白船一番艦の受難

「―――ッ!」

 右舷。
 そこへ巨大な水の塊が凄まじい速度で着弾した。
 衝撃で吹き上がった大量の海水が一番艦へ襲いかかる。
 怒濤を横っ腹に食らって傾く船体。命綱と自力で必死に堪えるクルーたち。

「ハードスターボード! フォアスパンカー、ホールアウト! ミズン、ホールイン!」

 だが、シルヴィアは容赦なく指示を飛ばす。
 同時にさらなる一撃が船尾ぎりぎりの海面で爆散。
 一番艦は船首を軸に船尾を大きく北へ流し、紙一重で躱す。前方の帆の風を抜き、同時に船尾の帆に風を入れて右へ転舵。結果、巨大な遠心力が働いたかのように船尾が急旋回した。
 およそ《白船》クラスの巨大な帆船で試みるような操船法ではない。高度かつ高速の連携が要求される上、いまはまともに走ることすら困難な荒天下。一歩間違えれば、それだけで海の藻屑だ。

「ハードポート! フォア、メインスパンカー、ホールイン!」

 だが、出し惜しむ余裕などない。
 天秤に懸けられているのは、生と死だ。
 命を懸けなければ、この海獣は乗り越えられない。
 海砲龍―――その名の通り、海水を凶悪な射速の弾丸と化して撃ち放つ海龍。その水弾をまともに喰らえば、帆船など間違いなく一撃で沈む。

「リオ! 距離!」
「右舷後方二〇〇! あの二人は南側から東へ向かってる!」

 右舷ほぼ正横。方位、真南。距離六〇〇。
 カイルとアヴリルは、東へ向けて走っていた。

(……まだ時間が必要ですね)

 だが、このまま海砲龍から逃げ切るには時間が足りない。
 もしいま、相手が南へ転舵して標的を二人に変えたら危険だ。二人は海砲龍を初めて目にする。さすがの彼らでも海砲龍の猛威を初見で完封するのは不可能に等しい。
 そう判断したシルヴィアは、即座に一つの決断を下す。

「ハードスターボード! 海砲龍に寄せます!」

 死亡宣告にも似た令に、クルー全員が驚愕する。
 馬鹿な。
 あり得ない。
 それまでシルヴィアを信じ、迷いなく船を操ってきたクルーたちが今、初めて彼女の指示に体を強張らせた。

「ちょ、シル! 正気かい!」

 絶対の信頼を寄せるリオですら、その真意を疑った。
 だが、シルヴィアは微塵も揺るがない。

「私は正気です。海砲龍に二人を狙わせるわけにはいきません」
「だ、だけど……」

 そして。

「心配はいりません。一番艦は沈みませんから」
「……えっ?」

 神をも恐れぬ不遜さで言い放った。



「私がいる限り、一番艦は沈みません」



 シルヴィアの目には力が―――歴戦の船乗りですら容易には宿し得ない絶対の自信が漲り、煌めいていた。
 彼女の言葉に、クルーたちの目が力強い輝きを取り戻す。
 まるで彼女の力が乗り移ったかのように。
 それは、これまで何度も不可能を乗り越えてきた目だ。
 これまで何度も、自分たちを死の淵から救い出してきた目だ。
 クルーたちは、それを知っている。
 ―――海女神の生まれ変わり。
 その異称は、誇張でもなんでもない。
 シルヴィア・ベルグハイネ。
 史上最高にして万年に一人の船乗り。
 たった一言で、クルーの戦意を奮い起こし、
 たった一瞬で、すべてを覆す、海神の申し子。

「この船のクルーが死ぬのは、私の令についてこられなくなったときだけです。死にたくないなら必死にしがみつきなさい! ―――回頭用意! ハードスターボード!」
「「「「「おおおおおおおおおおおおおおお!」」」」」

