本編
◯8月7日 長月家
珍しく平日の文化祭準備がなかった8月7日、水曜日。
幸太は自室で机にかじりつき、原稿に集中していた。
直近の提出目安である8月4日も、例によって日を跨いだ後に原稿を送信。最近では毎度のことだが、良くなかったのはそれまで深夜1時くらいだった提出が深夜2時すぎにまでずれこんだことだ。
こうまで立て続けの上、直近はさらに時間を遅延。さすがの幸太も、このときばかりは欠片も楽観を抱かなかった。
そして今日はこれまでの負債を相殺するため、朝6時から終始パソコンと向き合っている。
……が。
(この2日、文化祭の準備がヤバかったからなぁ……)
内心で募る焦り。
今日までの到達目安は80ページ。だが、7日・午後1時の段階で書けているのは73ページ。残り半日ほどで7ページ、およそ1万文字を仕上げなければならない。
単に1万文字の文章を書くだけなら半日もあれば十分だろう。だがラノベとして魅力ある1万文字となると話は別だ。
1時間。
2時間。
刻一刻と迫るタイムリミット。
意識の隙間に響く乾いた音。顔を上げて掛け時計を見る。
(―――え!? もう5時!?)
17時を過ぎている事実に心が戦慄き出す。
間に合うのか……?
これ、大丈夫なのか……?
気概がしぼみ、脳裏を過ぎるのはただ疑問と不安ばかり。
どうせ悠奈の赤が入るのだから、とりあえずページ数だけ埋めてしまおうか……。
加速する危機感にそんな誘惑すら頭をもたげる。
(い、いやいやいや! なに考えてんだ俺!)
咄嗟に頭を振って雑念を吹き飛ばし、画面に意識を集中し直す幸太。
ここで逃げたところで、なにも変わらない。ただの苦労の先送りだ。
なんとしても間に合わせる。
なんとしても。
―――3時間後。
すでに陽も暮れて久しい20時すぎ。
ディスプレイに表示された文書ソフトのページ数は、実に183にも及んでいた。
……が。
そこには一文字たりとも書かれていない。すべて白紙だ。
幸太は今、机に突っ伏していた。右手の薬指をエンターキーに置いたまま。
睡眠時間も食事も削りに削って原稿を間に合わせようとした代償だった。集中力と疲労が限界に達し、睡魔に負けてしまったのだ。
起きる気配どころか、身じろぐ様子もない。
その横顔は、もはや締め切りの不安など欠片も抱くことなく、熟睡している。
迫るタイムリミットを刻む時計の音に怯えることもなく。
1時間。
2時間。
そして―――
(……ん?)
幸太は目を覚ました。
「……ッ! やばッッッ!」
途端、跳ね起きた。
咄嗟に掛け時計に視線を飛ばす。
―――深夜1時。
日付が変わっていた。
(……)
やってしまった。締め切りを破ったどころか、事前に悠奈へ連絡も入れなかった。
無言のまま凍りつく幸太。不安に逸る鼓動の音が、静まり返った室内で酷く耳と体に響く。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
幸太は急いで携帯を開けると、電話帳から悠奈の番号を探し出し、通話ボタンに親指を伸ばす。一瞬、逡巡し、深夜の電話は迷惑ではなど言い訳が脳裏を過ったが、勇気を振り絞ってボタンを押した。
起きているだろうか……その心配は2コール目で消えた。
『……はい』
やや沈んだ声が応じる。悠奈だ。眠っていたのか、あるいは……。
「あ、すみません……い、いま大丈夫でした……?」
恐る恐る尋ねる幸太。
『……大丈夫ですけど』
「そ、そうですか。じゃ、じゃあ、その……」
動揺に言葉が詰まる。せめてなにをどう伝えるか整理しておくべきだったと後悔するも、今さら遅い。
「あ、あの……すみません、原稿……あとちょっとなんですけど……」
『……』
「ほ、ほんとにごめんなさい! あ、あと2ページなんで、なんとか朝までには……っ!」
『……』
「あ、えっと……その……」
『……』
今までならここで「わかりました」という一言が返ってきた。だが今回の悠奈は、無言を貫いている。
困惑する幸太。彼女の感情がまるで読めない。
怒っている? 呆れている? それとも……。
膨れ上がる不安。押し寄せる恐怖。明らかに様子が妙な悠奈を前に、幸太の動揺が逸る。
なにを言えばいい? わからない。いったいどうすれ
『先輩』
―――
唐突に、前置きもなく、悠奈が口を開いた。
抑揚も、感情もない、一本の声で。
「……は、はい」
