白船一番艦の受難

 岩山の頂点から吹き出さんとする勢いで湖面を突き破り、高々と打ち上がった水柱。
 その衣を脱ぎ去り、三人の前に露わとなったのは、天に住まう神をも喰らわんと猛るが如く聳える巨大な海龍だった。
 その高さ、およそ二五メートルから三〇メートル。全長にすればさらに倍はありそうだ。大蛇のような体躯を誇り、頸部には海砲龍のものと同様の禍々しく巨大な襟巻き、そして背中には似たような背びれが生えている。刃物を思わせる双眸が放つ眼光は殺気を固めたように凍てついており、しかしその白銀の輝きは宝玉のように美しくもあった。

「海砲龍!?」

 突然の脅威を前に、カイルも咄嗟にマルドゥークを抜いた。

「うっひゃあ……こんなデカいの見たことないね」

 アヴリルもグランシャリオを肩に担ぎ、腰を落とす。驚きを隠さない口ぶりとは裏腹に、その表情は歪んだ狂喜を滲ませるように歯を剥き出して嗤っていた。
 ―――だが、そんな二人の研ぎ澄ませた戦意は、次の瞬間あっさりと挫かれてしまう。

『この者たちか?』

 威厳に満ちた重々しい声色が大空洞に反響した。
 目の前の海龍が、人語を発したのだ。

「「「―――ッ!?」」」

 再び驚愕に戦く三人。
 すると、今度は湖面に別の影が現れた。
 あの少女だ。海龍の問いに答えているのか何度も海面で跳ねている。いまは見慣れた人の姿ではなく、ワイアードの宿屋で目にした人魚の姿だった。

『そうか。……しかし、まさか本当にお前が人類を連れてくるとはな』

 なにやら納得する海龍。彼との対話が済んだのか、少女は岸まで泳いでくると、魚の下半身のままぴちぴち跳ねるようにシルヴィアたちのほうへ寄ってきた。

『お主ら。西の海から来たと聴いたが?』

 海龍が今度はシルヴィアたちに語りかけてきた。

「は、はい……あの、あなたは一体……」

 少女の下半身を持っていた織布で拭いてやりながら、シルヴィアは海龍に尋ねる。

『我らは見ての通り、海に住まう者。お主らの言葉で言えば、海獣だ。そして本来なら名はないが、太古の昔、人類は我を《ガルグイユ》という名で呼んでいた』
「ガ、ガルグイユって……あの《伝説の八龍》の?」

 明かされた正体は、想像を遥かに超えるものだった。
 神話上の存在としてのみ語り継がれてきたはずの《伝説の八龍》。
 かつて《大災禍》と共に地上へ現れ、主の逆鱗に触れた悪しき人類を蹂躙した神の代弁者。
 その一頭が今、目の前にいた。
 八龍のなかで、最も智謀に秀でたと語られる伝説の海龍。

 ―――《賢君》ガルグイユ。

 その事実を、三人はなかなか受け止めきれずにいた。

『それで? お主らはなぜこんなところまでやって来たのか。当然だが、お主らの来訪を察した同胞たちは気が立っておる。そやつが同行しているから手を出さぬようには言い含めたが、人類が縄張りに侵入してきたと大騒ぎだ』
「も、申し訳ありません……」

 相手の威厳に思わず頭を下げるシルヴィア。

『いや。もとはと言えば、そやつが連れてきたことが原因。つまりはこちらの責だ。だが、そやつは見ての通り若い上、人語をまともに解することも話すこともできない。そのため利用されている可能性を危惧する同胞も多い。―――故に改めて問おう。お主らがここを訪れた目的はなんだ。もし我らに危害が及ぶ可能性があるなら、我はお主らを排除する必要がある』

 語るガルグイユの口調は穏やかだったが、声色からは確固たる意志が感じられた。
 ガルグイユがやや攻撃的な姿勢を見せたからか、アヴリルは「上等だよ上等!」と徹底抗戦の構えを見せている。いまにも大剣を振りかぶって飛びかかろうとする彼女の首根っこを、カイルが「お前は黙ってろ!」と掴んでなんとか事なきを得た。
 口を塞ぎ塞がれしながらぎゃあぎゃあ騒ぐ二人。その傍らでシルヴィアはガルグイユの言葉に一つの疑問を感じていた。

