本編
少女に手を引かれて幸太が行き着いたのは、食堂の裏手だった。
プールと運動施設棟に挟まれた、生徒が二人並ぶのも難しいくらい狭い裏道。
早い話、体育館裏だ。
「はぁ……はぁ……」
ずっと握られていた腕がようやく少女から解放された。彼女は走り疲れたのか、膝に手を当てて息を整えている。
そんな彼女と施設棟の壁を背にして向き合う幸太は、ひどく混乱していた。
いったいなんなのか。なぜこんなところに連れてこられたのか。体育館裏という場所には不穏なイメージしかない。まさかいきなり話しかけた腹いせに殴り飛ばされるのだろうか……
―――そんな不安は、彼の頭に欠片もなかった。
(●△?Σ!■#□▼&@☆♪※%★△(●~)◎<♭★★★★★―――ッ!?)
幸太は……あまりにも興奮しすぎて混乱していた。
狭い空間に、憧れの少女と、二人きり。
一歩でも踏み出せば肌が触れ合う距離感に、彼の理性はたやすく敗北。その五感は今、ただ欲望のみに忠実な器官と化し、少女のすべてを感じていた。
耳の奥と嗜虐心をくすぐる苦しそうな息づかい。目の毒でしかない薄っすらと汗ばんで光る首筋。焦らすように鼻先をかすめるシャンプーの残り香と思しき甘い匂い。肌を撫でる少し熱っぽくも心地よい体温。そして、前屈みのおかげで垂れ下がった首元から微かに覗く、薄暗い中でも存在感が際立つ胸元……。
目を閉じても甘い匂いが、呼吸を止めてもいじらしい音が、幸太の感覚を容赦なく攻め上げる。その全身はもはや立っているのも限界なほど弛緩しきっていた。
―――いやいやいやダメだダメだダメだ落ち着け俺落ち着け俺でもこんなかわいい子と二人きりで狭い所に押しこめられるとか我慢するほうが無理というか体に毒というか失礼というか見るだけ嗅ぐだけ聞くだけ感じるだけならセーフセーフ大丈夫大丈夫まだ触ってない触ってないから変態だけど大丈夫イエス変態ノータッチ触らない限り犯罪じゃ
「なんで」
「はひぃぃぃぃぃッッッ!?」
少女の呟きに幸太の背筋が一瞬で伸びる。
「……なんで、気づいたんですか…………私が、霧島由仁だって」
「……へっ?」
絞り出すように尋ねる少女。
俯いているので表情は見えないが、声色には信じられないといった驚きが滲んでいた。
―――霧島由仁。
それは、齢14歳にしてライトノベルの新人賞・GB大賞で6年ぶりの大賞をさらった稀代の天才少女の名。受賞作である帆船バトルファンタジー『ミスティック・フリゲート』は、中学生の文才とは思えない圧倒的な筆力と、界隈のマニアたちをして「圧倒された」と言わしめたほどの帆船・海洋知識、そして読者の涙を枯らし尽くした熱い展開で人気が爆発。2巻の刊行前に早くも5万部を突破し、5巻刊行時点ですでに累計部数40万部を超え、その人気は早くも一線級。そして幸太が今、最も敬愛し、目標とするライトノベル作家でもある。
そんな彼女の質問の意図が理解できないのか、幸太はぽかんと目を丸くしていた。
「え、えっと……過去のインタビュー記事とかぜんぶ見てますし、サイン会で何回かお会いしてますし……」
「い、いえ……あのときと今では、格好がまったく違うんですけど……」
確かにサイン会やインタビューの時の彼女は大抵、キャスケット風の帽子をかぶり、眼鏡はかけていない。服装も今のように地味ではなく、薄手の白いインナーに空色のワンピースなどかわいらしいものだった。二人にあえて共通点を探すとすれば、色のセンスくらいだ。
それほど今の少女と霧島由仁は、似ても似つかない。
だが幸太は、当たり前のような口調で、さらりと答えた。
「え、いや……ファンなら脳内変換くらい余裕ですよね?」
「……え?」
「……へ?」
幸太の返答に、絶句する少女。
少女の反応に、絶句する幸太。
まるで噛み合わない二人は、しばし無言のまま、狭い通路で向き合う。
幸太には茫然と立ち尽くす彼女が不思議でならなかった。脳内で彼女の眼鏡を外し、髪型を変え、帽子をかぶせ、服を着せ替える……そうすれば、もうそこにいるのは霧島由仁ではないか。そうだろう? ファンなら誰でもこれくらいの脳内変換は余裕だ。
そういうものではないか。……そういうものではないのか?
「……わかりました。いえ正直よくわかりませんけど、わかりました」
不思議な日本語を話し出す少女。
「先輩……でいいんですよね? ひとつお願いがあります」
あの霧島由仁が自分にお願い!?
