白船一番艦の受難

◯神暦4852年 メガリス海域 海上

 ―――は、走っていた。
 ただ、ひたすらに。
 逆巻く荒海の上を。
 暴れる荒天の中を。
 いまにも沈みそうな小舟に乗って。
 その幼気な瞳は、迫りくる大波で恐怖に染まり、
 しかし、見据えた未来に懸ける使命感で強く輝いていた。
 ……だが。
 そんな自らの意志に反して、心は容赦なく悲鳴を上げ、体は欲望を訴える。
 寒い。
 痛い。
 怖い。
 もう嫌だ。
 帰りたい。
 そんな本音が顔を歪め、体を強張らせる。
 ―――それでも。
 少女は櫂を握り、西を目指す。
 もう上がらないと泣き喚く両腕を気力で持ち上げ、
 もう休みたいと願う肺へ強引に酸素を送りこみ、
 ただ、ひたすらに。
 西へ走り続ける。
 人類が未だ踏破したことがない、神の海域を。
 西へ。
 西へ。
 どこまでも。

 一族の輝ける未来と最愛の人の笑顔を、その力に変えて。



     *



 神暦4852年。
 神の怒り、あるいは気まぐれによって、世界のほぼすべてが海に覆われた時代。
 生きるのは人類と、海を故郷とする獣たち―――海獣。
 互いが互いを脅威と感じて怯えていたその世界で、
 いま一つの変革を秘めた物語が、刻々と脈動しはじめていた。
 その語り部を託すに値する選ばれしものを、静かに見定めながら。
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