切なのは嬉しい。だがそれで意図的な犠牲が払われることは必ずしも嬉しくなかった。

「そうなんだ。……ちょっとだけ羨ましいかも」

 それが自然と口を吐いた誤摩化しだった。もう一つ引っかかることがあったが……形を得なかった。

「へえ。どうして?」
「あたし、太りやすくて痩せにくいから、いつも体重は苦労してたの。食事を抜ければ簡単なのにって思ってたんだけど、それはそれで怒られちゃうから」

 アメリアは椅子に背中を凭れると、

「自分の体一つとっても自由にならないんだから、ほんと難儀な世の中よね。指導医からのメッセージって分かってても、コンピュータに『ここ数ヶ月、体重と体脂肪率が微増傾向にあります。節制を心がけましょう』なんて言われると腹立つのよね」

 芝居がかった口調でアメリアが言った。だが声は抑えていた。クレアは少なからず狼狽しかけたが顔には出さなかった。ここはアメリアが通い慣れた店だ。おそらく社会の目や耳の位置などお見通しなのだろう。もしかしたら店員と裏で強く繋がっているのかもしれない。
 そうした目的で個人的な人脈を築いている人は意外と多い。見越して情報統合技術研究推進機構も耳の可聴域や配置の変更を定期的に関係各位へ通達してはいる。だがそれで間に合うほど島内監視に対する支持と信頼は絶対的ではない。それだけ監督省への批判精神の根は人によっては極めて深い。
 しばらくしてアメリアのコーヒーとクレアのフレンチトーストとミニサラダのセットが運ばれてきた。料理を置くときウエイターはクレアに向かって微笑んだ。やはり先ほどと寸分違わない計算された笑顔だ。クレアも笑顔を造って返した。
 しばらく手をつけないでいたがアメリアに勧められてフォークを手に取った。
 店内は心地好い音楽で満たされていた。アメリアはタブレットをニュースクリップに切り替えた。クレアは辺りを見回した。ここもやはり家族連れが多かった。だが子供たちはタワーに通う時間のはずだった。しかし少し考えて今日は休日なのだろうと気づいた。タブレットに映ったキャスターが平日の顔とは違っていた。

「……ようやく報じられてるわね」

 ニュースを眺めていたアメリアが呟いた。クレアも画面を見た。そこでは数日前にセントラルで起こった謎の爆発事故が報じられていた。イーストリバー沿いの通りで有名企業の重役の乗っていたシェア・カーが大破炎上したらしい。なぜか界隈の社会の目も潰されていたようでその原因も犯人も不明。警備機構は事件性が高いと睨んでおり殺人未遂の線で追っているようだ。
 もちろんその予想が的を射ていないことはクレアには分かっていた。
 それは明らかにクレアの事件だった。重役の名前は伏せられていた。――しかしあの女しかいない。メリル・フレイクス。自分を攫いかけた冷血女。妹としてクレアを迎え入れようと目論んだ悪女。
 その名前共々あの時の忘れ難い気色悪さが体の節々でぶり返した。憎たらしいほど鮮明に。いままさにメリルの両手が自分の肌を撫で回している錯覚に襲われた。クレアはフォークを指から滑り落とした。甲高く跳ねる金属音が店内中の客の視線を引きつけた。

「大丈夫? 落ち着いて」

 諭すようにアメリアが言った。フォークを差し出しながら。クレアは受け取るとそのまま皿の上に戻した。アメリアが水を勧めてくれた。無理やり押しこむように口にして大きく息を吐くと少しだけ落ち着いた。
 アメリアはタブレットのクリップをローカルチャンネルに切り替えた。どこか名もなき小さなエリアのフェスティバルの賑わいが報じられている。

