白船一番艦の受難
◯二〇日目 メガリス海域
次の日、クルーたちは明日の航海へ向けた準備を進め、三人はイスカンダリオ海域の警護艦隊へ挨拶に向かった。当初の予定にあったカイルの着任報告だ。
そして翌日、三隻の《白船》は再び、東の海を目指して走り出した。
メガリス海域の調査は本来、一番艦の責務だ。だが、カイルとアヴリルは「ここまできたら付き合う」と言って、ついてきていた。《白船》は自由行動を許されているため、二人が本来の担当海域であるイスカンダリオ海域を離れることに問題はない。
二人の決断に対して、シルヴィアは巻きこんでしまった後ろめたさと、同行してくれる頼もしさが混ざり合った不思議な気持ちになった。だが、もうついてきてしまった以上は仕方ない。
いまはカイルの船にいる例の少女―――あの子の真実を見定め、無事に故郷へ帰そうと、シルヴィアは気を入れ直した。
―――ランティスを発ってから二〇日目。
三人はついにメガリス海域に入った。
世界の東方に広がる、西方のヘルガ海域と並んで、最も危険と言われる凶悪な海だ。
……だが、そんな醜悪な評判とは裏腹に、いまのメガリス海域は静かだった。
四方を取り囲む、なんの変哲もない大海原。
海面は荒れてもおらず、風も肌を撫でるような微風。
駆け出したばかりの船乗りでも走れそうなほど、海は穏やかだった。
「……いつ入っても、ここだけは慣れないね」
だが、シルヴィアの隣に控えるリオは顔を顰めながら、そう呟いた。
すでに数え切れないほどの日数を過ごし、勝手知ったる海域であるにも関わらず。
「まあ、慣れたところでどうしようもないことの方が多い海ですからね」
その理由を、シルヴィアが代弁する。
そう。メガリス海域が最も恐れられているのは、海が荒れやすいからでも、風がぶれやすいからでも、まして危険な海獣が多いからでもない。
たしかにそうした面はある。だが、なにより脅威なのは、そこではない。
そのすべてが《読めない》のだ。
いつ、どこから、なにが来るのか、それが全く読めない。
天候がいつ荒れるのか。
風がいつ、どちらから、どのくらいの強さで吹き、そしていつ止むのか。
これまで自らを生かしてきた知見など、なんの役に立たない。入るたびにその顔を変える、文字通り魔の海域。
それがメガリス海域だ。
なぜそんな謎めいた海域なのか、その理由はもちろん解明されていない。
ゆえにこの海域には、ほかの海域と違って警護艦隊が置かれていない。島がないからというのもあるが、そもそもこの海域を走れる者がいないのだ。それが可能なのは《白船》八隻の艦長と近衛艦隊司令のパーシバル、あとは現役を引退したばかりの《白船》の元艦長くらいだろう。最も優れた艦長とクルーが乗る《白船》一番艦がこの海域の調査を任されているのも、それが理由だ。
メガリス海域で問われるのは、知識や経験ではない。
高いレベルで完成されたクルーたちの操船技術と、風と海のすべてを瞬間的かつ直感的に掴む艦長の技量、そして津波の如く押し寄せる恐怖に屈しない歴戦の勇気だ。
「だけど、いったいどういう風の吹き回しだい? あのなかに入るだなんて」
リオが不思議そうに尋ねてくる。
「あの二人もいますからね。あの中を調べるのに、いまほどの絶好機もそうありません。それに、もしあの子が本当にパンデモニウムの向こうから来たのだとしたら、新天地の発見にもつながりそうですしね」
シルヴィアは念のため、あの少女の真実だけはリオに伏せておいた。彼女に対する信頼は微塵も揺るがないが、それでも万一を考えてのことだ。その上でパンデモニウムに入ると伝えてある。
「ふーん。まあ、あたしらはあんたについていくだけだから、べつになんでもいいけど」
特に疑ったり勘ぐったりする様子もなく素っ気ないリオ。
そんな彼女を騙しているような罪悪感がシルヴィアの心のなかに沸々と広がっていく。
(……ごめんなさい)
声にできない謝罪を胸中で呟くシルヴィア。
そして彼女は、前を向く。
―――メガリス海域に入って四日目。
海が暴れ始めた。
