白船一番艦の受難

 その後、二人は再びパンデモニウムを向かった。姿を消したカイルとミーシャがいる可能性が最も高いのはここだからだ。またこれからランティスを説得するにあたって、ガルグイユの協力が不可欠であることもあった。
 パンデモニウムは相変わらず衰え知らずの濃霧だった。前回はミーシャが案内してくれたおかげで抜けられたが、今回は前回の航路を記した海図に頼るしかない。霧で周囲の状況がまるで読めないため、シルヴィアたちは細心の注意を払って航路をなぞりながら進む。
 無事に抜けると、前と変わらない晴れ渡る空と透き通る綺麗な海がどこまでも広がっていた。
 シルヴィアとアヴリルは再び岩礁地帯まで船を進め、そこでボートに乗り換える。前回は四人で行ったが、今回はシルヴィアとアヴリルの二人で漕いだ。アヴリルは相変わらず「シルヴィア様にボートを漕がせるなんて、できません!」と一人で頑張るつもりだったが、さすがにそういうわけにもいかない。
 二人は岩礁地帯を抜けて、ガルグイユと出逢った洞窟へ入っていった。

「結局、七番艦はいませんでしたね」

 濡れた地面を慎重に歩きながら、アヴリルが呟いた。

「そうですね。ここに来ているかと思ったのですが……」

 二人はパンデモニウムを抜けて岩礁地帯に到着するまでのあいだ、七番艦と遭遇しなかった。ここに来れば会えるだろうと思っていたのだが、その当てが外れた形だ。

「でも、そうなるとどこ行ったんでしょうね。ほかの海域に行っても、遅かれ早かれランティスから情報が伝わって警護艦隊に追われるだけだと思いますけど」
「そうですね。まずは無事だと良いのですが……」

 だが、そんな二人の予想は洞窟の最奥に到着したところで、あっさりと覆った。
 そこにカイルの姿があったのだ。

「あー! カイルさんいたー!」

 胡座をかいて湖を見つめている彼の背中を見つけたアヴリルが、幽霊と遭遇でもしたかのように絶叫する。

「ん……? なんだお前たちか」
「よかった、やっぱりここに来ていたんですね」

 不安を募らせていたシルヴィアも、安堵の表情を浮かべる。
 すると、後ろの湖から盛大な飛沫を巻き上げてミーシャが姿を現した。ぱしゃぱしゃと湖岸まで泳いでくると、そこにあった布地で自分の脚を拭く。そうして人の脚を手に入れると「しる! しる!」と満面の笑顔を浮かべながらてけてけ近寄ってきて、シルヴィアの脚に抱きついた。

「ミーシャ! 無事でしたか……よかった」

 久しぶりの再会、そしてなにより彼女の元気そうな姿に、シルヴィアの胸の内が思わず熱を持つ。暴徒が孤児院へ押し寄せる前にカイルが逃がしたのだろうとは思っていたが、こうして無事を確認するまではやはり不安で仕方がなかった。
 頭を撫でてやると、ミーシャはいつものように嬉しそうに目を細めた。それから今度は「あぶ! あぶ!」とアヴリルに駆け寄って彼女に飛びついた。当人は「はぇ? え? え?」と、口だけ慌てて体は固まっている。普段シルヴィアに似たような―――いや、もっと酷いセクハラ行為を平気で働くアヴリルだが、どうやら逆の立場には慣れていないようだ。
 じゃれあう二人を傍目に、シルヴィアはカイルの隣に腰を下ろした。彼自身も一連のショックが大きいのか、その横顔にはやや陰が差している。

「カイルのほうは大丈夫でしたか?」
「ああ、まあな。……ここまで来たってことは、シルたちも逃げてきたのか?」
「……そういうことですね」

 シルヴィアは簡単に経緯を説明した。ちなみに姿が見えなかった七番艦だが、周囲の海域を調査しているとのことだ。

「そうか。カレンのやつ、やっぱり本気なんだな」
「仕方ありません。カレン様の立場を考えれば。ランティスに大きな被害をもたらしかねない話なわけですから、すんなり受けたほうがむしろ不自然でした。……カイルのほうは、あのあとなにがあったんですか?」

 カイルは一呼吸を入れてから、

「まず近衛騎士団の連中が十数人、孤児院にやって来た。様子見だっていってな。んで、次の日の朝、町の連中がいきなり押しかけてきたんだ。最初はなにかと思ったが、すぐにミーシャが狙いだってわかってな。母さんに言われたのもあって、仕方なく孤児院を出た。あとは七番艦でここまでまっすぐ逃げてきたってわけだ」

 地面に横になるカイル。

「様子見? 町の人たちは近衛騎士団がミーシャを捕らえにきたと言っていましたが」
「そうなのか? 母さんはそんなこと言ってなかったけどな」

 カイルの答えにシルヴィアは口に手を当てて考えこむ。
 ユランは嘘をつくような人ではない。彼女の言葉は信じて良いだろう。つまり近衛騎士団は本当にただの様子見で孤児院を訪れた。考えてみれば、捕縛目的なら強引に踏みこむなりしたはずだ。相手は海獣なのだから、容赦する理由などない。
 話が食い違っている。どういうことだろうか?

