本編
「大丈夫? ずいぶんかかってたけど」
教室へ戻ると、火恋が律儀に前の席で待っていた。
「え? い、いや……べつに……」
「そっか。あ、そろそろ体育館に行けって、さっきかなちゃん来たよ」
「あ、ああ」
クラスメイトの大半はもう移動したらしく、生徒の姿は疎らだ。黒板上の時計を見ると始業式の開始15分前。5分前までに集合していないと佳苗の逆鱗に触れる。
幸太と火恋も教室を出て、体育館へ向かった。
道中、幸太は終始、浅い呼吸と欠伸を繰り返していた。
その横顔を火恋は時おり心配そうに窺っていたが、一言も口にはしなかった。
そして、始業式終了後。教室に戻ってホームルームが始まっても、幸太の体調は狂ったままだった。
佳苗が教壇で明日からの予定について話している。
「ところで、お前ら……夏休みにどっか行ったよなぁ?」
((((((((((げ……っ))))))))))
だが、まるで頭に入ってこない。
―――彼の胸中は、ただただ鬱々とした感情一色だった。
認めざるを得なかった。
かけがえのない友人に……初恋の少女に嫉妬を覚えてしまったことに。
実のところ、薄っすらと気づいてはいた。火恋の作品の評価が伸びるたび、身の内で後ろ暗い感情が渦巻くのを。
だが、彼はずっと、目を逸らしてきた。
火恋に嫉妬するなど、あってはならないから。
火恋を嫌いになど、なりたくはなかったから。
しかし、彼女を前にして、もはや目を背けることができず、嫌が応にも心の奥底から引きずり出されてしまった。抑圧し続けた嫉妬心が。
そして、ひとたび枷が外れれば、もはや幸太に抗う術はない。目を逸らすことでしかやり過ごせなかった感情に、彼の心が堪え切れるはずもなかった。
ホームルームが終了すると、生徒たちはそれぞれ帰路につく。今日は大半のクラスメイトの都合が合わなかったので準備はない。
(……今日はさっさと帰ろう)
席を立ち廊下へ出る幸太。ロッカーを開けてリュックを取り出す。
「ね、ねえ幸太。大丈夫?」
背負ったところで、少女が声をかけてきた。
火恋だった。
「……なにがだ?」
(頼むから、いま話しかけないでくれ……)
一瞬、呼吸が荒くなる。が。なんとか平静を装う。
「なにって……顔、青いよ? 始業式はじまる前からずっと……」
不安気な火恋。
―――その時だった。
「大丈夫だって。べつになんともない」
(わかってんなら、早く帰らせてくれ……っ)
全身の血液が一瞬で沸騰したように、幸太の体温が一気に上昇。灼熱の血流が猛烈な勢いで全身を駆け巡り、怒涛の如く脳内へ流れこむ。
そのあまりに唐突にして急激な変化に、幸太は堪らず目を閉じる。
体がおかしい。頭が熱い。異常に熱い。なんだ。なんだこれ。
思考も撹拌されたように落ち着かない。なにも考えられない。
不安。苛立ち。あらゆる負の感情が混ざり合い、心中で轟々と逆巻く。
まずい。
これはまずい本当にまずい。
なにか来る。
なにが? わからない。
だが本能が叫ぶ。何かが迫っていると。
自分が自分でなくなるような。抑えこんできた感情が爆発するような何かが。
幸太は咄嗟に目を閉じた。
いま火恋を見てはだめだ。見たら終わる。すべてが終わる。間違いなく終わる。
「で、でも……やっぱり変だって。どうしたの?」
「だから大丈夫だっ」
「どう見ても大丈夫じゃないよ。顔色わるいし、やけに息苦しそうだし……」
火恋の語気も不安からか強まる。
(……ッ!)