「ごめん。タイミングが悪かったわね」
「……ううん、いいの。ちょっと驚いただけ」

 そこで会話が途切れた。――互いに伝えたい言葉を伝え倦ねている。そんな雰囲気だ。少なくともクレアに関して言えばそれで間違いはなかった。すぐにでも訊きたいことが山とあった。知りたいことの数だけ不安もあったから。考えてみれば自分は目の前の女性の素性すら満足に知らないのだ。CitizenBoxにアクセスすればある程度の情報が手に入る情報統合社会。だからこそ未知のままでいることの恐怖を島民は幼少の頃から根深く植えつけられる。どこかへ行くにも誰かと会うにも事前に対象について調べずにはいられない。
 それはクレアとて例外ではない。
 それからしばらく二人の間を無言が貫いた。聴こえるのは食器が擦れ合う音。タブレットから流れる地元のニュース。家族連れの楽し気な団欒。程よく軽快なメロディ。途中でアメリアの携帯端末が振動して情報統合技術研究推進機構からの定期連絡が届いた。共有されるべき時事や当人の健康状態等に対するメッセージ等が日に三度の頻度で送られてくる。だがアメリアは一瞥だけするとあっさりと端末を切ってしまった。どうやら普段から確認履歴を残すだけで閲覧していないのだろう。だが情報統合技術研究推進機構もその辺りは抜かりがなく閲覧時間を管理することで対応している。
 クレアは敢えてニュースに目を向けてアメリアから目を逸らしていたが我慢し切れずに、

「……どうして、あそこにいたの? まるであたしが攫われるのが分かってたみたいに」

 無理に勇気を振り絞るのは意外に苦痛だった。そして恐かった。自分の疑問がアメリアを責めるように響かないか。だが当のアメリアに気にする素振りはまるでなかった。静かに虚空に向いて微笑んでいた。悲し気にも涼し気にも揺らぐ微笑み。半ば来るべき時が来たと腹を括ったのかもしれなかった。

「そうね。……たしかにあたしたちは分かってた。ずっと前からあの女を張ってたからね」
「張ってた?」
「そう。あの女には前々から黒い噂が流れてたの。表向きはクオリア社の役員って仮面を被ってるけど、裏では色々悪巧みを巡らしてるってね。最初はあの女を妬む連中の根も葉もないデマだと思ってたんだけどさ。あの若さで島の中枢に食いこんだ人間なんて、それまでほとんどいなかったからね。老人連中からすると面白くないんだろうって。でも実際に調べていくと、違薬品の密売現場を映さないように社会の目を潰したり、島の重鎮の交通法規を見逃したり、むしろ連中の便宜に荷担してる側だってことが分かってきたの。だからこそ異例のスピードで昇進できたってわけ。そんなこんなで、あの女をマークするようになったんだけど、あの女が映った映像の中に若い女の子の姿がやけに多く認められたの。それで調べてみると、その手の性癖があるって分かってね。攫った少女を愛犬や愛猫って名義でBoxに登録して自分のものにしてたの。……そう気づいたときには、すでに何人もの《手のひらサイズのアイドル》たちがあの女に飼い殺されたあとだった。でも、だからこそピンと来たの。次のターゲットがこの娘で間違いないって」
「それが、……あたしだったってこと?」

 アメリアは静かに頷いた。 

「何度も映ってる娘はほかにも何人かいたけどね。あなたをクリックしてプロフィールを出してみると《手のひらサイズのアイドル》だって載ってたから。だから逆に言えば……」

 そこでアメリアは一旦コーヒーで言葉を切って、

「……あなたが攫われる前にあなたを助けることもできたの。事前に注意するよう伝えることも出来たし、もっと言えば、どっかに匿うことだってできた」

 その告白はクレアよりむしろアメリア自身に向けられていた。確かな証拠がなければ公然とは押さえにかかれない。そのために敢えてクレアが攫われるのを待っていた。それがアメリアの思惑だ。そんな自分を許せないと言わんばかりにアメリアは唇を強く結んでいる。自らを戒めるように。だがクレアは頭を振った。そんな痛々しい表情は見たくなかった。

「……さっき、ずっとまえからあの人を張ってたって言ったよね?」

 クレアはわざと話題を逸らした。
 アメリアは「ええ」と静かに答えた。

「ってことは、それがアメリアの仕事なの? あたしみたいな人を助けるのが」
「仕事って言い切れるほど毎日働いてるわけじゃないけど、まあそうかしら。でも、お金にはならないからフリーで別のことも色々やってるわよ」
「お金にならないのに続けてるの?」
「そう。だから言ってしまえば、ただの自己満足。誤解を招く言い方をすれば趣味の一つかしら。買い物したり本を読んだりするのと同じかもね」
「趣味で人助け?」
「悪趣味かしら?」
「えっ? べっ、べつにそういうわけじゃ……」

