本編
8月30日。金曜日。夏休みも残り3日。
幸太はいつものように学校で文化祭の準備に勤しんでいた。
いよいよ準備も佳境。教室も授業に影響がない範囲で、すでに様変わりしていた。外壁は新聞紙で作った煉瓦で埋め尽くされ、その上に本物の植物のツルが張りつけられている。さながら薄気味悪い古びた洋館だ。当日は廊下の大窓を黒布で覆って光を遮るため、さらに雰囲気が出るだろう。
「あれ? 小道具の鎌ってどこいった?」「茜が振り回しながらコンビニ行ったよ」
「あと足りないSEってなんだ?」「ゾンビの金切り声」「どんな声だそれ?」「あれじゃない? シャー! ってやつ」「あ。お前いまのめっちゃ似てたから、それ録音しといて」
外装、内装、小道具、音響、各班いずれも残すは最後の追いこみ。火恋たち幽霊役は班の仕事を離れ、ここ最近は中庭で連日に及ぶ演出の秘密特訓だ。
「コウモリ、どうするか?」
幸太たち外装班は、廊下の天井からぶら下げるコウモリをどう作るか悩んでいた。
「黒い厚紙をコウモリの形に切るとか?」「それ味気なくない?」「せめてもうちょいリアルにしたいな」「幸太なんかいいアイデアない? 煉瓦のときみたいなやつ」「そんな急にいわれても……うーん、フェルトとか?」「フェルト?」「黒いフェルトをコウモリの形に切る。少しは立体感あるし、あと豆電球とかつけられるから、暗いところで目を光らせたりもできると思う」「おーなんか面白そう」「手芸部にフェルトもらえないか相談してみるか。幸太、行こうぜ」「はいよ」「豆電球、100均で売ってっかな?」「茜コンビニ行ってるから、ついでに見てきてもらおうよ」
いつもと変わらぬ準備風景だ。
……が。
幸太の内心はそわそわしており、どこか落ち着きがなかった。
原因は明白。火恋と顔を合わせるのが気まずいからだ。
陰で作品を覗いている後ろめたさから、最近の幸太は火恋を意識的に避けていた。彼女が弁当の差し入れにくるタイミングでトイレやコンビニに行ったり、早めに学校を出て帰宅時間が重ならないようにしたりして。幽霊役の彼女は弁当を差し入れると中庭へ行ってしまうため、それで顔は合わせないで済む。
普段、常に二人で一緒にいるに等しい彼らが、2週間近く離れて過ごしている。幸太にとって、そしておそらく火恋にとっても、明らかに異常事態だった。彼女も薄々なにか妙なものを感じているかもしれない。
―――そして、
それはクラスメイトも同様だった。
「なあ。お前、火恋のヤツとなんかあったのか?」
「は? な、なにが?」
手芸部の部室へ向かう道中、同行した友人の質問に幸太が焦る。
「いや、最近ぜんぜん一緒にいないじゃん? 喧嘩でもしたのかって噂だぜ?」
「……な、なんでそんなことが噂になってんだよ」
「いやいやどう考えたってクラスの一大事だろ。お前ら入学式の日からずっと一緒だったんだぞ? 最近みんな『離婚!? ついに離婚!?』って大騒ぎだぞ」
「いやだからなんで結婚してんだよ!」
「まぁそれは冗談としてだ。みんなわりと気にしてんぜ?」
「……べつになにもないっての。たまたまだよ」
幸太の返事は素っ気ない。
「……ふーん。ま、いいけどな。っと、ここか。すんませーん!」
挨拶しながら第2理科室の扉を引くクラスメイト。すぐに中から手芸部員の声が聞こえ、彼がフェルトを分けてもらえないか交渉を開始。
だが、その声は幸太の耳に届かなかった。
帰宅後、夕飯と風呂を済ませた幸太は、いつものように投稿サイトへつなぎ、自分と火恋の作品を確認する。
だが状況は相変わらずだ。自作はいつも通り伸び悩み、一方で火恋の作品はブクマ94件、評価ポイント424と留まるところを知らない。その差は開くばかりだ。
僅かな変化としては、昨夜ようやく2に増えたブクマが今日は1になっていた。長らく登録していたユーザーが離れたのか、昨日の読者が早くも解除したのか……。
(……最後まで読まないで作品の良し悪しなんかわかるわけないだろ)
心中で毒づく幸太。
その後、日課であるランキングのチェック。人気作の傾向を分析してPVやブクマを集めるコツを探るためだ。
―――が。
「……なんでこんな中身のない作品ばっか上位に並んでんだよ」
最近は覗いた端から批判が口をつくようになった。
無きに等しい表現力。テンションと性的な描写に頼っただけのキャラクター。会って5行でヒロインが主人公に惚れる薄いストーリー。流行に乗っただけの面白みのない設定。
素人目で見ても、なにひとつ魅力に感じられない作品。そんな連中が我が物顔で上位を占めている。
納得できるか? できるわけがない。こんな中身のない作品より自分の作品が劣るなんて。そんなの認められるか……ッ!
