白船一番艦の受難
ネイサン通りの西の端。ラグーンの最北西に騎士団の詰所はあった。その外見は煉瓦造りの無骨な建物で、一見すると図書館や研究所などの学術機関を思わせる。
だが、牢獄のある地下はまるで別物だった。
壁という壁は石材で埋め尽くされており、個室の入口は重い鉄扉でしかも鍵つき。もちろん窓はないため陽の光は届かない。灯りは頼りなく燃える室内灯が一つだけだ。
一方、その広さは一人用にしては十分で、寝台も不便や不快を感じないくらいしっかりしたものが置かれていた。もっとも《白船》の艦長という役を持つシルヴィアだからこそ、そうした部屋を充てがわれただけかもしれないが。
だが、総じて評価すれば、お世辞にも心地良い造りの部屋ではない。
そんな仄暗い軟禁部屋に閉じこめられて、早くも一時間がたとうとしていた。
外は昼すぎだろうか。灯りを見つめながらシルヴィアは薄ぼんやりと思う。
ここに放りこまれてからは、ただ寝台で横になって時間を無駄に浪費するばかりだ。尋問はまだのようで、部屋を訪れる者もいない。
(これからどうすれば……)
シルヴィアは、カレンに裏切られたショックで回らない頭を、なんとか振り絞る。今後について考えをまとめなければと自らを奮い立たせながら。
まずここを出なければ話にならない。だが、よしんば出られたとして、その先はどうする? 仮に軟禁を解除されても謹慎は確実だ。一番艦は当分、走れないだろう。そのあいだに島民たちは密かに犯人探しを始め、海獣に対する不安と憎悪を募らせるはずだ。そうなると、もはや共存どころではない。
当初はカレンの協力を仰ぎ、その下で事を進める予定だった。だが、カレンはもう頼れない。それはつまり、このランティスを頼れないということでもある。
唯一、協力してくれる可能性があるのは、事情を共有しているカイルとアヴリルだけだ。
だが、カイルはあの騒ぎのなかでも、孤児院から出てこなかった。こどもたちと部屋にいたのかもしれないが、彼の性格からそれは考えにくい。となれば、おそらくユランがミーシャを逃がしたとき、彼も一緒に孤児院を出たのだろう。その居場所を突き止めれば、協力を得られるかもしれない。
アヴリルは自分の言うことならば、なんでも協力してくれるだろう。たとえランティスを裏切るような真似であっても。そんな彼女の性格に頼るのは隙をつくようで気が進まないが、いまは手段を選んでいられる状況ではない。
シルヴィアは、ひとまずアヴリルと連絡を取る方法を考えることにした。カイルの所在は分からないが、彼女はきっとラグーンにいる。なんとかここを出て、彼女を見つけ、今後について考えなければ……。
そう方針をまとめたときだった。
(……なに?)
突然、細かい埃や砂礫が天井からぱらぱら降ってきた。部屋が震えているのだ。
続けて、なにやら荒々しい物音が聴こえてくる。なかに叫ぶような声も混ざっていた。悲鳴だろうか。
物音はどんどん大きくなり、やがて猛獣が唐突に踏みこんできたかのような狂乱にまで膨れ上がった。巨大な地震と遜色ない揺れが地階全体を震わせ、いまにも天井が抜けそうだ。
いったいなにが……?
ただただ困惑するシルヴィアだったが、彼女はすぐにその猛獣の正体を知ることになる。
「シルヴィアさまー! どこですかー!」
「アヴリル!?」
まさにいま想起していた人物の登場に、シルヴィアは寝台から飛び起きて鉄扉に駆け寄った。その声で彼女の居場所に気づいたアヴリルがすぐさま駆け寄ってくる。
「シルヴィアさま! 大丈夫ですか!?」
「え、ええ。ですが、あなた一体なにしに……」
「助けに来たんですよ! 決まってるじゃないですか!」
どうやら単身で詰所に乗りこんできたらしい。
「そんな……そんなことをすれば、あなたが無事ではすみません。こちらはべつに処罰があるわけではなく、ただ少し話を聴かれて、それで終わりです」
「だからそんな場合じゃなくなってきてるんですよ! 一部の過激な連中が、二度と海獣を擁護するヤツが出ないように、シルヴィアさまを厳罰にしろって騒いでるんです!」
「えっ……」
事態は予想もしない方向へ転がっていた。
「もちろんカレンさまはそんなことしないと思いますけど、でもこのままランティスにいたら危険ですし、ミーシャの件もどうしようもなくなっちゃいます!」
「そ、そんな……」
「とにかくです! ここ開けますから扉から離れてください!」
アヴリルに言われた通り、シルヴィアは扉から離れて横へ退く。直後、彼女が振り下ろしたグランシャリオが、轟音と共に鉄扉を壁ごと破壊した。粉塵が大量に舞い上がり、煙幕で部屋中が埋め尽くされる。
「さあ! 早く出ましょう! 全員気絶させてありますけど、もたもたしてたら増援が来ちゃいます!」
煙を抜けてアヴリルが部屋に飛びこんできた。右手でグランシャリオを肩に担ぎ、左手には軟禁前に取り上げられたシルヴィアの双剣ヴァルフレアが握られている。