乾き果てた喉から、なんとか返事を絞り出す幸太。
無音の室内。
を叩く時計の音。
寒い背中。
を伝う一筋の冷や汗。
必死に心を落ち着け、来るべき答えを待ち受
『やる気あるんですか?』
……降りかかったのは、容赦ない詰問だった。
ストレートな、だからこそ最も痛烈な責め句に、堪らず無言に陥る幸太。
いつもは口数が少なく、物腰も穏やかな悠奈。そんな彼女の発した一言ゆえ、あまりにも衝撃が強すぎたのだろう。
『……これで何回目ですか?』
「……す、すみません」
『先輩たちがどうしても顧問になってほしいって言ったと思うんですけど……』
「は、はい……」
項垂れる幸太。
『如月先輩のために顧問がほしかっただけでしたら、これから先輩の原稿は見なくてもいいですか? 私もべつに暇なわけじゃないので……』
「つ、次からは絶対に守ります! だから……っ!」
『どうやってですか?』
「そ、それは……その……」
幸太の思考が止まる。
言い訳一つ考えるどころか、生返事を返す余裕すらなくなっていた。
悠奈が溜め息を零す。
『……守るという意思が本当にあるなら、そもそも最初から遅れたりしません』
言葉もない。
『3回も遅れたあとに守ると言われても、さすがに私も信用できないです』
そうだろう。
『クラスの友達と遊びに行ったりする時間があるなら、原稿に時間を回すべきではなかったですか? それに……』
その通―――
『たかが文化祭の準備に、あんなに時間つかって……』
―――。
幸太の眉がぴくりと動いた。
何かの訪れを告げるように。
「……たかがってなんですか?」
『……え?』
唐突に幸太が口を開き、今度は悠奈の言葉が詰まる。
不穏な沈黙。
は、すぐに破れた。
「……たかがって、なんですか?」
繰り返される質問。
口調に滲む強固な怒り。
幸太の突然の変貌に、気圧されたのか黙る悠奈。
それでも強気は崩さない。
―――崩せない。
『……せ、先輩たちが見てほしいって言ってきたんですよ! ならちゃんとそのためにやることはやるべ』
「今はその話をしてませんよ! たかがってなんですか! 俺たちの文化祭を馬鹿にしないでください!」
それは……幸太も同じだった。
『ば、馬鹿になんてしてません! わ、私はただ』
「じゃあなんだっていうんですか! うちの高校がどれだけ文化祭に力を入れているか知りもしないで! 勝手なこと言わないでください!」
そう。國高生にとって文化祭は何よりも大切なイベントだ。全学年がたった2日の出展のために半年から1年もの時間をかけ、一丸となって準備をする。3年生に至っては大学受験を放棄してまで全身全霊を懸ける。
たかが文化祭……。
そう一蹴された幸太が一瞬で激情するほど、誰もが強い思いを持っている。
『か、勝手なのはどっちですかっ! もとはといえば締め切りの話からすり替えたのは先輩です!』「こっちはさっき謝ったじゃないで」『どこかですか! あんなの口だけです! 3回も約束やぶっといてなに言』「口だけってなんですか! それにこっちにだってこっちの事情があるんですよ! 忙しいのは霜月さんだけじゃな」『お願いしてきたのはそっちです! その責任をこっちになすりつけないでくだ』「頼む前からどんなことをやるのかなんて知るわけないじゃないですか! だったら締め切り決める前にこっちのスケジュールを聞くくらいし」『聞きましたよ! それで大丈夫だって言ったのは先輩です!』「中身なんにも説明しないで聞いたなんておかしいで」『おかしいのは先輩のほうです!』
……もはや不毛な言い争いでしかなかった。
互いが互いの理屈を振りかざし、論点を自らの土俵へ寄せようとするだけ。
その後も二人は、いくつもの無益な言葉をぶつけ合った。ただの時間の無駄でしかない、互いを、そして自分を傷つけるだけの言葉を。
……その行き着く先は、一つしかなかった。
『……もういいです。先輩の言いたいことはよくわかりました……ッ!』
「ちょ、ちょっと、それいったいどういう……ちょ……っ!」
―――切れた。
耳元で虚しく響くビジートーン。
それまでの喧騒が嘘のような静寂。
途端、押し寄せる猛烈な脱力感。
茫然と、虚空の一点に結ばれる視線。
激情に任せるがまますべてを吐き出した幸太の心が、急速に冷えていった。
たった数分の電話。
その一本を境に、別の世界へ迷いこんだような虚無感が身を縛る。
(……ッ!)