「……なあ。一ついいか」

 思考が途切れたところで、カイルが尋ねてきた。

「なんですか?」
「そもそもなんで町の連中は、ミーシャのことを知ってたんだと思う?」
「なんでって、それはカレン様が……」

 そこまで口にしたところで、シルヴィアは、はっとした。
 そうだ。いままでどうして気がつかなかったのだ。
 彼女の心中を察したように、カイルが途切れた言葉を引き取る。

「カレンはそんなヘマしないだろ。事が事だから絶対に秘匿させたはずだ。島に海獣が隠れているなんて町のみんなに知られたら、互いに疑心暗鬼になって下手したら犯人探しみたいなことが行われかねない。ミーシャを捕縛するまで、その存在は隠し通そうとしたはずだ」

 そうだ。わざわざ町中に情報を漏らして人々の不安を煽るなど、なんの意味もない。その程度のことに思い至らないカレンではない。
 とすると……。

「……誰かが故意に漏らした?」

 カイルは頷いた。

「おそらくな。たぶんカレンに近しい連中のなかに、勝手に騒ぎを大きくした奴がいるんだろう」
「ですが、もしそうだとして、いったい誰が? それになんのために?」
「分からん。カレンの失脚狙いか、あるいは別の理由があるのか……。まあ、耳に良い理由じゃないことだけは確かだろうな。だけど、いま問題なのはそこじゃない。これからどうするかだ」

 シルヴィアは頷いた。その通りだ。いま自分たちがなすべきは、ランティスとの関係を修復すること。そのためにガルグイユやミーシャには敵意がないと示すこと。すべてはそのあとだ。

「それについてなのですが、いまあの方は?」
「ここの大将か? 日課の見回りだとさ」
「み、見回り……ですか。なんか意外ですね」

 ガルグイユには恐れるものなどないような気もするが、おそらく仲間のためだろう。意外と自分たち人類と似たような習慣があるのは少し興味深かった。

「ガルグイユになにか用があるのか?」

 起き上がったカイルが尋ねる。

「ええ。実はお願いしたいことがありまして」
「頼みごと?」
「ランティスまで来てもらいたいんです」
「……はっ?」

 シルヴィアの突然の提案に、カイルは固まった。ただでさえ海獣に脅威を感じているランティスの人々の前にその親玉を引っ張り出すなど、それこそ喧嘩を売るようなものだ。
 だが、彼女は至って平静、大真面目だった。

「現状、ランティスの人々は海獣を恐れています。そして、私たちはその海獣と結託した裏切り者という状況です。おそらく有り体な言葉や行為では、ランティスの人々を納得させることはできないでしょう。ただ唯一、可能性があるとすれば、ガルグイユ……彼の言葉だと思います。彼は人の言葉を話せるから意思疎通が取れますし、またランティスの人々にとってなによりも脅威な存在。その彼が一緒にいるところを見てもらえれば……」
「最強の海獣と融和できたって証拠を見せることで、現状を覆そうってか……」

 顎を撫でながらその実効性を検分するカイル。
 後ろからはアヴリルとミーシャが黄色い声で騒いでいるのが聴こえる。
 あんな光景を、たとえばミーシャがランティスで走り回る姿を見れば、誰もがきっと理解してくれる……そんな甘い考えがシルヴィアの脳裏をかすめた。
 そのための一歩を、多少乱暴な方法で踏み出さなければならなくなった現実には苦い思いしかない。だが、まだ終わったわけでもない。

「逆に、結託してランティスを潰しにきたと思われそうな気がしないでもないが……たしかにそれが一番かもな。もう生半可な説得なんかじゃ、カレンたちも納得というか信じられないだろうし」

 考えこんでいたカイルもシルヴィアの一手に賛同した。彼の同意が得られると、彼女の心も幾分か軽くなった。

「とすると、いつここを出るんだ?」
「早いほうがいいですね。カレン様なら上手くやってくださると思いますが、カイルの言った通り、いもしない海獣探しが加熱して傷害事件などが起こる可能性もありますし」
「そうだな。問題は、あいつがここを離れられるのかってことだけど……」
「戻ってきたら、すぐに話します。もし無理であれば、なにか別の手段を早急に考えなければなりません」
「ああ。……っていうか、あの二人はいつまで騒いでるんだ?」

 カイルが呆れて振り返った先には、ミーシャを背負って走り回るアヴリルの姿があった。すでにヒィヒィ言っており、体力の限界のようだ。それでもミーシャは「あぶ! あぶ!」と笑顔でその頭を叩く。もっと速く走れと催促しているのだろう。

「よ、容赦ないですね……」
「……帰りは八番艦に乗ってもらうかな」

 激動のなかで久々に垣間見た穏やかな一幕をしみじみ眺めるシルヴィアとカイル。
 その視線にも気づかず、アヴリルはミーシャの叱咤に耐えながら「ひぇぇぇ……」と懸命に脚を動かしていた。
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