シルヴィアが目を覚まして甲板に上がってみると、漆黒の雷雲が空一面を隙間なく覆っていた。前夜は、星々が透けるほど綺麗な夜空が広がっていたが、おそらく日が変わったころから荒れ出したのだろう。―――これがメガリス海域の恐ろしさだ。
雨も雷も降ってはいない。だが、かわりに風が荒れ狂っている。
「……かなりひどいですね」
「ああ。流されないようにするだけでも一苦労だよ」
昨夜からの当直を担当していたリオが、吐き捨てるようにぼやいた。
本来、荒天になれば、帆船は漂蹰する。これは船の舵行をなくし、船体で最も強度の高い船首を風浪に向け、錨を流して荒天が過ぎ去るのを待つ操船法だ。
帆船は本来、極めてバランスが悪い。その船底はお椀のように丸みを帯び、甲板には巨大なマストが立っている。そのため、船底にバラスト―――転覆防止用の重しを大量に敷いて、その重心を下げなければならない。
だからこそ強風逆巻く荒天下では可能なら走らない。風浪に任せるがまま流されて堪える。航走中に横殴りの強風など受けようものなら、それだけで転覆しかねないからだ。
しかし、シルヴィアたちの《白船》だけは事情が違った。彼女たちは単独で未踏破海域を走るため船を止めることができない。止めてしまうと、万一そこを海獣にでも狙われれば一環の終わりだ。艦隊ならほかの船が守ってくれるかもしれないが、単独の彼女たちはそうはいかない。
故に《白船》は、どんな嵐だろうと走り続ける。言い換えれば、どんな嵐だろうと走れるだけの腕と覚悟がなければ《白船》の艦長そしてクルーは務まらないということだ。
シルヴィアは後方を走る七番艦と八番艦を見た。両船とも初めて体験するメガリス海域の脅威にもすでに順応している。さすがと言うほかない。
一番艦もリオの令のもと、着実に東へ向かっていた。シルヴィアには遠く及ばないものの、リオもまた一流の船乗りだ。稀代の艦長のもとで多くを学んだ彼女は、荒天に呑まれたくらいで太刀打ちできなくなるほど柔ではない。
船はしばらく彼女に任せて、シルヴィアは一帯の様子を窺う。
―――。
「まあでも、あと少しだしね。天候次第だけど明日の昼ごろには着けるんじゃないかい?」
「……」
「……?」
「……」
「……どうしたんだい?」
黙りこんでいるシルヴィアにリオが怪訝そうに尋ねる。
「……どうやら、そうもいかないようです」
シルヴィアは右舷の遥か彼方を厳しい目つきで睨んでいた。
リオもそちらを見る。だが、いまは並の船乗りなら一〇〇メートル先も視認できない凄まじい風嵐だ。いくら彼女でもここまで荒れ放題ではなにも掴めない。
だがシルヴィアには、四方千里の全てを見通すとまで言われた神眼と、最悪に等しい条件下でも僅かな変化さえ見逃さない莫大な経験値があった。
……彼女は見た。
右舷前方、およそ一海里。
幾重にも折り重なり間断なく暴れ回る大波たち。
その隙間に、ほんの一瞬……それは姿を見せた。
「リオ、替わります。あと後ろの二隻に信号旗を上げてください」
「……出たのかい?」
「ええ。あれはおそらく……」
険しい表情でシルヴィアが正体を口にしかけた……そのときだった。
「―――ゴォォォァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!」
その破壊的な咆哮は轟いた。
波の音も、風の声も、そのすべてを打ち砕き、世界を果てまで蹂躙するが如く。
「「「「「―――ッ!?」」」」」
一斉に右舷を振り向くクルーたち。
一瞬にして張り詰める物々しい緊張感。
「操船要員を増やして下さい! ほかはディノマイトを準備して艦内で待機! いつでも動けるように! 信号旗は内容を変更! 一番艦から距離三〇〇以上をとって追走! 隙を見て東へ抜けるように伝えてください!」
一気呵成に叫ぶシルヴィア。
獰猛な吠え声に戦慄していたクルーたちが指示に応えて一目散に動き出す。
「来るぞ! 急げ!」
リオが発破をかける。
甲板の至るところからもクルーたちの怒声にも似た掛け声が一斉に上がった。
早くしろ!
