白船一番艦の受難

◯一〇〇日目 ランティス 近海

 その日の空は、高かった。
 見上げる先には雲ひとつなく、どこまでも蒼天が突き抜けている。
 風は穏やかな南東風で、陽の光も肌を撫でるように優しい。

「いやぁ。海の果てまで走りたくなるような天気だね」
「ええ、本当に……」

 リオの感想に、シルヴィアも同感だった。
 ―――しかし、この先で待ち受ける現実は、決して優しいものではない。
 ランティスはいよいよ、このさき三〇海里にまで近づいてきた。風がこのままであれば、おそらく今日の夕方には到着するだろう。
 クルーたちもそれを分かっている。だから口数が少ない。いつもなら帰港直前は軽口や冗談が飛び交う甲板だが、いまは密かな緊張感でいっぱいだ。
 そんな空気を少しでも和ませようと口にされたリオの言葉も、そのあとは続かなかった。おそらく彼女も内心では、迫り上がる不安を必死に抑えこんでいるのだろう。
 一番艦は、無言のままランティスを目指した。
 いま船は最短航路をとっていた。一日の遅れは、それだけランティス内の不協和音を増幅し、こちらにとって好ましくない世論を形勢する可能性がある。途中で各海域の警護艦隊に遭遇する懸念はあったが、もはや気にする余裕はなかった。
 だが幸運にも、船は一度も警護艦隊の目に引っかからなかった。運が良すぎて気にならないと言えば嘘になるが、シルヴィアは敢えて目を背け、素直に感謝して船を走らせた。
 そして、ランティスまでいよいよ一〇海里のところまで来たとき、その島影が見えてきた。
 いつもより波が高くないからか、見張りも普段より早く発見できたようだ。

「いよいよ着いちまったか。しかし、いざ戻って来てみると……」

 リオはそこで口を噤んだ。
 だが、シルヴィアには彼女の言葉にならなかった思いが容易に理解できた。
 怖いのだ。かつて暮らしていた島民たちに、いざ敵として向き合うのが。
 当然だろう。ほかの名も知らない島の出身だとしても、彼女は長い時間をランティスで過ごしてきた。いまやもう故郷同然だろう。仲の良い友人もいれば、世話になった恩師も多い。
 そして、それはほかのクルーも同様だ。
 島影が近づくにつれてその気持ちが膨れていくのか、シルヴィアはリオが徐々に落ち着かなくなっていくのに気づいていた。甲板を叩くように足を忙しなく上下させたり、何度も唾を呑みこんだり、唇を結んだり解いたりしている。
 そのときだった。

「―――シルさん! 前方二海里に船影だ! 数は六隻!」

 上空の見張りが報告してきた。

「……来ましたね」
「ああ。―――《白船》かい!?」
「いや! どれも普通の艦船だ! たぶん八門艦だと思う!」

 降ってきた返答に、リオは「ちっ」と表情を歪めた。

「やっぱりやり合う気、満々ってことかい」
「仕方ありません。こちらは反逆者のようなものですから。……ただ、妙ですね」
「妙? なにがだい?」
「少なすぎると思いませんか?」
「……言われてみれば、たしかにそうだね。討伐隊じゃないってことかい?」
「そうかもしれません。たとえば先にこちらに手を出させて、その敵意を島民全員の目に明らかにするための捨て石とか……」
「カレン様がそんなせこいこと考えるとは思えないけど」
「あの方はそうでしょう。ですが、周りの方は分かりません。こんな時代でも、権力欲にあふれた人は大勢いますからね。《白船》の艦長の座は、彼らからすれば、喉から手が出るほど欲しいでしょう。いまが私達を引きずり下ろす絶好の機会と見て、勝手に出撃してもおかしくはありません。仮に沈めたところで理由はいくらでもつけられますし」
「もしそうだとして、どうすんだい?」
「―――向こうの意図が分かるまでは様子を見ます」

 一番艦はそのまま西へ走る。右舷と左舷、それぞれの後方に七番艦と八番艦がつづいた。
 六隻から成る相手方のカノン艦隊は、三角形を二つ並べたように編成されており、そのまま真東へ向かってくる。やや向かい風を受けている形だが、その船足は意外と速い。ランティスの艦隊のなかでも、なかなかの手練が乗っているようだ。
 指揮をとっている旗艦は、先頭に並ぶ二隻のうち、南側の船だろう。この船の転舵に合わせてほかの五隻は針路を切り替えている。

(あの船の艦長の顔でもわかれば、やりようがあるのですが……)

 いま両者の距離は一海里。望遠鏡でも甲板上の人物の顔を確認するのは至難だ。
 ―――だが、相手の意図は、その人物の顔を確認するまでもなく明らかになった。
 一海里を切ったとき、相手が三隻ずつ両翼に広がったのだ。ちょうどこちらを北と南から囲むような動き。それが意味するところは明白だった。

