白船一番艦の受難
「……なにも起こらないな」
オールを漕ぐカイルが進行方向を見遣りながら呟いた。
シルヴィアたちは岩礁地帯の奥にある巨大な岩山に向かって進んでいた。少女がそこを指し示したからだ。その高さ、およそ一五〇メートルから二〇〇メートル。周囲の岩礁や暗礁は進むにつれて迷路のように入り組み始め、まるでその山を守るようですらある。
いまはカイルとアヴリルがオールを漕ぎ、シルヴィアが少女を預かっていた。カイルは「力仕事だから」、アヴリルは「シルヴィアさまにオールなんか漕がせられません!」というそれぞれの理由から自らオールを取った。シルヴィアは申し訳なく思いながらも、少女を膝に乗せながら周囲に視線を配り、危機が近づいていないか常に気を配っている。
しかし、特に危険や脅威が押し寄せる気配はない。もちろんそれはそれで良いことなのだが、逆に不気味でもあった。
「やけに静かですね。このあたりは海獣がいないのでしょうか」
「でも、その子が海獣と人間のハーフなら、むしろいないとおかしいですよね?」
「ええ……」
「まあ、いないにこしたことはないさ。とりあえずいまのうちにあの岩山まで行こう。ボートに乗ってるところを襲われるなんざ洒落にならないしな」
「こんだけ足場があったら余裕でしょ」
周囲に突き出た大量の岩礁を眺めながら平然と言い放つアヴリル。好戦的な彼女ならではの強気っぷりだ。実際、彼女は多くの海獣を一人で倒した武勇伝をいくつも持っている。
やる気満々のアヴリルに「アホか。その子もいるんだぞ」と苦言を呈するカイル。
その少女は特に怯える様子もなく、むしろ楽しそうに笑っていた。先ほどからシルヴィアの膝の上で小さな体を左右に揺らしながら、目的の岩山を待ち遠しそうに眺めている。
そして、いよいよその距離が一〇〇を切ったとき。
「しる。しる」
少女が岩山の一部を指差しながらシルヴィアに呼びかける。彼女たちから見て北東の方角だ。
「……穴?」
彼女の指先が示したのは、岩山に空いた穴だった。大型船でも三、四隻が並んで通れるくらい大きな穴。どうやら洞窟の入口のようだ。
「かいる。あぶ。かいる。あぶ」
「なんだ? あそこに入れってのか?」
「うわぁー。なんか出そー」
「とは言え、ほかになにかありそうなところもないですしね……」
「……しかたないか」
三人は覚悟を決める。
そして穴に向かって針路を変更。岩山にただ一つ穿たれた巨大な洞穴にボートを入れた。
入口付近は採光もあって視界に困らなかったが、五〇メートルほど進むと、一帯は完全に闇に沈んだ。常人なら目が慣れても視界を得られないほど漆黒が深い。
さらに奥へ入っていくと、先頭を走るカイルのボートの先端がこつんとなにかにぶつかる。どうやら陸地に突き当たったようだ。
三人はボートを慎重に寄せて、微かに認められる陸地へ上がる。
「どっかに続いてるみたいだな」
カイルが降り立った洞窟の奥を睨む。暗黒のなかでも光を失わないのは船乗りならではだ。夜目が優れていなければ、船乗りにはなれない。もっとも、それでも満足に一帯を見通せるほど薄い闇ではなかったが。
「……なんかいるね」
一方、カイルとは別に先の様子を気配から探っていたアヴリルは、待ち受ける何者かの存在を察して、早くも背負った大剣―――刻聖器・グランシャリオに手をかける。
アヴリルが気配だけで刻聖器を構えるなど尋常ならざる事態だ。シルヴィアとカイルも気を入れ直し、集中を研ぎ澄ませて暗中を慎重に進む。
―――だが、そんな三人の緊張感を、少女があっさり壊してしまった。
彼女は自分を抱えていたシルヴィアの腕からするりと抜け出すと、そのまま洞穴の奥へ駆け出してしまったのだ。
「え、ちょっと! どこ行くんですか!?」
シルヴィアが慌てて手を伸ばそうとする。だが、地面が海水で酷く濡れており、またもともと滑りやすい岩肌なのか、脚を取られてしまった。なんとかバランスを取って踏み止まるも、そのあいだに少女は鍾乳洞のように複雑に隆起した地面をてけてけと器用に走り抜けていく。