「……必要があるとは、どういうことですか?」

 そう。ガルグイユの言葉は「必要があれば自分たちを撃退する」という意味だ。言い換えれば「必要がなければ手は出さない」ということでもある。
 だが、人類と海獣は敵対関係のはずだ。少なくともシルヴィアはそう考えている。思えばそれも人類の思いこみなのかもしれないが、この領海の海獣たちもシルヴィアたちの侵入を快く思っていないことは、ガルグイユの言葉からも明らかだ。
 彼女が口にした疑問に、騒いでいたカイルとアヴリルもぴたりと動きを止めて彼女の方を見た。
 ガルグイユの真意は一体なんなのだろうか。

『その言葉通りだ。必要がなければ、我らはなにもしない。お主らは海獣が須く人類と敵対していると考えているかもしれんが、我ら八龍、誰もが主の判断に頷いたわけではない。人類を洗い流すなど、いかに創造主たる神の所業と言えど許されるものではない』

 ガルグイユの意外な一言に、三人は顔を見合わせた。伝説の上では、神の遣いとして神意に背いた人類と大地を粛清したと言われているのだが……。

「……つまり、あんたは人類の味方だったってことか?」
『否。我はどちらにもつかなかった。人類が神の恩寵を忘れ、奢り、欲に溺れて神の怒りを買ったのは事実だ。たとえば、人類以外の神の被造物を身勝手にも蹂躙したようにな。我もまたそんな人類に怒りを覚えた。ただ、殲滅するという決断は些か性急だというだけだ』

 ガルグイユが言うには、神の手で生み出された人類は知恵や技術を身につけるうちに、ほかの神の被造物に対して傲慢になっていったそうだ。その理不尽かつ身勝手な暴虐に怒りと失望を覚えた神が、人類に対する粛清《大災禍》を断行。唯一、神が許すに値した一握りの人類と、ほかの被造物たちを救うために《方舟》を与えたらしい。
 彼の話は、まさに当世まで長らく語り継がれてきた《創海記》そのままだった。

『―――だが、神の天罰を経ても、人類の増長は変わらなかった。過去を忘れ、同じ過ちを繰り返し、己の私利私欲のために神の被造物を傷つけ、今に至る。結果、我が眷属もその数を減らし、我は彼らを守るためにあの霧でこの一帯を隠した。もっとも、人類に対する怒りを滾らせる連中はそのまま霧の向こうに残ったがな』
「……あなたも人類を恨んでいるのですか?」
『否。もはや人類とは、そういうものだ。何千年と歴史を積み重ねても、その本質はなにも変わらなかった。相手の真意を推し量ることもなく、自らの都合や欲望で容赦なく蹂躙する。敵意などまるでなかった我が同胞が蹂躙されたようにな。まあ、言葉も通じなければ、こちらの外見は猛獣も同然。無理もないのだろう。互いに関わり合いにならないのが最良の道だと判断し、先にも言ったが、霧で一帯を覆ったのだ。……まあ、そう思わなかった者もいるがな』

 ガルグイユの視線が、シルヴィアの足元に座る少女に向いた。いまはシルヴィアの外套を羽織っている。人魚の姿に戻った影響か、服を着ていなかったからだ。

「この子はいったいなぜ霧の向こうに?」
『同胞を探すためだ』
「同胞を探す?」
『―――二〇年ほど前のことだ。一人の同胞が人類との融和を目指して霧を越えた。隠れているだけではいずれ人類に見つかり、争いの歴史を繰り返すだけだと言ってな。人類と共存する未来を切り拓こうとしたのだ』
「……共存」

 いきなり飛び出した想定外の単語を、シルヴィアは反芻する。

『そやつの姿を見ても分かるように、もともと人類と海獣の歴史は一点に遡る。根源を辿れば同じ一つの細胞から生まれたものだ。それが進化の過程で道を分かち、我らは海に適応し、人類は大地に適応した。そやつはその両者の血を引き続けた数少ない存在だ。もはや我が同胞のなかには二人しかいない。だからこそ互いが互いを家族のように感じていたのだろう。あやつがなかなか戻ってこないのを気にして、ここを飛び出した』
「さ、さい……ぼう?」
『簡単に言えば、生物を構成する要素のことだ』
「……その方も、人魚なのですか?」
『お主らの言葉を用いるならな』

 シルヴィアは足元にぺたりと座っている少女を見る。それに気づいた少女が「しる。しる」と、いつものように抱っこをせがんできた。
 彼女を抱き上げる。懐いてくる笑顔は、海獣の血を引くとは思えないほどに愛らしい。
 ……いや。そもそも海獣にも人類と同様、相手を愛し、慈しむ心があるのかもしれない。ただ自分たちが知らないだけで……気づかなかっただけで……。
 これまで自分は多くの海獣を殺してきた。船に敵意を向ける海獣が出るたび、その脅威を排除してきた。そうしなければ船が沈む……クルーたちが死んでしまうからだ。
 だが、海獣たちが向けてきた敵意は、そもそも人類によって植えつけられたもの。ガルグイユの言葉を信じるなら、そういうことになる。
 そんな人類を脅威に感じたガルグイユは同胞たちを守るため、パンデモニウムを起こし、人類たちの世界から姿を消した。
 そして、およそ二〇年前―――そのままではいけないと考えた一人の人魚が、両者の共存の道を探り、霧を越えて人類の世界へ飛び立った。