こっちだ!
なにやってんだ!
急げ!
どれほどの強風や大波にも動じない歴戦のクルーたちが感情を剥き出しにして叫ぶ。その光景それ自体が迫り来る脅威の強大さを何よりも鮮明に物語っていた。
その心を蝕むは、死の息吹。
目の前に開かれしは、地獄の門。
待ち受けるは、最恐最悪の脅威。
「―――総員、交戦用意!」
そして、それは姿を現した。
突如、轟音とともに打ち上がった、大山のような瀑布。
途轍もない衝撃で、激しく揺れる海面。
まるで世界そのものが怯えているかのような海震。
やがて、瀑布が崩れ、
大量の海水が流れ落ち、
晴れた水柱のヴェールの向こうから、その正体が顕になった。
―――およそこの世の生物とは思えない、異形の海獣が。
その大きさは、海面から出ている頭部と頸部だけでも優に一〇メートルを超える。海中の胴体まで含めた全長は、どれほどになるのか想像もつかない。その頭部には、見る者すべてを射殺さんと鋭く輝く剥き出しの眼球と、帆船など一撃で粉微塵に噛み砕くであろう獰猛にして巨大な牙。そして頸部には、醜悪な薔薇の葉のような禍々しさを宿した巨大な襟。その姿と咆哮が放つ凄まじい威圧感は、並の船乗りならそれだけで卒倒しても不思議はない。
―――海砲龍。
彼の《伝説の八龍》の眷属とまで言われる、最強の海獣の一種だ。
「―――ォォォオオオオォォオオオォオォォオオォォォォオオオ!」
向こうも一番艦に気づいた。咆哮一発、大波を文字通り砕きながらこちらへ向かってくる。
「スターボード! スパンカーブーム、ホールイン!」
一番艦は右に転舵。針路を真東やや南東よりに向ける。海砲龍は右舷前方だ。
風は強い南風。だがまるで安定して吹かない。縦横無尽に暴れ回っている。
しかし、海砲龍に風など関係ない。
あらゆる障害をその巨体で押し潰し、容赦なく距離を詰めてくる。
海を割り、猛然と迫りくる海砲龍。
指先ほどだったその体躯が見る見る巨大化していく。
七番艦と八番艦はシルヴィアの指示通り回頭して一番艦から距離をとった。
海砲龍は左に小さく向きを変えた。真西からやや南西へ向かう。
巨大なため小型の海獣ほどの速さはない。
だが、ほかの海獣と違い、追いつかれたらそこで終わりだ。
生きるか、死ぬか。
その境界の明瞭さがなによりもクルーたちの恐怖を釣り上げる。
海砲龍が右に小さく動いた。進路、北西。こちらへ寄せてくる。
「ポート!」
シルヴィアは舵を左へ。北東へ上る。
同時に海砲龍は大きく回頭。進路を北東へ変えた。
その位置、一番艦の右舷正横。
詰まる距離。
迫り上がる恐怖。
突然、海砲龍がその頭を海中に沈めた。
「シル! 来るぞ!」
リオが叫ぶ。
意を決するように構えるクルーたち。
直後、海砲龍が頭を持ち上げ、その凶悪な顎を大きく開いた。
「ハードポート!」
そしてシルヴィアが転舵を指示した直後、
―――海面が爆ぜた。
次の日、クルーたちは明日の航海へ向けた準備を進め、三人はイスカンダリオ海域の警護艦隊へ挨拶に向かった。当初の予定にあったカイルの着任報告だ。
そして翌日、三隻の《白船》は再び、東の海を目指して走り出した。
メガリス海域の調査は本来、一番艦の責務だ。だが、カイルとアヴリルは「ここまできたら付き合う」と言って、ついてきていた。《白船》は自由行動を許されているため、二人が本来の担当海域であるイスカンダリオ海域を離れることに問題はない。
二人の決断に対して、シルヴィアは巻きこんでしまった後ろめたさと、同行してくれる頼もしさが混ざり合った不思議な気持ちになった。だが、もうついてきてしまった以上は仕方ない。