―――胸を締めつける苛立ち。
今の幸太に、もはや自分のことは見えていなかった。
自分の作品を評価しないランキング。積み上げた努力に押された無駄の烙印。その耐え難い現実から自尊心を守るため、せめてもの抵抗で反射的に口をつく批判。周りを引きずり落とすことにしか思考は向かず、その無意味さを鑑みる余裕すら彼は失っていた。
(……どうせSNSの互助会めいたつながりで集めたでっちあげのポイントだろ。肝心の技術を磨かないで目先のポイント集めに躍起になってたって、何にもならない。大事なのは、実力をつけること。ぬるま湯に浸かってたって―――)
自らの正しさを証明するように、心中で逆巻く独り言。
その批判がPVやブクマのために投稿サイトを見漁る自分にこそ当てはまることに気づかないほど、彼の目は曇っていた。
◯9月2日 高校
夏休みが終わり、2学期が始まった。
とはいえ休み中もほぼ毎日登校していたため、気分の上で変化はない。明日から授業が始まるが、生徒にとって学園祭が終わるまでは夏休みの延長だ。
そのため、しばらくは浮かれた雰囲気が校内を包む。
だが、幸太は違った。
(……顔あわせたら、どうすりゃいいんだ……)
通学中、自転車を漕ぎながら思い悩む。もちろん悠奈と火恋のことだ。
関係が崩れて以来、悠奈とは一度も会っていない。連絡も取り合っていない。そしてネット投稿を開始してからは、火恋とも疎遠だった。
だが学校が始まってしまえば、クラスが同じ火恋は必ず顔を合わせる。もはや避け続けるのは不可能だ。
矢保天神前の信号を渡り、矢保駅方面へ。結局なにも妙案は浮かばず、そのまま学校へ着いてしまった。
自転車置き場を軽く見回す幸太。
(……あいつ、まだ来てないか)
見慣れた火恋の自転車がないのを確認すると、胸の内を安堵感が仄かに温める。先に教室へ入れば、とりあえず寝たふりでやり過ごすこともできる。
だが始業式で体育館へ移動するときはどうする? その後は? 帰りは?
教室へ向かいながら、黙々と考える。
―――背後から誰かに抱きつかれたのは、その直後だった。
「おっはよー!」
「ぶふぇっ!?」
突然の衝撃に堪らず間の抜けた声を上げる幸太。
覆いかぶさるように首に巻きついてきたのは、
「か、火恋……お前……」
望まぬ接触に幸太の表情が動揺で崩れる。
「ん? どしたの? 顔に変なもんでもついてる?」
「あ、いや……そういうわけじゃないけど……ってか、急になんの真似だよこれ」
「んー、なんとなく?」
「……お前、自転車は?」
「いやそれなんだけどさーちょっと聞いてよ!」
出会した以上、仕方がない。幸太は火恋とともに教室へ向かう。
こうして面と向かって会うのは、実に半月ぶりだ。
だが、彼女の態度はいつもどおりだった。むしろいつもよりテンションが高い。後ろから飛びついてくることなど、これまでなかった。
自分が避けていたことに気づいていないのか? それならむしろ助かった。自分が今までどおり接すれば、火恋との関係は崩れない。
幸太は笑顔と自然な対応を意識して火恋の話を聞きながら教室へ。
彼女は話し足りないのか、荷物を自分の机に置くと、幸太の前の席へやってきて夏の思い出を語り続ける。
「でさぁ。遥と萌があんまりプール行きたいってうるさいから、連れてったらさぁ。暴れるなっていってんのに揺らすわ跳ねるわで、それでまたパンクだよパンク! 今年の夏だけでもうタイヤ8本目だよ信じらんないって!」
端から見れば、夏の思い出を語り合う仲睦まじい二人に見えるだろう。実際、彼らの関係を心配していたクラスメイトたちも、いつも通りの光景に密かに胸を撫で下ろしていた。
―――が。
異変は密かに進行していた。
……幸太の中で。
「で、チューブないから修理できなくてさー。しょうがないから電車で来ようと思ったら、お財布の中にお金なくて」
「わ、悪い、火恋。俺、ちょっとトイレ……」
「え? あーうん」
火恋に断って席を立つ幸太。教室を出てトイレの個室へ駆けこみ、便蓋を上げることもなくその上に腰を下ろす。
「……はぁ……ふぅ…………はぁ…………ふぅ……」
大きく息を吸い、吐く。吸い、吐く。
繰り返す。繰り返す。何度も。何度も。