 シルヴィアの檄にクルーたちが鬨を吠える。
 一番艦は南東へ転舵。海砲龍へ向かう。
 正面から対峙する一隻と一頭。

「ディノマイト用意! 射程に入り次第、目標に投擲!」

 艦内で待機していた投擲部隊が甲板へ。舷側で準備に入る。

「―――――――――ガアアァッ!」
「ハードポート!」

 巨大な水弾が撃ちだされると同時に転舵して躱す一番艦。
 だが、先ほどまでより着弾位置が遥かに近い。横殴りの衝撃が船体を激しく揺らす。
 海砲龍との距離はすでに二〇〇を切り、さらに針路は風上。切り上がり角も限界寸前。そのため速力は限界まで削られている。
 シルヴィアは水弾を躱せる限界を狂いなく見極め、まさにその限界線上を走っていた。
 すぐ横で死が口を開けている。
 だが、一番艦の誰一人として欠片ほどの恐怖も感じていなかった。
 その目が見据えるは、ただ勝利のみ。
 艦長の容赦ない指示に、わずかな遅れも狂いもなく操船を完遂するクルーたち。
 神より授かりし伝説の頂点―――《白船》一番艦。
 その本領は、八龍の化身をも上回っていた。
 ―――海砲龍が再び獰猛な顎を開く。
 切り上がり角は限界。右には舵を切れない。
 海砲龍が待ち受ける正面突破は論外。
 左だ。
 そう判断したシルヴィアが、令を発するために口を開く。
 ―――だがその一手は、海の気まぐれによって脆くも潰された。

「……ッ! シル! 左舷だ!」

 リオの叫びにクルーたちが一斉に左舷を見遣る。



 ―――大波。



 一番艦を軽々と一呑みにする、それほどに途方もなく巨大な大波が目の前に迫っていた。まるで獲物を見定めてその顎を開いた巨龍が襲来するが如く。
 呑まれれば確実に木っ端微塵。海の藻屑。
 すなわち、死だ。
 直進も転舵も封じられた。
 もはや沈むしかない。
 どれほど一流の船乗りでも、一人残らず絶望に屈するであろう窮地。
 だが。
 それでもシルヴィアの目は曇らなかった。
 彼女は迫る大波と海砲龍を交互に確認。
 なにかのタイミングを図るように。
 ―――そして。

「ハードポート! フォアスパンカー、ホールアウト!」

 一番艦は舵を左へ切った。
 大波に向かって。
 そして船は、



 ―――大波に乗った。



 躊躇なく左に舵を切った一番艦は、すんでのところでスパンカーの風を抜いて船体の傾きと速力を調整してバランスを確保。絶妙な速度と角度で波に乗ったのだ。
 およそまともな船乗りのやる操船ではない。
 たしかに木板で波に乗って楽しむ遊戯もある。人が波に乗ること自体は珍しくもない。
 だが、それが帆船となると話は別だ。
 これだけの巨大な船で大波に乗るなど、およそ人間業ではない。
 文字通りの神業。
 直後、海砲龍の吐いた水弾が目の前に着弾。
 大波と海砲龍の一撃、シルヴィアたちはその両方を見事に躱してみせた。
 そして波の終わりに向かいつつ、船首を徐々に海面へ落としていく。

「ハードスターボード! スパンカー、ホールイン!」

 波が崩れると同時に海面へ降り、即座に右へ転舵。
 大波を乗り切った。
 海砲龍は右舷前方、その距離五〇。

「投擲!」

 シルヴィアの合図で右舷のクルーたちがディノマイトを海砲龍めがけて放る。
 次々と間断なく轟く爆発音。燃え盛る爆炎。
 漆黒の大海原、その一点が爆心となって赤々と輝く。
 水弾を撃ち尽くした海砲龍は撃退する術を持たなかった。
 海中へ逃げる間もなく、その業火と衝撃をまともに浴びる。

「ゴァアアアァァァアアアアァァァアアァアアアアァ――――――――――――ッ!」

 水っぽい悲鳴のような咆哮。
 その龍鱗は厚く炎は燃え移らないが、頭部近くの巨大な襟巻きは別だ。
 海龍族、唯一の弱点。
 襟巻きを燃やせば、その火は頭部を―――その眼球をも焦がす。
 いかな神の眷属と言え、剥き出しの瞳を燃やされてはひとたまりもない。
 その体躯を海面に打ちつけるように必死に暴れ回る海砲龍。何度も海中に身を沈めては浮上を繰り返し、眼球を焼かれる痛みから逃れようと必死に足掻く。

