白船一番艦の受難
◯四八日目 ランティス 近海
ランティスを発ってから、およそ一ヶ月半。
シルヴィアたちは、再び故郷へ戻ってきた。
「結局、行って来いになったね」
前方に微かに見える島影を見つめながらリオがしみじみと呟く。
「しかし、あそこまで行っても、あの子のことはなにも分からずじまいか。いったいどっから来た子なんだかね」
「……ええ」
リオの疑問に、シルヴィアは短く答えるだけに止めた。
シルヴィアたちはまだ、あの少女―――ミーシャの真実をクルーには黙っていた。彼女の正体はもちろん、あの《伝説の八龍》が存在し、その一頭に共存を提案されたなど、信じてもらうには流石に突拍子もなさすぎる上、リスクが大きすぎるからだ。
そんな仲間を騙し続けるような真似に、シルヴィアは気まずさを覚えていた。だが、迷惑がかかるよりはましだと自分に言い聴かせて疼く心を抑えこむ。全てを知ってしまえば、もし事が望ましくない結果を迎えたとき、リオたちも裏切り者と誤解されてしまいかねない。
クルーたちが忙しなく働き回る甲板上で、シルヴィアはただ一人、沈んだ表情で水平線を眺めていた。
―――その心に滲むのは、透き通るような罪悪感。
仲間を欺き続ける後ろめたさが、彼女の潔癖な精神を日々日々蝕んでいた。
胸の奥に突き刺さったまま、いくつ夜が明けても決して抜けない不可視の刃が、心に食いこむ。
……だが、すべては自分で決めたことだ。
背負うべき痛みと向き合いながら、シルヴィアは静かに海を眺めていた。
その日の夕方、三隻はランティスの北東、ラグーンの港へ入った。
「あれ? 二番艦と四番艦?」
「ダグラスさんとライエさんも、戻っているみたいですね」
彼女たちが船を入れた隣には、二番艦と四番艦が並んで停泊していた。純白の船体が夕陽を背負って燃えるように美しく輝いている。その向こうには五番艦もあった。最近はミネルヴァが研究で忙しくしているため、ラグーンにいることが多い。
シルヴィアがクルーたちに自由行動を告げると、当直を除いたクルーは全員、船を降りて港に上がった。いつにもまして無理を強いた航海だっただけに、気を張り続けていた彼らの足取りはいつもの帰港以上に軽い。
港には事前に一番艦の帰港をつかんでいた町の人たちが待っていた。クルーの家族や恋人たちだ。こどもたちが父親に抱きついてはしゃいだり、友人が手荒く出迎えてくれたり、港が一気に賑わいを見せる。
七番艦と八番艦のほうを見ると、そちらでも同様の光景が広がっていた。すでに家族がいないシルヴィアにとって、その光景は微笑ましいものでもあり、少し羨ましくもある。そんな胸中を反映するかのように、甲板から港を見下ろす彼女の横顔は、憂いを帯びた微笑みを湛えていた。
「んで? あんたは今日も船にこもるのかい?」
そんな彼女を気遣ってか、リオが後ろから覆いかぶさるように抱きついてきた。
「な、なんでそんなに降ろしたがるんですか」
「そりゃ、あんたの寝台の下を覗くために……」
「もうなにもないです!」
「ははっ、冗談だよ。―――まあでも真面目な話、ちょっとはちゃんと休んできな。パンデモニウムを出てから、なんか顔色が悪いしね」
「べつにそんなこと……それに今回は言われなくても降りますよ。ちょっと用があるので」
「おっ! 男!? 男!?」
「違います!」
必死に否定するシルヴィアを、けらけらと笑うリオ。彼女はどうあっても異性をネタに自分をからかいたいらしい。
むすっと膨れっ面を浮かべたまま、シルヴィアはタラップを歩く。降り立った港ではカイルとアヴリル、そしてミーシャが待っていた。
「なに騒いでたんだ?」