 俯くクレアにアメリアは意地悪そうに微笑んだ。

「いいって、いいって。そんなに畏まらないで。それに言ったでしょ。自己満足だって。あたしは世のため人のためより、なにより自分のためにやってるんだから、むしろ悪趣味で当然よ」
「趣味で、その、……こんな危ないことを?」
「そうね。KeepAliveに携わる以上、危険とはいつも背中合わせ。文字通りいつも背中を銃で狙われてるようなものね。まあそこまでの危険は意外と少ないけど」
「KeepAlive……」

 言葉の重みを確かめるようにクレアは繰り返した。

「言葉のまんま《生存確認》って意味ね。あたしたちのやってるこの活動の総称みたいなもの。ストーカーやパッチワーカーに狙われてる人を助けたり、あなたを襲ったような監督省や島の重鎮連中の暗躍を潰したり、まあ人によって内容はいろいろ」
「でも、あたし、誰かに狙われるようなことなんて、なにも……」

 先に続く言葉を見失ってクレアは口を噤んだ。アメリアはカップに手を伸ばしてコーヒーを口にした。どこか決意を固めるようなゆったりとした動きだ。クレアも水滴だらけになったグラスの水を口にした。

「……まだ早いんじゃないかって思ってたけど、ちゃんと話しておこうかしらね。あたしたちのことやあの女のこと。この島のことも。でも、その前に……」

 そこで言葉が途切れた。アメリアは周囲に視線だけを投げて様子を窺っている。なにか気になることでもあるのだろうか? クレアも店内を眺め渡した。まだまだ賑やかで活気は衰える気配を見せない。ただ――その所々にこちらの様子を窺うような湿った視線が混じっていた。――より正しくはクレアを見ながらひそひそ小声で話している。中には眼鏡のテンプルをいじっている客も数人いた。おそらく身体座標や登録写真でこちらの素性を検索している。――その理由は明らかだった。何度も味わってきたのだから。彼らはクレアのことを知っているのだ。見られても構わない造られた方の自分を。

「――一旦、外に出ましょう」

 それだけ言うとアメリアはタブレットを会計メニューに切り替えた。そして注文内容を確認すると表示された私紋照合用コードに自分の親指を押し当てた。すぐに可愛らしい機械音が小さく響き会計完了の画面へと切り替わる。あっという間だった。自分の分を払おうと持ち上げたクレアの右手は迷子のように戸惑っていた。その様子に敢えて触れずにアメリアは席を立った。クレアも急いで後に続いた。
 店を出たところでクレアは疑問を口にした。アメリアは一日一食しか食事をしない……それを知ったときから今日まで引っかかっていた疑問。

「ねえ、いいの?」
「なにが?」

 アメリアは歩きながら答えた。

「だって、一日お昼一食にしないといけないって、指導医に言われてるんでしょ?」

 クレアの心配はもっともだった。いまの会計でクレアの注文もアメリアの食事として勘定されたのだ。それはつまりアメリアが朝食を口にしたことを意味する。指導医の指示に反して。島では指導医の助言は絶対だ。それは敬虔な信徒にとっての神託にも等しい。だがさっきの会計でアメリアのPurchaseBoxには金額はもちろん注文内容も緻密に記録された。摂取カロリー。栄養バランス。注文から会計までの食事に要した時間。そこに少しでも不適切なサインが確認されれば監督省は即座にアメリアのCSU-Po.をマイナス処理してしまう。
 しかし当のアメリアはどこ吹く風だった。

「別に気にすることじゃないわよ。この一回の食事で人生が終わるくらい酷い影響が出るわけじゃないし。よっぽど体に悪いジャンクフードとかじゃなかったら、たいした問題にはならないわ」
「じゃんくふーど?」
「ジャンクはガラクタ。フードは食べ物。それでジャンクフード。もうすっかり死語ね。カロリーは高い、栄養は偏ってる、味も大して美味しくない、だけどかなり安い。そんな不思議な食べ物が少し前まであったのよ。もう二〇年くらい前かしら。ハンバーガーとかホットドッグっていう、大きなハンバーグやソーセージをパンで挟んだものとか、あとは油で揚げたチキンとかポテトとかが代表的かしら。いまのフード・コーディネーターが聴いただけで卒倒するような料理ばっかり。でも昔は堂々と町中で売ってたりしたんだから驚きよね」