歯を食いしばる幸太。
それは文化祭を貶められたことへの怒りなのか。
あるいは……。
―――同刻。
「はぁ……はぁ……」
電話を切った悠奈は、肩で息をしながら、両手で携帯を握りしめていた。
額に薄っすらと光る汗の玉。頬は朱く染まり果て、汗ばんだ背中一面にはTシャツが、首筋には結ばずに下ろした髪がべったり張りついている。
「はぁ…………は、ぁ…………」
自分がなにを考えていたのか、まったく覚えていない。
ただ、身の内より湧き上がる激情に任せるがまま、気がつけば幸太に心ない言葉の数々をぶつけていた。
……信じられなかった。
自分の心のなかに、こんなにも汚れた感情が潜んでいたなんて。
止めることも、遮ることもできないほどに、強く歪んだ負の感情が……。
(か、勝手なのはどっちですかっ! もとはといえば締め切りの話からすり替えたのは先輩です!)
……違う。
(どこかですか! あんなの口だけです! 3回も約束やぶっといてなに言って!)
……違う。ちがう。
(お願いしてきたのはそっちです! その責任をこっちになすりつけないでください!)
ちがう!
私はそんなこと言いたかったんじゃない……ッ!
言いたかったんじゃ……
ない。
「……っ……う、っ…………」
後悔に堪えきれなくなった心から嗚咽が漏れる。
力なく萎れる両腕。
滑り落ちる携帯電話。
重々しい音。
両手が悠奈の顔を覆う。
……わからない。
なぜあんなことを言ってしまったのか……。
はじめて、心を許せた人だったのに。
はじめて、趣味の話で盛り上がれた人だったのに。
はじめて、本当の友達になれたかもしれない人……だったのに。
「……ひ、ぐ……っ……うう、っ…………え、う………っ………!」
こんな形で、離れたくなどなかった。
こんな形で、終わりたくなどなかった。
そんなつもり、少しもなかった。
……でも、心が抑えられなかった。
原稿の遅れに対する怒り、高校でも一人で過ごす寂しさ、努力が空回る虚しさ。
そして……クラスメイトと仲良く過ごす二人に対する密かな妬み。
数多の感情が混ざり合ってしまった成れの果て。その結実たる今の気持ちが彼女自身にも理解できなかった。
だから、吐き出すしかなかった。
膨れ上がる不可解な感情に胸が押し潰される、その前に。
―――いくら大人びていても、所詮それは能力の話。
彼女の心と体は、まだ幼い少女のままだ。
自分の思い通りにならないと、心のままに苛立ち、羨み、悲しみ、苦しむ……
本音を抑える術も、ごまかす術も、やわらかく伝える術も持たない……
そんな幼気な16歳だ。
「う……っ……あ、あぁ…………あ、う……ふ……ぅぅ………ひ、うぅ……っ……」
悠奈と幸太のつながりは、怒りや妬みを和らげてくれるほどには……相手の声に耳を傾けられるほどには……強くはなかった。
故に、すべてを失った。