「追うぞ!」
「ああもう! 勝手なことしてー!」
突然の事態に駆け出す二人を、シルヴィアも追う。
だが、揺れる船上で圧倒的な白兵戦を披露できる三人の身体能力でも、洞窟内を走って進むのは至難の業だった。滑った地面は走りにくい上、段差に富むなどその形も極めて複雑。しかも視界は不十分。初見の悪路をほぼ躓くことなく走って進む三人は、むしろ驚異的とすら言えるだろう。
そんな最悪の環境のなかを、三人を置き去りにして楽々と進む少女。
その姿は、彼女がここの出身であることをなによりも鮮明に証明していた。
(やっぱりあの子……)
シルヴィアも必死にその背中を追いながら、確信を抱く。
あの子は、ここからやって来たのだ。ここが、あの子の故郷なのだと……。
だが、それはもう一つ、別のことをも意味していた。
(つまり、この先には海獣が待ち受けている……)
そう。あの子は海獣と人類のハーフ。ここで暮らしていたのなら、育ての親である海獣が生息しているはずだ。それも、戦闘狂と呼ぶに相応しいアヴリルを、彼方から迸らせる存在感だけで本気にさせるほどの強者が。
シルヴィアは、腰で十字を成す双剣の一本に手をかけた。いつでも抜剣できるように臨戦態勢を取る。
しばらく走ると、次第に行く手から光が射してきた。
少女はその光源に向かって走り続ける。
(出口?)
岩山を突っ切って反対側に出たのか? いやまさか。ではあの光はどこから? そんな疑問を思考の端で流しながら、意識を足元に集中して少女を追う。
光源は見る見る大きくなり、ついに洞穴を抜けると、視界が爆発するように白く晴れた。
「―――――――――――――――ッ!」
あまりの眩しさに思わず足を止め、腕で視界を覆うシルヴィア。
普段なら唐突に闇から光、光から闇に移動しても瞳は曇らない。だが、今回の闇はあまりにも濃く、そして光はあまりにも強すぎた。
双眸を覆い尽くした白い闇が晴れるまでに、暫しの時間が過ぎる。
そして、ようやく取り戻した視界が認めた洞穴の終着点に広がっていたのは、
巨大な湖だった。
岩山の内部に大空洞が空いており、そこに直径一〇〇メートルには届こうかという巨大な円形の湖があった。天井が抜けており、そこから陽の光が燐光ふりまくカーテンをかけるように湖全体へと降り注いでいる。
その天の恵みを思わせる幻想的な光景は美しく、畏敬の念すら感じさせた。だが一方で、作為を感じるほど綺麗に球形に刳り抜かれた大空洞は、どこか不気味ですらあった。―――まるで巨大な生物の住処を思わせるように。
シルヴィアは周囲の様子を確認する。だが、アヴリルの示唆していた肝心の何者かの姿はない。
―――しかし、たしかになにかいる。彼女もそれは感じていた。
「……あの子、どこ行った?」
カイルが先に入った少女を探している。だが、その姿もどこにもなかった。
「まさか、もぐったとか?」
見当たらない少女の姿を探ろうと、アヴリルが湖に近づいた。
そのときだった。
「……ッ! アヴリル! 待ってください!」
それが訪れたのは、シルヴィアが叫ぶと同時だった。
―――大震撃。
突如、大空洞全体が凄まじい轟音を立てながら揺れ始めた。壁という壁から何百何千という大小の岩石が次々と剥落していく。岩山そのものを怪力の巨人が揺るがすような衝撃に、三人とも膝をついて堪えるのが精一杯だった。
「な、なんだ!?」
「湖です! 湖のなかになにかいます!」
シルヴィアの一声で、全員の視線が湖面に集中する。その中心からは幾重もの同心円を描くように波が戦慄き、その高さは震動の大きさに比して加速度的に増していった。
やがて波は大波となって暴れ出し、湖岸のシルヴィアたちの足元を襲い始める。
その直後だった。
「「「――――――――――――――――――ッ!?」」」
