白船一番艦の受難

 全身から力が脱け落ち、ただ体の重さに引かれるがまま海底へ沈んでいくシルヴィア。
 ―――自分はここで死ぬのか。
 そんな諦めが脳裏を無意識に過ぎる。
 だが、それを打破するだけの強い意志は、もうシルヴィアにはなかった。
 ただ彼女の形をしただけの肉体が、静かに深海へと落ちていく。

 ―――その落下が、不意に止まった。

 意識を失った彼女の体を支えるように、黒く巨大な影が浮上してきたのだ。
 その大きさは人智を超えており、その浮上に気づいた海上の一同は恐怖に呑まれ、少しでも遠くへ逃げようと必死に泳ぎ出した。だが、逃げ切れるはずもない。
 その正体は、すぐに海面を突き破って明らかになった。

 ―――ガルグイユだ。

 大噴火さながらに海水を噴き上げながら、その巨大にして獰猛な体躯が海上に出現する。

『……合図を待っておれば、まさか己が降ってくるとはな』

 それは頭部に乗せたシルヴィアに向けられた言葉だった。深層で待機していたガルグイユはカノンの砲撃で荒れる海面から異常を察し、少しずつ浮上してきていたのだ。そこへシルヴィアが沈んできたため、救出のために海中から出てきた。

「あーっ! 出てきちゃダメだって!」

 ボートで待機していたアヴリルがこどもを叱るように叫ぶ。

『―――お主。死にたくなければ我の体に乗れと、海中を漂う仲間へ伝えろ。あと我の頭の上で眠るこやつをなんとかしてやれ。相当量の海水を飲んでいるぞ』
「え、シルヴィアさま、そこに!?」
『早くしろ』
「う、うん!」

 アヴリルはボートに乗船していたクルーにガルグイユの言葉どおりの指示を与えると、自らはすぐさま船の残骸の上を渡り、ガルグイユの背中に飛び乗った。そして長い頸部を駆け上がり、頭部へ到着。
 そこには、ぐったりと横たわるシルヴィアがいた。

「シルヴィアさま!」

 アヴリルは急いで駆け寄る。シルヴィアは瞳を閉じたまま息をしていなかった。
 アヴリルはすぐさま人工呼吸を開始。その形相は必死そのもので、鬼気迫るものさえ感じさせた。
 だが、彼女の努力は実を結んだ。
 何度か繰り返すと、シルヴィアが突如、苦し気に咳こんで海水を吐き出しのだ。

「シルヴィアさま!」
「……ア、アヴ……リ、ル?」

 微かに開かれた瞳でアヴリルの姿を認めると、絶え絶えに息を継ぎながらも、なんとか彼女の名を口にするシルヴィア。

「よ、よがっだぁぁぁ……シルヴィアざばぁぁぁああぁぁあぁあぁッッッ!」

 目覚めた彼女を前に、アヴリルは途端に号泣し始めた。シルヴィアの容態を気遣う余裕を失うほどの悲しみを爆発させ、彼女に抱きついて泣き喚く。とは言え無理もないだろう。齢七歳の一目惚れに始まり、実に一〇年、その背中を追い続ける憧れの人物だ。その死は自らの死に等しい。

「ア、アヴリル……とりあえず離れてくれませんか。頭がふらふらして……」

 シルヴィアは、いまだ霞む意識で状況を思い返しながらアヴリルに懇願した。彼女の気持ちも分かるが、いま自分がいるのは戦場だ。
 急いで周囲を確認すると、視界がやけに高かった。メインマストの頂点に立った時のようだ。
 するとアヴリルが、自分たちはいまガルグイユの頭の上にいるのだと教えてくれた。シルヴィアは落水した自分を彼が助けてくれたのだろうと思い至る。