そう思った途端、幸太は体温が一気に上がるのを感じた。
いったいなんだろうか。いやなんであっても答えはイエスしかないから関係ない。
「は、はい! なんでも! なんでもします! どんなことでも大丈夫です! なんでもいってください!」
「そ、そうですか。それはよかったです」
同意が得られると、少女は「では……」と前置きしてから、力強く言い放った。
「今後……二度と校内で私に話しかけないでください」
プールと運動施設棟に挟まれた、生徒が二人並ぶのも難しいくらい狭い裏道。
早い話、体育館裏だ。
「はぁ……はぁ……」
ずっと握られていた腕がようやく少女から解放された。彼女は走り疲れたのか、膝に手を当てて息を整えている。
そんな彼女と施設棟の壁を背にして向き合う幸太は、ひどく混乱していた。
いったいなんなのか。なぜこんなところに連れてこられたのか。体育館裏という場所には不穏なイメージしかない。まさかいきなり話しかけた腹いせに殴り飛ばされるのだろうか……
―――そんな不安は、彼の頭に欠片もなかった。
(●△?Σ!■#□▼&@☆♪※%★△(●~)◎<♭★★★★★―――ッ!?)
幸太は……あまりにも興奮しすぎて混乱していた。
狭い空間に、憧れの少女と、二人きり。
一歩でも踏み出せば肌が触れ合う距離感に、彼の理性はたやすく敗北。その五感は今、ただ欲望のみに忠実な器官と化し、少女のすべてを感じていた。
耳の奥と嗜虐心をくすぐる苦しそうな息づかい。目の毒でしかない薄っすらと汗ばんで光る首筋。焦らすように鼻先をかすめるシャンプーの残り香と思しき甘い匂い。肌を撫でる少し熱っぽくも心地よい体温。そして、前屈みのおかげで垂れ下がった首元から微かに覗く、薄暗い中でも存在感が際立つ胸元……。
目を閉じても甘い匂いが、呼吸を止めてもいじらしい音が、幸太の感覚を容赦なく攻め上げる。その全身はもはや立っているのも限界なほど弛緩しきっていた。
―――いやいやいやダメだダメだダメだ落ち着け俺落ち着け俺でもこんなかわいい子と二人きりで狭い所に押しこめられるとか我慢するほうが無理というか体に毒というか失礼というか見るだけ嗅ぐだけ聞くだけ感じるだけならセーフセーフ大丈夫大丈夫まだ触ってない触ってないから変態だけど大丈夫イエス変態ノータッチ触らない限り犯罪じゃ
「なんで」
「はひぃぃぃぃぃッッッ!?」
少女の呟きに幸太の背筋が一瞬で伸びる。
「……なんで、気づいたんですか…………私が、霧島由仁だって」
「……へっ?」
絞り出すように尋ねる少女。
俯いているので表情は見えないが、声色には信じられないといった驚きが滲んでいた。
―――霧島由仁。
それは、齢14歳にしてライトノベルの新人賞・GB大賞で6年ぶりの大賞をさらった稀代の天才少女の名。受賞作である帆船バトルファンタジー『ミスティック・フリゲート』は、中学生の文才とは思えない圧倒的な筆力と、界隈のマニアたちをして「圧倒された」と言わしめたほどの帆船・海洋知識、そして読者の涙を枯らし尽くした熱い展開で人気が爆発。2巻の刊行前に早くも5万部を突破し、5巻刊行時点ですでに累計部数40万部を超え、その人気は早くも一線級。そして幸太が今、最も敬愛し、目標とするライトノベル作家でもある。
そんな彼女の質問の意図が理解できないのか、幸太はぽかんと目を丸くしていた。
「え、えっと……過去のインタビュー記事とかぜんぶ見てますし、サイン会で何回かお会いしてますし……」
「い、いえ……あのときと今では、格好がまったく違うんですけど……」
確かにサイン会やインタビューの時の彼女は大抵、キャスケット風の帽子をかぶり、眼鏡はかけていない。服装も今のように地味ではなく、薄手の白いインナーに空色のワンピースなどかわいらしいものだった。二人にあえて共通点を探すとすれば、色のセンスくらいだ。
それほど今の少女と霧島由仁は、似ても似つかない。
だが幸太は、当たり前のような口調で、さらりと答えた。
「え、いや……ファンなら脳内変換くらい余裕ですよね?」
「……え?」
「……へ?」
幸太の返答に、絶句する少女。
少女の反応に、絶句する幸太。
まるで噛み合わない二人は、しばし無言のまま、狭い通路で向き合う。
幸太には茫然と立ち尽くす彼女が不思議でならなかった。脳内で彼女の眼鏡を外し、髪型を変え、帽子をかぶせ、服を着せ替える……そうすれば、もうそこにいるのは霧島由仁ではないか。そうだろう? ファンなら誰でもこれくらいの脳内変換は余裕だ。
そういうものではないか。……そういうものではないのか?
「……わかりました。いえ正直よくわかりませんけど、わかりました」
不思議な日本語を話し出す少女。
「先輩……でいいんですよね? ひとつお願いがあります」
あの霧島由仁が自分にお願い!?
そう思った途端、幸太は体温が一気に上がるのを感じた。
いったいなんだろうか。いやなんであっても答えはイエスしかないから関係ない。
「は、はい! なんでも! なんでもします! どんなことでも大丈夫です! なんでもいってください!」
「そ、そうですか。それはよかったです」
同意が得られると、少女は「では……」と前置きしてから、力強く言い放った。
「今後……二度と校内で私に話しかけないでください」