白船一番艦の受難

◯七日目 イスカンダリオ海域 自然都市ワイアード

 ラグーンを発ってからおよそ一週間。三隻はイスカンダリオ海域のほぼ中心に位置する自然都市ワイアードに入港した。
 ここは神暦4832年、カイルの父でもある当時の一番艦・艦長、ディアス・クロフォードが発見した島だ。そして人類が初めて見つけたランティス以外の島でもある。
 その二年前の4830年、当時の元首であるレミリアは、それまで近海の警護を主としていた《白船》の責務を新天地探索に変更した。当時、ランティス以外の島で暮らしていたと思われる遭難者を救出する事例が増え始めたからだ。
 それまでも新天地開拓の気運は高まりつつあった。人口増加や資源不足への対策を急ぐ必要があったからだ。実際、何度か《白船》が試験的に遠洋調査を行ったこともある。
 しかし一方で、当時の人々の多くは懐疑的でもあった。
 そもそも本当にほかの島など存在するのか。
 新天地の発見など自分が海に流した水を掬い戻すようなものではないか。
 危険な海獣も跋扈している海の彼方へ仲間を送り出すには、差し迫った必要性という動機だけでは不十分だった。
 その事情を変えたのが、ライエやリオたち遭難者だった。
 彼女たちは、当時に遭難者としてランティスの船に救出された者たちだ。島内で見かけられない褐色の肌は、当時の島民の目には奇異に映り、それ故に謂れのない差別や暴力が横行したという話も残っている。実際、シルヴィアがリオを副長に任命したのは、そうした差別の廃絶を目指した一手でもあった。
 だが、そんな彼女たちの存在が、ほかの島の存在を決定づけた。
 どこにあるかは分からない。だが、どこかには必ずある。新人類との出逢いは船乗りたちの開拓精神を刺激し、ランティスはついに本格的な調査航海へと一歩を踏み出したのだ。
 そんな歴史のなか、第一の新天地となったワイアードは、俗に自然都市と呼ばれている。
 この世界の島はどこも自然が豊かだが、ワイアードには他の島に見られない綺麗な花や多種多様な動物たちが多く生息していた。そこにちなんだ別称が《自然都市》だ。
 三隻は港に入ると、当直を残してクルーは自由行動となった。明日まで休息に充てられ、次の航海へ向けた準備を進めることになる。
 シルヴィアから自由行動を告げられると、クルーたちは喝采をあげて我先にと船を降りていった。いかな船乗りとはいえ、制限の多い海上の生活より食事も娯楽も豊富な陸上生活のほうが楽しいのは事実だ。

「あんたはどうすんだい?」

 当直で残るリオがシルヴィアに尋ねる。二人の指揮官は交互に当直を替わるため、今日はシルヴィアが自由行動だ。

「いったん島へ上がります。あの子の保護者を探さないといけませんから。夜までには戻れると思いますよ」
「また船に残るのかい……ったく、たまには陸に上がればいいのに……だからみんなから船マニアとか呼ばれんだよ」
「い、いいじゃないですか! べつに!」
「あんたさ、それだけ人気者なのに、なんで自分に男が寄りつかないか知ってる? 陰で『あの船マニアっぷりさえなければなあ』って言われてんだよ?」
「い、いいんです! 恋愛になど興味ありません!」
「じゃあ、あんたの寝台の下にあったあの本、もらっていいよね。べつに興味ないんだから」
「はえっ!?」
「あたし、あれ興味あったんだよねー。あとでもらっとくわ」
「ちょ、ちょっと……なんで知って……」
「同室なんだからバレバレに決まってんじゃん。ちなみに夜中にこそこそ読んでるのも筒抜けだったから。あ、あと戻ってきても、今日は船に入れないから。どっかに泊まって町の男にごはん奢らせるくらいやってきな。んじゃ、仕事がんばってー」

 後ろ手を振りながら船内へ消えるリオ。
 ぽつんと残されたシルヴィアは、隠していた件の本―――古今東西の恋物語をまとめた作品集がばれた恥ずかしさから、しばらくその場を動けないでいた。



「……どうしたんですか、シルヴィアさま?」
「……なんか変なもんでも食ったのか?」

 助けた少女の身柄を確認すべく、ワイアードの町を歩く三人と例の少女。うち一人は隠していた秘密を見つかったばかりの心痛から、その足取りと顔色がまるで優れなかった。年頃の少女なら興味を持って当然のこと、べつに隠す必要も恥ずかしがることもないのだが、そう思うには、彼女の心はあまりに潔癖すぎた。

