白船一番艦の受難

◯二六日目 メガリス海域

 海砲龍との遭遇から二日後。
 三隻はついに目的の海域へ到達した。

「……ずいぶん久しぶりに来たけど、何度見ても不気味でしかないね」

 眼前に広がる得体の知れない超常現象に、リオが眉根を寄せる。
 特に返事はしなかったが、シルヴィアも同感だった。

 ―――パンデモニウム。

 北の果てから南の果てまで、見渡す限り広がる巨大な霧の塊。その高さは天にも届かんとするほどで、長大な白い壁が突如、海上に出現したかのような異様さを漂わせている。

「前に入ったときは、文字通り五里霧中で終わったけど、ホントにあの子はこの奥で暮らしてたのかい?」
「ご本人を信じるには、その可能性が高そうですね。私にも島があるとは思えませんが……」

 あるいは海中や剥き出しの岩礁の上などで暮らしていたのかもしれない……少女の正体が海獣と人類のハーフであると知るシルヴィアは、言外で想像を膨らませた。
 突入前の打ち合わせのため、三隻は船体を寄せ合う。カイル、そしてアヴリルとは、ずいぶんと久しぶりに再会した気がした。
 話し合いは少女がいるカイルの船で行うことになった。シルヴィアとアヴリルは、それぞれボートで七番艦へ向かう。
 舷側から降ろされた梯子を登って七番艦の甲板に上がると、

「シルヴィアさまー! お久しぶりですー!」
「ひゃっ!?」

 アヴリルが飛びつこうとしてきた。だが、シルヴィアが反射的に躱してしまい、彼女はそのまま海へ真っ逆さま。まだ下にいたシルヴィアの同行者たちに拾われて事なきを得た。
 甲板に戻ってきた彼女は、ずぶ濡れだった。

「ひ、ひどいですよ、シルヴィアさま……」
「ご、ごめんなさい。久しぶりすぎてつい驚いてしまって……あとなんか寒気が……」

 後半は小声で濁すシルヴィア。
 そんな二人を遠目に眺めていたカイルが「……おふざけはそのへんで満足か?」とたしなめると、シルヴィアは恥ずかしそうに俯き、アヴリルは「いーっ!」と両頬を引っ張って邪魔者への怒りを露骨に表現してみせる。
 そのカイルに肩車される格好で、あの少女もいた。ワイアードでシルヴィアとアヴリルにも心を開くようにはなったが、相変わらず彼にはよく懐いている。久しぶりに見たシルヴィアとアヴリルを「しる。しる」「あぶ。あぶ」と指を差しながら楽しそうに笑っている。その呼び名に案の定、アヴリルはどんよりと沈んでいたが。
 ともあれ少女の様子から察するに、どうやら彼女の正体が露見した心配はなさそうだ。ここへ来るまでの唯一の懸念だったが、カイルが巧くやってくれたらしい。

「それで、その子の故郷へはどうやって行きますか?」
「ああ、それなら心配なさそうだ。パンデモニウムが見えたときから、あっちあっちってうるさくてな。それに従えば、おそらくはどっかしら辿り着くだろ」
「そんなんで大丈夫なの?」
「ほかに手もないだろ。お前が自慢の獣並の嗅覚を発揮して探せるってんなら、是非ともお願いしたいけどな」
「シルヴィアさまの匂いなら一〇〇メートル離れてても分かるけど、ほかは無理だし」

 またもや変態性癖を欠片も隠さず堂々と告白するアヴリル。七番艦のクルーたちは突然の一言に軽く引いている。
 皮肉のつもりだったカイルも、斜め上を行く切り返しに唖然とするしかなく、最終的に「ああ、そうかよ……」と溜め息を零すしかなかった。

「……まあ、ってわけだから、とりあえず俺が先を走るから、それについてきてくれ。パンデモニウムのなかはやばい海獣とか出ないんだろ? ……って、おいシル?」
「……」
「シル!」
「―――っ!? な、なんですか?」
「人の話、聴いてたか?」

 ある事情により全く聴いていなかったシルヴィアは、

「……す、すみません」

 親に叱られるこどもの如く、しょぼんと頭を下げた。

「ったく。あの奥には特に海獣とかいないんだよな?」
「え、ええ。少なくとも私が過去に入ったときは、一度も遭遇していません。ですので、おそらくは大丈夫だと思いますが、念のため注意してもらえれば……」
「よし。じゃあ、三〇分後に出るぞ。こっちから信号旗で連絡する」
「分かりました」「はいよー」