『しかし、随分と我が同胞に懐かれたものだな』

 二人の様子を眺めながら、ガルグイユがそれまでより落ち着いた口調で呟く。

『これまでに我が同胞が人類に心を許すことなどなかったものだが……人類が自らの歴史を忘れ去るほどの時を経たことの、これもまた一つの結果か……。―――お主』
「え? わ、私ですか?」

 唐突に呼びかけられたシルヴィアは、動揺しながら自分を指差す。

『そやつに協力してやってはくれまいか』

 ガルグイユが提示した突然の頼みごとに意表を突かれたシルヴィアは、思わず「え?」と間の抜けた返事を零し、そして少女の顔を見下ろした。

『そやつはどうにも頑固というか、諦めるということを知らんでな。何度止めても、あやつを探しに行くと言って聴かん。ならばせめて、無事に事を成し、ここへ戻ることを信じるしかないわけだが、いかんせんそやつは未だ幼子。人語を解し、語ることのできたあやつと違い、人の世を苦もなく難もなく渡れるとは思えん』
「えっと……どういうことですか?」
『先に話した通り、そやつはかつてここを出て人類との共生を目指した人魚を追っている。どうせ止めても聴かんなら、懐いたお主らに預け、その願いを成就させてやろうということだ。―――それに、我が眷属の行く末を考えれば、たしかに人類との共生とはいかないまでも、やはり棲み分け程度は明確にしておかねばならないのかもしれない』
「棲み分け?」
『ここへ来るまでに、我が眷属とは遭ったか? 我と似た姿の龍だ』
「え、ええ。一頭だけ」
『少ないとは思わなんだか?』
「……もっといるのですか?」

 もともとメガリス海域で海龍を見かけたことなど数えるほどしかないため、シルヴィアはそもそも海龍は少ないのだろうと思っていた。

『いや、昔はもっといたのだ。だが、いまでは我を含めて海龍族は三〇にも満たない。人類と争い続けてきた結果、その数を減らしてな。無駄な争いはするなと散々言っているのだが、過去の遺恨などもあり、気の沈めどころが分からない者が大半だ。そうして無駄に命を奪い、自らを散らしていく』
「……」
『もうそろそろ、そのような不毛な歴史に終止符を打たねばならん。そやつがお主らを連れてきたのも、あるいは時代の流れなのかもしれん』

 過去に思いを馳せるように天を見上げて呟くガルグイユ。降り注ぐ陽光を浴びて輝く体躯は、まさに神々しいの一言だ。
 それまで胸の内を濁すようにやや回りくどく続いていた彼の独り語りも、ここでようやくその核心に辿り着いた。
 ―――人類と海獣の共生。
 ガルグイユの願いもまた、そこなのだろう。
 神意の代弁者たる《伝説の八龍》が人類との共存を望んでいる。その事実にシルヴィアは大いに驚いた。

「た、たしかに私たちも、海獣との争いがなくなればそれに越したことはないですが……」

 シルヴィアは助け舟を出すようにカイルとアヴリルのほうを見た。だが、二人の表情は些か暗い。

「……さすがにいきなり『これからは仲良くしましょう』とか言われても、かなり困るな。仮にこの話を持ち帰ったところで、ランティスのみんなが信じるとは思えない」

 カイルの意見はもっともだった。百歩ゆずって海獣が人語を話すことは信じてもらえても、共存を望んでいるという事実は何歩ゆずっても足りないだろう。

「それに、あんたの存在が真実だとすると、この世界のどこかに《伝説の八龍》のほかの七頭がいるってことだろ? そんで、そのなかにはあんたたちの言う《神》の意に従って人類を殲滅したやつもいる。そんなやつらと共存できるとは、さすがに思えない」
『たしかに我らも一枚岩ではない。だが、少なくともこの海域の安全だけは保証できる。そして我がいれば、我と同じく神の意に従わなかったザッハーク、アルティマ、そしてファーブニルと話をつけ、連中が統べる海域の安全を確保することも可能だろう。あるいはリヴァイアサンも、共存とまではいかないまでも、話は聴いてくれるかもしれん。ほかは流石に分からんがな。―――それに、お主らも多くの大地を失い、土地や資源の面で不足に苦慮しているのではないか? 我の海域にはまだ多くの島も残っている。このような岩礁地帯ではなく、人類でも生活できる島がな』
「「「……」」」