『気がついたようだな』

 ガルグイユの声が足元から響く。

「申し訳ありません。助けていただいて……」
『気にするな。それよりこれからどうするつもりだ。戦は我が姿を現したことで膠着した』

 シルヴィアはガルグイユの頭部から眼下を見渡す。
 残った船は、こちらが《白船》三隻。対するカノン艦隊は、南の旗艦が一隻と北の艦船が一隻の二隻。こちらは無傷で、相手はすでにその戦力の三分の二を失ったことになる。
 そのうち北の一隻は、ガルグイユの出現に恐れをなしたのか、急いで戦域からの離脱を図っていた。つまり残るは実質、旗艦一隻だ。
 ガルグイユの体を見ると、何人ものクルーたちがその背に乗っていた。海獣の背に乗るなど身も震える選択だっただろうが、やはり命には代えられなかったようだ。やがて近づいてきた八番艦が、彼らを少しずつ船に預かっていった。
 勝敗は決した。それは誰の目にも明らかだ。旗艦からも次々とクルーが海に飛びこんでいる。もはやあの船を動かすことはできない。
 そう判断したシルヴィアは、相手の旗艦に降伏を促そうと立ち上がった。

「……?」

 だが、旗艦に向かっていままさに声を張り上げようとしたとき、その視線が妙な光景に遭遇する。
 完全に空になった旗艦の後部甲板でただ一人、恐怖に面を引きつらせながら「く、来るなぁぁぁッ!」と悲鳴を上げているものがいたのだ。

(あれは……ローランさん? いえ、それよりも……)

 艦長職に与えられる外套を羽織っていた人物は、カイルが七番艦の艦長選任試験で対峙したシルヴァラント家の次兄、アレンの弟であるローランだった。
 だが、いまシルヴィアが抱く違和感の原因はローランではなく、彼が人質を取るように羽交い締めにして刃を首に当てているもう一人の人物にあった。

「な、なんでユランさんがここに?」

 ユラン・クロフォード。ローランはカイルの母親を盾にしていたのだ。
 彼女は気を失っているのか、ぐったりとしたまま動かない。両腕は腰のあたりで手首を縛られており、口も布を巻かれて塞がれていた。やや距離があって分かりにくいが、その腕や脚にいくつか痣のような痕も見える。―――それが物語る事実は、一つしかない。
 その非道極まりない扱いにシルヴィアは堪らず怒りを覚えた。やはりあの男は噂どおりランティス一の屑だったのだ―――誰に対しても礼節を重んじる彼女ですら、心中でそう罵りたくなるほど巨大な怒りを。
 ……だが、それ以上の怒りを覚えたものがいた。

『―――我に対して人質をとって脅すとは、いい度胸だな。人間よ』

 ガルグイユだ。
 その声色は《賢君》の異称の如き穏やかなものだったが、その奥に静かな怒気が震えているのをシルヴィアは感じ取っていた。

『―――お主ら。我の上から降りろ。ほかの仲間にもそう伝えろ』

 シルヴィアとアヴリルに対する口調も、厳しいものに変わっていた。
 二人は急いでガルグイユの頭部から滑り降り、まだ背中に残っていたクルーたちに急いで海へ飛びこむか、船やボートに拾ってもらうように命じる。
 一帯に広がり始めた不穏な雰囲気を誰もが感じ取っていたのか、クルーは皆、即座に従って海に飛びこむか、近くにいた八番艦に身を預けるかして、ガルグイユから距離を取った。
 すると、ガルグイユはおもむろに海中へ頭部をつっこんだ。
 そして、すぐに再び海中から顔を出す。その所作の意味するところは誰にも分からない。
 だが、シルヴィアをはじめ誰もが、なにやらとてつもない得体の知れない恐怖が迫りつつあるのを本能的に察していた。
 ―――なにかが、起こる、と。

『艦上の人間よ。その刃を捨て去り、そやつを解放するのなら、我を導いてきた人間たちに免じて、その非道な振る舞いに目を瞑ろう』
「ふっ、ふざけるな! 海獣なんかの言葉が信じられるか! 下手なことしやがったら、この女がどうなるか分かってんだろうな!? し、知ってるんだぞ! こいつらがお前らの仲間だってことは!」
『……もはや対話の余地はなしというわけだな。よかろう』