どうやらリオとのやりとりが船の外にまで聴こえていたらしい。シルヴィアは「べつになんでもありません」と、そっぽ向いて返した。
「んで、どうします? もうすぐ夜ですけど、いまから行っちゃいます?」
アヴリルが尋ねる。それはシルヴィアが言う「今夜の用件」についてだ。
三人はミーシャを連れて、ミルディアス家の屋敷に出向こうと考えていた。もちろんカレンにミーシャやガルグイユのことを伝えるためだ。
当初は天宮島でと考えていたが、あちらはいつも大勢の人が働いているため、話を聴かれてしまう可能性もゼロではない。そこで迷惑とは知りつつも、カレンの屋敷へ直接、出向くことにしたのだ。
「そうですね。事が事ですから早いほうが良いですし」
「だな」
方針が決まると、四人は港から南西へ伸びる大通り―――ラグーンの商業区画に入った。ミルディアス家の屋敷は、その名を冠したこの「ミルディアス通り」の終着点にある。
ラグーンはランティスのなかでは商業都市として有名だ。港を起点として南西、西、南の三方向に大通りが走っており、さらに細い通りが三本の大通りを結ぶように弧を描いている。高台から見下ろせば、ちょうど大小の扇を重ねたように見える構図だ。ちなみに、つくりが類似しているワイアードの町並みは、ラグーンのそれを真似たものでもある。
南西の大通りは、開拓者一族の名を借りて「ミルディアス通り」、西の大通りは、一代でラグーンを築いた商会の創業者の名を借りて「ネイサン通り」、そして南へ伸びる大通りは、海女神の一人の名を借りて「ティファーニア通り」と呼ばれている。
ミルディアス通りの商業区画は、昼夜を問わず賑わう場所だ。昼は商店街に、夜は歓楽街に大勢の人が集まる。いまは夕方のため、夕飯の買い出しで商店街を訪れた人々やはしゃぎ回るこどもたち、勤めを終えて酒場にでも繰り出そうかという仕事終わりの人々が入り混じり、最も賑わう時間となっていた。
そんな宵時の光景にミーシャは興味津々なのか、満面の笑顔で走り回っていた。カイルが制止するのも聴かず、そこらじゅうの露店や出店を勝手に覗いては、興味が疼いたものを指差してしきりにねだってくる。お菓子や服飾品、果ては怪しげな交易品まで手当たり次第だ。
カイルが頭を掻きながら困惑し、アヴリルが「ダメー!」と烈火の如く怒ると、ミーシャは拗ねるように唇を尖らせ、ねだる先をシルヴィアに変えた。円らな瞳を幼気な光で潤ませながら彼女を見上げる。二人に頼んでも手に入らないと察したのだろう。
ミーシャの涙目が功を奏し、シルヴィアは「し、しかたないですね……」と彼女がねだったものを買ってやった。すると味を占めたのか、ミーシャはシルヴィアの手を握ると、彼女を引っ張り回して色々な店を目指して駆け出してしまった。
「むっきー! あの子ばっかりズルい!」
ミーシャの奔放な振る舞いを見せつけられたアヴリルは、自分も甘えたい欲望を爆発させて「シルヴィアさまー! あたしもー!」と叫びながら二人に向かって突撃。当初の目的など、もはや完全に失念している。
残されたカイルは、三人の自由すぎる振る舞いに、呆れて溜め息を零すしかなかった。
「……いくらなんでも遊びすぎだろ」
「す、すみません……」
「へひゅにいいひゃんひょれよりふぉれほいひいでふよしるふぃあふぁまもろうれふか!?」
「食ったまま喋んな」
「ほへふゅあふふぁおふぉふほほへふぁふふぁふふぁふへふふぃあふぉふぁふぉ!」
「真似せんでいい」
港に到着してからかれこれ一時間。ようやく満足してご満悦のミーシャとアヴリル、そして疲労に負けて両膝に手をつくシルヴィアが、カイルのもとへ戻ってきた。