―――それは、姿を現した。
オールを漕ぐカイルが進行方向を見遣りながら呟いた。
シルヴィアたちは岩礁地帯の奥にある巨大な岩山に向かって進んでいた。少女がそこを指し示したからだ。その高さ、およそ一五〇メートルから二〇〇メートル。周囲の岩礁や暗礁は進むにつれて迷路のように入り組み始め、まるでその山を守るようですらある。
いまはカイルとアヴリルがオールを漕ぎ、シルヴィアが少女を預かっていた。カイルは「力仕事だから」、アヴリルは「シルヴィアさまにオールなんか漕がせられません!」というそれぞれの理由から自らオールを取った。シルヴィアは申し訳なく思いながらも、少女を膝に乗せながら周囲に視線を配り、危機が近づいていないか常に気を配っている。
しかし、特に危険や脅威が押し寄せる気配はない。もちろんそれはそれで良いことなのだが、逆に不気味でもあった。
「やけに静かですね。このあたりは海獣がいないのでしょうか」
「でも、その子が海獣と人間のハーフなら、むしろいないとおかしいですよね?」
「ええ……」
「まあ、いないにこしたことはないさ。とりあえずいまのうちにあの岩山まで行こう。ボートに乗ってるところを襲われるなんざ洒落にならないしな」
「こんだけ足場があったら余裕でしょ」
周囲に突き出た大量の岩礁を眺めながら平然と言い放つアヴリル。好戦的な彼女ならではの強気っぷりだ。実際、彼女は多くの海獣を一人で倒した武勇伝をいくつも持っている。
やる気満々のアヴリルに「アホか。その子もいるんだぞ」と苦言を呈するカイル。
その少女は特に怯える様子もなく、むしろ楽しそうに笑っていた。先ほどからシルヴィアの膝の上で小さな体を左右に揺らしながら、目的の岩山を待ち遠しそうに眺めている。
そして、いよいよその距離が一〇〇を切ったとき。
「しる。しる」
少女が岩山の一部を指差しながらシルヴィアに呼びかける。彼女たちから見て北東の方角だ。
「……穴?」
彼女の指先が示したのは、岩山に空いた穴だった。大型船でも三、四隻が並んで通れるくらい大きな穴。どうやら洞窟の入口のようだ。
「かいる。あぶ。かいる。あぶ」
「なんだ? あそこに入れってのか?」
「うわぁー。なんか出そー」
「とは言え、ほかになにかありそうなところもないですしね……」
「……しかたないか」
三人は覚悟を決める。
そして穴に向かって針路を変更。岩山にただ一つ穿たれた巨大な洞穴にボートを入れた。
入口付近は採光もあって視界に困らなかったが、五〇メートルほど進むと、一帯は完全に闇に沈んだ。常人なら目が慣れても視界を得られないほど漆黒が深い。
さらに奥へ入っていくと、先頭を走るカイルのボートの先端がこつんとなにかにぶつかる。どうやら陸地に突き当たったようだ。
三人はボートを慎重に寄せて、微かに認められる陸地へ上がる。
「どっかに続いてるみたいだな」
カイルが降り立った洞窟の奥を睨む。暗黒のなかでも光を失わないのは船乗りならではだ。夜目が優れていなければ、船乗りにはなれない。もっとも、それでも満足に一帯を見通せるほど薄い闇ではなかったが。
「……なんかいるね」
一方、カイルとは別に先の様子を気配から探っていたアヴリルは、待ち受ける何者かの存在を察して、早くも背負った大剣―――刻聖器・グランシャリオに手をかける。
アヴリルが気配だけで刻聖器を構えるなど尋常ならざる事態だ。シルヴィアとカイルも気を入れ直し、集中を研ぎ澄ませて暗中を慎重に進む。
―――だが、そんな三人の緊張感を、少女があっさり壊してしまった。
彼女は自分を抱えていたシルヴィアの腕からするりと抜け出すと、そのまま洞穴の奥へ駆け出してしまったのだ。
「え、ちょっと! どこ行くんですか!?」
シルヴィアが慌てて手を伸ばそうとする。だが、地面が海水で酷く濡れており、またもともと滑りやすい岩肌なのか、脚を取られてしまった。なんとかバランスを取って踏み止まるも、そのあいだに少女は鍾乳洞のように複雑に隆起した地面をてけてけと器用に走り抜けていく。