「ハードポート! スパンカーブーム、ホールイン!」

 シルヴィアはすぐさま一杯の取舵を指示して南西へ。同時に七番艦は北へ転舵。八番艦はそのまま直進する。たとえ言葉を交わさずとも、二隻は望んだ通りに最良の一手を打ってくれる。
 右舷正横に位置する三隻の八門艦は南へ向かっている。風上に切り上がっているため、速力はこちらより遅い。
 距離四〇〇。三〇〇。そして二〇〇を切ったところで、三隻は再び二手に分かれた。一隻はタッキングで真東やや北東―――つまりこちらへ向かい、二隻は時計回りに大きく回頭。そのまま一周するように針路を変えて東へ。北側からこちらの後方へ回るつもりだ。

「ポート!」

 一番艦が南やや南西よりへ転舵。向かってくる一隻を迎え撃つ構えだ。
 両船が距離一〇〇ほどまで接近。そこで相手は再びタッキング。
 すれ違いざま、相手の左舷カノンのうち、二門が火を噴いた。

「ハードスターボード!」

 すんでのところで一番艦は南西へ大きく急回頭。
 高速で飛来した二発が船体の横を通り過ぎ、左舷後方の海面に着弾。爆音が轟く。

「ハードポート!」

 直後、今度は再び針路を南西へ。同時に北へ回った二隻の右舷カノンが撃ち放たれた。前の船から二発、後ろの船から一発。しかし、全弾が一番艦の真後ろで海に沈んだ。

「容赦なく打ってくるね。しかも必要以上に寄せてこない」
「向こうからすれば、こちらにカノンがない以上、距離をとってカノンで攻めるのが一番ですからね。常に風とこちらの動きを読んで過不足ない距離をとる―――見事ですね」
「余裕なんか見せて褒めてる場合じゃないっての。どうすんだい?」
「そうですね……アヴリルに協力してもらいましょう」
「あの子に? でも、信号機を上げると相手にも筒抜けだろ?」
「ええ。だからなにもしません。あの子なら、こちらの船の動きを見れば、私がなにを考えているのか分かりますからね」

 そう語るシルヴィアの面に苦々しい笑顔が浮かぶ。彼女の謎めいた力が、まさかこんな形で役に立つとは想像もしていなかったのだろう。
 だが、傍目には不確実性の高いその戦略に、リオは眉間を顰めた。

「……ほんとに大丈夫なのかい?」
「さすがに分かりません。ですが、相手もまた一流の船乗りで、互いの手の内はバレているも同然です。半端に賢しらな手を打ったところで無駄に隙をつくるだけ。であれば、あの子の私に対する愛の深さを信じましょう。―――ハードスターボード! 開き変え!」

 大きく北へ転舵する一番艦。風を右舷から受けるため帆の開きを変える。
 すると、アヴリルの八番艦は南へ転舵した。その位置、右舷前方。距離は二〇〇。
 東のカノン艦二隻は、一方が時計回りで、もう一方が反時計回りで一八〇度、回頭。再びこちらへ向かってくる。さらに南からは旗艦が北へ転舵し、一番艦の背中を追っていた。

「ディノマイトをすべて持ってきてください!」

 シルヴィアの指示で一〇人近いクルーが艦内へ向かう。

「し、沈めるのかい?」
「いえ。沈めてしまうと、このあとの交渉がやりにくくなります」
「でも、ディノマイトを全部って……いったいなにを?」

 一番艦は間もなく八番艦とすれ違うところまで来ていた。そして東からは二隻のカノン艦が距離二〇〇ほどまで接近。南からは旗艦も迫っている。
 クルーたちが大量のディノマイトが入った木箱を抱えて艦内から出てきた。シルヴィアは急いで彼らに作戦を説明する。話が終わると彼らは三方に散っていき、船首、左舷、船尾に位置した。それぞれに五人ずつクルーがついている。
 八番艦が接近。距離三〇。東の二隻との距離七〇。
 シルヴィアは最後にリオへ作戦を伝えると、