 沸々と滾る怒りを全身に巡らせるように、ゆっくりと天を見上げるガルグイユ。巨大な体躯がまるで一本の塔のように真っ直ぐ伸びる。
 その異様にシルヴィアは神々しさすら感じた。
 いったいなにが始まるのか。
 誰もが、息を呑む。
 いまにも破裂しそうなほどに張り詰める不穏な空気。
 ―――無音。
 広がる静寂。
 その場にいるだけで気を失いそうなほどに、ひりついた緊張感。
 ……そして、ガルグイユの顎が物々しく開かれ、

『ならば……自らの不明がもたらした報い、その身を以って味わうがいい!』

 ―――一閃が放たれた。

 それは文字通り、神の鉄槌だった。
 ガルグイユの顎から爆発音と共に放たれた一閃は、雷光をも勝る速度で大空を駆け抜けた。触れずとも海を断ち割るほどに凄まじい余波を迸らせ、瞬く間に一海里以上も離れた海宮島南端の大山に炸裂。その頂上を軽々と消し飛ばし、それでもまるで衰えることなく空を奔る様は、まるで世界を果てまで真っ二つに切り裂くようですらあった。
 大噴火したかのように山の頂点で渦巻く噴煙。転がり落ちる音が一海里先まで聴こえそうなほどに大量の、大小何千何万という落石。
 あまりにも凄惨にして凄絶な光景が、シルヴィアたちの目の前にあった。
 ガルグイユの一撃を目に焼きつけたクルーたちは、誰一人の例外もなく、その顔面を引きつらせた。唇からは一瞬にして血の気が失われ、恐怖に固まった体は指の一本も動かせない。海上に浮いている大勢は泳ぐことを忘れ、続々と危うく沈みかけた。
 ―――これが《伝説の八龍》の力。
 神の代弁者を名乗ることを許された神龍の本領。
 帆船など木っ端微塵どころか、塵の一つも残らないだろう。かつて対峙した眷属の海砲龍など可愛らしいとしか思えない。

(こ、これは……)

 シルヴィアも言葉を失っていた。
 もしガルグイユが人類に融和的でなかったら、自分たちはこれほどの脅威とやがてぶつかったのだ。そう思うと、とてつもなく巨大な飢餓感にも似た安堵がこみあげてきた。こんな超越的な存在、カノンやディノマイトでどうこうできる相手ではない。

『―――今のは警告だ。あの山の麓に貴様ら人類の同胞はいないだろうが、次は手前に見える宮殿に本気を叩き込むとしよう。あるいはあの島自体が吹き飛ぶかもしれんぞ。そしてその次は、貴様だ』

 ガルグイユは眼下のローランを睨む。彼は怒りを滾らせながらも、冷静さを失っていなかった。たしかに彼の言うとおり、海宮島の南側は一面が樹海で、麓で暮らす人々は皆無だ。今の一撃が島民に被害をもたらすことはない。
 だが、二撃目は必要なかった。
 ガルグイユがゆらりと旗艦に近づくと、ローランは「くっ、くるなぁぁぁぁっ!」と構えた剣の切っ先を反射的に彼に向けてしまった。―――それが一瞬の隙となった。
 突如、甲板に一つの影が出現した。
 それはすぐさまローランに駆け寄り、その背後を取る。
 ローランが謎の侵入者の接近に気づいた時には、もう遅かった。
 振り返った顔面に蹴撃を食らい、断末魔を上げる間もなく地面に倒れ伏す。
 彼は、そのまま失神。
 決着は意外なほど、あっさりついた。

「母さん!」

 影の正体はカイルだった。ガルグイユ出現後、逃亡した相手の一隻には構わず、彼はボートで密かに旗艦へ接近していたのだ。そしてカノンの砲門から旗艦へ侵入。機を見て母親の救出に動いたというわけだ。

