白船一番艦の受難

 戦況は一方的だった。
 シルヴィアとアヴリルの乗艦を許した二隻の甲板は、鮮烈の一言だった。
 二人が次々とクルーを行動不能に追いこみ、船上を制圧していく。ものの数分で船首からメインマストのあたりまで突き進んでおり、完全制圧も時間の問題だ。
 二人の戦闘スタイルは、まるで真逆だった。
 シルヴィアは双剣を巧みに操って相手の武器を弾き、その圧倒的な実力差を見せつけて戦意を断ち切っていった。その剣舞は妖精が踊るように美しく、たとえ敵として対峙したものであれ、見るものすべてを羨望と憧憬で凍りつかせるとまで言われる。武器を失い、そして自分を傷つけない可憐な妖精の気高さを前に、相手は次々とその戦意を喪失していった。
 対してアヴリルは、文字通り強大な膂力によって相手を蹂躙していく。身の丈を上回る大剣を豪快に振り回して相手の武器を粉砕し、恐怖の権化と化して船上を跳ね回る。幼気な外見からは想像もできない人外の膂力と戦闘狂と化した狂気の笑顔を前に、相手は震え上がり、まともな抵抗もできないまま次々と地に伏していく。
 だが、メインマストに到達したところで、二人の進撃はなかなか前に進まなくなった。
 相手の数が多すぎるのだ。
 船首であれば前からしか敵は来ないが、中ほどまで進めば前後左右から襲撃される。そのため一度に相手にする敵数が増え、その対処だけで手一杯になってきた。
 シルヴィアたちに遠く及ばないとは言え、相手も歴戦の水兵や海兵だ。その経験と数の利を活かして艦長の指揮のもと、一度は挫けた戦意を叩き起こして何度も立ち向かう。
 さらにシルヴィアとアヴリルには、相手を傷つけられないという制約もあった。明らかな敵意はこのあとの交渉に差し支える。ここはなんとしても無血で制圧しなければならない。
 血の気の多いアヴリルがそこまで正気を保てるかシルヴィアは不安だったが、気にしている余裕はない。彼女もまた目の前の相手の対処に追われていた。
 ―――そこへ、さらに厄介な問題がやってきた。
 一番艦を追って北上していた旗艦が、こちらへ転舵。南西方向から接近してきたのだ。

(……早く制圧しないと厄介ですね)

 向こうの弓隊に援護射撃でも行われたら、不測の事態も起こりかねない。また相手のクルーに矢が当たって命を落とす危険もある。
 仲間がいる以上、あまり無茶な援護はしてこないだろうが……。そう思いつつも早急に決着をつけようとシルヴィアが気を入れ直した……その時だった。
 旗艦はやや東へ転舵し、こちらへ左舷を向けた。
 そして―――

「なっ!?」

 ―――爆音が轟いた。

 直後、シルヴィアが乗りこんだ船の左舷が大破。船体が激しい揺れに襲われる。
 両脚を踏ん張って必死に体勢を保つシルヴィア。クルーの大半は突然の衝撃に襲われてバランスを崩し、その場に倒れこんだ。
 唐突な事態に、カノン艦のクルーたちが全員、左舷を振り向く。そして襲撃者の正体を見て、その顔面が一瞬で蒼白に染まり果てた。
 旗艦の砲門が煙を吹いていた。

「なんてことを……っ!」

 その目論見を察して、シルヴィアが怒りに震える唇を噛む。
 旗艦はカノン艦もろとも自分を沈めようとしているのだ。
 仲間を仲間と思わない冷酷非情な一撃に怒りが抑え切れない。一方でその原因が自分にあることを、巻き込まれたクルーたちに申し訳なくも思った。
 だが、悔やんでいる暇などない。

「総員! すぐに海へ飛び込みなさい!」

 燃える甲板上、シルヴィアは敵船のクルー全員に退艦するように叫ぶ。だがいきなりの予期せぬ襲撃に慌てふためく彼らに、その言葉はなかなか届かない。恐怖に負けて船を捨てるものもいたが、船乗りとしての矜持が邪魔をしてかなかなか逃げないものも多い。負傷したものに肩を貸して逃がそうと懸命に走り回るクルーも多くいた。
 いきなり目の前に広がった阿鼻叫喚の地獄絵図。
 朱々と燃え落ちる帆。
 耳に障る湿った音を立てながら軋む船体。
 途切れないクルーたちの悲鳴。
 続けて旗艦から第二波が放たれた。
 一撃は船首甲板に、もう一発は左舷に直撃。後者の一撃がさらにガンデッキのカノンの誘爆を誘い、艦内が爆発。足元から途轍もない衝撃が突き上げる。
 誘爆はさらに連鎖してガンデッキ全体に広がった。次々と艦内の火薬が暴発し、大破が止まらない。艦内にいた乗員たちは続々と甲板へ出てきて海へ飛びこみ、ガンデッキの射手たちは砲門から海に身を投げる。
 浸水が止まらず、見る見る沈んでいく船体。

(くっ! このままでは……ッ!)

