白船一番艦の受難

「……ん?」

 一人には広すぎる宿屋の四人部屋。シルヴィアたちに留守番を頼まれたカイルは、大通り沿いに面した窓から賑わう雑踏の様子を眺めていた。夜も更け始めているが、大通りではまだまだ多くの人が買い物を楽しんだり、友人と談笑したりしている。

(……なんか騒がしいな)

 そんな心地良い喧騒とは別に、宿屋のなかから耳障りな騒音が響いてきた。廊下や階段を無作法に駆け回る音だ。こちらに近づいてきているのか、その音は次第に大きくなり、やがて震動が部屋の壁を揺らし始めた。

「ったく、どこの馬鹿だ」

 注意した方が良さそうだと思い、窓を離れるカイル。そして扉を開けて、怒りの第一声を今まさに言い放とうかとしたところで、誰かに追突されたような衝撃に襲われた。

「がはっ!」
「ぐえっ!」

 相手の頭部が顎を撃ち抜き、その激痛にへたりこむカイル。なんとか目を開けて相手の正体を確認すると、額を押さえて地面を激しく転がっているアヴリルの姿が目に入った。
 ―――全裸だった。

「カ、カイル! 大変なんです! 大変なことが……っ!」

 続けて少女を抱っこしたシルヴィアが激しく狼狽しながら廊下をこちらへ走ってくる。
 ―――全裸だった。

「と、とにかく早くこの子を部屋に!」
「ってか、まず服を着ろ! アホかお前ら!」

 シルヴィアから少女を押しつけられたカイルが絶叫すると、極度に動揺していた二人はようやく我に返った。そして自分たちのあられもない格好に気づくと、アヴリルは「あ、いっけね」と欠片も恥ずかしがる素振りを見せず、そのまま浴場へ戻っていき……シルヴィアは無言のまま立ち尽くし、その全身を羞恥心による発熱で見る見る上気させ―――そのまま目を回して倒れてしまった。



「……ほ、本当にすみませんでした」

 意識を取り戻したシルヴィアは開口一番、カイルとアヴリルに深々と頭を下げた。廊下で卒倒したあと、カイルが部屋まで運んでくれ、アヴリルが自分の服を持ってきてくれたのだ。

「……ったく。なに考えてんだ、本当に」
「いやいや、ほんとだよねー。あたしの魅力でみんな危うく出血大サービス絶賛貧血で瀕死になっちゃうとこだったよ」
「お前の裸なんか見たって、鼻血の一滴も出ねぇよ」
「死ねっ!」

 鬼の形相で飛びかかってきたアヴリルを軽々と躱すカイル。窓際に立っていた彼を捕らえ切れなかった彼女は、そのまま三階の窓から「このやろー!」と怨嗟を叫びながら、大通りの群衆のなかへ落ちていった。

「さて。うるさいのもいなくなったところで。……なにがあったんだ?」

 静かになった部屋で本題を切り出すカイル。
 シルヴィアはどう伝えようか暫し言葉に迷ったが、

「……見てもらったほうが早いと思います。ついてきてください」

 少女とカイルを伴って備えつけの浴室へ向かった。宿屋の各部屋には大浴場が苦手な顧客向けに専用の浴室がついている。
 なかに入ると、シルヴィアは自らが驚愕した事実を再現するため、浴槽にお湯を張り始めた。果たしてカイルはどんな反応を見せるのか―――一抹の不安を覚えながら。
 半分ほど溜まったところで、彼女は少女に「ちょっとごめんね」と頭を撫でながら先に謝り、その服を脱がす。そして抱え上げると、ゆっくりと浴槽のなかに座らせた。