「い、いえ……なんでもありません……」

 そんな言葉とは裏腹に、道行く人々が露骨に避けるくらい陰気な空気を放つシルヴィア。
 ワイアードの町並みは綺麗に区画が整理されており、まず島の西側に築かれた港から北東と真東、そして南東へ三本の大通りが伸びている。そして、それぞれを結ぶように弧を描いた通路が等間隔で何本も走っていた。そのうち北東の大通り沿いと南東の大通り沿いは居住区に、中央の大通り沿いは商業区画になっており、いま四人がいるのはその中央通りだ。
 時間は昼下がり。通りは多くの商店や露店、サーカスや大道芸人などで賑わっている。

「さて。とりあえずは役場に行くか。まず身元を確かめなきゃな」
「あれからなにも教えてくれなかったの?」
「ああ、だんまりだ。最初は記憶が飛んでるのかとも思ったけど、どうにもそうじゃないみたいだし……なにか事情があるのかもな」

 その件の少女は今、カイルに肩車されていた。見るものすべてが新鮮といった風にその瞳を輝かせている。
 そんな彼女だが、相変わらずカイル以外には懐かない。七番艦にいた約一週間は彼の部屋から一歩も出なかったそうだ。

「名前も分かんないの?」
「名前はって訊いても、首を傾げて終わるんだよ。そもそも《名前》って単語を理解できてないっぽいんだよな……」

 アヴリルの問いにカイルは困ったように頭を掻いた。《白船》艦長としては彼女の方が先輩だが、船乗りとしては彼の方が先輩のため、その口調は砕けている。

「えー。だってカイルさんの名前はちゃんと理解したじゃん」
「指差して連呼したからだろうな、あれ」
「まあ、どんな事情があるか分かりませんが、親御さんも心配してるでしょうから、早く家に帰してあげましょう」

 シルヴィアたちは中央通りを進み、その東端にある噴水広場へ入った。装飾豊かな噴水を中心に石材や煉瓦を敷き詰めた円形の洒落た空間が広がっており、その円周上には瀟洒な建物がいくつも置かれている。
 四人は町の最東端に位置する煉瓦造りの建物に入った。ここが町役場だ。
 入口の大広間。その奥にある横長の受付テーブルを隔てた向こう側では、大勢の職員が忙しなく動き回っていた。広間の壁には誰もが使える掲示板がいくつもあり、大勢の町民たちがそこに貼り出された求人情報や仕事の依頼書、町の最新事情などに見入っている。
 シルヴィアたちが姿を見せると、大広間が一気にざわついた。その声で四人に気づいた一人の男性職員が慌てて奥から出てきて駆け寄ってくる。現場を統括する事務長のようだ。

「これは皆様、お疲れ様です。今日はどのようなご用件ですか?」
「この子の身元を確認したいのですが……お忙しそうですね」
「いえいえ、とんでもございません。いますぐ取りかかりますよ」
「ああ、いえ。ほかのかた優先でお願いします。こちらは大丈夫ですので」

 さすがに《白船》艦長の立場を利用して割りこむような真似はしたくない。その真意を職員に伝えて、シルヴィアたちは広間の隅で待つことにした。カイルは肩の上の少女にせがまれて建物内を見せて回っている。

「なんだか親子みたいですね、あれ」
「……言われてみると、そうですね」
「はー。カレンさまも早く、同性結婚みとめてくんないかなぁ。そうすればあたしもシルヴィアさまと一緒にあんなことやこんなこと……ぐへへへ……あぁ、よだれ出ちゃった」
「……」

 隣で隠す気もなく変態気質を拗らせる少女から目を逸らして職員たちに目を向けるシルヴィア。事務長は三人を待たせまいとしてか、自分も現場に入ってせっせと仕事を回していく。

(……悪いことしましたかね)