いまはカイルの船にいる例の少女―――あの子の真実を見定め、無事に故郷へ帰そうと、シルヴィアは気を入れ直した。
―――ランティスを発ってから二〇日目。
三人はついにメガリス海域に入った。
世界の東方に広がる、西方のヘルガ海域と並んで、最も危険と言われる凶悪な海だ。
……だが、そんな醜悪な評判とは裏腹に、いまのメガリス海域は静かだった。
四方を取り囲む、なんの変哲もない大海原。
海面は荒れてもおらず、風も肌を撫でるような微風。
駆け出したばかりの船乗りでも走れそうなほど、海は穏やかだった。
「……いつ入っても、ここだけは慣れないね」
だが、シルヴィアの隣に控えるリオは顔を顰めながら、そう呟いた。
すでに数え切れないほどの日数を過ごし、勝手知ったる海域であるにも関わらず。
「まあ、慣れたところでどうしようもないことの方が多い海ですからね」
その理由を、シルヴィアが代弁する。
そう。メガリス海域が最も恐れられているのは、海が荒れやすいからでも、風がぶれやすいからでも、まして危険な海獣が多いからでもない。
たしかにそうした面はある。だが、なにより脅威なのは、そこではない。
そのすべてが《読めない》のだ。
いつ、どこから、なにが来るのか、それが全く読めない。
天候がいつ荒れるのか。
風がいつ、どちらから、どのくらいの強さで吹き、そしていつ止むのか。
これまで自らを生かしてきた知見など、なんの役に立たない。入るたびにその顔を変える、文字通り魔の海域。
それがメガリス海域だ。
なぜそんな謎めいた海域なのか、その理由はもちろん解明されていない。
ゆえにこの海域には、ほかの海域と違って警護艦隊が置かれていない。島がないからというのもあるが、そもそもこの海域を走れる者がいないのだ。それが可能なのは《白船》八隻の艦長と近衛艦隊司令のパーシバル、あとは現役を引退したばかりの《白船》の元艦長くらいだろう。最も優れた艦長とクルーが乗る《白船》一番艦がこの海域の調査を任されているのも、それが理由だ。
メガリス海域で問われるのは、知識や経験ではない。
高いレベルで完成されたクルーたちの操船技術と、風と海のすべてを瞬間的かつ直感的に掴む艦長の技量、そして津波の如く押し寄せる恐怖に屈しない歴戦の勇気だ。
「だけど、いったいどういう風の吹き回しだい? あのなかに入るだなんて」
リオが不思議そうに尋ねてくる。
「あの二人もいますからね。あの中を調べるのに、いまほどの絶好機もそうありません。それに、もしあの子が本当にパンデモニウムの向こうから来たのだとしたら、新天地の発見にもつながりそうですしね」
シルヴィアは念のため、あの少女の真実だけはリオに伏せておいた。彼女に対する信頼は微塵も揺るがないが、それでも万一を考えてのことだ。その上でパンデモニウムに入ると伝えてある。
「ふーん。まあ、あたしらはあんたについていくだけだから、べつになんでもいいけど」
特に疑ったり勘ぐったりする様子もなく素っ気ないリオ。
そんな彼女を騙しているような罪悪感がシルヴィアの心のなかに沸々と広がっていく。
(……ごめんなさい)
声にできない謝罪を胸中で呟くシルヴィア。
そして彼女は、前を向く。
―――メガリス海域に入って四日目。
海が暴れ始めた。
シルヴィアが目を覚まして甲板に上がってみると、漆黒の雷雲が空一面を隙間なく覆っていた。前夜は、星々が透けるほど綺麗な夜空が広がっていたが、おそらく日が変わったころから荒れ出したのだろう。―――これがメガリス海域の恐ろしさだ。
雨も雷も降ってはいない。だが、かわりに風が荒れ狂っている。
「……かなりひどいですね」
「ああ。流されないようにするだけでも一苦労だよ」
