白船一番艦の受難

◯神暦4852年 ランティス 海宮島 近海

「ハードスターボード! スパンカーブーム、ホールアウト!」

 艦長の号令とともに、甲板上のクルーたちが一斉に動き出した。操舵手は遅れも狂いもなく舵を右へ取り、各マストについた操帆手たちは一糸乱れぬ動きで帆桁を迅速に回す。
 船は大きく右へ回頭し、風を孕んだ帆が丸々と膨らんだ。

「針路一三五度! 二隻から距離五〇〇以上を維持して南下します!」

 続いた指示に従い、船は北西やや北よりからの風を受けて颯爽と走る。
 その船は帆やマスト、そして艤装の隅々までもが純白一色に包まれていた。だが、帆やロープなどはまだしも、船体それ自体を完璧な白一色で染め上げるのは、当代の技術では到底不可能だ。また、その船体のつくりも謎めいている。舷側やマストには継ぎ目が一つもなく、まるで巨大な白金の塊からを削り出したかのように見えるのだ。そこに費やされた技術は明らかに人間業ではなく、陽光を照り返して燦然と煌めく不思議な船体は、神の加護に満ち溢れているかのように美しい。
 事実、その船は長らく、神の業によるものと信じられてきた。
 ―――名を《白船》。
 古来より「永劫一点の穢れも知らず万里を駆ける」と伝わる、神の船だ。
 そんな《白船》の歴史は、一説によれば数千年もの時を遡る。
 この世の誕生を綴った神話《創海記》によれば、かつて人類は天に住まう神の逆鱗に触れ、神罰として未曾有の豪雨を被った。それはやがて《大災禍》と呼ばれる大洪水となり、一〇〇〇日にも亘って地上を蹂躙。結果、大地のほぼすべてが水に沈み、この世に《海》と呼ばれる新たな概念を生み出した。
 このとき神は、神の子と認めるに足る一握り人類へ《大災禍》を乗り切るための八隻の《方舟》を授けた。船体や帆、そして艤装までもが純白に輝く幻想的な帆船を。
 この《方舟》こそが《白船》であるというのが、現在の通説だ。
 ―――いま、その八隻のうち七隻が海上にあった。一番艦から六番艦、そして八番艦だ。
 その七隻に周囲を囲われるように、二隻の艦船が海上で対峙していた。こちらは普通の木造船だ。三本マストの横帆船と縦帆船。ともにカノンと呼ばれる艦載大砲兵器を四門ずつ備えている。そのうち横帆船の砲門はすべて開いており、縦帆船に向かって鉄の砲弾を容赦なく撃ち放っていた。
 カノンは非常に強力な兵器だ。一発でも当たれば船は浸水し始め、甲板に直撃すればクルーは確実に致命傷を負う。仲間内で向け合うなど正気の沙汰ではない。
 だが、横帆船の砲撃は止まらない。右舷のカノンを撃ち尽くすと、すぐに回頭して相手に左舷を向ける。そして続けざま左舷の四門が縦帆船に向かって火を噴いた。
 しかし、周囲の七隻の《白船》は二隻の逃げ道を押さえるように周囲を航走するだけだ。およそ人の手によるとは思えないその所業を止めようともしない。
 ―――それは試験だった。
 二隻は空位となった《白船》七番艦の艦長の座を巡り、その腕を競っているのだ。居合わせる七隻の《白船》はその試験官だった。

「……どちらが有利なの?」

 その戦況を尋ねたのは《白船》の一隻に乗っていた一人の少女だ。海色の艶やかなセミロングに同色の愛らしい瞳。その細身を船体以上に輝かしい純白の礼服に包んでおり、船乗りにあるまじき格式高い服装から相当な地位にあることが窺える。

「常識的に言えば、ローランさん―――横帆船のほうですね。常に風上を保持していますし、相手と一定の距離を保っています。縦帆船が横帆船より優れているのは機動力ですから、そこを警戒しているのでしょう」

 応じたのもまた少女だった。
 幻想的な短い銀髪に薄紫色の円な瞳。短い襟足をまとめた愛らしい空色のリボン。ノースリーブの白いシャツにチェック柄の蒼いスカートと同色のネクタイ、そして上から羽織る漆黒の外套という身形は《白船》の艦長に就任した女性用の制服だ。腰には革のベルトが巻かれており、背中側で交差した双剣が収められている。
 ―――シルヴィア・ベルグハイネ。
 史上最年少で《白船》の筆頭・一番艦の艦長に就任した「海女神の生まれ変わり」とまで称される稀代の船乗りだ。