「これが見せたかったことか?」

 訳が分からないと言いた気な口ぶりで尋ねるカイル。

「少し待ってください。すぐに分かりますから」
「すぐに分かるって……いったいなにが分かるって……、―――ッ!?」

 カイルの言葉がぶつりと途切れる。
 その瞳はいま、あまりにも非現実的な光景を目の前にしていた。

「……お、おい……どういうことだよ、これ……」
「私にも分かりません……先ほどお風呂に入っていたら、いきなり……」

 一度その現実を目にしていたシルヴィアだったが、二度目の直面にもその心は大いにざわついた。思わず胸元を強く握り締めて、その心痛をごまかそうとしてしまうほどに。



 ―――人魚だ。



 少女の下半身が、お湯に浸かった途端、見る見る魚のそれに変容したのだ。
 腰から上は自分たちに懐いた愛らしい少女のまま、下半身は人間の両脚から一本の長い尾びれへと変わり、その表面は虹色に煌めくような美しい魚鱗に覆われている。
 人間の上半身。
 魚類の下半身。
 本来相容れないはずの両属性が今、目の前の少女のなかで完全に同居していた。
 人魚―――それは、神話上の生物として語り継がれるだけの、ただの幻想のはずだった。
 一説には、その魔性の歌声で航海中の船乗りを誘惑して沈めてしまう妖魔。また一説には、海難で窮地に瀕した船乗りを救い出してくれる海女神の遣い。その伝説は数多あり、語られる内容は実に様々だ。ただ、そのいずれにおいても、見るもの全てを虜にする絶世の美貌を誇ると言われている。
 シルヴィアもまた、幼少期から多くの人魚伝説に触れてきた。思えば当時は、さぞ美しい幻獣なのだろうと目を輝かせたものだ。だが、いざ目の前に現実として現れると、息苦しさを覚えるほどに受け入れがたい。それでも直視できるのは、上半身が愛らしい少女の姿を保っているからだろう。半ばそう言い聴かせつづけないと、平静を保っていられそうにない。
 言わば、海獣と人間のハーフ。
 それまで空想と割り切っていた存在を目の前にすれば、心も理性も戸惑うというものだ。

「しる。しる」

 少女が泣きそうな顔でシルヴィアに両手を伸ばしてくる。人間の両脚と違ってたためない尾びれでは、狭い浴槽は窮屈なのだろう。

「ああ、ごめんなさい。苦しいですよね」

 急いで抱き上げて浴槽から出してやり、その脚を拭いてやる。すると水分を失った尾びれは見る見る人間の脚に戻っていった。
 その後、三人は再び部屋へ戻る。いつの間にか戻ってきていたアヴリルも膨れっ面で寝台に座っていた。

「……いったいどういうことだ。この子、何者なんだ?」

 窓の縁に腰かけ、額を押さえて苦悶するカイル。彼もかなり戸惑っているようだ。

「まさか……一部で囁かれていた海獣と人類のハーフでしょうか」
「まえにミネルヴァさんが言ってた話ですか? サハギンが見た目とか頭の良さとか人間に近いっていう」
「ええ。私もあの人の冗談かと思っていましたけど……」

 海洋生物学などを研究する学者のなかには、サハギンが人類と海獣のハーフではないかと考える者がいる。二足歩行や高い知性、統制のとれた集団行動といった人類特有の特徴と、魚類に特有の外見や呼吸系などの特徴を併せ持っているからだ。
 この理論の最初の提唱者は、実はミネルヴァだった。彼女は《白船》の艦長職以外に、兵器開発や生態系研究の第一人者としても活躍している。サハギンのハーフ理論は、彼女が冗談半分で口にしたら思わぬ勢いで火が点いた学説だった。
 もっとも、この理論は口にされた途端、批判や罵倒の集中砲火を浴びた。憎き海獣と尊き人類のハーフなどおぞましいにもほどがある。人類の誰かが魚類と結婚でもしたというのか。ふざけるな。文字通り罵詈雑言の嵐が吹き荒れた。普段から突拍子もない学説を平然と口にするミネルヴァのため、大抵の発言は「またおふざけが始まった」と笑い飛ばされて済むのだが、このときばかりはそうもいかなかった。