身の内で心臓が跳ねた。呼吸がさらに荒れる。
やめろ。
ほんとにやめてくれ。
言い知れぬ恐怖にも似た何かが迫っていた。すぐそこまで。
そして、
「幸太、今日も自転車でしょ? 乗ってる途中に気分悪くなったりしたら大変だよ」
幸太の中で、
(……あぁぁぁあぁぁぁもうッッッ!)
―――なにかが弾けた。
「ね、保健室いこ? まだ先生いると思」
「だから大丈夫だって言ってんだろッッッッッ!」
「「「「「―――ッ!?」」」」」
突然の絶叫に、廊下が一瞬で静まり返る。歩いていた生徒たちが、一斉に声のしたほうを振り返った。
張り詰める雰囲気。
(……あ)
溜め込んだ鬱屈が発散され、幸太は途端、我に返る。
だが……もう遅かった。
反射的に火恋のほうを見る。ゆっくりと。恐る恐る。
親友の突然の剣幕を前に、彼女は怯えていた。
「か、火恋……その……」
咄嗟に口をつく言い訳。
だが、その言葉は続かず、かわりに火恋が口を開いた。
「……そ、そっか…………なんか……その…………ごめん、ね……」
引き攣った笑顔と苦しげな一言だけを残し、火恋は走り去ってしまった。
「か、かれ……ッ!」
呼び止める声も彼女には届かない。その背中は見る見る小さくなり、下駄箱のほうへ消えてしまった。
茫然と立ち尽くす幸太。
(……なに、やってんだよ…………俺…………ッ!)
後悔を噛み潰す以外に、できることなどなかった。
火恋と別れた幸太は帰路につかず、傷心に任せるがまま中庭へ向かった。
木造りのベンチに横たわり、夕方まで空を見上げて数時間。いつの間にか陽光も夕陽に変わったが、しかし彼に起き上がる気配はない。
起き上がれるわけがなかった。
(どうすりゃいいんだ……)
悠奈と火恋、この夏で大切な友情を二つも失った。その痛みは、瞳に薄っすら滲んだ涙がいつまでも乾かないほどに深い。
だが、特になにか考えているわけではなかった。もはやそんな気力すら湧かない。
虚空を見上げたまま、ただただ無為な時間に身を委ね……気がつけば、下校時刻5分前の校内放送が響き渡った。
携帯を取り出して時刻を見ると18時。校内の方々で響いていた生徒たち声も、ほとんど聞こえなくなっている。
(そろそろ出ないとまずいか……)
だが、このまま帰ったところで、明日からどうする。どんな顔で学校に来れば……、
「おい。こんなところでなに寝てんだ」
途方に暮れていると、見回りの教師だろうか、誰かが声をかけてきた。
「か、かなちゃん……」
担任の真名島佳苗だ。その手には、なぜか竹刀を持っている。
「もう下校時間だぞ。とっとと帰れ」
「え? あ、うん……」
「……ん? なんだ、なんかあったのか?」
煮え切らない返事から何か察したのか、眉をひそめて尋ねる佳苗。これまで多くの生徒から身の上相談を受けてきた彼女は、悩める生徒の機微に驚くほど敏感だった。
「え? い、いや、べつになにも……」
「いいから言え。顔に書いてあんぞ」
「書いてあるなら読めばわかるんじゃ……」
「御託はいいから、さっさと話せ」
「だ、だからなにもな」
「吐け」
「ひぃぃぃッッッ!」
鬼の形相で竹刀を突きつける佳苗に慄く幸太。およそ教師の所業ではない。
「手前ぇらが一人で悩んで、結果的に笑おうが泣こうが勝手だけどな。そのせいで勉強しなくなって成績が落ちて進学実績に響いたりすると、こっちが迷惑なんだよ」
「い、いや、うちの学校、そもそも進学校のくせに浪人率ずっと5割だった気がす」
「わかったら駐車場で待ってろ。勝手に帰るんじゃねぇぞ」
一方的に命令すると、佳苗は体育教科室のほうへ歩いていった。
ここで帰ったら、明日なにを言われるかわかったものではない。
もはや逃げも隠れもできない幸太に選択肢はなかった。