アヴリルとミーシャの全身を一瞥する限り、どうやら商業区画を余すところなく回り切ったようだ。ミルディアス通りでは手に入らない食べ物や服飾品がいくつか目についた。
そしてなぜか不思議なことに、アヴリルとミーシャがいつの間にか仲良くなっていた。
あれだけミーシャに対して喧嘩腰だったアヴリルだったが、いまは二人仲良く右手にレイモンの果汁が入ったコップを、左手にパウの肉の串焼きを掲げるように持っている。そして食べるタイミングも飲むタイミングも、まったく同じ。まるで仲睦まじい姉妹のようだ。不思議に思ったカイルが理由を尋ねると、シルヴィアが「買い物のあいだ、ずっとアヴリルの真似をしていたんですよ」と、息を整えながらなんとか答えた。
「それふぇこれふぁらどうひまふ?」
「だから食ってから喋れ!」
「はふはふほへほへ?」
「だから真似せんでいい!」
顳顬を押さえながら「まるでアヴリルが二人になったみたいだ……」と悩ましげに俯くカイル。シルヴィアは肉の食べかすなどで口元を汚したミーシャの顔を綺麗にしてやりながら、ただ「あ、あはは……」とぎこちなく笑うしかなかった。
「とにかく、遅くならないうちに行くぞ」
カイルに促されて、その後に続くシルヴィアとアヴリル、そしてミーシャ。自分たちは遊びに戻って来たわけではないのだと、シルヴィアも改めて自分に言い聴かせる。
衰えない活気のなかを二〇分ほど歩くと、商業区画を抜けて住居区画に入った。通りの両側に煉瓦造りの住宅がいくつも並んでいる。そのどれもが縦長だ。土地が限られているため、ランティスに戸建てはない。元首以外の誰もが集合住宅で暮らしていた。そのため、どの住宅も一〇階から一五階建てと、とにかく高い。
それまで月明かりに溢れていた商業区画から一転、ミルディアス通りには背の高い住宅の影が幾層にも重なって覆い被さっている。だが、それぞれの家庭から漏れる灯りが通り全体に広がっており、一帯は薄靄がたちこめたような幻想的な雰囲気に包まれていた。
四人はそのままさらに真っ直ぐ進み、通りの突き当たりでミルディアス家の屋敷に辿り着く。
それは元首の屋敷にしては、かなり質素な造りをしていた。小さくもないが、そこまで大きくもない、煉瓦造りの四角い二階建てだ。庭も噴水や花壇などはなく緑一色。手入れの行き届いた庭草が生えているだけだ。その周囲を厳重な槍を模した鉄柵が囲い、さらに一五人ほどの警備兵が厳しい表情で巡回している。
四人の姿を認めた二人の門衛のうち、一人が近づいてきた。
「これは皆様。こんな遅い時間にどうされたのですか?」
「実はカレン様に急ぎの用があって、少しだけお時間をいただきたいんです。いま大丈夫か訊いてきてもらえませんか?」
シルヴィアの頼みに門衛は恭しく敬礼すると、すぐ屋敷のなかへ入っていった。
そしてしばらくすると、彼に伴われてカレン本人が門まで出てきた。いまは公務で身に着けている純白の礼服ではなく、空色のワンピース姿だった。
「今回はずいぶん早く戻ったのね」
「ええ。少し報告しなければならないことがありまして」
「急な話というのは、それ?」
「はい」
カレンは三人の顔を順番に眺め、そして最後にシルヴィアの後ろから顔を覗かせるミーシャの瞳をじっと見つめて、少し考えこむと……、
「―――いいわ。入りなさい」
四人はカレンに続いて敷地へ入り、屋敷に上がった。
屋敷の内装も外見同様シンプルで、壁も床も木が剥き出しだった。飾り気も皆無で、絨毯もなければ絵画や工芸品の類もない。カレン曰く「掃除が面倒臭くなるから」無駄に物を置きたくないらしいのだが、訪れた人の目には彼女の飾らない性格を投影したように映るらしく、多くの好感を集めてもきた。