『見事だ』

 どうやらガルグイユも彼の接近をあらかじめ把握していたようだ。とすれば、先の一撃は陽動だろうか。
 なにはともあれ、これで戦は終わった。
 為すべきは、残りただ一つ。カレンとの交渉だ。
 その後、シルヴィアは近くを通りかかった相手のボートに拾われた。乗船していたのは彼女がカノン艦から放り投げて救出したクルーたちだ。今は言わば敵同士のため、差し伸べられた手を握り返すのには少し気不味さもあったが、彼らの一人が救けられた礼を口にしたことで、少なくとも敵意がないことだけは分かった。
 彼女は迎えにきた一番艦に移り、そのまま七、八番艦とランティスへ向かった。相手のクルーたちは、その全員を三隻に乗せられないため、残ったボートやガルグイユの背中で待機してもらっている。
 甲板へ戻ってきたシルヴィアを見て、リオをはじめクルーたちは大騒ぎになった。彼女の全身は裂傷だらけで、頭部の出血もまだ止まっていなかったのだ。そのため、カレンとの交渉が終わるまで休む気のなかったシルヴィアだったが「馬鹿か!」と怒り心頭のリオに担がれて、強引に医務室へ閉じこめられてしまった。
 医務室の寝台で横になるシルヴィア。リオは今、そんな彼女の介抱にあくせくしていた。本来は船医の仕事だが、ほかの怪我人の対応に追われている。

「―――っし。とりあえず腕はこんなもんだろ。次は頭か」
「すみません、いろいろ」
「いいから、ちょっと傷を見せな」

 リオが頭部の傷の具合を確認するために、ぐいっと顔を寄せてくる。互いの鼻頭が相手のそれにぶつかりそうなほどに近い。その距離感が妙に恥ずかしいのか、シルヴィアの顔が途端に真っ赤に染まった。

「リ、リオ。顔、近いですよ……」
「うーん。そこまで深くはないのか。まあ浅くても血が出やすいところではあるけど」

 集中しているのか、シルヴィアの声は聴こえていないようだ。
 とりあえずシルヴィアは我慢することにした。だが、リオの息遣いが耳をかすめたり、目を合わせるのが恥ずかしくて不意に降ろした視線が彼女の豊かな双丘の谷間を捉えたりするたび、今にも別の意味で卒倒しそうだった。
 その時、船が少し大きく揺れた。

「うわっと……ん?」
「……んん?」

 二人の時間が完全に止まった。
 船の揺れでバランスを崩したリオの体が前に倒れ、二人の唇が触れ合ったのだ。
 無言のまま見つめ合うシルヴィアとリオ。
 その瞳が見る見る大きく見開かれ、リオは飛び上がるようにシルヴィアから体を離した。

「ご、ごめんっ!」
「い、いえ……」

 シルヴィアはそう答えたものの、恥ずかしさで火照った頭では思考がうまく回らず、咄嗟に受けた謝罪の意味すらまるで分かっていなかった。
 そのまま二人とも俯いたまま黙りこんでしまい、気まずい時間が流れる。
 だが、ふと視線を感じて、シルヴィアは顔を上げた。
 ―――人の気配がする。扉のほうだ。
 嫌な予感がした。
 シルヴィアは恐る恐るそちらに目を向ける。
 そこには、半開きの扉から部屋を覗き見するように半身だけ覗かせている船医の女性の姿があった。気色悪い含み笑みを浮かべながら、二人の様子をじっと眺めている。

「……な、なにかごようですか?」

 必死に笑顔を造りながら声をかけるシルヴィア。その呼びかけで船医の来訪に気づいたリオは驚くほど大きく両目を見開き、慌てて後ろを振り返った。

「んー? いやぁ。包帯が足りなくなっちゃってさぁ。取りに来たんだけど……」

 なにやら思わせぶりな話し方である。

「あ、ああ。そうだったのか……。んじゃ、ほら」

 リオが手元の包帯をいくつか投げて寄越す。彼女はそれを受け取ると「ありがとう」と御礼を残して何事もなく扉を閉めた。
 シルヴィアとリオは衝撃の一幕を見られなかったことに胸を撫で下ろす。

「ああそうそう」

 だが、その油断の隙をついて船医は再び扉を開けた。二人の背中が途端にピンと伸びる。

「は、はい、なんでしょう!?」
「その寝台、使わせたい人がいるから、巻きでお願いねー♪」

 船医は明らかに悪意のあるウインクを飛ばし、にやにや笑いながら扉を閉めた。
 二人は恥ずかしさに悶え、ただ黙りこむしかなかった。



 ―――そして。
 ようやく、すべてが終わろうとしていた。
26/28ページ
スキ