教室へ戻ると、火恋が律儀に前の席で待っていた。
「え? い、いや……べつに……」
「そっか。あ、そろそろ体育館に行けって、さっきかなちゃん来たよ」
「あ、ああ」
クラスメイトの大半はもう移動したらしく、生徒の姿は疎らだ。黒板上の時計を見ると始業式の開始15分前。5分前までに集合していないと佳苗の逆鱗に触れる。
幸太と火恋も教室を出て、体育館へ向かった。
道中、幸太は終始、浅い呼吸と欠伸を繰り返していた。
その横顔を火恋は時おり心配そうに窺っていたが、一言も口にはしなかった。
そして、始業式終了後。教室に戻ってホームルームが始まっても、幸太の体調は狂ったままだった。
佳苗が教壇で明日からの予定について話している。
「ところで、お前ら……夏休みにどっか行ったよなぁ?」
((((((((((げ……っ))))))))))
だが、まるで頭に入ってこない。
―――彼の胸中は、ただただ鬱々とした感情一色だった。
認めざるを得なかった。
かけがえのない友人に……初恋の少女に嫉妬を覚えてしまったことに。
実のところ、薄っすらと気づいてはいた。火恋の作品の評価が伸びるたび、身の内で後ろ暗い感情が渦巻くのを。
だが、彼はずっと、目を逸らしてきた。
火恋に嫉妬するなど、あってはならないから。
火恋を嫌いになど、なりたくはなかったから。
しかし、彼女を前にして、もはや目を背けることができず、嫌が応にも心の奥底から引きずり出されてしまった。抑圧し続けた嫉妬心が。
そして、ひとたび枷が外れれば、もはや幸太に抗う術はない。目を逸らすことでしかやり過ごせなかった感情に、彼の心が堪え切れるはずもなかった。
ホームルームが終了すると、生徒たちはそれぞれ帰路につく。今日は大半のクラスメイトの都合が合わなかったので準備はない。
(……今日はさっさと帰ろう)
席を立ち廊下へ出る幸太。ロッカーを開けてリュックを取り出す。
「ね、ねえ幸太。大丈夫?」
背負ったところで、少女が声をかけてきた。
火恋だった。
「……なにがだ?」
(頼むから、いま話しかけないでくれ……)
一瞬、呼吸が荒くなる。が。なんとか平静を装う。
「なにって……顔、青いよ? 始業式はじまる前からずっと……」
不安気な火恋。
―――その時だった。
「大丈夫だって。べつになんともない」
(わかってんなら、早く帰らせてくれ……っ)
全身の血液が一瞬で沸騰したように、幸太の体温が一気に上昇。灼熱の血流が猛烈な勢いで全身を駆け巡り、怒涛の如く脳内へ流れこむ。
そのあまりに唐突にして急激な変化に、幸太は堪らず目を閉じる。
体がおかしい。頭が熱い。異常に熱い。なんだ。なんだこれ。
思考も撹拌されたように落ち着かない。なにも考えられない。
不安。苛立ち。あらゆる負の感情が混ざり合い、心中で轟々と逆巻く。
まずい。
これはまずい本当にまずい。
なにか来る。
なにが? わからない。
だが本能が叫ぶ。何かが迫っていると。
自分が自分でなくなるような。抑えこんできた感情が爆発するような何かが。
幸太は咄嗟に目を閉じた。
いま火恋を見てはだめだ。見たら終わる。すべてが終わる。間違いなく終わる。
「で、でも……やっぱり変だって。どうしたの?」
「だから大丈夫だっ」
「どう見ても大丈夫じゃないよ。顔色わるいし、やけに息苦しそうだし……」
火恋の語気も不安からか強まる。
(……ッ!)
身の内で心臓が跳ねた。呼吸がさらに荒れる。
やめろ。
ほんとにやめてくれ。
言い知れぬ恐怖にも似た何かが迫っていた。すぐそこまで。
そして、
「幸太、今日も自転車でしょ? 乗ってる途中に気分悪くなったりしたら大変だよ」
幸太の中で、
(……あぁぁぁあぁぁぁもうッッッ!)