シルヴィアたちは大広間に通された。大きな丸いテーブルの周りにソファが六つ。カレンはその一つに腰を下ろすと「好きに座りなさい」と四人に勧める。
「それで、話って?」
シルヴィアはカイルとアヴリルを見る。二人は静かに頷いた。そして彼女は、隣に座っているミーシャへ視線を向ける。ソファの感触が楽しいのか、顔を埋めたり、転がったりしながら楽しんでいた。
「実は、この子のことでお伝え……というかご相談したいことがあります」
「その子、どうしたの? まさかあなたが産んだとか?」
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
「冗談よ。それと、もう夜なんだから静かにしなさい」
「誰のせいですか誰の……」
「それで?」
カレンが真面目に先を促す。シルヴィアは気を取り直して、ミーシャと出逢ってからの経緯をすべて話した。
イスカンダリオ海域の東で彼女を救けたこと。
ワイアードの宿屋で彼女が人魚であると知ったこと。
彼女は同じ人魚の同胞を追って、人類の生活圏であるランティスを目指したこと。
彼女の導きで、パンデモニウムの奥地に入ったこと。
そこに《伝説の八龍》の一頭であるガルグイユが実在していたこと。
―――そして、そのガルグイユから「人類との共存」を実現できないかと交渉されたこと。
そのすべてをカレンは最初こそ冷静に話を聴いていたが、シルヴィアが「ミーシャが人魚である」と切り出したあたりから眉根を顰め、ガルグイユの存在を告げたときには頭痛をごまかすように頭を何度も左右に振ったり、目頭を押さえたりしていた。
やがてシルヴィアが全てを語り終えると、カレンはソファの背もたれに頭を預け、ただ茫然と天井を見上げた。その表情こそ最初と変わらないが、次々と繰り出された荒唐無稽にも等しい内容に内心かなり参っているのだろう。
もし相手が新米の船乗りなら、彼女も「馬鹿なこと言う暇があったら訓練でもしなさい」などと退けたかもしれない。だが、今回は相手が相手だ。彼女が絶対の信頼を寄せる《白船》の艦長が三人そろってこんな話を持ってきたのだから、当惑するのも無理はない。
三人は、じっとカレンの言葉を待った。
「……念のため訊くけど、全部本当のことなのよね?」
カレンは天井を見上げたまま呟いた。
「はい」
シルヴィアが力強く返答すると、カレンは大きく息を吐き出す。そして体をゆっくり戻して居住まいを正した。
「……正直いまでも信じられないわ。あなたたちなに馬鹿なことを言ってるのって喉まで出かかってる」
「……」
「その子が人魚ってだけでも驚きなのに、さらに《伝説の八龍》が実在して、あまつさえガルグイユは人類との共存を望んでいて、その交渉をシルたちに頼んだなんて……」
「まあ、そりゃあな」
「……でも、あなたたちは嘘を言っていない。そんなことは目を見れば分かる。ということは、可能性は二つ。すべて真実か、三人そろって頭が変になったか。まあ、すでに一人、変なのはいるけど」
「なんでこっち見るんですかぁ!」
「―――ガルグイユは、メガリス海域でのこちらの安全と、海域内の島へ踏み入ることを認めているのね?」
怒るアヴリルを無視してカレンはシルヴィアに尋ねる。
「はい。ただ、島の位置や数、あと安全がどうやって保たれるのかなど、具体的な話はなにも分かりません」
「それはいいわ。聴いた感じ、かなり高い知性を持っているみたいだから、そう簡単に交渉のカードを見せたりはしないでしょう」
「……それで、どうしましょう」
カレンは暫し瞳を閉じて考えをまとめると、