 話がまとまったところで、七番艦を後にして各々の船へ戻るシルヴィアとアヴリル。

「おっ、戻ったね」

 一番艦に上がると、リオが出迎えてくれた。

「で、どんな感じだい?」

 彼女は早速、今後の予定を尋ねる。
 だが、肝心のシルヴィアの表情はえらく曇っていた。
 ―――ある事情により。

「ちょ、どうしたんだい?」

 心配そうに近寄るリオ。その肩をシルヴィアがいきなり両手で掴んだ。

「……リオ」
「……な、なんだい?」

 出て行く前から一転、沈みに沈んだ重々しい声色でリオに迫るシルヴィア。いまにも崩折れそうな足取りと沈鬱な表情に、リオも思わず身を引いて問い返した。
 ……だが。
 我らが艦長の口から飛び出したのは、リオからすると、およそどうでもいい極めて下らない悩みだった。

「私……そんなに匂いますか?」
「知るか」



     *



 ―――そして、三〇分後。
 定刻通り七番艦の信号旗が合図となり、三隻はいよいよパンデモニウムへ突入する。
 いまだかつて、シルヴィアですら走破したことのない《神の霧》。
 霧を抜けた先に、なにが待っているのか。
 そもそも抜けることが出来るのか。
 未知なる白き怪物を打ち破る道標は、ただ一つ。
 あの少女だけだ。
 いまは彼女を信じるしかない。

「スターボード! 針路六〇度! 七番艦を見失わないように注意してください!」

 七番艦の後に続くシルヴィアたち一番艦とアヴリルの八番艦。
 その針路を南東へ向け、三隻は白煙のなかへと飛びこんだ。



 そこはリオが形容した通り、まさに全方位五里霧中の世界だった。
 なかへ入ると、その霧は一〇メートル先すら視認するのが困難なほどに深い。一帯は吹雪く雪原に迷いこんだかのように白一色に包まれていた。
 シルヴィアとアヴリルはカイルの七番艦を見失わないように、しかし追突したりしないように、一定の距離と船足を維持して走る。だが、周囲に溶けるほど白い《白船》が相手では、それも容易ではない。
 二人は微かに透ける七番艦の船影を注視して、慎重に後を追う。その進路は東に向いていた。

「……ったく。航路を確認するだけでも一苦労だよ、ホントに」

 鉛筆と三角定規で航路を引きながらぼやくリオ。
 シルヴィアと彼女は今、チャートルームにいた。舵輪の後ろ、船体後方にある部屋だ。真ん中に腰高のテーブルがあり、その引き出しには何枚もの海図が入っている。ここは艦長や副長が海図をもとに今後の航海について話し合ったりする空間だ。
 パンデモニウムの海図は余白に緯度や経度が入っているだけで白紙だ。これまでになにも見つかっていない。いまはそこへ現在位置と航路をリオが入れている。
 四方は完全に霧一色のため、どのくらいの速度でどちらに走っているのか把握するだけでも至難の業だ。だが、彼女の仕事はシルヴィアの目から見ても完璧だった。たとえ視界が得られなくとも、その体一つで方角と船足を正確に掴めるのは一流の証だ。

「それにしても、もう四時間は走ってるけど、一向に晴れないね」
「ええ。どういう理屈で発生しているのか分かりませんが……」
「前にミネルヴァさんに訊いたら『生きてんじゃないの?』って適当なこと言われたけどね」
「は、はは」
「しかし、いったいどこまで行くんだか。知らないあいだに《断崖の滝》から落っこちました、とか勘弁だよ」
「それはさすがにないと思いますけど……」

《断崖の滝》とは、この海の果てにあると言われる巨大な滝だ。世界の四方の端は断崖となっていて、そこから海水が滝となって落ちていると言われる。もっとも、その目で見たものは誰もおらず、ひとつの学説としてそう語られているだけだ。ちなみにシルヴィアは「それならなんで海の水はなくならないのか?」と思っており、信じてはいない。
 そんな話で時間を潰していると、チャートルームの扉が勢いよく開いた。

「シルさん! 見えた! 海だ!」

 クルーの一人が血相を変えて飛びこんでくる。

「どうやら抜けたようですね。―――いま行きます」

 シルヴィアは返事をすると、リオと甲板に出た。
 まだ霧は残っていたが、その濃度は明らかに薄くなっていた。それまで透ける程度にしか見えなかった七番艦の姿が、いまはくっきりと視認できる。
 そして、しばらくすると残っていた微かな霧も徐々に晴れていき、やがて一面に広大な大海原が現れた。波一つ立たず、付近に海獣の気配も皆無。見たところなんの変哲もないごく普通の穏やかな海だ。

