白船一番艦の受難

 相手の姿が見えた途端、クルーたちがざわついた。

「おそらく私たちの二隻が出たあと、事の次第を知って船を出したのでしょう」
「ちっ……なるべく悟られないようにそれとなく出てきたつもりだったのに……やっぱり甘かったってことか」
「仕方ありません。こうなった以上、振り切りましょう」
「簡単に言ってくれるね。相手はあのダグラスさんとライエさんだってのに」
「できると信じてますから」

 シルヴィアが即答で断言すると、リオは苦笑いを浮かべて、

「……都合の良いことばっかり」
「そうしろって言われたばかりですので。―――スターボード! 交戦準備!」

 シルヴィアの指示で船が右に転舵。針路を真東へ向ける。アヴリルの八番艦は左舷後方に位置し、同様の針路をとった。
 二番艦と四番艦は針路を北東へ向ける。
 風は北西。やや弱め。
 波は穏やか。荒れる気配はない。
 用意されたのは運に見放された、純粋に海戦の腕のみが左右する戦場。
 やがて、互いの距離が二〇〇メートルを切った。

「交戦旗!」

 一番艦のメインマストに、宣戦を告げる旗が上がる。
 ―――開戦。
 おそらくはランティス史上初。
 最強の船乗り同士による頂上決戦。
《白船》対《白船》の戦端が、開かれた。

「―――スターボード! スパンカー、ホールアウト!」

 最初に動いたのは一番艦だ。針路を南東へ向け、二・四番艦に寄せる。アヴリルの八番艦も続いた。
 その動きに相手も即座に反応した。二番艦はそのまま北東へ向かうが、後ろの四番艦がやや北へ舵を切る。一対一に持ちこむつもりだろう。

「信号機! 八番艦に二番艦の牽制を頼んでください!」

《白船》二隻を相手にしては、いかなシルヴィアと言えど、単騎で逃げ切るのは難しい。よって、ここは素直に相手の狙いに乗ることにした。

「ハードスターボード! 開き変え!」

 南西へ大きく回頭する一番艦。
 それを見た四番艦はタッキングで真西へ向かう。
 帆船は風を正面から受けては走れないため、風上へ向かうには風を斜めに切るように蛇行しながら走る必要がある。そうして転舵を繰り返しながら風上へ走る操船法、それがタッキングだ。
 だが、タッキングはその性質上、必ず帆を正面から受ける瞬間がある。そのため多少なりとも速力は落ちるし、未熟な船がやると、帆が裏を打って速力が完全に止まってしまう危険性が高い。そのため個々人の高い練度と高度なチームワークが必要だ。
 だが、四番艦のタッキングは驚くほど速く、速力もほとんど削られていない。その一度の転舵だけでも超一流だと分かる、それほどに見事なタッキングだった。

「さすがですね―――スターボード! スパンカー、ホールイン!」

 シルヴィアも針路を真西へ。四番艦と並走する航路を取る。
 相手は動かない。

「どうくると思う?」

 リオが尋ねる。

「おそらく弓隊でこちらの帆を削って船足を止め、乗りこんで制圧といったところでしょう。ライエさんは優しいですから、こちらに直接的な被害が出る方法は取らないと思います。ディノマイトはクルーが負傷するどころか《白船》を沈める可能性がありますから、まず使ってこないでしょう。―――ハードポート!」

 一番艦が南西を向く。さらに四番艦へ寄っていった。

「なるほどね。で、こっちは?」
「こちらも向こうを沈めるわけにはいきません。そこまでやると、対立が決定的になってしまいます。ですので、追跡を諦めてもらいましょう」
「諦めてもらう?」
「ええ。―――針路! 三度、西へ! スパンカー五度、ホールイン!」