「―――いいわ。応じましょう」
ランティスを発ってから、およそ一ヶ月半。
シルヴィアたちは、再び故郷へ戻ってきた。
「結局、行って来いになったね」
前方に微かに見える島影を見つめながらリオがしみじみと呟く。
「しかし、あそこまで行っても、あの子のことはなにも分からずじまいか。いったいどっから来た子なんだかね」
「……ええ」
リオの疑問に、シルヴィアは短く答えるだけに止めた。
シルヴィアたちはまだ、あの少女―――ミーシャの真実をクルーには黙っていた。彼女の正体はもちろん、あの《伝説の八龍》が存在し、その一頭に共存を提案されたなど、信じてもらうには流石に突拍子もなさすぎる上、リスクが大きすぎるからだ。
そんな仲間を騙し続けるような真似に、シルヴィアは気まずさを覚えていた。だが、迷惑がかかるよりはましだと自分に言い聴かせて疼く心を抑えこむ。全てを知ってしまえば、もし事が望ましくない結果を迎えたとき、リオたちも裏切り者と誤解されてしまいかねない。
クルーたちが忙しなく働き回る甲板上で、シルヴィアはただ一人、沈んだ表情で水平線を眺めていた。
―――その心に滲むのは、透き通るような罪悪感。
仲間を欺き続ける後ろめたさが、彼女の潔癖な精神を日々日々蝕んでいた。
胸の奥に突き刺さったまま、いくつ夜が明けても決して抜けない不可視の刃が、心に食いこむ。
……だが、すべては自分で決めたことだ。
背負うべき痛みと向き合いながら、シルヴィアは静かに海を眺めていた。
その日の夕方、三隻はランティスの北東、ラグーンの港へ入った。
「あれ? 二番艦と四番艦?」
「ダグラスさんとライエさんも、戻っているみたいですね」
彼女たちが船を入れた隣には、二番艦と四番艦が並んで停泊していた。純白の船体が夕陽を背負って燃えるように美しく輝いている。その向こうには五番艦もあった。最近はミネルヴァが研究で忙しくしているため、ラグーンにいることが多い。
シルヴィアがクルーたちに自由行動を告げると、当直を除いたクルーは全員、船を降りて港に上がった。いつにもまして無理を強いた航海だっただけに、気を張り続けていた彼らの足取りはいつもの帰港以上に軽い。
港には事前に一番艦の帰港をつかんでいた町の人たちが待っていた。クルーの家族や恋人たちだ。こどもたちが父親に抱きついてはしゃいだり、友人が手荒く出迎えてくれたり、港が一気に賑わいを見せる。
七番艦と八番艦のほうを見ると、そちらでも同様の光景が広がっていた。すでに家族がいないシルヴィアにとって、その光景は微笑ましいものでもあり、少し羨ましくもある。そんな胸中を反映するかのように、甲板から港を見下ろす彼女の横顔は、憂いを帯びた微笑みを湛えていた。
「んで? あんたは今日も船にこもるのかい?」
そんな彼女を気遣ってか、リオが後ろから覆いかぶさるように抱きついてきた。
「な、なんでそんなに降ろしたがるんですか」
「そりゃ、あんたの寝台の下を覗くために……」
「もうなにもないです!」
「ははっ、冗談だよ。―――まあでも真面目な話、ちょっとはちゃんと休んできな。パンデモニウムを出てから、なんか顔色が悪いしね」
「べつにそんなこと……それに今回は言われなくても降りますよ。ちょっと用があるので」
「おっ! 男!? 男!?」
「違います!」
必死に否定するシルヴィアを、けらけらと笑うリオ。彼女はどうあっても異性をネタに自分をからかいたいらしい。
むすっと膨れっ面を浮かべたまま、シルヴィアはタラップを歩く。降り立った港ではカイルとアヴリル、そしてミーシャが待っていた。
「なに騒いでたんだ?」