アヴリルからヴァルフレアを受け取ると、そのベルトを腰に巻き、彼女の後について急いで地上階へ駆け上がった。道中には何人もの昏倒した騎士が倒れている。
「こっちです!」
アヴリルは牢獄のある棟から出ると、入口とは逆の北側へ敷地を走る。裏から逃げるつもりのようだ。
道中、騒ぎを聴きつけた増援が制止に立ちはだかるも、アヴリルの一撃で容赦なく吹き飛ばされていく。加減はしているため大惨事にはなっていない。
北にある騎士寮の密集地を抜けると修練場が見えてきた。朝から大勢が修行に励んでいたのか、結構な数の騎士が壁となって待ち受けている。だが、それも「どけどけー!」と突撃するアヴリルの前に五秒と保たなかった。構えた剣や槍を次々と粉砕され、立て続けに地に伏していく。
二人は修練場を横に見てそのままさらに北へ。最後に立ちはだかったのは、高さ5メートルほどの石壁だ。だが、二人の前には大した障害ではない。中段あたりに跳びついて足をかけると、そのまま一気に頂点を掴んで壁を越える。
降り立ったのは、ラグーンの北に広がる広大な森。10メートルを超える木々が乱雑に群生しており、その緑は昼でも陽光が届かないほどに深い。だが、二人は慣れた足取りで速度を落とすことなく抜けていく。
ここまで一見、順調に見える逃走劇。
しかし、この行く末には一つの問題があった。
「ど、どこに行くんですか!? この先には崖しかありませんよ!」
そう。森を抜けた先にあるのは、断崖絶壁だけなのだ。
「大丈夫です!」
だが、アヴリルに躊躇はない。
不安を抱えたまま森を走るシルヴィア。少し前まで聴こえていた追跡者たちの声も、いまは全くなくなっていた。足場の悪さと道選びに手こずっているのだろう。
しかしこの先は袋小路だ。遅かれ早かれ捕縛されてしまう。アヴリルの狙いは一体なんなのか。その答えを考えているうちに二人は森を抜けた。
目の前にあるのは、ただただ広大な海。
ラグーンの喧騒など微塵も感じさせないほどに静かな澄み渡った海だ。
それ以外にはなにもない。
「ア、アヴリル?」
「もうちょっと待ってください。そろそろ来るはず―――あっ、来た!」
アヴリルが西の海上を指差した。
そちらを不安気に見遣るシルヴィア。
見えるのは、海に張り出した岸壁。
―――その陰から、それは現れた。
だが、牢獄のある地下はまるで別物だった。
壁という壁は石材で埋め尽くされており、個室の入口は重い鉄扉でしかも鍵つき。もちろん窓はないため陽の光は届かない。灯りは頼りなく燃える室内灯が一つだけだ。
一方、その広さは一人用にしては十分で、寝台も不便や不快を感じないくらいしっかりしたものが置かれていた。もっとも《白船》の艦長という役を持つシルヴィアだからこそ、そうした部屋を充てがわれただけかもしれないが。
だが、総じて評価すれば、お世辞にも心地良い造りの部屋ではない。
そんな仄暗い軟禁部屋に閉じこめられて、早くも一時間がたとうとしていた。
外は昼すぎだろうか。灯りを見つめながらシルヴィアは薄ぼんやりと思う。
ここに放りこまれてからは、ただ寝台で横になって時間を無駄に浪費するばかりだ。尋問はまだのようで、部屋を訪れる者もいない。
(これからどうすれば……)
シルヴィアは、カレンに裏切られたショックで回らない頭を、なんとか振り絞る。今後について考えをまとめなければと自らを奮い立たせながら。
まずここを出なければ話にならない。だが、よしんば出られたとして、その先はどうする? 仮に軟禁を解除されても謹慎は確実だ。一番艦は当分、走れないだろう。そのあいだに島民たちは密かに犯人探しを始め、海獣に対する不安と憎悪を募らせるはずだ。そうなると、もはや共存どころではない。
当初はカレンの協力を仰ぎ、その下で事を進める予定だった。だが、カレンはもう頼れない。それはつまり、このランティスを頼れないということでもある。
唯一、協力してくれる可能性があるのは、事情を共有しているカイルとアヴリルだけだ。
だが、カイルはあの騒ぎのなかでも、孤児院から出てこなかった。こどもたちと部屋にいたのかもしれないが、彼の性格からそれは考えにくい。となれば、おそらくユランがミーシャを逃がしたとき、彼も一緒に孤児院を出たのだろう。その居場所を突き止めれば、協力を得られるかもしれない。
アヴリルは自分の言うことならば、なんでも協力してくれるだろう。たとえランティスを裏切るような真似であっても。そんな彼女の性格に頼るのは隙をつくようで気が進まないが、いまは手段を選んでいられる状況ではない。
シルヴィアは、ひとまずアヴリルと連絡を取る方法を考えることにした。カイルの所在は分からないが、彼女はきっとラグーンにいる。なんとかここを出て、彼女を見つけ、今後について考えなければ……。
そう方針をまとめたときだった。
(……なに?)
