白船一番艦の受難

◯四九日目 海塔島 商業都市ラグーン

 翌日。朝六時。シルヴィアはいつもより早く目を覚ました。
 と言っても、起きたくて起きたわけではなかった。外がいつも以上に騒がしかったのだ。

(……なんか騒がしいですね)

 彼女が暮らす集合住宅はミルディアス通りに面しているため、毎朝にぎやかではある。だが、その日の朝の喧騒はいつもの心地良い賑やかさと違い、どこかぴりぴりした緊張感を孕んだ不穏な騒がしさだった。
 もっとも、それでも、いつもならそこまで気にしなかったかもしれない。
 だが、その日ばかりは事情が違った。

(―――まさか!?)

 眠気を一瞬で吹き飛ばすほどの胸騒ぎがシルヴィアを襲う。
 急いで寝巻きから制服に着替えて自宅を飛び出すシルヴィア。そして集合住宅の一階まで駆け下り、入口近くにいた女性をつかまえる。

「すみません。朝から騒がしいようですけど、なにかあったんですか?」
「あ、シルヴィア様。それが、町外れの孤児院でなにやら騒ぎがあったらしくて……私もよく分からないんですけど」
「……こ、孤児院で騒ぎ?」

 嫌な予感がした。
 シルヴィアは女性への礼も忘れ、急いで孤児院へ向かって走り出した。逸る鼓動が不吉な予兆のようで憎らしい。不安に早鐘を打つ心臓をごまかすように、体力を限界まで振り絞って現場へ駆けつける。
 ミルディアス通りの奥まで来ると、野次馬と思しき人集りが見えてきた。その向こうから怒りや困惑、悲しみなど仄暗い感情を宿した声が聴こえてくる。
 野次馬の壁をなんとか掻き分けて抜けると、孤児院の入口で大勢の人が寄ってたかって誰かを蹴りつけたり角材で殴りつけたりしているのが見えた。

「なにをしてるんですか!」

 シルヴィアの怒声に寄り集まった群衆が振り返る。鬼気迫る形相と気勢で歩み寄る彼女に怖気づいたのか、彼らはあっさりと横に退いた。
 そして割れるように開かれた道の先には、一人の女性が倒れていた。

「ユ、ユランさん!?」

 慌てて彼女に駆け寄り、抱き起こすシルヴィア。その全身は傷と痣だらけで、意識を失ったまま微動だにしない。それほど大量ではないが頭からも出血している。

「これは一体どういうことですか!」

 シルヴィアが怒りを爆発させる。
 すると角材を持った一人の男が言い訳を慌てるこどものように叫んだ。

「そ、その女がいけないんです! か、海獣なんか匿って……」

 彼の答えにシルヴィアは一瞬びくりと凍りついた。だが、咄嗟に感づかれないように平静を装う。

「い、いったいなにを言って……」
「本当です! それに昨夜、近衛騎士団がその海獣を捕らえに孤児院を訪れたとき、密かに外に逃がしたんですよ! 本人だって認めました!」
「―――ッ!?」

 彼の言葉にシルヴィアは絶句した。
 だが、それはもちろんユランの所業を知ってではない。

(こ、近衛騎士団が……なんで!?)

 近衛騎士団が海獣―――つまりミーシャを捕縛に来た事実を知ったからだ。
 ランティスはその置かれた環境もあって、艦隊の整備に特に力を入れているが、一方で陸上の戦力―――騎士団もある程度は培われている。そのなかでも精鋭が集まっているのが、カレンの護衛を任とする近衛騎士団だ。彼女が海に出るときには、近衛艦隊に海兵としても乗艦する。ちなみにパーシバルは近衛艦隊の司令であると同時に近衛騎士団長でもある。
 そんな彼らがミーシャの捕縛に来た事実が意味するところは、ただ一つ。