どうやらリオとのやりとりが船の外にまで聴こえていたらしい。シルヴィアは「べつになんでもありません」と、そっぽ向いて返した。
「んで、どうします? もうすぐ夜ですけど、いまから行っちゃいます?」
アヴリルが尋ねる。それはシルヴィアが言う「今夜の用件」についてだ。
三人はミーシャを連れて、ミルディアス家の屋敷に出向こうと考えていた。もちろんカレンにミーシャやガルグイユのことを伝えるためだ。
当初は天宮島でと考えていたが、あちらはいつも大勢の人が働いているため、話を聴かれてしまう可能性もゼロではない。そこで迷惑とは知りつつも、カレンの屋敷へ直接、出向くことにしたのだ。
「そうですね。事が事ですから早いほうが良いですし」
「だな」
方針が決まると、四人は港から南西へ伸びる大通り―――ラグーンの商業区画に入った。ミルディアス家の屋敷は、その名を冠したこの「ミルディアス通り」の終着点にある。
ラグーンはランティスのなかでは商業都市として有名だ。港を起点として南西、西、南の三方向に大通りが走っており、さらに細い通りが三本の大通りを結ぶように弧を描いている。高台から見下ろせば、ちょうど大小の扇を重ねたように見える構図だ。ちなみに、つくりが類似しているワイアードの町並みは、ラグーンのそれを真似たものでもある。
南西の大通りは、開拓者一族の名を借りて「ミルディアス通り」、西の大通りは、一代でラグーンを築いた商会の創業者の名を借りて「ネイサン通り」、そして南へ伸びる大通りは、海女神の一人の名を借りて「ティファーニア通り」と呼ばれている。
ミルディアス通りの商業区画は、昼夜を問わず賑わう場所だ。昼は商店街に、夜は歓楽街に大勢の人が集まる。いまは夕方のため、夕飯の買い出しで商店街を訪れた人々やはしゃぎ回るこどもたち、勤めを終えて酒場にでも繰り出そうかという仕事終わりの人々が入り混じり、最も賑わう時間となっていた。
そんな宵時の光景にミーシャは興味津々なのか、満面の笑顔で走り回っていた。カイルが制止するのも聴かず、そこらじゅうの露店や出店を勝手に覗いては、興味が疼いたものを指差してしきりにねだってくる。お菓子や服飾品、果ては怪しげな交易品まで手当たり次第だ。
カイルが頭を掻きながら困惑し、アヴリルが「ダメー!」と烈火の如く怒ると、ミーシャは拗ねるように唇を尖らせ、ねだる先をシルヴィアに変えた。円らな瞳を幼気な光で潤ませながら彼女を見上げる。二人に頼んでも手に入らないと察したのだろう。
ミーシャの涙目が功を奏し、シルヴィアは「し、しかたないですね……」と彼女がねだったものを買ってやった。すると味を占めたのか、ミーシャはシルヴィアの手を握ると、彼女を引っ張り回して色々な店を目指して駆け出してしまった。
「むっきー! あの子ばっかりズルい!」
ミーシャの奔放な振る舞いを見せつけられたアヴリルは、自分も甘えたい欲望を爆発させて「シルヴィアさまー! あたしもー!」と叫びながら二人に向かって突撃。当初の目的など、もはや完全に失念している。
残されたカイルは、三人の自由すぎる振る舞いに、呆れて溜め息を零すしかなかった。
「……いくらなんでも遊びすぎだろ」
「す、すみません……」
「へひゅにいいひゃんひょれよりふぉれほいひいでふよしるふぃあふぁまもろうれふか!?」
「食ったまま喋んな」
「ほへふゅあふふぁおふぉふほほへふぁふふぁふふぁふへふふぃあふぉふぁふぉ!」
「真似せんでいい」
港に到着してからかれこれ一時間。ようやく満足してご満悦のミーシャとアヴリル、そして疲労に負けて両膝に手をつくシルヴィアが、カイルのもとへ戻ってきた。