「―――投擲開始!」

 彼女の指示を合図に、クルーたちが一斉に大量のディノマイトを宙に放り投げた。
 およそ三〇発もの爆薬が次々と爆発し、一帯は瞬く間に噴煙に包まれる。
 だが、それでも投擲は止まない。クルーたちは次のディノマイトを放り、それが終わるとさらに次を放った。
 大量のディノマイトが間段なく次々と爆砕し、海上に巨大な化け物めいた煙の塊が出現する。
 同時に八番艦も前後と左舷から大量のディノマイトを撒いていた。
 総数二〇〇発に及ぼうかという爆薬が花火のように散っていき、海面を震わすほどの轟音と化け物めいた噴煙が一帯を埋め尽くす。二隻の《白船》の姿もそのなかに完全に隠れてしまった。
 二隻のカノン艦は、突然の事態にしばし戸惑ったが、すぐに艦長の指示のもと、次なる手を打った。そのまま直進し、煙のなかへ突っこんだのだ。
 その狙いは明白だった。二隻はぶつけてでも《白船》を沈めにいったのだ。
 もし二隻が煙のなかにいるなら、このまま直進すれば正面衝突の可能性もある。だが、カノン艦は一隻が沈んでも、ほかの二隻に救助してもらえば良い。衝突の衝撃でカノンが暴発しないとも限らないが、もとよりクルーたちも覚悟の上だ。
 カノン艦はそのまま煙のなかを進む。カノンを撃てば《白船》を沈められる可能性もあったが、味方に直撃する可能性も高く使えない。
 その歯痒さを押し殺して二隻の艦長は西へ走る。
 ……しかし、予想に反して、相手に激突することはなかった。
 そのまま走り続けていると、煙が徐々に薄くなっていく。
 二隻の艦長はすぐさま《白船》を探すようにクルーへ指示。クルーたちが限られた視界からなんとか船影を探り当てようと一帯を見回し始めた―――そのときだった。

「がはっ!?」
「ぐぅっ!?」

 両艦の船首から突如、苦悶の悲鳴が上がった。
 いったいなにごとか?
 だが、船首の悲鳴は止まない。一人また一人と謎の脅威によって、その意識を次々と絶たれていく。
 クルーたちは腰の短剣を抜き、艦内で待機していた騎士たちも騒ぎを聴きつけて続々と甲板へ上がってきた。
 途端に張り詰める緊張感。全員が不可視の事態に身構える。

「……ざっと六〇人以上ですか。予想より多いですね」

 北の一隻に、清楚な女性を連想させる可憐な声色の呟きが響く。

「あーもー面倒くさーい。船ごと沈めたいけど、シルヴィアさまに怒られるだろうしなぁ」

 南の一隻に、幼気な少女を連想させる黄色い声色の不満が響く。
 その声で、両艦のクルーたちは襲撃者の正体を察した。
 やがて煙がすべて晴れると、その姿が戦慄と共に瞳へ突きつけられる。
 北に、シルヴィア・ベルグハイネ。
 南に、アヴリル・グランハイム。
 一騎当千を誇る最強の船乗りが、船上に乗りこんできていたのだ。

「ライエさんに感謝ですね。あそこで見せてもらっていなければ、もっと苦労したでしょう」

 ―――そう。二人が取ったのは、ランティスを離れる直前に交えた一戦でライエが見せた、ディノマイトを煙幕に使うという奇策だった。
 まるまる二隻を隠すために、二〇〇に及ぶディノマイトを海上へ放り投げて巨大な煙幕をつくる。そして八番艦を東に転舵させて、二隻のカノン艦の間に通したのだ。直前、シルヴィアは煙に紛れて八番艦に飛び移っていた。一番艦にはそのまま北へ上り、七番艦の支援に向かうように指示してある。
 そしてカノン艦とすれ違ったところで、シルヴィアとアヴリルは両艦の船首に飛び乗った。両艦が転舵もカノンも使わないのを読み切った上で。煙で船体自体は見えないが、かすかな物音や気配で相手の居場所を掴むなど、二人にとっては造作もない。
 普通に考えれば、艦長が単身、敵地に乗りこむなど自殺行為だ。だが《白船》の場合、それは最上の戦略ともなる。―――一人で一隻を制圧できる武力。それに物を言わせる戦略など戦略と呼べるものではないが、今は手段や過程を選んでいる余裕などない。

「……さて。私もランティスの仲間を傷つけたくはありません。矜持が許すのであれば、武器を置いて投降してください。ですが、もし―――」
「―――向かってくるってんなら、容赦しないけどね!」

 相手を気遣いつつも、腰より《刻聖器》双剣ヴァルフレアを抜き放つシルヴィア。
 狂喜の笑顔で脅しをかけながら《刻聖器》大剣グランシャリオを担ぐアヴリル。
 北と南、それぞれの船に降り立った二人の英雄を前に、敵船のクルーたちの心が戦慄く。だが、怖気づいたからといって剣を収めるわけになどいかない。どちらも、飛びこんできたのは《白船》の艦長と言えど、たった一人。恐れを成して降伏など許されることではない。
 両艦のクルーは、自らを奮い起こして臨戦態勢に入る。
 そんな彼らの悲壮な決意を見て取った二人は―――、

「……そうですか」
「やる気まんまんってわけだね」

 自らも覚悟を決める。
 ―――仲間に剣を向ける覚悟を。

「……では」
「……んじゃあ」

 愛らしい瞳に殺意を思わせる冷厳な色を滾らせ、双剣を構えるシルヴィア。
 獲物を見定めた獣の如く口を歪に裂き、大剣を豪快に振り回すアヴリル。
 ……そして、

「「―――いざ!」」

 裂帛と共に甲板は戦場と化した。
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