 ―――カレンがミーシャの捕縛を命じたのだ。

「おまけにその海獣は人の姿になれる海獣で……こ、ここの孤児院のこどもは全員、拾われた海獣なんだ! 人に化けて俺たちを滅ぼすつもりなんだ!」

 まるで発狂したように気違いな意見を捲し立てる男。
 だが、彼の言葉をきっかけに、周りにいた人たちも声高に「そうだ!」「そいつは裏切りものだ!」「邪魔しないで!」「ここは海獣の巣も同然だ!」「潰せ!」「やっちまえ!」などと一斉に叫び出し、しまいには「シルヴィア様は海獣の味方をするんですか!?」「私たちを裏切るの!?」と、その矛先が次第にシルヴィアへ向きつつあった。
 この瞬間、彼女のなかで騒動を目にしたときから抱いていた一つの疑問が解消した。
 いくら海獣を匿っていたとはいえ、それだけで一人の女性を複数人で袋叩きにするなど尋常ではない。一夜にして彼らの心に火を点けた要因がなんだったのか、彼女は掴み倦ねていた。
 だが、男の言葉で分かった。おそらくどこからか「海獣が人の姿に化けて、ランティスを滅ぼそうとしている」といった類の噂が先に回ったのだ。そして、その潜伏先として孤児院が上がった。
 海獣に強い憎しみを持っている島民は多い。―――いや。多いなどという規模ではない。たとえば、父と夫と息子、三世代に亘って家族を海獣に奪われた女性を、シルヴィアは数えきれないほど知っている。
 常日頃から憎しみを燃やし続けている彼や彼女が「海獣が人に化けて自分たちを滅ぼそうとしている」などという噂を耳にすれば、心穏やかではいられない。正義感に駆られ、間違いなく犯人探しが行われるだろう。見つけた途端に殺そうとしても不思議ではない。

「その女は海獣の手先なんだ!」
「人間の屑だ! 俺たちを裏切りやがった!」
「どいてください! シルヴィア様!」
「殺せ!」
「全員殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!」

 どす黒い熱狂に包まれた群衆から叫声が上がる。その熱に当てられたのか、二人の角材を持った男が突っこんできた。
 だが、振りかぶられた得物が、ユランに届くことはなかった。

「「ッ!?」」

 一撃を見舞おうと息巻いて突撃してきた二人の顔が一瞬で青くなる。
 角材の手元から先が、音もなく消え去っていたのだ。
 その事実に遅れて気づいた二人は、いったいなにが起きたのか分からず、握った木片を見つめて茫然とするしかなかった。

「……下がりなさい」

 シルヴィアがゆっくりと立ち上がる。その手に元首より授かった刻聖器―――双剣ヴァルフレアの一振りを握り、その目は静かな激情に燃え盛っていた。
 彼女の気迫で、盛り上がっていた群衆が一斉に静まり返った。その口から言葉が失われ、体が強張り、金縛りにでもあったかのように動けずにいる。
 だが、一部では「……海獣を、かばった?」と不穏な表情を浮かべる者もいた。
 恐怖や疑惑、失望、悲哀……ありとあらゆる後ろ暗い感情が一帯に渦巻き始める。

「これはいったい何事だい?」

 静まったタイミングを狙い澄ましたように群衆の外で力強い声が響いた。
 振り向いた全員の視線を集めたのは、大勢の近衛騎士とその先頭に立つパーシバルだった。どうやら騒ぎを聴きつけて出向いてきたようだ。彼の隣にはカレンの姿もあった。
 元首の登場で物々しい雰囲気に包まれる孤児院。
 ざわめく群集を二つに割りながら悠然と歩を進めるカレンと近衛騎士団。シルヴィアの腕のなかで横たわるユランに気づくと、彼女の瞳が見る見る凍てついた。

「……これはどういうこと?」

 威圧的な声色と険しい表情で二人の男とシルヴィアを問い質すカレン。男たちはなにやら釈明しようとあたふたしていたが、彼女の威圧感に気圧されて言葉が出てこない。そこで代わりにシルヴィアが事実のみを説明する。
 黙って話を聴いていたカレンは、やがて事情を把握すると即座に対応を口にする。