その様子は明らかに妙だった。
表情は歪んでおり、顔色は悪い。明らかに息苦しそうにしている。
(な、なんだ……これ……)
我が身を襲う突然の異変に、幸太自身も激しく動揺していた。
いくら酸素を吸おうとしても、突然のどが詰まったかのように途中で吸えなくなる。
呼吸がうまくできない。
そのせいなのか。胸も締めつけられるように苦しい。シャツの胸元を掴み、喘鳴にも似た呼吸を繰り返す。必死に。だが上手くいかない。気のせいか頭も徐々に痛みを訴えはじめた。後頭部から頭頂にかけて痺れにも淀みにも似た違和感が這い回る。
息が苦しい。
苦しい。
苦しい。
苦しい。苦しい。苦し、い。く、るし、い……。
朝、起きてから学校に来るまでは何ともなかったのに……。
「……はぁ……はぁ…………ふ、ぅ…………」
3分ほど経過し、少し楽になってきたのか、幸太の様子は落ち着いてきた。
だが、喉の詰まる感じ、胸の圧迫感はいまだに消えない。苛立ちが深々と突き刺さったように心が痛む。
(い、いったいなんで……)
少し落ち着いた頭で考える。
家を出たときは問題なかった。通学中もだ。異常が出たのは……。
(……教室に入って、席についてからだけど……)
教室に入ってから、なにがあった。いつもと違うのは? いやなにもない。変わったことはなにも……。
(ただ火恋の話を聞いてただけ……)
火恋の話を聞いていただけ……。
火恋の話を……。
火恋の……。
―――
(……っ)
途端。幸太の唇が、結ばれる。
固く、固く。……固く。
湧き上がる苦渋を噛み潰すように。
心の痛みをごまかすように。
……
幸太は、気づいた。
気づいてしまった。
己の心を締め上げる痛みの正体に。
身の内を淀む苦しみの正体に。
自分が―――――――――火恋に、嫉妬していることに。
幸太はいつものように学校で文化祭の準備に勤しんでいた。
いよいよ準備も佳境。教室も授業に影響がない範囲で、すでに様変わりしていた。外壁は新聞紙で作った煉瓦で埋め尽くされ、その上に本物の植物のツルが張りつけられている。さながら薄気味悪い古びた洋館だ。当日は廊下の大窓を黒布で覆って光を遮るため、さらに雰囲気が出るだろう。
「あれ? 小道具の鎌ってどこいった?」「茜が振り回しながらコンビニ行ったよ」
「あと足りないSEってなんだ?」「ゾンビの金切り声」「どんな声だそれ?」「あれじゃない? シャー! ってやつ」「あ。お前いまのめっちゃ似てたから、それ録音しといて」
外装、内装、小道具、音響、各班いずれも残すは最後の追いこみ。火恋たち幽霊役は班の仕事を離れ、ここ最近は中庭で連日に及ぶ演出の秘密特訓だ。
「コウモリ、どうするか?」
幸太たち外装班は、廊下の天井からぶら下げるコウモリをどう作るか悩んでいた。
「黒い厚紙をコウモリの形に切るとか?」「それ味気なくない?」「せめてもうちょいリアルにしたいな」「幸太なんかいいアイデアない? 煉瓦のときみたいなやつ」「そんな急にいわれても……うーん、フェルトとか?」「フェルト?」「黒いフェルトをコウモリの形に切る。少しは立体感あるし、あと豆電球とかつけられるから、暗いところで目を光らせたりもできると思う」「おーなんか面白そう」「手芸部にフェルトもらえないか相談してみるか。幸太、行こうぜ」「はいよ」「豆電球、100均で売ってっかな?」「茜コンビニ行ってるから、ついでに見てきてもらおうよ」
いつもと変わらぬ準備風景だ。
……が。
幸太の内心はそわそわしており、どこか落ち着きがなかった。
原因は明白。火恋と顔を合わせるのが気まずいからだ。
陰で作品を覗いている後ろめたさから、最近の幸太は火恋を意識的に避けていた。彼女が弁当の差し入れにくるタイミングでトイレやコンビニに行ったり、早めに学校を出て帰宅時間が重ならないようにしたりして。幽霊役の彼女は弁当を差し入れると中庭へ行ってしまうため、それで顔は合わせないで済む。
普段、常に二人で一緒にいるに等しい彼らが、2週間近く離れて過ごしている。幸太にとって、そしておそらく火恋にとっても、明らかに異常事態だった。彼女も薄々なにか妙なものを感じているかもしれない。
―――そして、
それはクラスメイトも同様だった。