昨夜からの当直を担当していたリオが、吐き捨てるようにぼやいた。
本来、荒天になれば、帆船は漂蹰する。これは船の舵行をなくし、船体で最も強度の高い船首を風浪に向け、錨を流して荒天が過ぎ去るのを待つ操船法だ。
帆船は本来、極めてバランスが悪い。その船底はお椀のように丸みを帯び、甲板には巨大なマストが立っている。そのため、船底にバラスト―――転覆防止用の重しを大量に敷いて、その重心を下げなければならない。
だからこそ強風逆巻く荒天下では可能なら走らない。風浪に任せるがまま流されて堪える。航走中に横殴りの強風など受けようものなら、それだけで転覆しかねないからだ。
しかし、シルヴィアたちの《白船》だけは事情が違った。彼女たちは単独で未踏破海域を走るため船を止めることができない。止めてしまうと、万一そこを海獣にでも狙われれば一環の終わりだ。艦隊ならほかの船が守ってくれるかもしれないが、単独の彼女たちはそうはいかない。
故に《白船》は、どんな嵐だろうと走り続ける。言い換えれば、どんな嵐だろうと走れるだけの腕と覚悟がなければ《白船》の艦長そしてクルーは務まらないということだ。
シルヴィアは後方を走る七番艦と八番艦を見た。両船とも初めて体験するメガリス海域の脅威にもすでに順応している。さすがと言うほかない。
一番艦もリオの令のもと、着実に東へ向かっていた。シルヴィアには遠く及ばないものの、リオもまた一流の船乗りだ。稀代の艦長のもとで多くを学んだ彼女は、荒天に呑まれたくらいで太刀打ちできなくなるほど柔ではない。
船はしばらく彼女に任せて、シルヴィアは一帯の様子を窺う。
―――。
「まあでも、あと少しだしね。天候次第だけど明日の昼ごろには着けるんじゃないかい?」
「……」
「……?」
「……」
「……どうしたんだい?」
黙りこんでいるシルヴィアにリオが怪訝そうに尋ねる。
「……どうやら、そうもいかないようです」
シルヴィアは右舷の遥か彼方を厳しい目つきで睨んでいた。
リオもそちらを見る。だが、いまは並の船乗りなら一〇〇メートル先も視認できない凄まじい風嵐だ。いくら彼女でもここまで荒れ放題ではなにも掴めない。
だがシルヴィアには、四方千里の全てを見通すとまで言われた神眼と、最悪に等しい条件下でも僅かな変化さえ見逃さない莫大な経験値があった。
……彼女は見た。
右舷前方、およそ一海里。
幾重にも折り重なり間断なく暴れ回る大波たち。
その隙間に、ほんの一瞬……それは姿を見せた。
「リオ、替わります。あと後ろの二隻に信号旗を上げてください」
「……出たのかい?」
「ええ。あれはおそらく……」
険しい表情でシルヴィアが正体を口にしかけた……そのときだった。
「―――ゴォォォァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!」
その破壊的な咆哮は轟いた。
波の音も、風の声も、そのすべてを打ち砕き、世界を果てまで蹂躙するが如く。
「「「「「―――ッ!?」」」」」
一斉に右舷を振り向くクルーたち。
一瞬にして張り詰める物々しい緊張感。
「操船要員を増やして下さい! ほかはディノマイトを準備して艦内で待機! いつでも動けるように! 信号旗は内容を変更! 一番艦から距離三〇〇以上をとって追走! 隙を見て東へ抜けるように伝えてください!」
一気呵成に叫ぶシルヴィア。
獰猛な吠え声に戦慄していたクルーたちが指示に応えて一目散に動き出す。
「来るぞ! 急げ!」
リオが発破をかける。
甲板の至るところからもクルーたちの怒声にも似た掛け声が一斉に上がった。
早くしろ!