 ガルグイユの指摘に三人は黙りこむ。どうやら《賢君》の名は伊達ではない。彼はこの人類世界から大きく隔絶した海域にあって、自分たちの世情を的確に掴んでいた。
 彼の言う通りだ。増え続ける人口と減り続ける資源に対処するため、人類は新天地を必要としている。シルヴィアたち《白船》の使命は、まさにその新天地を見つけることだ。
 その目的に照らせば、ガルグイユの提案は人類にも利のある話だ。
 海獣の脅威から解放されること、そして新天地が手に入ること。この二つは人類として是が非でも欲しい。
 しかし、その交渉相手は海獣―――それも《伝説の八龍》の一頭だ。
 ここまでの話を聴いて、例の人魚だけではなく、彼も人類との共存を望んでいることは自明だろう。もし人類が本気で憎いなら、すでに自分たちは喰い殺されているはずだ。
 しばし立ちこめる重々しい沈黙のなか、今度はカイルとアヴリルがシルヴィアのほうを見た。その目は共に「どうするのか」と決断を求めている。片や困惑の輝きで。片や信頼の輝きで。
 そして胸に抱いた少女も「しる。しる」と笑顔を見せながら、ネクタイを引っ張ってくる。まるで「一緒に頑張ろう」と励ますかのように。
 困惑、信頼、そして願望、三者三様の視線を浴びながら、その中心でシルヴィアは結んでいた唇を開いた。

「……さすがに私たちだけでどうこうできる話ではありません。私も正直まだあなたを本当に信じて良いものか判断がつかないでいます。ただ、あなたの言う通り、お互いが共生できるのであれば、こちらとしても嬉しい話です」
『……つまり?』

 気持ちを固めるように事実を整理していたシルヴィアに、ガルグイユが結論を求める。

「一度、ランティス―――私たちの島へ戻ります。そこで元首に、私たちが見たもの、聴いたことのすべてを話します。もちろんこの子の正体も。それで結論を出します。あるいはその結果、あなたが望まない未来が待っているかもしれませんが……」
『構わん。そのときはそれまでのこと』
「分かりました」
「……あの、シルヴィアさま。大丈夫ですか?」

 話が一応まとまったところで、アヴリルが尋ねてくる。

「どうやら信用はできそうですし、嫌な言い方ですが、この子がこちらにいる以上、下手なことはしてこないでしょう」

 ガルグイユに聴こえない程度の小声で答えるシルヴィア。
 しかし、アヴリルは「い、いや……そうじゃなくて……」と憂い顔を浮かべたままだ。
 そんな彼女にシルヴィアは「大丈夫ですよ」と笑顔で押し切った。その二言を許さない言外の雰囲気に、アヴリルもそれ以上は食い下がらず引き下がった。
 だが、シルヴィアにも彼女の言いたいことは分かっていた。
 彼女は自分の身を案じてくれているのだ。
 人類と海獣は敵同士、ランティスでは誰もがそう考えている。そこへいきなり「海獣から共存を持ちかけられた」などと切り出せば、周りがどんな目で見るかは考えるまでもない。カレンやパーシバルは冷静に聴いてくれるだろうが、それ以外の人たちのなかには、身内や親しいものを海獣によって失った者も多い。彼らの怒りを買って、最悪なにかしら危害を加えられるなどの可能性をアヴリルは案じてくれているのだ。
 だが、海獣が歩み寄ってくる機会など、今後二度とないかもしれない。
 たとえ共生の可能性がわずかだとしても、得られる未来の大きさを考えれば、ガルグイユの提案を感情論から断るのはあまりにも早計だ。