「常識的に、というのは?」

 礼服の少女が首を傾げる。

「常識の通用する相手なら、という意味です。なにぶんやることが非常識ですからね、カイルの場合。―――ハードポート! スパンパーブーム、ホールイン!」

 質問に答えると、シルヴィアは南東に向かっていた自船を北東へ回頭。そして右舷に張り出していたすべての縦帆を、船体と並行になるように引き入れる。船体が回頭したため、帆の角度を変えないと風を受けられないからだ。
 直後、戦況が動いた。
 それまでカノンを躱すことに専念していた縦帆船が一転、北西へ転舵。風上を保持する横帆船に向かって走り出す。
 横帆船も縦帆船の動きに合わせて回頭し、カノンを向ける。だが、すんでのところで縦帆船が射角から外れてしまい、うまく照準がつかない。縦帆船はそのまま蛇行するように横帆船へ向かう。

「……撃てない?」
「はい。狙いをつけられると同時にタッキングで射角を外しています。このまま攻め上がるつもりでしょう」
「でも、あのまま近づいたら、そもそも射角から逃げられなくなるんじゃないの?」
「そうですね。的として大きくなりすぎるので、狙い撃ちにされて終わりです」
「……どうするつもりなのかしら」

 礼服の少女は不安からか、その裾を両手で軽く握り締めた。そんな彼女の気持ちを煽るように、縦帆船はさらに横帆船へと近づいていく。
 対する横帆船は砲撃を中止。だが、砲門は開けたままで、常に相手を射角に捉えるように船を走らせている。やはり引きつけて狙い撃つ作戦のようだ。
 南西へ向かう横帆船。北西へ向かう縦帆船。
 やがて互いの距離が二〇〇を切った。転舵しても射角を外せない距離だ。
 縦帆線が横帆船の航路と交差するようにその背後へ位置する。すると横帆船は北西へ転舵。相手を右舷に見て並走する針路を取った。その狙いは一つだ。
 直後、二発の砲撃音。
 横帆船の右舷カノンが火を噴いた。
 射角も距離も照準も完璧。これで終わりだ。横帆船のクルーは誰もがそう思っただろう。
 ―――だが、歓喜に染まるはずだった双眸は次の瞬間、驚愕によって見開かれた。
 撃ち出されたカノンが突如、二隻のあいだで暴発。木っ端微塵に爆砕し、大量の鉄の欠片と化して海に沈んだ。
 カノンが当たらなかったのだ。それどころか相手に届くことすらなかった。
 なんだ? なにが起こった? 表情を強張らせる横帆船のクルーたち。自らの仕事ぶりが完璧だったからこそ、予期せぬ事態に理解が追いつかない。
 その不安を振り払うかのように、つづけて最後尾の四番カノンを発射。だが、これも海上で爆散し、またしても相手には届かなかった。
 しかし、この一手で横帆船はカノン暴発の絡繰りをつかんだ。
 縦帆船は横帆船のカノンが撃ち放たれるのと同時に同番のカノンを発射。砲弾同士を直撃させて撃ち落としていたのだ。
 あまりにも非常識すぎる。高速で射出されるカノンにカノンを当てて撃墜するなど正気ではない。少しでもタイミングや射出角度を見誤れば、直撃を食らって海の藻屑だ。
 だが、その非常識さは見事に功を奏した。あいつらはなにをしてくるか分からない。そんな恐怖感が、横帆船のクルーたちの心に巣食い出したのだ。勝利の確信は一転、背後からひたひたと迫りくる敗北の足音に怯え、一気に揺らぎ始める。
 一連の流れを目撃した《白船》一番艦のクルーたちにも衝撃が走っていた。シルヴィアが礼服の少女を横目で見ると、やはり彼女も絶句したまま固まっている。

(……相変わらず無茶なやり方をしますね)

 一方、当のシルヴィアはさして驚いていなかった。縦帆船の艦長の技量や癖を知っていたからだ。彼は往々にしてこうした奇策で相手の裏を取り、その心を乱す戦法を好む。
 だが、それでも彼女の表情は冴えなかった。と言うのも、試験の目的に照らしたとき、彼の見せた操船はあまりに乱暴すぎたからである。
 この試験の最終評価は、ひとえに「艦長として相応しいかどうか」だ。候補者が一対一の海戦を行い、その戦いぶりから試験官を担う《白船》の艦長たちが素質を見極める。そしてより多くの艦長から評価されたほうが晴れて《白船》艦長の座につく。勝利はそもそも条件ですらない。たとえ勝とうと、相応しくないと判断されればそれまでだ。
 では、その《白船》の艦長になにより求められる力とは、なにか。
 それはハイレベルかつ確実な操船だ。
 船は沈めばそれで終わりだ。大勢のクルーの命が一瞬で犠牲となる。故障してもそこまで大事にならない馬車のような乗り物とは訳が違う。
 そのため、クルーの命を背負う艦長は、クルーの生存確率と確実性が最も高い操船を心がけなければならない。それも単独で未踏破海域を探索することが任務の《白船》の艦長には、それがいっそう高い次元で求められる。
 だが、相手のカノンに自分のカノンを衝突させて防ぐというのは、言わばその対極に位置する荒業だ。ほかの《白船》の艦長ならまずやらないだろう。