最も失いたくなかったはずのものを。
大切な、つながりを。
その可能性を……。
―――かわりに手にした痛みは、到底、堪え切れるものではなかった。
悠奈は、泣いた。
泣き続けた。
夜が、更けても。
陽が、昇っても。
泣き続けた。
泣き疲れるまで。
……涙が、枯れ果てるまで。
そして、この日を境に。
幸太と悠奈、そして火恋の関係は、歪んでいく……。
たとえ三人が、それを望まなくとも―――。
珍しく平日の文化祭準備がなかった8月7日、水曜日。
幸太は自室で机にかじりつき、原稿に集中していた。
直近の提出目安である8月4日も、例によって日を跨いだ後に原稿を送信。最近では毎度のことだが、良くなかったのはそれまで深夜1時くらいだった提出が深夜2時すぎにまでずれこんだことだ。
こうまで立て続けの上、直近はさらに時間を遅延。さすがの幸太も、このときばかりは欠片も楽観を抱かなかった。
そして今日はこれまでの負債を相殺するため、朝6時から終始パソコンと向き合っている。
……が。
(この2日、文化祭の準備がヤバかったからなぁ……)
内心で募る焦り。
今日までの到達目安は80ページ。だが、7日・午後1時の段階で書けているのは73ページ。残り半日ほどで7ページ、およそ1万文字を仕上げなければならない。
単に1万文字の文章を書くだけなら半日もあれば十分だろう。だがラノベとして魅力ある1万文字となると話は別だ。
1時間。
2時間。
刻一刻と迫るタイムリミット。
意識の隙間に響く乾いた音。顔を上げて掛け時計を見る。
(―――え!? もう5時!?)
17時を過ぎている事実に心が戦慄き出す。
間に合うのか……?
これ、大丈夫なのか……?
気概がしぼみ、脳裏を過ぎるのはただ疑問と不安ばかり。
どうせ悠奈の赤が入るのだから、とりあえずページ数だけ埋めてしまおうか……。
加速する危機感にそんな誘惑すら頭をもたげる。
(い、いやいやいや! なに考えてんだ俺!)
咄嗟に頭を振って雑念を吹き飛ばし、画面に意識を集中し直す幸太。
ここで逃げたところで、なにも変わらない。ただの苦労の先送りだ。
なんとしても間に合わせる。
なんとしても。
―――3時間後。
すでに陽も暮れて久しい20時すぎ。
ディスプレイに表示された文書ソフトのページ数は、実に183にも及んでいた。
……が。
そこには一文字たりとも書かれていない。すべて白紙だ。
幸太は今、机に突っ伏していた。右手の薬指をエンターキーに置いたまま。
睡眠時間も食事も削りに削って原稿を間に合わせようとした代償だった。集中力と疲労が限界に達し、睡魔に負けてしまったのだ。
起きる気配どころか、身じろぐ様子もない。
その横顔は、もはや締め切りの不安など欠片も抱くことなく、熟睡している。
迫るタイムリミットを刻む時計の音に怯えることもなく。
1時間。
2時間。
そして―――
(……ん?)