 針路と帆の開きを微妙に変える。
 帆が風を受けて、速力がわずかに上がった。
 四番艦は針路を細かく変えている。少しずつ北西へ上がろうとしているようだ。

「ハードスターボード!」

 シルヴィアは針路を南西から真西へ。再び四番艦と並走する。その距離およそ一五〇。強弓なら十分に届く距離だ。

「ルックアウト! 前方に注意してください!」

 続けてメインマストの頂点に立つ見張りに針路上の警戒を促す。
 向かう先に待っているのは、ランティスだ。

「―――なるほど。そういうことかい」

 待ち受ける島を目の前に捉えたところで、リオもシルヴィアの狙いに気づいた。

「湾内にはまってもらおうってわけだ」
「ええ。ちょうど良い位置でしたしね」

 シルヴィアの戦略は単純だった。
 つまり四番艦にこのまま直進してもらい、ラグーンの港湾内で停止してもらうか、南へ転舵して自分たちから離れていってもらおうというわけだ。
 いま二隻は真西へ向かっている。そしてこのまま直進すれば、港の北に張り出した監視塔のある高台の岬が両船の間に割って入る。そのため一番艦は北へ、四番艦は南へ転舵するしかなくなるのだ。
 四番艦が一番艦を追うには、北へ転舵しなければならない。だが、いま風は北西から吹いているため、それは不可能だ。帆船は風に向かっては走れない。四番艦はすでに限界ぎりぎりの切り上がり角度で走っているため、舵を南には切れても北には切れない。
 シルヴィアがわざわざ南へ転舵して四番艦に寄っていったのは、四番艦が岬より北に移動しないようにするためだ。やや慎重に寄せたため時間はかかったが、なんとか間に合った。
 このまま西へ走り続け、四番艦にラグーン湾内へ入ってもらう。そのあとで一番艦を北へ逃がして距離をとり、そのまま東へ逃げる。それがシルヴィアの狙いだ。

(さて、どうくるでしょうか……)

 だが、彼女はまだ安心していなかった。
 なぜなら、相手はあの《白船》四番艦・艦長―――ライエ・エトランゼ。
 その剛力や美貌が注目されがちだが、船乗りとしての腕は《白船》艦長のなかでも一級だ。アカデメイアを卒業後、二〇年以上にわたって二番艦の長を張り続けるダグラスのもとで学び、その後はあのパーシバルが一番艦・艦長の時代に副長を務めていた実力者である。
 このまま終わるとは思えない。

「―――リオ」
「ん? なんだい?」
「急いで用意して欲しいものがあります」
「……用意?」

 シルヴィアがある指示を耳打ちすると、リオはそのまま船内へ姿を消した。
 直後、両船が岬に差しかかる。
 互いに並走したまま、その距離はおよそ五〇。

「舵このまま! 寄せられても転舵はしません!」

 一番艦は岬の北を目指して真西へ直進。四番艦は少しずつ寄せてきてはいるが、このままでは岬に追突するか、南に転舵するか、裏帆を打って止まって終わりだ。なにか打つ手があるとすればこのタイミングしかない。
 わずかな動きの変化も見逃すまいと相手に意識を集中するシルヴィア。
 そのとき、四番艦が動いた。

「―――ッ!」

 右舷に並んだ甲板上のクルーが一斉にディノマイトを放り投げたのだ。
 数えきれないほど大量のディノマイトが宙に舞い上がる。
 だが、明らかに一番艦まで届かない投げ方だ。
 いったいどういうつもりか?
 シルヴィアの疑問が解ける間もなく、そのすべてが二隻の中間で爆散。
 衝撃の余波で互いの帆が暴れるように揺れる。
 丸々と海上に立ちこめる巨大な爆煙。
 四番艦の姿もその向こうに完全に消えてしまった。

(いったいどこに……)