―――なにかが弾けた。
「ね、保健室いこ? まだ先生いると思」
「だから大丈夫だって言ってんだろッッッッッ!」
「「「「「―――ッ!?」」」」」
突然の絶叫に、廊下が一瞬で静まり返る。歩いていた生徒たちが、一斉に声のしたほうを振り返った。
張り詰める雰囲気。
(……あ)
溜め込んだ鬱屈が発散され、幸太は途端、我に返る。
だが……もう遅かった。
反射的に火恋のほうを見る。ゆっくりと。恐る恐る。
親友の突然の剣幕を前に、彼女は怯えていた。
「か、火恋……その……」
咄嗟に口をつく言い訳。
だが、その言葉は続かず、かわりに火恋が口を開いた。
「……そ、そっか…………なんか……その…………ごめん、ね……」
引き攣った笑顔と苦しげな一言だけを残し、火恋は走り去ってしまった。
「か、かれ……ッ!」
呼び止める声も彼女には届かない。その背中は見る見る小さくなり、下駄箱のほうへ消えてしまった。
茫然と立ち尽くす幸太。
(……なに、やってんだよ…………俺…………ッ!)
後悔を噛み潰す以外に、できることなどなかった。
火恋と別れた幸太は帰路につかず、傷心に任せるがまま中庭へ向かった。
木造りのベンチに横たわり、夕方まで空を見上げて数時間。いつの間にか陽光も夕陽に変わったが、しかし彼に起き上がる気配はない。
起き上がれるわけがなかった。
(どうすりゃいいんだ……)
悠奈と火恋、この夏で大切な友情を二つも失った。その痛みは、瞳に薄っすら滲んだ涙がいつまでも乾かないほどに深い。
だが、特になにか考えているわけではなかった。もはやそんな気力すら湧かない。
虚空を見上げたまま、ただただ無為な時間に身を委ね……気がつけば、下校時刻5分前の校内放送が響き渡った。
携帯を取り出して時刻を見ると18時。校内の方々で響いていた生徒たち声も、ほとんど聞こえなくなっている。
(そろそろ出ないとまずいか……)
だが、このまま帰ったところで、明日からどうする。どんな顔で学校に来れば……、
「おい。こんなところでなに寝てんだ」
途方に暮れていると、見回りの教師だろうか、誰かが声をかけてきた。
「か、かなちゃん……」
担任の真名島佳苗だ。その手には、なぜか竹刀を持っている。
「もう下校時間だぞ。とっとと帰れ」
「え? あ、うん……」
「……ん? なんだ、なんかあったのか?」
煮え切らない返事から何か察したのか、眉をひそめて尋ねる佳苗。これまで多くの生徒から身の上相談を受けてきた彼女は、悩める生徒の機微に驚くほど敏感だった。
「え? い、いや、べつになにも……」
「いいから言え。顔に書いてあんぞ」
「書いてあるなら読めばわかるんじゃ……」
「御託はいいから、さっさと話せ」
「だ、だからなにもな」
「吐け」
「ひぃぃぃッッッ!」
鬼の形相で竹刀を突きつける佳苗に慄く幸太。およそ教師の所業ではない。
「手前ぇらが一人で悩んで、結果的に笑おうが泣こうが勝手だけどな。そのせいで勉強しなくなって成績が落ちて進学実績に響いたりすると、こっちが迷惑なんだよ」
「い、いや、うちの学校、そもそも進学校のくせに浪人率ずっと5割だった気がす」
「わかったら駐車場で待ってろ。勝手に帰るんじゃねぇぞ」
一方的に命令すると、佳苗は体育教科室のほうへ歩いていった。
ここで帰ったら、明日なにを言われるかわかったものではない。
もはや逃げも隠れもできない幸太に選択肢はなかった。