「……人間と海獣のハーフだってのか? マジでいたっていうのかよ……」

 室内に淀んだ重圧が伸しかかる。

「……どうします?」

 シルヴィアに尋ねるアヴリル。
 椅子に座るシルヴィアは、彼女の質問に答えることなく、ただ無言で考えこんだ。膝の上では少女が楽しそうに脚をぱたぱた揺らしている。人の脚に戻ったばかりの感覚を確かめるかのように。
 少女の正体が人魚である以上、このまま連れ回すのは危険だ。いつか自分たち以外のクルーに正体が露見して大問題になりかねない。
 彼女は、半分は人間だが、もう半分は魚―――つまり海獣だ。そして人類は程度の差はあれど、漏れなく海獣に対して恐怖や怒りを抱えている。それはシルヴィアも例外ではない。少女の正体を目撃したとき、少なからず恐怖を抱いたのは、彼女のなかに刷りこまれた海獣に対する恐怖心が顕在化したからだ。
 また、クルーのなかには海獣の襲撃で家族や友人を失った者も多い。彼らからすれば、いくら見た目が愛らしい少女でも、半分は憎き海獣だ。その憎悪を抑え切れず、暴力沙汰などにつながる危険もある。もともとカイル以外に素っ気ない態度をとっていたことからも、そうなる可能性が高い。先に懐かれていたシルヴィアたちだからこそ、その正体を知っても動揺するだけで済んだと言える。
 しかし、人魚であるということは、おそらく保護者は人間ではないだろう。少なくとも彼女と同じ人類と海獣のハーフ。最悪、海獣だ。ランティスが把握している島で暮らしているとは考えにくく、本来の故郷へ帰すという選択も現実的ではない。
 では、このまま海に帰すか? それでもおそらく問題はないだろう。人魚である以上、海中でも生きられるはずだ。
 しかし、シルヴィアはその考えをすぐに捨てた。
 こんな小さな子を、このまま海に帰すというのか? ありえない。そんなことは人として許されることではない。
 ―――そこまで考えたところで、シルヴィアは気づいた。
 自分がすでに、人に対する道徳観で少女と向き合っていたことを。
 そして、暫し決意を固めるように目を閉じて黙りこむと、

「……まずはこの子の正体と行動の目的を確かめましょう。今のままでは情報が少なすぎます。対処しようにも、そもそも打つ手を考えられません」

 勇気を振り絞って、自分の決断を口にした。
 その答えを聴いたカイルとアヴリルは、意外そうに目を丸くする。そんな二人の反応を前に、シルヴィアは気まずそうに視線を逸らした。
 自分でも妙なことを言っているのは分かっている。彼女の答えは言わば、海獣の肩を持つことなのだから。

「……本当にそれで良いのか?」

 案の定、カイルが厳しい視線と口調で尋ねてくる。
 問われたシルヴィアの心は激しく揺れた。―――そうだ。本当にそれでいいのか? それは人として正しいのか? 海獣は敵だ。人類の敵だ。自分はそれを助けようとしている。
 海獣と手を取り合った自分は、これまでと同じように海獣と戦えるのか? 海獣に襲われた仲間を守れるのか? 海獣に剣を突き刺せるのか? 矢を射かけられるのか? クルーに倒せと指示できるのか? その手で仲間を倒して仲間を守れるのか?
 自問自答はいつの間にか詰問へと変わり、胸の内から次々と迫り上がる。
 ―――だがシルヴィアは、いまにも口から飛び出して自らを戒めようとする言葉を噛み砕くように唇を結び、

「……こんな風に笑える子が敵だと、私は思いたくありません」

 自分の膝の上で笑顔を見せる少女の頭を撫でながら本音を吐露した。
 この子とは、きっと分かり合える。たとえ人類と海獣のハーフであったとしても。たとえ人類と、人類の仇敵のハーフであったとしても。……そんな気がした。
 その答えにカイルもアヴリルも異論はないのか、ただシルヴィアの言葉をあるがまま受け止めるように小さく数度、頷く。

「……これからについて考えはあるのか?」

 カイルがシルヴィアに尋ねた。
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