アヴリルとミーシャの全身を一瞥する限り、どうやら商業区画を余すところなく回り切ったようだ。ミルディアス通りでは手に入らない食べ物や服飾品がいくつか目についた。
そしてなぜか不思議なことに、アヴリルとミーシャがいつの間にか仲良くなっていた。
あれだけミーシャに対して喧嘩腰だったアヴリルだったが、いまは二人仲良く右手にレイモンの果汁が入ったコップを、左手にパウの肉の串焼きを掲げるように持っている。そして食べるタイミングも飲むタイミングも、まったく同じ。まるで仲睦まじい姉妹のようだ。不思議に思ったカイルが理由を尋ねると、シルヴィアが「買い物のあいだ、ずっとアヴリルの真似をしていたんですよ」と、息を整えながらなんとか答えた。
「それふぇこれふぁらどうひまふ?」
「だから食ってから喋れ!」
「はふはふほへほへ?」
「だから真似せんでいい!」
顳顬を押さえながら「まるでアヴリルが二人になったみたいだ……」と悩ましげに俯くカイル。シルヴィアは肉の食べかすなどで口元を汚したミーシャの顔を綺麗にしてやりながら、ただ「あ、あはは……」とぎこちなく笑うしかなかった。
「とにかく、遅くならないうちに行くぞ」
カイルに促されて、その後に続くシルヴィアとアヴリル、そしてミーシャ。自分たちは遊びに戻って来たわけではないのだと、シルヴィアも改めて自分に言い聴かせる。
衰えない活気のなかを二〇分ほど歩くと、商業区画を抜けて住居区画に入った。通りの両側に煉瓦造りの住宅がいくつも並んでいる。そのどれもが縦長だ。土地が限られているため、ランティスに戸建てはない。元首以外の誰もが集合住宅で暮らしていた。そのため、どの住宅も一〇階から一五階建てと、とにかく高い。
それまで月明かりに溢れていた商業区画から一転、ミルディアス通りには背の高い住宅の影が幾層にも重なって覆い被さっている。だが、それぞれの家庭から漏れる灯りが通り全体に広がっており、一帯は薄靄がたちこめたような幻想的な雰囲気に包まれていた。
四人はそのままさらに真っ直ぐ進み、通りの突き当たりでミルディアス家の屋敷に辿り着く。
それは元首の屋敷にしては、かなり質素な造りをしていた。小さくもないが、そこまで大きくもない、煉瓦造りの四角い二階建てだ。庭も噴水や花壇などはなく緑一色。手入れの行き届いた庭草が生えているだけだ。その周囲を厳重な槍を模した鉄柵が囲い、さらに一五人ほどの警備兵が厳しい表情で巡回している。
四人の姿を認めた二人の門衛のうち、一人が近づいてきた。
「これは皆様。こんな遅い時間にどうされたのですか?」
「実はカレン様に急ぎの用があって、少しだけお時間をいただきたいんです。いま大丈夫か訊いてきてもらえませんか?」
シルヴィアの頼みに門衛は恭しく敬礼すると、すぐ屋敷のなかへ入っていった。
そしてしばらくすると、彼に伴われてカレン本人が門まで出てきた。いまは公務で身に着けている純白の礼服ではなく、空色のワンピース姿だった。
「今回はずいぶん早く戻ったのね」
「ええ。少し報告しなければならないことがありまして」
「急な話というのは、それ?」
「はい」
カレンは三人の顔を順番に眺め、そして最後にシルヴィアの後ろから顔を覗かせるミーシャの瞳をじっと見つめて、少し考えこむと……、
「―――いいわ。入りなさい」
四人はカレンに続いて敷地へ入り、屋敷に上がった。
屋敷の内装も外見同様シンプルで、壁も床も木が剥き出しだった。飾り気も皆無で、絨毯もなければ絵画や工芸品の類もない。カレン曰く「掃除が面倒臭くなるから」無駄に物を置きたくないらしいのだが、訪れた人の目には彼女の飾らない性格を投影したように映るらしく、多くの好感を集めてもきた。