「……パーシバルさん。ユランさんを急いで医療院へ。あと、この件に関わったものを全員、騎士団の詰所に軟禁して。直に話を聴かせてもらうわ。もちろんシル、あなたもよ。ユランさんを守るために剣を抜いたのは大目に見るけど、背信の可能性は流石に看過できないわ」
「―――ッ! そ、それは……っ!」
「なに?」

 シルヴィアの二の句をカレンが一言で封殺する。彼女の放つ思わず身を引くほどの威光を前に、シルヴィアは堪らず「い、いえ……」と口を噤み、目を逸らした。
 だが、その心中は穏やかではなかった。―――これでは昨夜と話が違う。カレンは協力を約束してくれたはずだ。それにも関わらず背信容疑とは一体どういうことか。
 予期せぬ理不尽を突きつけられた彼女の両拳は、いつの間にか、らしくもなく固く握り締められていた。
 しかし一方で、その理由を必死に考察しようとする自分もいた。もし自分を捕縛するつもりなら、ここで昨夜の一件を公然と暴露すればいいはずだ。だが、カレンはそうしていない。とすれば、彼女の先の宣告は、この場を穏便に切り抜けるための方便ではないか? 最低限の自分をこの場から引き離すための。……そうだ、きっとそうに違いない、と。
 自分に必死に言い聴かせて、理性で感情を抑えこむシルヴィア。そうでもしないと、カレンへの忠義心が揺らぎかねないほど彼女の心は乱れていた。
 そんな彼女には一瞥も呉れず、カレンはパーシバルに指示を出し、近衛騎士団を動員して事態の収拾にかかる。野次馬は徐々に追い払われ、事件に関与した島民たちは騎士に囲われてネイサン通りにある詰所まで連行されていった。
 シルヴィアも騎士の一人に促され、覚束ない足取りを刻む。
 気持ちのせいか、体が重い。
 前を向けない。
 音が遠のく。

「―――シル」
「……?」

 カレンが横を通り過ぎるシルヴィアに呼びかけた。
 反射的に振り向くシルヴィア。だが、カレンは目を合わせてくれない。

「あなた、なにか勘違いしているようだから、一つだけ言っておくわ」
「……えっ?」

 呆けるシルヴィアに向けてカレンが視線を横に流す。
 毅然とした瞳で。



「私はあなたの友人のカレン・カルヴァートである前に、このランティスとすべての民を背負うことを託された、カレン・《ミルディアス》・カルヴァートよ。―――この意味、あなたなら分かるわね?」



 そして、カレンは歩き出した。
 友には一瞥も呉れず、残った近衛騎士団の輪に合流する。
 その背中は、突き放すように冷たかった。

「……カ、カレン……様?」

 シルヴィアは、思わずその腕をカレンに向かって伸ばしていた。
 直視できない現実を否定するかのように。
 だが、それも、もはやカレンには届かない。
 その腕は絶望に打ち拉がれるように、虚空で萎れた。
 シルヴィアの面から、見る見る生気が抜け落ちていく。
 違うと言って。
 嘘だと言って。
 ―――だが、カレンの真意は、もはや明らかだった。
 彼女はミーシャを捕縛し、彼女が探す謎の人物を炙り出そうとしているのだ。
 すべての民の安全の万全を期すために。
 その事実に行き着いたとき、シルヴィアの抱いた淡い希望は木っ端微塵に打ち砕かれた。
 カレンがこの場で自分を裁かなかったのは、ただの温情だ。
 せめて人前で背信を咎めることだけは勘弁してやろうというだけのこと。

 ―――裏切られたのだ。

 その衝撃に完膚なきまでに打ちのめされたシルヴィアは、愕然と両膝をついた。瞳は死んだように光を失い、どこともつかない虚空の一点に結ばれている。その全身は残った騎士が肩を貸さなければ歩けないほど、脱力しきっていた。
 もはや意識も心も、ここにあらず。
 シルヴィアは引きずられるように、詰所までの道のりを歩いていった。
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