「なあ。お前、火恋のヤツとなんかあったのか?」
「は? な、なにが?」
手芸部の部室へ向かう道中、同行した友人の質問に幸太が焦る。
「いや、最近ぜんぜん一緒にいないじゃん? 喧嘩でもしたのかって噂だぜ?」
「……な、なんでそんなことが噂になってんだよ」
「いやいやどう考えたってクラスの一大事だろ。お前ら入学式の日からずっと一緒だったんだぞ? 最近みんな『離婚!? ついに離婚!?』って大騒ぎだぞ」
「いやだからなんで結婚してんだよ!」
「まぁそれは冗談としてだ。みんなわりと気にしてんぜ?」
「……べつになにもないっての。たまたまだよ」
幸太の返事は素っ気ない。
「……ふーん。ま、いいけどな。っと、ここか。すんませーん!」
挨拶しながら第2理科室の扉を引くクラスメイト。すぐに中から手芸部員の声が聞こえ、彼がフェルトを分けてもらえないか交渉を開始。
だが、その声は幸太の耳に届かなかった。
帰宅後、夕飯と風呂を済ませた幸太は、いつものように投稿サイトへつなぎ、自分と火恋の作品を確認する。
だが状況は相変わらずだ。自作はいつも通り伸び悩み、一方で火恋の作品はブクマ94件、評価ポイント424と留まるところを知らない。その差は開くばかりだ。
僅かな変化としては、昨夜ようやく2に増えたブクマが今日は1になっていた。長らく登録していたユーザーが離れたのか、昨日の読者が早くも解除したのか……。
(……最後まで読まないで作品の良し悪しなんかわかるわけないだろ)
心中で毒づく幸太。
その後、日課であるランキングのチェック。人気作の傾向を分析してPVやブクマを集めるコツを探るためだ。
―――が。
「……なんでこんな中身のない作品ばっか上位に並んでんだよ」
最近は覗いた端から批判が口をつくようになった。
無きに等しい表現力。テンションと性的な描写に頼っただけのキャラクター。会って5行でヒロインが主人公に惚れる薄いストーリー。流行に乗っただけの面白みのない設定。
素人目で見ても、なにひとつ魅力に感じられない作品。そんな連中が我が物顔で上位を占めている。
納得できるか? できるわけがない。こんな中身のない作品より自分の作品が劣るなんて。そんなの認められるか……ッ!
―――胸を締めつける苛立ち。
今の幸太に、もはや自分のことは見えていなかった。
自分の作品を評価しないランキング。積み上げた努力に押された無駄の烙印。その耐え難い現実から自尊心を守るため、せめてもの抵抗で反射的に口をつく批判。周りを引きずり落とすことにしか思考は向かず、その無意味さを鑑みる余裕すら彼は失っていた。
(……どうせSNSの互助会めいたつながりで集めたでっちあげのポイントだろ。肝心の技術を磨かないで目先のポイント集めに躍起になってたって、何にもならない。大事なのは、実力をつけること。ぬるま湯に浸かってたって―――)
自らの正しさを証明するように、心中で逆巻く独り言。
その批判がPVやブクマのために投稿サイトを見漁る自分にこそ当てはまることに気づかないほど、彼の目は曇っていた。
◯9月2日 高校
夏休みが終わり、2学期が始まった。
とはいえ休み中もほぼ毎日登校していたため、気分の上で変化はない。明日から授業が始まるが、生徒にとって学園祭が終わるまでは夏休みの延長だ。
そのため、しばらくは浮かれた雰囲気が校内を包む。
だが、幸太は違った。
(……顔あわせたら、どうすりゃいいんだ……)
通学中、自転車を漕ぎながら思い悩む。もちろん悠奈と火恋のことだ。
関係が崩れて以来、悠奈とは一度も会っていない。連絡も取り合っていない。そしてネット投稿を開始してからは、火恋とも疎遠だった。
だが学校が始まってしまえば、クラスが同じ火恋は必ず顔を合わせる。もはや避け続けるのは不可能だ。
矢保天神前の信号を渡り、矢保駅方面へ。結局なにも妙案は浮かばず、そのまま学校へ着いてしまった。
自転車置き場を軽く見回す幸太。
(……あいつ、まだ来てないか)
見慣れた火恋の自転車がないのを確認すると、胸の内を安堵感が仄かに温める。先に教室へ入れば、とりあえず寝たふりでやり過ごすこともできる。
だが始業式で体育館へ移動するときはどうする? その後は? 帰りは?