突然、細かい埃や砂礫が天井からぱらぱら降ってきた。部屋が震えているのだ。
続けて、なにやら荒々しい物音が聴こえてくる。なかに叫ぶような声も混ざっていた。悲鳴だろうか。
物音はどんどん大きくなり、やがて猛獣が唐突に踏みこんできたかのような狂乱にまで膨れ上がった。巨大な地震と遜色ない揺れが地階全体を震わせ、いまにも天井が抜けそうだ。
いったいなにが……?
ただただ困惑するシルヴィアだったが、彼女はすぐにその猛獣の正体を知ることになる。
「シルヴィアさまー! どこですかー!」
「アヴリル!?」
まさにいま想起していた人物の登場に、シルヴィアは寝台から飛び起きて鉄扉に駆け寄った。その声で彼女の居場所に気づいたアヴリルがすぐさま駆け寄ってくる。
「シルヴィアさま! 大丈夫ですか!?」
「え、ええ。ですが、あなた一体なにしに……」
「助けに来たんですよ! 決まってるじゃないですか!」
どうやら単身で詰所に乗りこんできたらしい。
「そんな……そんなことをすれば、あなたが無事ではすみません。こちらはべつに処罰があるわけではなく、ただ少し話を聴かれて、それで終わりです」
「だからそんな場合じゃなくなってきてるんですよ! 一部の過激な連中が、二度と海獣を擁護するヤツが出ないように、シルヴィアさまを厳罰にしろって騒いでるんです!」
「えっ……」
事態は予想もしない方向へ転がっていた。
「もちろんカレンさまはそんなことしないと思いますけど、でもこのままランティスにいたら危険ですし、ミーシャの件もどうしようもなくなっちゃいます!」
「そ、そんな……」
「とにかくです! ここ開けますから扉から離れてください!」
アヴリルに言われた通り、シルヴィアは扉から離れて横へ退く。直後、彼女が振り下ろしたグランシャリオが、轟音と共に鉄扉を壁ごと破壊した。粉塵が大量に舞い上がり、煙幕で部屋中が埋め尽くされる。
「さあ! 早く出ましょう! 全員気絶させてありますけど、もたもたしてたら増援が来ちゃいます!」
煙を抜けてアヴリルが部屋に飛びこんできた。右手でグランシャリオを肩に担ぎ、左手には軟禁前に取り上げられたシルヴィアの双剣ヴァルフレアが握られている。
アヴリルからヴァルフレアを受け取ると、そのベルトを腰に巻き、彼女の後について急いで地上階へ駆け上がった。道中には何人もの昏倒した騎士が倒れている。
「こっちです!」
アヴリルは牢獄のある棟から出ると、入口とは逆の北側へ敷地を走る。裏から逃げるつもりのようだ。
道中、騒ぎを聴きつけた増援が制止に立ちはだかるも、アヴリルの一撃で容赦なく吹き飛ばされていく。加減はしているため大惨事にはなっていない。
北にある騎士寮の密集地を抜けると修練場が見えてきた。朝から大勢が修行に励んでいたのか、結構な数の騎士が壁となって待ち受けている。だが、それも「どけどけー!」と突撃するアヴリルの前に五秒と保たなかった。構えた剣や槍を次々と粉砕され、立て続けに地に伏していく。
二人は修練場を横に見てそのままさらに北へ。最後に立ちはだかったのは、高さ5メートルほどの石壁だ。だが、二人の前には大した障害ではない。中段あたりに跳びついて足をかけると、そのまま一気に頂点を掴んで壁を越える。
降り立ったのは、ラグーンの北に広がる広大な森。10メートルを超える木々が乱雑に群生しており、その緑は昼でも陽光が届かないほどに深い。だが、二人は慣れた足取りで速度を落とすことなく抜けていく。
ここまで一見、順調に見える逃走劇。
しかし、この行く末には一つの問題があった。
「ど、どこに行くんですか!? この先には崖しかありませんよ!」
そう。森を抜けた先にあるのは、断崖絶壁だけなのだ。
「大丈夫です!」
だが、アヴリルに躊躇はない。
不安を抱えたまま森を走るシルヴィア。少し前まで聴こえていた追跡者たちの声も、いまは全くなくなっていた。足場の悪さと道選びに手こずっているのだろう。
しかしこの先は袋小路だ。遅かれ早かれ捕縛されてしまう。アヴリルの狙いは一体なんなのか。その答えを考えているうちに二人は森を抜けた。
目の前にあるのは、ただただ広大な海。
ラグーンの喧騒など微塵も感じさせないほどに静かな澄み渡った海だ。
それ以外にはなにもない。
「ア、アヴリル?」
「もうちょっと待ってください。そろそろ来るはず―――あっ、来た!」
アヴリルが西の海上を指差した。
そちらを不安気に見遣るシルヴィア。
見えるのは、海に張り出した岸壁。
―――その陰から、それは現れた。