こっちだ!
なにやってんだ!
急げ!
どれほどの強風や大波にも動じない歴戦のクルーたちが感情を剥き出しにして叫ぶ。その光景それ自体が迫り来る脅威の強大さを何よりも鮮明に物語っていた。
その心を蝕むは、死の息吹。
目の前に開かれしは、地獄の門。
待ち受けるは、最恐最悪の脅威。
「―――総員、交戦用意!」
そして、それは姿を現した。
突如、轟音とともに打ち上がった、大山のような瀑布。
途轍もない衝撃で、激しく揺れる海面。
まるで世界そのものが怯えているかのような海震。
やがて、瀑布が崩れ、
大量の海水が流れ落ち、
晴れた水柱のヴェールの向こうから、その正体が顕になった。
―――およそこの世の生物とは思えない、異形の海獣が。
その大きさは、海面から出ている頭部と頸部だけでも優に一〇メートルを超える。海中の胴体まで含めた全長は、どれほどになるのか想像もつかない。その頭部には、見る者すべてを射殺さんと鋭く輝く剥き出しの眼球と、帆船など一撃で粉微塵に噛み砕くであろう獰猛にして巨大な牙。そして頸部には、醜悪な薔薇の葉のような禍々しさを宿した巨大な襟。その姿と咆哮が放つ凄まじい威圧感は、並の船乗りならそれだけで卒倒しても不思議はない。
―――海砲龍。
彼の《伝説の八龍》の眷属とまで言われる、最強の海獣の一種だ。
「―――ォォォオオオオォォオオオォオォォオオォォォォオオオ!」
向こうも一番艦に気づいた。咆哮一発、大波を文字通り砕きながらこちらへ向かってくる。
「スターボード! スパンカーブーム、ホールイン!」
一番艦は右に転舵。針路を真東やや南東よりに向ける。海砲龍は右舷前方だ。
風は強い南風。だがまるで安定して吹かない。縦横無尽に暴れ回っている。
しかし、海砲龍に風など関係ない。
あらゆる障害をその巨体で押し潰し、容赦なく距離を詰めてくる。
海を割り、猛然と迫りくる海砲龍。
指先ほどだったその体躯が見る見る巨大化していく。
七番艦と八番艦はシルヴィアの指示通り回頭して一番艦から距離をとった。
海砲龍は左に小さく向きを変えた。真西からやや南西へ向かう。
巨大なため小型の海獣ほどの速さはない。
だが、ほかの海獣と違い、追いつかれたらそこで終わりだ。
生きるか、死ぬか。
その境界の明瞭さがなによりもクルーたちの恐怖を釣り上げる。
海砲龍が右に小さく動いた。進路、北西。こちらへ寄せてくる。
「ポート!」
シルヴィアは舵を左へ。北東へ上る。
同時に海砲龍は大きく回頭。進路を北東へ変えた。
その位置、一番艦の右舷正横。
詰まる距離。
迫り上がる恐怖。
突然、海砲龍がその頭を海中に沈めた。
「シル! 来るぞ!」
リオが叫ぶ。
意を決するように構えるクルーたち。
直後、海砲龍が頭を持ち上げ、その凶悪な顎を大きく開いた。
「ハードポート!」
そしてシルヴィアが転舵を指示した直後、
―――海面が爆ぜた。