「追うぞ!」
「ああもう! 勝手なことしてー!」
突然の事態に駆け出す二人を、シルヴィアも追う。
だが、揺れる船上で圧倒的な白兵戦を披露できる三人の身体能力でも、洞窟内を走って進むのは至難の業だった。滑った地面は走りにくい上、段差に富むなどその形も極めて複雑。しかも視界は不十分。初見の悪路をほぼ躓くことなく走って進む三人は、むしろ驚異的とすら言えるだろう。
そんな最悪の環境のなかを、三人を置き去りにして楽々と進む少女。
その姿は、彼女がここの出身であることをなによりも鮮明に証明していた。
(やっぱりあの子……)
シルヴィアも必死にその背中を追いながら、確信を抱く。
あの子は、ここからやって来たのだ。ここが、あの子の故郷なのだと……。
だが、それはもう一つ、別のことをも意味していた。
(つまり、この先には海獣が待ち受けている……)
そう。あの子は海獣と人類のハーフ。ここで暮らしていたのなら、育ての親である海獣が生息しているはずだ。それも、戦闘狂と呼ぶに相応しいアヴリルを、彼方から迸らせる存在感だけで本気にさせるほどの強者が。
シルヴィアは、腰で十字を成す双剣の一本に手をかけた。いつでも抜剣できるように臨戦態勢を取る。
しばらく走ると、次第に行く手から光が射してきた。
少女はその光源に向かって走り続ける。
(出口?)
岩山を突っ切って反対側に出たのか? いやまさか。ではあの光はどこから? そんな疑問を思考の端で流しながら、意識を足元に集中して少女を追う。
光源は見る見る大きくなり、ついに洞穴を抜けると、視界が爆発するように白く晴れた。
「―――――――――――――――ッ!」
あまりの眩しさに思わず足を止め、腕で視界を覆うシルヴィア。
普段なら唐突に闇から光、光から闇に移動しても瞳は曇らない。だが、今回の闇はあまりにも濃く、そして光はあまりにも強すぎた。
双眸を覆い尽くした白い闇が晴れるまでに、暫しの時間が過ぎる。
そして、ようやく取り戻した視界が認めた洞穴の終着点に広がっていたのは、
巨大な湖だった。
岩山の内部に大空洞が空いており、そこに直径一〇〇メートルには届こうかという巨大な円形の湖があった。天井が抜けており、そこから陽の光が燐光ふりまくカーテンをかけるように湖全体へと降り注いでいる。
その天の恵みを思わせる幻想的な光景は美しく、畏敬の念すら感じさせた。だが一方で、作為を感じるほど綺麗に球形に刳り抜かれた大空洞は、どこか不気味ですらあった。―――まるで巨大な生物の住処を思わせるように。
シルヴィアは周囲の様子を確認する。だが、アヴリルの示唆していた肝心の何者かの姿はない。
―――しかし、たしかになにかいる。彼女もそれは感じていた。
「……あの子、どこ行った?」
カイルが先に入った少女を探している。だが、その姿もどこにもなかった。
「まさか、もぐったとか?」
見当たらない少女の姿を探ろうと、アヴリルが湖に近づいた。
そのときだった。
「……ッ! アヴリル! 待ってください!」
それが訪れたのは、シルヴィアが叫ぶと同時だった。
―――大震撃。
突如、大空洞全体が凄まじい轟音を立てながら揺れ始めた。壁という壁から何百何千という大小の岩石が次々と剥落していく。岩山そのものを怪力の巨人が揺るがすような衝撃に、三人とも膝をついて堪えるのが精一杯だった。
「な、なんだ!?」
「湖です! 湖のなかになにかいます!」
シルヴィアの一声で、全員の視線が湖面に集中する。その中心からは幾重もの同心円を描くように波が戦慄き、その高さは震動の大きさに比して加速度的に増していった。
やがて波は大波となって暴れ出し、湖岸のシルヴィアたちの足元を襲い始める。
その直後だった。
「「「――――――――――――――――――ッ!?」」」
―――それは、姿を現した。