 話しながらアメリアは眼鏡のテンプルに触れた。ネットワークの接続感度を調整しているのだろう。眼鏡や時計といった携帯品のNICに小型のUANデバイスを忍ばせている人は意外と多い。よく見ると右側のレンズがディスプレイになっている。そこにクレアにも見覚えのある画面が薄らと表示されていた。アイ・パスだ。
 歩き出したアメリアについて歩いた。社会の目を避けながら。少し遠回りして地下三階のアパレルショップに入った。店員に軽く挨拶するとアメリアは隅の一角に向かった。可愛らしい帽子が沢山並んでいる。どうやら人目を除けるために買ってくれるつもりらしい。クレアは固辞したがやはりアメリアは譲らなかった。それならせめて選んで欲しいと伝えた。すべてが自分に委ねられているのは無性に後ろめたくて仕方がなかった。
 アメリアは困った風を見せたがクレアの提案に素直に応じた。そのまま商品棚を見て回り出した。鼻歌交じりに。どうやら満更でもなさそうだった。クレアは少し離れたソファに座って待っていた。しばらくするとアメリアが戻ってきた。その手にいくつかの帽子を握って。どれもキャスケットのような可愛らしい帽子だった。ふわりと膨らみを帯びたラインが愛らしかった。旧体制下を描いた映画で見たことがある。たしか新聞を売って回る子供たちが似たような帽子を被っていた。
 一つ受け取って被ってみると少し大きかった。

「サイズが違ったかしら」
「……そうみたい。ちょっと大きいかも。被れないことはないけど……」
「じゃあ――こっちは?」

 アメリアが別の明らかにサイズの小さい帽子を無理に被せようとしてきた。

「ム、ムリだよ、入らないって」

 堪らず抵抗するクレアにアメリアはそれでも楽し気に帽子を被せようとした。クレアの抵抗が少し強くなってくるとやり過ぎる前に力を緩めて、

「あははっ、ごめん、ごめん。なんかちょっと楽しくなっちゃって」
「なに、それ!」

 頭の帽子を引き剝がすように取るとクレアは口唇を鋭く尖らせて毒づいた。

「悪かったって。そんなに怒んないでよ」

 アメリアはクレアの乱れた髪を直しながら、

「だれかと買い物するのなんて久しぶりでさ」

 そう感慨深そうに言った。

「いつもルファが一緒じゃないの?」

 クレアが訊ねた。アメリアは苦い物でも口にしたように舌を出した。

「あれと一緒に買い物が楽しめると思う? やれその服はお前の体型では無理だとかなんだとか口煩くて敵わないわ。こないだなんて、そのジャケットは自分を持ち運ぶための内ポケットがないから買うのは認めないとか言い出したのよ。あんたの寝床とあたしの服を一緒にするなっての。だからジーンズのポケットにでも入れといてやるわよって言ったら、お前の重い尻に潰されるのなんて真っ平御免だって即答しやがるのよ。ほんっと、あいつどういうつもりよ!」

 ぽかんと聴いていたクレアは思わず吹き出した。そのまま笑いが止まらなくなってしまった。

「ちょっと、……そこまで笑わなくてもいいでしょ」
「ご、ごめん、な、さい」

 しかしクレアは必死でお腹を抑えている。その姿に言葉の説得力は欠片もなかった。アメリアはわざとらしい仏頂面を浮かべて、

「なんか全然、謝ってくれてる気がしないんだけど」
「そ、そんなこと、ない、よ」

 だがそれからもクレアの笑いはなかなか止まらなかった。まるでさっきの仕返しだと言わんばかりだ。長年に亘って押し殺してきた笑いを全て爆発させたようにクレアは笑い続けた。

「で、でも、そう言えば、なんで帽子って参照対象外なんだろう」

 必死に声を絞り出してクレアは話題を変えた。なんだか納得いかないといった具合に口元を曲げていたアメリアだがどうやら機嫌を直したようで、

「小物は目につくことが少ないからね。帽子だって公共の場では脱ぐのがマナーでしょ? そういう装飾品については均質化すべしって声が意外と少なかったのよ」

 そこでアメリアは自分の眼鏡に手をかけると、

「でも、意外にこういうものも参照対象外だったりするんだけどね」
「眼鏡もそうなの?」
「知らなかったでしょ。誰もOSI参照モデルの正確な内容なんて把握してないからね。なんせ一つのレイヤーで数百も対象品があるんだから。ちなみに眼鏡が外れてるのは合う合わないの問題。フレームが合わなかったりすると、頭痛を引き起こしたりするからね」