「……いいのか?」

 カイルもアヴリルと同じ不安を抱いているのだろう。厳しい表情でシルヴィアを見る。

「ええ。行きましょう」

 二人を交互に見て自らの意志を伝えるシルヴィア。カイルも彼女の思いの強さを察してか、それ以上はなにも言わなかった。
 シルヴィアは入口へ足を向ける。

『―――最後に一つ問いたい』
「えっ?」

 その背中に、ガルグイユが声をかけた。

『我が自ら切り出した話ではあるが、お主はなぜ我の願いに聴く耳を持った?』

 問われたシルヴィアは一瞬、やや言葉に詰まった。その動機は自分のなかでも未だにもやもやしていたからだ。
 それは論理的でもなければ、功利的でもない、そもそも明確な言葉に置き換えることも困難な、掴みどころのない感情が発散されたままの状態にすぎなかった。
 答えに詰まるシルヴィア。微動だにしないまま、ただ泰然と自分を見下ろすガルグイユの視線が少し痛い。
 そんな彼女を息苦しさから解放したのは、胸に抱いた少女だった。
 シルヴィアの心境の変化を敏感に察したのか「しる?」と心配そうに首を傾げる。余計な不安を抱かせたのが申し訳なく、シルヴィアは「なんでもないですよ」と微笑んだ。だが、幼心は親の鏡とでも言おうか、このときの少女には自分の造り笑顔の裏に潜む本心が透けていたのかもしれない。
 少女は親が子をあやすように、シルヴィアの頭をぽんぽんと叩いた。短い腕を「んー」と懸命に伸ばしながら。
 頑張って自分を励まそうとしてくれる少女を前に、シルヴィアの頬が自然と緩む。あれこれ言葉を練っていた自分が急に馬鹿らしくなった。

「……初めてこの子の正体を知ったとき、正直かなり戸惑いました。でも、同時にこの子は決して敵ではないと感じて……いえ、そう思いたかったんです。この子は私たちとなにも変わらない、と。その気持ちは今でも変わりません。だから私はあなたに協力します。それがこの子の望みでもあるでしょうから」

 その言葉は紛れもなく、彼女が抱く素直な気持ちだった。
 暫しの沈黙。大空洞に静謐な時間が流れる。
 やがて彼女の答えを反芻するように瞳を閉じていたガルグイユは、その瞳を見開くと、

『―――感謝する』

 そう短く礼を述べ、盛大に水飛沫を巻き上げながら湖のなかへと姿を消した。
 その後ろ姿を見送ると、四人は洞窟の入口を目指して歩き出した。



     *



「名前、考えませんか?」

 自分たちの船へ戻る途中、ボートの上でそう切り出したのはアヴリルだった。

「名前ですか?」
「そうですそうです。その子の名前」
「意外だな。あれだけ変なあだ名で呼ばれてムカムカしてたのに」
「……まさか、変な名前つけてやろうとか思ってませんよね?」
「思ってませんって!」

 心外だと言わんばかりに「むきー!」と両手を振り回して抗議するアヴリル。その様子を件の少女は手を叩きながら笑って見ていた。

「でも、たしかにいつまでも『あの子』『この子』では可哀想ですね。勝手に名づけて良いのかは微妙ですけど……」
「それは大丈夫じゃないか? 海獣はそもそも名前を持ってないっぽいからな。あればガルグイユだってその名前で呼んだだろうし」
「はい決まり! じゃあポチで!」
「却下です」「阿呆か」
「ぐふっ! じゃ、じゃあじゃあ……」

 案の定ろくでもない名前を隠し持っていたアヴリルだったが、そのアイデアは二人にあっさりと一蹴された。

「《創海記》で語られる人魚の名前は、なんでしたっけ?」

 必死に代案を考えるアヴリルを放置して、シルヴィアはカイルに尋ねる。孤児院のこどもたちによく語り聞かせていた彼は、昔話や神話についてかなり詳しい。

「いろいろだな。最初に登場するのが《方舟》から落水した農民の娘・アリアを救った、レーゼ。その次が人類をランティスに導いたって言われてる、ミーシャ。あと有名なのは、その歌声に魅了された人類の船が次々に沈んだことに心を痛めて声を失った、エリシャか」
「いまのこの子の境遇と似ているのは……ミーシャでしょうかね」
「だな。それでいくか」
「えー。なんか安直すぎません?」
「ポチのほうがよっぽど安直だろ。ほら、名前を教えるのはお前の役目だ」

 渋々納得したアヴリルは、少女に「ミーシャ。ミーシャ」と何度も語りかけて名前を教え始める。要領が分かっていたからか、彼女はすぐに「みーしゃ! みーしゃ!」と綺麗な発音で自分を指差しながら名前を呼び始めた。よほど嬉しいのか、ボートが大きく傾くほど体を揺らしながら全身で喜びを表現している。
 少女は《白船》が見えてくるまで、何度も全員を指差しながら「かいる。しる。あぶ。みーしゃ」と順番に名前を呼んで、楽しそうに遊んでいた。
 そんな彼女を、シルヴィアとカイルは微笑ましく見守っていた……が、
 ただ一人、アヴリルだけは「なんで同じ四文字なのに、あたしは《あぶ》なのさ!」と怒り心頭だった。
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