 一〇分もすると来訪者が捌けて受付が閑散とした。
 事務長の男性が呼びにきたのを受けて、四人は受付に向かう。

「すみません、お待たせ致しまして。ええと、そちらの女の子の身元でしたよね?」
「はい。おそらくこの町の子だと思うんです」

 シルヴィアは少女を保護した状況を事務長に説明した。彼は名前もなにも分からないことを知ると、すぐに手の空いている職員を何人か引っ張ってきて、町民情報が登録された名簿を片っ端から確認していく。手がかりが一つもない場合、身元を確認するには名簿に載っている似顔絵と本人の顔を総当りするしかない。
 作業の完了を待っているあいだ、暇を持て余したアヴリルは少女に自分の名前を覚えさせようとしていた。自分を指差しながら何度も「アヴリル」「アヴリル」と発して。
 最初はカイルの陰で怯えていた少女も、彼が一緒になって教えようとしたからか、最後には「あぶ……あぶ……」と口にし始めた。もっとも、そのあとの語尾が続かず、結局「あぶ」「あぶ」という、なんとも不本意な呼ばれ方をする羽目になり、本人は「きーっ!」と悔しそうに頭をガリガリ掻いていた。
 そして調子に乗ったカイルは、今度はシルヴィアの名前を覚えさせようとした。

「あっちはシルヴィア。面倒臭いからシルでいいぞ」
「なんですか面倒臭いって」
「五文字は長そうだからな」

 カイルがシルヴィアを指差しながら「シル」「シル」と根気よく呟き続けると、少女はアヴリルで慣れたのか、わりと早くに「し……る?」「しる?」「しる」「しる」と呼び出した。
 愛らしい瞳でこちらを見上げながら幼気な声で呼ばれると、なんだかくすぐったい気持ちになり、シルヴィアは照れ臭そうに頬を掻いた。しゃがんで頭を撫でてあげると、少女は猫が喜ぶように目を細めて喉を鳴らし、さらに催促するように「しる。しる」と呼び続ける。

(……自分のこどもができたら、こんな感じなんでしょうか)

 ふとそんなことを思い、途端に今の状況を家族に重ね合わせた自分が恥ずかしくなり赤面する。その変化を敏感に察したカイルが「どうした?」と尋ねると「い、いえいえ! なんでもありません!」と大慌てで話を切った。
 すると、職員の一人が、確認したいことがあると声をかけてきた。近くにいたカイルが応じるために立ち上がる。
 少女はすっかりシルヴィアに慣れたのか「しる。しる」と両手を伸ばしてきた。シルヴィアが抱き上げてやると、嬉しそうに抱きついてくる。
 そんな二人の様子を、アヴリルが指を咥えて、なにやら考えこみながら見つめていた。普段なら「そんな羨ましいこと絶対に許さーん!」などと激昂して騒ぎ出すのだが……。

「どうかしたんですか? アヴリル?」

 気になってシルヴィアが尋ねると、彼女は少し間を置いてから、こう答えた。

「うーん……《しる》って連呼されると、やっぱりなんだかちょっと卑猥な感じが……」
「あなたの心が汚いだけですよ《あぶ》」
「はぐぁっ!」



 結論から言えば、少女の身元は分からなかった。
 唯一分かったことは、全ての名簿をひっくり返しても確認が取れなかった以上、少女はこの島の定住者ではないということだ。
 申し訳なさそうに何度も頭を下げる事務長に御礼を言って、役場を引き払う四人。
 噴水広場に出ると、外はすでに日が暮れかけていた。中央通りの西の彼方に見える水平線上に夕陽が溶けていくのが見える。橙と紫紺が幻想的に混ざり合う空は相変わらず美しい。

「さて……これからどうする? 予定ではここで無事に親元へ帰して、俺たちは仕事に戻るはずだったわけだが」
「そうもいかなくなっちゃったよねー」
「そうですね。誰かに預けようにも、おそらくこの子が離れたがらないでしょうし」

 件の少女はシルヴィアとカイルと手をつなぎながら、石材と煉瓦が敷き詰められた地面から煉瓦だけを選んで歩いている。

「……とりあえず考えるのは後にして飯にでもするか。二人も島に上がるだろ?」
「あたしは上がるよー。もちろんシルヴィアさまも上がりますよね!? ねっ!?」

 確認ではなくほぼ脅迫に等しい催促を迫るアヴリル。

「そうですね……私は今日、船を追い出されたので……」
「……なんだそれ?」
「はは……」

 乾いた笑いを返すシルヴィア。リオの脱・船マニアへ向けた荒療治という余計なお節介のせいで今日は船に戻れない、などとはさすがに言えない。

「ま、まあ……じゃあ、どっか入るか。なんか希望あるか?」
「大浴場! 貸し切り!」

 アヴリルが手を上げて即答する。

「いや……貸し切りとか無理だろ。……まあ、じゃあネルソンさんのとこでも行くか」

 カイルは近衛艦隊へ配属される前、パーシバルが一番艦に乗っていた最後の一年、彼のもとで働いていた。そのため補給地としてよく訪れたワイアードの店にも詳しい。
 彼の案内で中央通りのなかほどにある一軒の宿屋に入る。店主のネルソンの奥さんが入口で出迎えてくれ、久しぶりに訪れたカイルは「とっくにおっ死んだと思ってたよ!」と背中をバンバン叩かれる手荒い歓迎を受けた。
 彼女に確認すると、幸か不幸か今月この日だけは予約者がゼロ。アヴリルの希望通り二〇部屋はある四階建ての宿屋を貸し切れてしまった。もちろんほかの客が来なければ、だが。