 堪らずに駆け出すシルヴィア。そして負傷したまま甲板に横たわる者、茫然自失と立ち尽くす者を次々と海へ放り投げていった。乱暴なやり方だという自覚はあったが、そうでもしないと間に合わない。おそらく自力で泳ぐのも厳しいだろうが、先に逃げたものが手を貸してくれるのを祈るしかない。
 そのあいだにも船体は急速に傾いていく。このままでは数分もたたずに転覆だ。
 残っているのはあと何人か。いるとすれば、艦長や副長といった役つき、それと船内で負傷して逃げ遅れた者たちか。
 シルヴィアは覚悟を決めて甲板の中ほどの階段から艦内に潜った。旗艦は左舷の四門を撃ち尽くしたため、次は右舷のカノンを向けてくるだろう。急がなければならない。
 カノンが穿った大穴から大量の水が入っており、甲板の一つ下の層も、足首に届くくらいまで浸水していた。もし最下部の船倉や最下甲板、ガンデッキなどの下層甲板にクルーたちが残っていれば、救出はもはや絶望的だ。
 なんとか無事に脱出していてくれれば……そう願い、シルヴィアは上層の甲板を走る。
 通路は破壊された壁や扉、床板の木材が複雑に入り組んだ悲惨な状況だった。まるで廃材置き場だ。床板は踏むたびにめきめきと軋み、それが船の悲鳴にも聴こえ、シルヴィアの心が傷む。船は船乗りにとって仲間も同然だ。それを平気で沈めるなど……。
 シルヴィアは可能な限り捜索したが、全員退艦したのか人気はない。
 これなら大丈夫だろうか―――。
 安堵して来た道を戻ろうと踵を返したとき……その小さな声は聴こえた。「うぅ……」と今にも消え入りそうな弱々しい苦悶。

「―――ッ!?」

 咄嗟にそちらへ向かう。
 崩落して積み上がった木材の隙間から、下敷きになっているクルーの腕が見えた。

「だ、大丈夫ですか!?」

 急いで、しかし慎重に木材をどかし、なんとかクルーを外へ連れ出すシルヴィア。落下してきた木材を頭部に受けたのか、顔の半分以上が悲惨にも出血で染まっていた。さらに右腕が妙な方向へ曲がっており、右脚も明らかに折れている。ほかにも多数の裂傷が見られ、一刻を争う状況であることは明白だった。

「しっかりしてください!」

 シルヴィアは彼を背中に担ぎ、来た道を急いで戻る。だが、船乗りらしく立派な体躯を誇る青年の体は重く、獣道よりも酷い足元もあいまって足取りは遅々として進まない。しかし、早くしなければ旗艦の右舷カノンがこの船を襲う。そうなったら終わりだ。
 不安が焦りを生んで足元を乱す。船の浸水もいよいよ限界に達しようとしていた。足首あたりだった水位は早くも脛くらいまで届いており、シルヴィアの脚を引っ張る。往路の倍以上の時間がたっても、その道程の半分も進めない。

(くっ……っ!)

 それでも懸命に脚を運ぶシルヴィア。だが、現実は非情な一撃を見舞う。
 旗艦の第三波が船を襲ったのだ。
 二発のカノンがついに脆くなった左舷を打ち破り、大穴を穿った。衝撃でバランスを失ったシルヴィアは壁に叩きつけられ、頭部を強打してしまう。そのとき木材のささくれで切ったのか、額と顳顬のあたりから血が流れ出した。傷が深いのか相当な量だ。
 だが、気にしている余裕などない。穴からは大量の海水が流れこみ、艦内を侵食していく。下層からの浸水と合わせて、それまでの倍を超える速度で高まる水位。早くも太腿のあたりまで海水に捕らわれていた。
 もはや自由に動けない。だが諦めるわけにはいかない。
 鮮血で失われた右目の視界と壁に打ちつけた右半身の痛みに耐えながら必死に出口を目指す。
 そしてようやく階段に到着したときには腰まで水に浸かっていた。
 最後の力を振り絞って甲板へ上がる。船はもはや完全に沈みつつあった。

「シルヴィアさま!」

 アヴリルの声が聴こえる。微かな視界で船の下を確認すると、海上でボートに乗っている彼女の姿が見えた。乗りこんだ艦船のボートを降ろしてクルーたちの救助に当たっている。
 ―――そのとき、シルヴィアは背中に殺気を感じた。
 旗艦だ。
 右舷に残った二門をこちらに向けている。

「アヴリル! この人を!」

 シルヴィアは咄嗟に背負っていた彼を舷側から放り投げた。満身創痍の彼は、そのまま海に叩きつけられたら終わりだ。だが、幸か不幸か浸水のおかげで船の甲板から海面までの距離は大幅に縮んでいた。そのためアヴリルも難なく彼を受け止めることができた。
 よかった。これであの青年も、もしかしたら助かる―――。
 心の片隅に安堵感が湧いた瞬間、旗艦のカノンが船を襲った。

「―――ッ!?」

 一瞬の隙をつかれたシルヴィアは、その襲来に対処しきれなかった。
 カノンの一発はメインマストの根本に突き刺さり、その側にいた彼女は衝撃の余波を余すところなく被ってしまった。爆風で吹き飛ばされて舷側に肩口から激突。そのまま甲板に倒れこんだ体は、揺れに煽られるがまま地面を激しく跳ね回る。爆発で弾け飛んだ無数の木片の上を転がったせいで全身に容赦なく裂傷が刻まれ、傷だらけの体は何度も地面や廃材にぶつかりながら海に没した。

「シルヴィアさまぁぁぁぁぁッッッ!」

 アヴリルの悲痛な叫びも、彼女の耳には届かなかった。
 海中に投げ出されたシルヴィアの体は見る見る沈んでいった。必死に海上へ戻ろうと藻掻くも疲労で体力を奪われた体ではまるで太刀打ちできない。

(くっ……息が……ッ!)

 すぐに酸素も底をついた。もはや意識を保っているのも限界だ。視界が霞み、水圧のせいか酷い頭痛が脳を締めつける。咄嗟に口を塞いで酸素の流出を防ごうとするも、もちろんそんな努力に意味などない。
 浮上しようと抵抗していたシルヴィアの体が、ぴたりと止まった。
25/28ページ
スキ