 煙を注視するシルヴィア。
 なにか嫌な予感がした。
 必死に目を凝らす。
 だが、その視線の先に四番艦はいなかった。
 ―――その先には。

「シルさん! 右舷だ! 右舷後方!」
「……えっ?」

 最初に気づいたのは見張りのクルーだった。
 咄嗟に右舷後方を振り向く。

 ―――四番艦だ。

 そこには、爆煙の塊から抜け出てくる四番艦の姿が、たしかにあった。

「……ッ!?」

 ありえない。いったいどうやって北に向かったのか。あそこで北に転舵すれば、間違いなく風を正面から受けて裏帆を打ったはずだ。
 だが、シルヴィアはその答えにすぐ気づいた。
 ―――四番艦のクルーたちは、帆を張り直していた。
 つまり四番艦は、帆をすべて絞って回頭したのだ。
 ライエの奇策にシルヴィアは思わず瞠目した。たしかにそうすれば、そもそも帆が風を受けないため、北へ上がることもできる。だが、海戦中に帆をすべて絞るなど常識では考えられない。帆を絞れば速力が一気に落ちるし、舵の利きも悪くなる。一歩間違えれば船が止まってしまい、カノンやディノマイトで狙い撃ちにされて沈没だ。
 しかし、これで形勢は完全に逆転。右舷後方を押さえられたことで、今度は一番艦が追いこまれた。しかも先の四番艦と違い、南は岬だ。そちらへ転舵すれば座礁してしまう。もちろん北に舵を切ることはできない。そして直進し続ければ、そのまま島に衝突して終了だ。
 取れる道は、ただ一つ。
 ―――自ら停船しての降伏。

「……やられましたね」

 万事休す。
 もはや打つ手は失われた。
 ―――おそらく誰もがそう思っただろう。
 だが、シルヴィアの瞳は輝きを失っていなかった。

「リオ!」

 彼女が呼ぶと、リオが一人のクルーと一緒に艦内から足早に出てきた。その手になにやら巨大な凧のようなものを持って。
 二人はそのまま船尾のほうへ向かう。
 そのあいだにも島が目前に迫ってきた。

「シルさんやばい! 島がもう目の前だ! 残り一〇〇を切った!」

 クルーたちの面に緊張が走る。

「ハードポート!」

 島まで距離八〇のところでシルヴィアが取舵一杯を指示した。
 即座に左へ転舵する一番艦。
 だがそちらは岬だ。このままでは激突する。

「リオ!」

 シルヴィアの指示でリオが持っていたなにか・・・を船尾から放り投げた。
 直後、回頭中の船体に強烈な逆向きの力がかかる。
 速力と舵行を一気に失う一番艦。
 だが、シルヴィアは気にも留めない。
 ―――いや。むしろこれこそが狙いだった。
 一番艦はそのまま強引に回頭し続ける。

「開き変え!」

 帆の開きを右舷から左舷へ。そのタイミングでリオがすかさずなにか・・・を手放す。

「針路一〇五度!」

 ―――そして一番艦は帆に風を受けて、そのまま再び走り始めた。
 岸壁に追いこんだ時点で半ば勝利を確信していた四番艦のクルーたちは、その一幕に言葉を失っていた。おそらく歴戦の船乗りをして想像の片隅にもなかった一手だったのだろう。
 ―――一番艦は、ほぼその場で一八〇度、回頭してみせたのだ。
 これこそがシルヴィアの狙いだった。
 四番艦の一発逆転を予期してリオに用意させていたのはシーアンカーだった。これは力がかかると巨大なムササビのように広がる袋状の錨の一種だ。回頭中にそれで速力を瞬間的に落とし、回頭を小回りにしたのだ。
 風上に向かって帆に裏を打たせて同様の結果を再現する方法もあった。だが、それくらいはライエも呼んでいるだろうと判断したシルヴィアは、シーアンカーを使うという乱暴な方法を取ったのだ。傍目には袋小路に追いこまれた船が停船を準備しているように見えただろう。一流同士で裏を取り合うには必然、常識を覆さなければならない。
 ……しかし、それでもやはり足りなかったようだ。

「総員! 操船要員を最低限だけ残して艦内に避難!」

 一番艦が回頭を終えた直後、四番艦は僅かに左へ転舵した。
 だが、そのまま回頭して一番艦を追走することはできない。岬にぶつかってしまうからだ。
 では、ディノマイトで最後の悪あがきか?
 いや違う。
 その答えは、いままさに一番艦へ向かってきていた。

 ―――宙を超えて。

 四番艦がわずかに南へ転舵したのは、少しでも一番艦との距離を詰めて、この跳躍を可能にするためだったのだ。
 その正体は―――一人の女だった。
 漆黒の外套を翻し、ただでさえ高い身の丈をさらに上回る斧槍を担いで一番艦へ降り立ったのは、ランティスに君臨する最強の船乗りの一人―――《白船》四番艦・艦長。

「……ライエさん」

 ライエ・エトランゼ。
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