「ほかの人が来るまえにお風呂はいっちゃいましょう! お風呂!」

 部屋に着くや否や、アヴリルは貸切風呂への欲望を爆発させた。

「そうですね。せっかくですし」

 意外なことにシルヴィアもその誘惑に即答で同意した。二人は部屋に荷物と外套を置くと少女を連れて大浴場へ向かう。カイルは部屋で留守番だ。
 船にも風呂はもちろんある。だが、その浴室は狭く、しかも順番制で時間も限られているため、とりあえず汚れを落とす程度の用途だ。疲れなど欠片もとれない。リオなどは「雨が降ったときは、雨でからだを洗って済ます」ほど利便性が悪かった。
 そのため、風呂は食事や娯楽と並んで上陸したときの楽しみの一つだ。シルヴィアがアヴリルの誘いにあっさり乗ったのも無理からぬ話というわけである。
 脱衣場につくと、アヴリルは所要一〇秒にも満たない早脱ぎを披露し、一目散に浴場めがけて走っていった。シルヴィアは溜め息まじりに脱ぎ散らかされた衣服を拾って籠に入れてやると、自分と少女の布服も棚にしまって浴場へ向かう。
 浴場の造りは豪勢だった。天井は極めて高く、それを支える柱は芸術的な幾何学模様が施された一級品。その中央には四辺それぞれ一五メートルはありそうな正方形の巨大な風呂がある。お湯を注ぐ獅子の像は金色に輝き、その周囲、浴場全体の床は綺麗な大理石のタイルで埋め尽くされていた。
 アヴリルは無人なのをいいことに浴場のなかでバタバタと泳いでいた。シルヴィアは自分と少女の体を流すと、少女を連れて浴場の湯に浸かる。

「はぁ……やはり落ち着きますね。こんなにのんびりお風呂に入るのは久しぶりです」

 暖かく柔らかいお湯は思わず全身の力が抜けるほどに心地良い。そして、ゆとりと美しさに満ちた浴場全体の雰囲気も、その心身を大いに癒やしてくれた。
 隣の少女は、物珍しそうにお湯を掬って零すのを繰り返している。
 しばらく泳いでいたアヴリルが、飽きたのかシルヴィアのほうへ近寄ってきた。

「ふぃ~いいですねぇ~♪ 貸し切り最高~♪」
「だからって泳いで良いわけじゃないですよ」
「いいじゃないですか~いまくらい~。ほら、あの子も泳いでますよ」

 アヴリルが浴場の中央あたりを指差す。そこでは、さっきまで横にいたはずの少女が気持ち良さそうに泳いでいた。

「あ。まったく……ん?」

 ―――そのときだった。

「……? どうしたんですか?」
「いえ……あの子の影……」

 少女の遊泳を眺めていたシルヴィアが、なにやら訝しげに目を細めた。
 彼女に促されたアヴリルも水面下に歪む少女の影を見る。湯気で曇って視認しにくいが、しばらく凝視していると次第に実像がはっきりしてきた。

「……え、ちょ? ……はえっ!?」
「―――ッ!?」

 いきなり声を荒げるアヴリル。
 途端に絶句するシルヴィア。
 驚きのあまり反射的に立ち上がり、ただ唖然と、泳ぐ少女を見つめる二人。
 いや。まさか。そんな馬鹿な。……シルヴィアは堪らずに両腕で自分の体を抱き締めた。浴場にいるはずなのに背中が薄ら寒い。鳥肌も止まらない。突きつけられた目の前の現実を文字通り全身が拒絶していた。皮膚という皮膚を気色悪い魚鱗に侵食されるかのような悪寒が全身を沸き立つように這い回る。……彼女はいま、紛れもなく怯えていた。

 ―――だが、無理もなかった。

 彼女が直面した現実の衝撃は、その強靭な精神力ですら瞬時に吹き飛ぶほどに大きく……、

 そして、この世の常識そのものを木っ端微塵に打ち砕きかねないものだったのだから。
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