教室へ向かいながら、黙々と考える。
―――背後から誰かに抱きつかれたのは、その直後だった。
「おっはよー!」
「ぶふぇっ!?」
突然の衝撃に堪らず間の抜けた声を上げる幸太。
覆いかぶさるように首に巻きついてきたのは、
「か、火恋……お前……」
望まぬ接触に幸太の表情が動揺で崩れる。
「ん? どしたの? 顔に変なもんでもついてる?」
「あ、いや……そういうわけじゃないけど……ってか、急になんの真似だよこれ」
「んー、なんとなく?」
「……お前、自転車は?」
「いやそれなんだけどさーちょっと聞いてよ!」
出会した以上、仕方がない。幸太は火恋とともに教室へ向かう。
こうして面と向かって会うのは、実に半月ぶりだ。
だが、彼女の態度はいつもどおりだった。むしろいつもよりテンションが高い。後ろから飛びついてくることなど、これまでなかった。
自分が避けていたことに気づいていないのか? それならむしろ助かった。自分が今までどおり接すれば、火恋との関係は崩れない。
幸太は笑顔と自然な対応を意識して火恋の話を聞きながら教室へ。
彼女は話し足りないのか、荷物を自分の机に置くと、幸太の前の席へやってきて夏の思い出を語り続ける。
「でさぁ。遥と萌があんまりプール行きたいってうるさいから、連れてったらさぁ。暴れるなっていってんのに揺らすわ跳ねるわで、それでまたパンクだよパンク! 今年の夏だけでもうタイヤ8本目だよ信じらんないって!」
端から見れば、夏の思い出を語り合う仲睦まじい二人に見えるだろう。実際、彼らの関係を心配していたクラスメイトたちも、いつも通りの光景に密かに胸を撫で下ろしていた。
―――が。
異変は密かに進行していた。
……幸太の中で。
「で、チューブないから修理できなくてさー。しょうがないから電車で来ようと思ったら、お財布の中にお金なくて」
「わ、悪い、火恋。俺、ちょっとトイレ……」
「え? あーうん」
火恋に断って席を立つ幸太。教室を出てトイレの個室へ駆けこみ、便蓋を上げることもなくその上に腰を下ろす。
「……はぁ……ふぅ…………はぁ…………ふぅ……」
大きく息を吸い、吐く。吸い、吐く。
繰り返す。繰り返す。何度も。何度も。
その様子は明らかに妙だった。
表情は歪んでおり、顔色は悪い。明らかに息苦しそうにしている。
(な、なんだ……これ……)
我が身を襲う突然の異変に、幸太自身も激しく動揺していた。
いくら酸素を吸おうとしても、突然のどが詰まったかのように途中で吸えなくなる。
呼吸がうまくできない。
そのせいなのか。胸も締めつけられるように苦しい。シャツの胸元を掴み、喘鳴にも似た呼吸を繰り返す。必死に。だが上手くいかない。気のせいか頭も徐々に痛みを訴えはじめた。後頭部から頭頂にかけて痺れにも淀みにも似た違和感が這い回る。
息が苦しい。
苦しい。
苦しい。
苦しい。苦しい。苦し、い。く、るし、い……。
朝、起きてから学校に来るまでは何ともなかったのに……。
「……はぁ……はぁ…………ふ、ぅ…………」
3分ほど経過し、少し楽になってきたのか、幸太の様子は落ち着いてきた。
だが、喉の詰まる感じ、胸の圧迫感はいまだに消えない。苛立ちが深々と突き刺さったように心が痛む。
(い、いったいなんで……)
少し落ち着いた頭で考える。
家を出たときは問題なかった。通学中もだ。異常が出たのは……。
(……教室に入って、席についてからだけど……)
教室に入ってから、なにがあった。いつもと違うのは? いやなにもない。変わったことはなにも……。
(ただ火恋の話を聞いてただけ……)
火恋の話を聞いていただけ……。
火恋の話を……。
火恋の……。
―――
(……っ)
途端。幸太の唇が、結ばれる。
固く、固く。……固く。
湧き上がる苦渋を噛み潰すように。
心の痛みをごまかすように。
……
幸太は、気づいた。
気づいてしまった。
己の心を締め上げる痛みの正体に。
身の内を淀む苦しみの正体に。
自分が―――――――――火恋に、嫉妬していることに。