本編

 ―――次の日の朝。
 幸太は朝5時半に家を出た。
 自転車を学校に置いてきたのもあるが、早出の目的は別にある。
 最寄り駅の聖積桜ヶ丘駅まで歩くと、そのまま電車に乗って分倍川原駅へ。改札を出て西へ向かう。
 10分ほど歩くと、目的地に到着した。
 火恋のマンションだ。

(……さすがに早すぎるか?)

 携帯で時間を確認すると、まだ6時過ぎだ。
 だが、通学前の火恋を確実に捕まえるには、これしかなかった。
 用件はもちろん、昨日の一件の謝罪だ。
 ……だが、マンションの手前までは来たものの、幸太の足は前に進まない。
 いま邪魔すると迷惑だろうか、それなら少し待ったほうがいいだろうか……

(……ダメだダメだ。弱気になるな、弱気に……)

 今一度、担任の言葉を思い出し、意を決するようにマンションを見上げる幸太。
 一度、右手を強く握ると、入り口へつながる階段を上りだした。

「……あ」

 直後、その足がすぐに止まる。
 視界に入ったのは、マンション1階の郵便ポスト。
 そこに、火恋の姿があった。

「……え?」

 新聞を取りにきていた彼女も幸太に気づき、彼のほうを振り向く。
 固まる二人。

「ど、どうした、の……? こんな、早く……」

 先に口を開いたのは火恋。その声はどこかぎこちない。

「いや、あの……ちょ、ちょっと時間、いいか?」
「え? ……あ、うん……」

 互いに目を逸らしたまま向き合い、しばしの沈黙。
 なかなか口を開けない幸太。だが、両拳を握って勇気を振り絞り、

「……その……昨日は、ごめん……いきなり怒鳴ったりして……」
「え……」

 火恋が目を見開いて面を上げた。
 幸太は事情を説明する。約束を破って火恋のネット投稿アカウントを調べたこと。作品の評価を目にしたこと。自分の作品はまったく評価されなかったこと。結果、嫉妬し、彼女に強く当たってしまったこと。そして最後に、

「……ほんとごめん」

 頭を下げた。大きく。大きく。しっかりと。
 火恋の表情は見えない。
 幸太は、ただじっと、彼女の言葉を待つ。
 ―――答えは一分後。意外な形で訪れた。
 まず聞こえたのは、ぽとりとなにかが落ちる音。そして、

「……うっ……う、うぅっ……」

 すすり泣くような声。

「ご、ごめん! ほんとごめん!」

 不安に駆られた幸太は咄嗟に謝罪を繰り返す。いかに自分の否とはいえ、こんな形で火恋との絆が潰えるのだけは堪えられなかった。
 ……が、

「ち、ちがう、の……そうじゃない、の……」
「え?」

 予想とは違う火恋の反応に顔を上げる幸太。
 火恋は顔を両手で覆ったまま、枯れ気味の声を絞り出して答える。

「あたし……昨日から……幸太になにか悪いこと、したんじゃないかって……ずっと気になって……でも考えても、ぜんぜんわかんないし……このままだと、ずっと嫌われたままになっちゃう……どうしたらいいんだろう、って……」
「火恋……」
「……ごめん、ね……まさか幸太がそんなに苦しんじゃうなんて……わかんなくて……あたしよくわかって、なくて……」

 火恋は自分の提案が幸太を傷つけてしまったと感じているようだった。

「い、いや。どう考えても悪いのは俺なんだから、火恋が気にすることなんてなにもない」
「で、でも……」
「昨日の夜、霜月さんに言われて気づいたんだ。俺がやってたのは創作じゃなくて、ただブクマや評価を稼ぎたかっただけだったんだって。でも全然ダメで勝手にイライラして、それを火恋にぶつけただけなんだから……」
「幸太……」
「だから、ほんとごめん……」

 三たび謝罪を口にする幸太。

「……ありがと。幸太」

 ようやっと顔から離した両手で涙を拭う火恋。その瞳はまだ濡れていたが、表情には彼女らしい明るい笑顔が戻っていた。

「だから、もう謝らないで。せっかく三人で頑張ろうって決めたことなんだし、また一緒にやろう」
「火恋…………ん?」

 幸太の視線が火恋からその背後に移る。

「どうしたの?」

 同時に火恋が後ろを振り返った。

「「げ……っ!」」

 二人が奇声と同時に認めたのは、階段の陰からこちらを覗く火恋の弟妹たちだった。合わせて5人。全員が猫のように怪しい笑顔を浮かべている。

「あ、ああああああんたたちなにしてんのっ!」
「いやぁ……姉ちゃん新聞を取りにいっただけなのに遅いなぁって思ってさぁ」「なんかあったのかなぁって心配になってみんなで来てみたら……ねぇ?」「あの日も寝たふりしてたから、なーんか怪しいなぁとは思ってたけど」「え? 寝たふり?」「わああああぁぁあぁあぁあぁあぁぁああぁっ!」「な、なんだよいきなり……?」「にいちゃん! だいねぇなかした!」「なかした!」「え? いや、あの……」「せきにんとれ!」「せきにん!」「せきにん!」「せきに」
「あんたたちさっさとご飯たべなさい! 遅刻するでしょ!」
「「「「「ひぃぃぃぃぃ!」」」」」

 いつの間にか5人の背後に現れた葵が一喝。途端、全員一目散に我が家へ戻っていった。

「まったく! いっつもいっつも何回言えばわかんのよ! ……って、幸太さん? こんな朝早くにどうしたんですか?」
「あ、ああいや。ちょっと火恋に用があって」
「はぁ……っていうか、おねえちゃん、なに泣いてんの?」
「はえっ!? な、なに言ってんの!? 泣いてなんかないし!」

 必死に涙目を擦ってごまかす火恋。
 葵は火恋と幸太を二度、三度、交互に見ると、

「……ははーん」

 何か察したように怪しい笑みを浮かべる。

「な、なによ」
「ううん、なんでもない」

 姉の恨めしげな視線をさらりと躱し、幸太の前まで歩を進める葵。そして彼の耳元にずいと顔を近づけると、

「え、なに?」
(……おねえちゃん捨てたら許しませんから)

 訳知り顔でとんだ勘違いを披露した葵は、満足そうな笑顔を浮かべたまま、階段をスキップしながら部屋へ戻っていった。

「葵、なんだって?」
「え? あ。いや、よく聞こえなくて……」

 聞こえはしたが、理解ができなかったので濁す幸太。
 その後、火恋の「ウチで時間つぶしてけば?」という誘いをやんわり断り、幸太は駅前のファーストフード店で登校時間まで待機。後で火恋が迎えにくることになった。
 マンションを出た彼の心は、広がる青空のように晴れやかだった。



 その後、迎えにきた火恋の自転車に二人乗りして、幸太は高校へ向かった。
 道中、彼は悠奈との一件を、包み隠さず火恋に話した。そのせいで彼女を傷つけ、活動を邪魔する形になってしまったからだ。
 火恋は時おり相槌を打つだけで、ただ静かに聞いていた。
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