シルヴィアたちは大広間に通された。大きな丸いテーブルの周りにソファが六つ。カレンはその一つに腰を下ろすと「好きに座りなさい」と四人に勧める。
「それで、話って?」
シルヴィアはカイルとアヴリルを見る。二人は静かに頷いた。そして彼女は、隣に座っているミーシャへ視線を向ける。ソファの感触が楽しいのか、顔を埋めたり、転がったりしながら楽しんでいた。
「実は、この子のことでお伝え……というかご相談したいことがあります」
「その子、どうしたの? まさかあなたが産んだとか?」
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
「冗談よ。それと、もう夜なんだから静かにしなさい」
「誰のせいですか誰の……」
「それで?」
カレンが真面目に先を促す。シルヴィアは気を取り直して、ミーシャと出逢ってからの経緯をすべて話した。
イスカンダリオ海域の東で彼女を救けたこと。
ワイアードの宿屋で彼女が人魚であると知ったこと。
彼女は同じ人魚の同胞を追って、人類の生活圏であるランティスを目指したこと。
彼女の導きで、パンデモニウムの奥地に入ったこと。
そこに《伝説の八龍》の一頭であるガルグイユが実在していたこと。
―――そして、そのガルグイユから「人類との共存」を実現できないかと交渉されたこと。
そのすべてをカレンは最初こそ冷静に話を聴いていたが、シルヴィアが「ミーシャが人魚である」と切り出したあたりから眉根を顰め、ガルグイユの存在を告げたときには頭痛をごまかすように頭を何度も左右に振ったり、目頭を押さえたりしていた。
やがてシルヴィアが全てを語り終えると、カレンはソファの背もたれに頭を預け、ただ茫然と天井を見上げた。その表情こそ最初と変わらないが、次々と繰り出された荒唐無稽にも等しい内容に内心かなり参っているのだろう。
もし相手が新米の船乗りなら、彼女も「馬鹿なこと言う暇があったら訓練でもしなさい」などと退けたかもしれない。だが、今回は相手が相手だ。彼女が絶対の信頼を寄せる《白船》の艦長が三人そろってこんな話を持ってきたのだから、当惑するのも無理はない。
三人は、じっとカレンの言葉を待った。
「……念のため訊くけど、全部本当のことなのよね?」
カレンは天井を見上げたまま呟いた。
「はい」
シルヴィアが力強く返答すると、カレンは大きく息を吐き出す。そして体をゆっくり戻して居住まいを正した。
「……正直いまでも信じられないわ。あなたたちなに馬鹿なことを言ってるのって喉まで出かかってる」
「……」
「その子が人魚ってだけでも驚きなのに、さらに《伝説の八龍》が実在して、あまつさえガルグイユは人類との共存を望んでいて、その交渉をシルたちに頼んだなんて……」
「まあ、そりゃあな」
「……でも、あなたたちは嘘を言っていない。そんなことは目を見れば分かる。ということは、可能性は二つ。すべて真実か、三人そろって頭が変になったか。まあ、すでに一人、変なのはいるけど」
「なんでこっち見るんですかぁ!」
「―――ガルグイユは、メガリス海域でのこちらの安全と、海域内の島へ踏み入ることを認めているのね?」
怒るアヴリルを無視してカレンはシルヴィアに尋ねる。
「はい。ただ、島の位置や数、あと安全がどうやって保たれるのかなど、具体的な話はなにも分かりません」
「それはいいわ。聴いた感じ、かなり高い知性を持っているみたいだから、そう簡単に交渉のカードを見せたりはしないでしょう」
「……それで、どうしましょう」
カレンは暫し瞳を閉じて考えをまとめると、
「―――いいわ。応じましょう」