 OSI参照モデル――Object Septuple Interface Reference Model。人間を頭部・上半身・両手元・下半身・両足許・携行品・装飾品の七つの領域に区分した上で各々で身につけるべき衣料品等を規定した人間の平準化モデル。風紀の醸成維持を名目に定期的に公布されている島民の設計図の一つだ。島民は服装その他外見に関してはこのモデルを参照しなければならない。……とは言え通常はコーディネーターがモデルを参照した上で勧めてくれるから気にされることはない。それがOSI参照モデルがまるで認知されない理由の一つだった。

「じゃあ、アメリアもその眼鏡、自分で選んだの?」
「いいでしょ。伊達眼鏡だけどね。これくらいしか自分なりに楽しめるものがないからって試しに買ってみたんだけど、それ以来がっつりハマっちゃってさ」

 誇らしげに眼鏡を整えるアメリアをクレアはしみじみ見つめていた。――島で許されている自由は極めて僅かだ。そしてそのほとんどは与えられることがない。自ら探し求めてその手で掴むもの。だからアメリアの立居振舞は紛れもない強さの証だとクレアは思った。
 アメリアが店員を呼んだ。ほかに帽子のサイズがないか訊ねた。店員は頷くとジーンズのお尻のポケットから小型の端末を取り出して、

「サイズを教えて頂いても宜しいでしょうか?」

 クレアに私紋の照合を求めた。クレアは荒げた息を整えながら右手の人差し指でパネルにタッチする。こうして身体座標を提供することでBWHだけでなくどんな視点からの身体のサイズでも知ることができる。店員はそれを把握して同時に提供される色や素材の好みと合わせて衣服や装飾品を選んでくれる。アパレルショップで客がすることは試着と会計だけだ。

「ところで……」

 浮いた時間を好機とクレアは訊ねる。

「なんで、アメリアってスーツなの? もっと普通の服とか着ればいいのに。こんなのとか」

 そう言いながら手近のブラウスを手に取った。別段ワイシャツと代わり映えしないことに後から気づいて少しだけ恥ずかしかったが。

「決まってるじゃない。ルファのヤツが煩いからよ。ジャケットのポケットの話もそうだけど、あたしはコーディネーターに頼まないから、普段着はもっと酷いんだから。その色の組み合わせは色彩学の点から好ましくないとか、その服は肩幅が少し窮屈だとか、膝丈が短すぎるとか、露出が多すぎるとか、どこの過保護な親父なのよって感じ。だから腹いせに一回だけ、銃口に花差して庭先に出しといてやったことがあってさ」

 クレアの脳裏にぽわんとその光景が想起される。弾倉を支えに天に向けられた銃口から飛び出る一輪の花……なるほど思い描くだけで確かに間抜けではある。だがそれだけのことにアメリアの薄ら笑いが止まらない。クレアが首を傾げて不思議そうにしていると、

「そしたら何匹も蜂が寄って来てね。あたしの家の周りって意外に自然が多くてさ。ちょいと花に細工しといたら案の定。もちろんあいつは刺されて痛がることなんてないけど、聴覚情報はバッチリだからね。ぶんぶん小煩い羽音に大層苛々してて見物だったわ」

 老婆のように手の平を返しながらアメリアは笑う。クレアは再び銃口の周りを飛び交う蜂の姿を想像した。それを酷く煙たがるルファ……の姿は流石に無理だが毒づいた科白の幾つかはまあ予想がつく。
 そんな具合に些細な与太話で時間を潰した。
 しばらくすると店員の表情が曇り始めた。いつまで経っても端末にクレアの情報が表示されないからだ。検索中を示すバーが右端まで辿り着きたくて未だにうずうずしている。しかしそれも束の間。すぐに小さなエラー音が返った。画面には「404 MISS PRINT - NOT FOUND ON THE BOX」の文字。
 ――誤紋が検出されたのだ。