(これをほかの皆さんがどう判断するか……難しいところですね)

 横帆船はさらに右舷の二番カノンを発射。だが、彼らも先の一幕に驚愕したらしく、二射目から少し時間がかかってしまった。その隙に縦帆船は射角から外れ、次いで左に転舵。横帆船の針路を遮るように頭を押さえる。
 そこで両船が完全に停止した。縦帆船は風を正面から受けて裏帆を打ち、横帆船は針路を遮られたため自ら逆帆にしての停船。そして先に止まった縦帆船からクルーたちが得物を持って次々と横帆船の甲板へ雪崩れこみ、白兵戦となった。

「あら? ローランはなんで自分から船を止めたの? 左に曲がれば……」
「いえ、あれ以上は左に曲がれないんです。ローランさんの船は、すでに切り上がり角いっぱいで走っていましたから、左に転舵してもどのみち止まってしまいました。逆に、右へ転舵しますとカイルの船につっこんでしまい、下手をすると両船のカノンが暴発して大惨事になりかねません。ですので、自ら船を止めて白兵戦に備えるしかなかったんです」
「切り上がり角って?」
「はい。帆船は風を正面から受けては走れません。ですので、風上に向かう場合は必ず風向に対して斜めに走ります。そのときの進入角度が切り上がり角です。この角度―――切り上がり性能が優れている船ほど、向かい風に対して正面に近い角度で走れます。もちろん速力は落ちますけどね。ちなみに縦帆船のほうが横帆船より切り上がり性能に優れていて、横帆船の切り上がり角がだいたい六点くらいなのに対して、縦帆船は―――」
「……ちょ、ちょっと、シル?」

 礼服の少女が怪訝そうな表情でシルヴィアの外套を引っ張る。

「―――また、昔はガレー船という船もありました。これはオールで漕いで進む船です。風がないと進めず方向転換も自由にできない帆船に対して、ガレー船は人力ですので、理論上は自由に走れました。ただ一方、帆船と違ってオールの漕ぎ手を必要とし、また彼らのための食料を積む必要があるというデメリットがあったので、結局は一長一短ですね。さらに人の体力には限界がありますので、そこまで長距離は走れません。遠洋航海には向かず、せいぜいが近海で海獣を警戒するのが関の山でした。ですが、それでは新天地の探索などままなりません。言い換えれば、帆船とは言わば―――」

 しかし、彼女の口は止めどなく帆船講義を流し続ける。
 とても楽しそうに。
 とびっきりの笑顔で。
 そんな彼女の横顔を、呆然と見つめる礼服の少女。
 そして、また始まったと言わんばかりに大きな溜め息を零す操舵手や操帆手たち。
 その中心で痛々しい視線や空気を欠片も意に介さず、虚空に向かって雄弁に講釈を語り続ける意気揚々のシルヴィア。
 やがて一番艦の副長の少女が、申し訳なさそうに礼服の少女に頭を下げて、

「……も、申し訳ありません、カレン様。シルは船のことになると、いつもこうで……先にお伝えしておくべきでした……」
「……ああ、べつにかまわないわ。なんか珍獣みつけたみたいで面白いし……まあ、ここまで話したがりの船マニアだとはさすがに知らなかったけど……あなたたちも大変ね」

 礼服の少女―――カレンは、まさに珍獣を見るような白い目でシルヴィアを一瞥し、副長はじめクルーたちを労ってから大きく息を吸うと、

「―――シル!」
「はい! 質問ですか?」

 とても嬉しそうにカレンを振り返るシルヴィア。

「その話、まだ続けるの?」

 だが、カレンに長話を指摘された彼女は、途端に笑顔のまま凍りついた。
 失態に気づいた彼女の全身からは大量の冷や汗が流れ出し、その体は見る見る縮んでいき、面は煙でも噴き出すのかと言わんばかりに赤く赤く染まっていく。

「まったく。いまは試験中よ。独演会はほどほどにしておきなさい」
「……は、はい」

 それから試験が終わるまで、史上最高・完全無欠の船乗りとまで評される彼女は、呆れる元首の横で肩身を狭くし、ただただうつむくばかりだった。
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