「ハードポート! 海域から離脱します!」

 その隙に一番艦は西へ転進。海砲龍から急いで距離をとった。
 海砲龍との距離を見る見る引き離し、
 やがて、炎上に悶える海砲龍の絶叫は、嵐の彼方へ消えた。

「……もう大丈夫そうですね」

 シルヴィアが交戦態勢を解除すると、クルーたちの一点から爆発するように「おおおおおおおおおおおっ!」と勝鬨が広がった。これまで遭遇するたびに逃げることしか出来なかった海砲龍を撃退したのだから、その狂喜ぶりも当然だろう。

「まさか、本当に退けちまうとはね……」

 並び立つリオも、溜めこんでいた息を吐き出すように大きく深呼吸した。

「意外とやればできるものですね」

 一方、シルヴィアは満更でもなさそうに呟く。空気を読まない一言にリオも思わず苦笑いだ。

「二度とやろうと思わないで欲しいもんだね」
「冗談ですよ。でも、これでパンデモニウムに着くまでは大丈夫でしょう」
「そうだといいけどね。まあいいや。あとはあたしがやるから、あんたは休んでな」
「え? いえ、当直の交替の時間は過ぎてますから、むしろリオこそ……」
「いいから。ほら、行った行った」
「リ、リオ?」

 その背中を強引に押され、半ば押しこめられるように艦内へ戻されるシルヴィア。リオは階段を上って、そのまま甲板へ戻っていった。
 暫し無言で立ち尽くし、その背中を壁に預けるシルヴィア。

「……はは。やっぱりバレてたみたいですね……」

 天井を見上げて思わず苦笑いを浮かべる。
 ―――途端、彼女の全身から見る見る力が抜けていった。そして背中が壁をずるずると滑り落ち、そのまま床にへたりこんでしまう。
 そう。その両脚はあまりの恐怖にいまだ震え上がっており、もはや一分として体を支えられる余力が残らないほど、脚力を削られていたのだ。
 海砲龍。
 逃げるだけなら何度も経験しているが、撃退したのは彼女も初めてだった。

(……こんな姿、皆さんには見せられませんね)

 自嘲するように自分の左脚を軽く叩く。まるで痛くない。もはや感覚すらなかった。
 それは、神の化身とまで称される船乗りには、およそ相応しくない惨めな姿だった。
 だが、無理もない。いかに伝説と比肩される英雄であっても、その実はまだ一八歳の年端もいかない少女。どれほど場数を踏んだ凄腕の船乗りであっても、その幼気な心は艦長としての重責と伴う恐怖を完璧に背負えるほど、強くはない。
 彼女は、まだこどもなのだから。
 しかし、シルヴィアを英雄視する者たちの目は、希望や願望で曇っていた。彼らの「こうあって欲しい」という勝手な英雄像が、彼女に弱くあることを許さない。
 だが、リオだけは、そんな彼女の弱さに誰よりも敏感だった。
 きっと長らく同室で暮らしてきた時間が、彼女に気づかせたのだろう。
 シルヴィアもまた、自分たちと同じ―――町の些細な噂や儚い恋わずらい一つで、その心を歳相応に乱す弱々しくも愛らしい一面を持っているのだと。
 だからか、リオはなにかとお節介を焼きたがる。先の一番艦を追い出された一件もそうだ。船のなかではどうしたってクルーの目がついて回る。だから彼女は事あるごとに、なにかと理由をつけてシルヴィアを船から追い出したがる。

「……ありがとうございます。リオ」

 そんな掛け替えのない友人にして、心から信頼している戦友への御礼を呟くと、シルヴィアは壁に肩を預け、震える両脚をなんとか引きずりながら部屋まで戻っていった。
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