「……こ、ここ、海だよね?」

 だが、リオは目の前の異様な光景が信じられずに、思わず両目を擦った。周囲のクルーたちも目にした現実を信じきれずにいるようで落ち着きがない。
 彼女たちがそこまで動揺した理由。それは遥か彼方、海の果てにあった。
 そこには水平線が存在しなかったのだ。
 海は四方をパンデモニウムの霧に覆われていた。そのためリオは一瞬、そこをとてつもなく巨大な湖かなにかと勘違いしかけたのだ。

「回頭してメガリス海域に戻ってきたわけではなさそうですからね。ここは間違いなく私たちの知らない海でしょう。それに、どうやら目的地と思しき島影もありますし」
「島影? どこに?」
「右舷前方・一〇五度の方向、距離一・五海里ほどのところです」

 シルヴィアの言葉を受けたリオが望遠鏡でそちらの方向を確認。かくしてそこにはシルヴィアの言う通り、なにやら海面から突き出た突起物のようなものがあった。七番艦の針路もそちらを向いている。

(あそこが、あの子の故郷ということなのでしょうか……)

 七番艦の後を追いながら、シルヴィアは目的地について考える。
 おそらくはそうなのだろう。だからこそあの子は、自分たちをここまで導いた。
 ……だが、そう考えるには、どうしても妙な点が一つあった。
 およそ島ではないのだ。
 シルヴィアが見た島影の正体は、岩肌剥き出しの鋭い岩礁がいくつも海面から突き出ているだけだった。それも数え切れないほど。おそらくこの海域の底は《大災禍》以前、山脈だったのだろう。麓から中腹までが膨大な海水に浸かり、いまはその頂上付近だけが顔を出しているというわけだ。実際、岩礁地帯まで距離八〇〇を切ったあたりから、大量の暗礁が現れ始めた。
 距離五〇〇まで近づいたところで、七番艦が信号旗で「全鑑停止」を上げて止まった。一番艦と八番艦もそれに従って停船。そして七番艦からカイルが少女と数人を乗せてボートで出てきたので、シルヴィアとアヴリルも自船のボートを降ろして彼らと合流する。

「こっから先は《白船》じゃ無理だ。暗礁が浅すぎる」

 カイルによれば、この先はどこもかしこも水深が浅く《白船》の吃水ではとても進めないそうだ。少女が教えてくれたのかと思ったが、例の「海の声」のおかげらしかった。
 情報元の信憑性は置いておくとして、シルヴィアも意見自体には同意だった。一帯の海面は見渡す限り暗礁だらけであるのが彼女にも見えていたからだ。その水深は、深くともおそらく一〇メートル程度。加えて水深はあっても幅が足りずに通れない部分も多そうで、これより先を《白船》で進むのは不可能だろう。
 三人で話し合った結果、ここから先はボートで四人だけで行くことになった。その場にいたほかのクルーたちは反対したが、なにが待ち受けているか分からないからこそ少数精鋭が最適だという理由で引き下がらせた。少女が海獣のハーフであるとすると、これから向かう先ではおそらく海獣が待ち受けている。そうなれば大人数で乗りこんでも益はない。厳しい言い方だが、足手まといが増えるだけだ。

「ホントに大丈夫なのかい?」

 いったん一番艦に戻ってその報告をすると、リオは不安気に目を細めた。

「らしくないですね。心配なんて」
「茶化すな」
「大丈夫ですよ。リオは一番艦をお願いします。あなたにしか任せられません」

 シルヴィアが笑顔を見せると、リオは面食らったように目を丸くした。が、すぐに呆れたように微笑んで、

「こんなときばっかり調子の良いことを」
「こんなときじゃないと、こちらも恥ずかしくて言えないですからね」
「……分かったよ。それで?」
「基本的には、ここから距離五〇〇以上をとって待機していてください。そして、もしなにか危険が迫ったら、迷わず逃げてください」
「そうならないことを祈っとくよ」

 シルヴィアは用件を伝え終えると、下で待つボートに乗り、再びカイルのボートに合流。そちらに移り、彼女を送ってきたほかのクルーたちを一番艦へ帰した。
 そして、三人と少女は、岩礁地帯のさらに奥へと漕ぎ出した。
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