「あら。……おかしいですね。故障かしら?」

 店員は端末を小突いたり軽く振ったりしている。
 クレアは不思議なものでも見るように自分の手を眺めた。――まさかこれが自分の右手じゃなくなったとでも言うのだろうか。
 単なる機械の誤作動だろう。クレアはそう思った。だが隣のアメリアを見てその認識を捨てざるを得なかった。彼女は眉間に皺を寄せて怪訝そうに顔を歪めている。返された結果にどうしても納得がいかない。あり得ないエラーだ。そう言いた気な顰め面だ。
 もう一度店員に促されて照合してみた。やはり誤紋が返された。困り果てた店員は近くにいた同僚の端末を借りて三度目の正直に挑んだ。だが結果は同じだった。そこで流石にクレアも少し恐くなってきた。なにも変わらないと分かっていても自分の右手を見ずにはいられなかった。一体どうしたというのだろうか。
 誤紋が検知されるのはネガティブなケースだけだ。死亡申請書が受理されてCitizenBoxから削除された人物の私紋を照合した場合。他人の私紋を悪用した場合。それくらいだ。数年前の照合規格では誤った誤紋が検知されることもあったがいまはもう皆無に等しい。
 だからこそ誤紋が検知されたということは当人が何らかのネガティブな状況にあることを意味する。それ程に島内ネットワークを構築する物理層やプロトコルの安定性は揺るぎない。だがクレアにその自覚はなかった。
 ――とすれば導かれる答えは一つ。そこに何かしらの人為が介在している。それ以外にはあり得ない。
 そして思い当たる人為は――ただ一つだ。

「ああ、じゃあ、そのサイズでいいから貰える? ちょっと急いでるから」

 戸惑うクレアの横でアメリアが店員に急ぎ会計を頼んだ。店員は「よろしいんですか?」と申し訳なさそうに確認した。アメリアは笑顔で頷いた。急いでいるのは嘘だと分かってはいた。しかしどことなく焦って見えなくもなかった。それがクレアの不安を余計に煽った。
 すぐに会計照合を済ませて二人は店を出た。アメリアは右目のアイ・パスを頼って足早にどこかへ向かう。クレアは訳の分からないままその背中についていった。早足で人混みを掻き分けながらアメリアは携帯を取り出した。すぐにどこかへ架けると相手もすぐに出た。

「あたしです。……ええ、ちょっと。すいません、いますぐ調べてもらいたいことがあるんです。……はい、彼女の個人情報がCitizenBoxに登録されているのかどうかを。……ええ、大丈夫です。ちなみにメンテは終わりました? ……そうですか。……ええ、はい。……やっぱりそうですか。分かりました。じゃあ申し訳ないんですが、下までルファをつれてきてもらえますか? マンションのまえで拾わせて下さい。……ええ、すぐに出ます。一旦サブネットに向かいます。まさかこんなに早く動かれるとは思ってなかったので何も準備が……。分かりました。じゃあ一〇分後にエントランスで」

 そう言ってアメリアが電話を切る頃には非常階段を通って住人専用の地下駐車場に辿り着いた。数々の高級車の中に見覚えのある旧式のガソリン車が肩身を狭そうに止まっている。一度だけ乗ったアメリアの車だった。

「ねえ、一体どこに行くの? あの人のところには戻らないの?」

 いよいよ怯え切った口調でクレアは訊ねた。事態が火急なことはもう分かっていた。あの店でアメリアの表情から柔らかい笑顔が消えたときから。そしていまさっきの電話の内容からも。望まぬ事態が刻々と現実味を帯び始めたのだということも。
 アメリアはクレアを一瞥した。そしてすぐに車にキーを差しこむ。

「ごめんね。事情は中で説明するわ。とにかくいまは車に乗って」

 言われるがままクレアは助手席に乗りこんだ。それを待つこともなくアメリアは急いでエンジンをかけた。クレアが扉を閉めるのと同時にアクセルを踏みつけて車を出した。見る者を恐怖させるほどに険しい表情で。わずか三秒程度の遮断機の認証にも酷く苛々していた。
 外に出るとそこは湾岸地域だった。
 辺りは大手建設業者や広告代理店が手掛けたモデルタウンのように整えられていた。敷地はサーキット場のように広く建物は少ない。そのため見晴らしは極めて良好で雰囲気は開放的だ。全面に光路を敷き詰めた地面は特権の証だった。傍らに添えられた街路樹は常夏を思わせた。歩道の向こうには広大な断河が流れていて対岸のセントラルには城壁のように高層ビル群が立ち並んでいる。その表面を乱反射する陽光の重なりは守護神の恩恵のように神々しい。それはどこか幻想的ですらあった。
 しかしここはあくまで中級市民街。Aレイヤー専用エリアとは言え外の統制は完璧だ。路肩に一定間隔に設けられた社会の目。住人の発言を残らず拾い集める社会の耳。さらに万全を重ねて空中にはFlyingEyesが飛び回っている。特別に調教された海鳥に社会の目を移植した光学系生体型機甲装人の一種だ。ざっと見上げて目についたのは八から一〇羽。醜悪なまでの徹底ぶりだ。
 かつて父が零していた愚痴をクレアは思い出した。
 ハイランカーたちは大金に物を言わせて独自の情報統合機器の依頼を捩じこんでくると。自分たち以外は脅威でしかないと言わんばかりに。いま上空を飛翔しているFlyingEyesもおそらくは特注だろう。――ネットワーク常時接続型。住人リスト用の専用サーバを立て常にアップデート。住人もしくは関係者外の人物は容赦なく警備機構へ通報あるいは急襲。そんなところだろう。
 しかし空に亘ってまで地域全体に統制が行き届くエリアも珍しい。おそらく一帯の住人たちが互いに資金を投じて維持しているのだろう。警備強化目的のためだけに互助会加盟や共益費を課す自治エリアも少なくない。
 さながらここは要塞都市。監督省にとっても他の都市に見習わせるべき模範都市に違いない。
 とは言え周囲を暢気に眺めている余裕は今はない。
 やがてマンションのエントランスが見えてくると真田が待っていた。アメリアがクレアの横のウインドウを開ける。世の中は左ハンドルに優しい。旧式の右ハンドルでは歩道に助手席が向いてしまう。
 差し出されたルファをクレアが代わりに受け取った。

「外も中も調整は完璧だ。外装もおそらく半年くらいなら大丈夫だろう」
「ありがとうございます」
「お前もしばらく潜るのか?」
「いえ。どうするかはまだ。ただこの子を連れてきて間もないですから、ここで一人にするわけには流石にいきません。だから少しは一緒にいるつもりです」
「まあそうだろう。……なにかあったら下から繋げ。あいつらのVPNなら覗かれる心配もないだろう」
「はい。落ち着いたらまた連絡します。それでは」

 その一言を最後にアメリアはウインドウを閉じた。それが閉まり切る前に真田は背を向けてマンションの中へと戻って行った。その背中には離れることを惜しむ様子は微塵もなかった。こうした別れがまるでいつものことのように――。そしてアメリアもすぐに車を出した。

《話は真田から聴いた。まさかもう動いてくるとはな》

 クレアの膝の上でルファが声を発した。その声は随分と懐かしい気がした。

「処理執行猶予期間は切れてるしね。回収に異論無しって決断が下れば動きは速いわ。すでに段取りは整ってたんだろうし。……だけど、まさか擬体の回収が済むまえにCitizenBoxから情報を削除するなんて正直思ってなかった。どこまで執念深いのかしら」
《先ほどの電話のあとで確認してみたが、確かに削除されていた。おそらく昨日か一昨日のコンバージェンスで拾われたんだろう。少なくともそれ以前は確認できていたからな。……それより、どこからサブネットに潜るつもりだ? すでに辺り一帯の分省の執行者が動き始めているだろう。この近くの連絡口を使うのは危険だぞ》
「ねえ、どういうこと?」

 堪えかねたクレアが口を挟んだ。

「一体なにが起こってるの? どこに行くの?」
《なんだ? まだなにも説明してないのか?》
「まるでタイミングがなかったのよ。邪魔が入りっぱなしで。……でも、そうよね。中でちゃんと説明するって約束したしね」
《なら、お前は連絡口の探索に集中しろ。事態の説明は俺がする》

 それから少しだけ間を置いてルファは、

《そういうことだ。事態については改めて俺から全てを話そう。いま君の周りでなにが起こっているのか。少し長い話になるが……》
「教えて。――お願い」

 クレアは敢えて口にした。待ち受ける現実を受け止めるだけの覚悟を固めるために。
 しばらく押し黙っていたルファがやがて静かに言葉を紡ぎ出した。クレアはその銃身を握り締めていた。言葉の一つ一つをあるがまま理解しようとするように。
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