幸太は目を覚ました。
「……ッ! やばッッッ!」
途端、跳ね起きた。
咄嗟に掛け時計に視線を飛ばす。
―――深夜1時。
日付が変わっていた。
(……)
やってしまった。締め切りを破ったどころか、事前に悠奈へ連絡も入れなかった。
無言のまま凍りつく幸太。不安に逸る鼓動の音が、静まり返った室内で酷く耳と体に響く。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
幸太は急いで携帯を開けると、電話帳から悠奈の番号を探し出し、通話ボタンに親指を伸ばす。一瞬、逡巡し、深夜の電話は迷惑ではなど言い訳が脳裏を過ったが、勇気を振り絞ってボタンを押した。
起きているだろうか……その心配は2コール目で消えた。
『……はい』
やや沈んだ声が応じる。悠奈だ。眠っていたのか、あるいは……。
「あ、すみません……い、いま大丈夫でした……?」
恐る恐る尋ねる幸太。
『……大丈夫ですけど』
「そ、そうですか。じゃ、じゃあ、その……」
動揺に言葉が詰まる。せめてなにをどう伝えるか整理しておくべきだったと後悔するも、今さら遅い。
「あ、あの……すみません、原稿……あとちょっとなんですけど……」
『……』
「ほ、ほんとにごめんなさい! あ、あと2ページなんで、なんとか朝までには……っ!」
『……』
「あ、えっと……その……」
『……』
今までならここで「わかりました」という一言が返ってきた。だが今回の悠奈は、無言を貫いている。
困惑する幸太。彼女の感情がまるで読めない。
怒っている? 呆れている? それとも……。
膨れ上がる不安。押し寄せる恐怖。明らかに様子が妙な悠奈を前に、幸太の動揺が逸る。
なにを言えばいい? わからない。いったいどうすれ
『先輩』
―――
唐突に、前置きもなく、悠奈が口を開いた。
抑揚も、感情もない、一本の声で。
「……は、はい」
乾き果てた喉から、なんとか返事を絞り出す幸太。
無音の室内。
を叩く時計の音。
寒い背中。
を伝う一筋の冷や汗。
必死に心を落ち着け、来るべき答えを待ち受
『やる気あるんですか?』
……降りかかったのは、容赦ない詰問だった。
ストレートな、だからこそ最も痛烈な責め句に、堪らず無言に陥る幸太。
いつもは口数が少なく、物腰も穏やかな悠奈。そんな彼女の発した一言ゆえ、あまりにも衝撃が強すぎたのだろう。
『……これで何回目ですか?』
「……す、すみません」
『先輩たちがどうしても顧問になってほしいって言ったと思うんですけど……』
「は、はい……」
項垂れる幸太。
『如月先輩のために顧問がほしかっただけでしたら、これから先輩の原稿は見なくてもいいですか? 私もべつに暇なわけじゃないので……』
「つ、次からは絶対に守ります! だから……っ!」
『どうやってですか?』
「そ、それは……その……」
幸太の思考が止まる。
言い訳一つ考えるどころか、生返事を返す余裕すらなくなっていた。
悠奈が溜め息を零す。
『……守るという意思が本当にあるなら、そもそも最初から遅れたりしません』
言葉もない。
『3回も遅れたあとに守ると言われても、さすがに私も信用できないです』
そうだろう。
『クラスの友達と遊びに行ったりする時間があるなら、原稿に時間を回すべきではなかったですか? それに……』
その通―――
『たかが文化祭の準備に、あんなに時間つかって……』
―――。
幸太の眉がぴくりと動いた。
何かの訪れを告げるように。
「……たかがってなんですか?」
『……え?』
唐突に幸太が口を開き、今度は悠奈の言葉が詰まる。
不穏な沈黙。
は、すぐに破れた。
「……たかがって、なんですか?」
繰り返される質問。
口調に滲む強固な怒り。
幸太の突然の変貌に、気圧されたのか黙る悠奈。
それでも強気は崩さない。
―――崩せない。
『……せ、先輩たちが見てほしいって言ってきたんですよ! ならちゃんとそのためにやることはやるべ』
「今はその話をしてませんよ! たかがってなんですか! 俺たちの文化祭を馬鹿にしないでください!」
それは……幸太も同じだった。
『ば、馬鹿になんてしてません! わ、私はただ』
「じゃあなんだっていうんですか! うちの高校がどれだけ文化祭に力を入れているか知りもしないで! 勝手なこと言わないでください!」
そう。國高生にとって文化祭は何よりも大切なイベントだ。全学年がたった2日の出展のために半年から1年もの時間をかけ、一丸となって準備をする。3年生に至っては大学受験を放棄してまで全身全霊を懸ける。
たかが文化祭……。
そう一蹴された幸太が一瞬で激情するほど、誰もが強い思いを持っている。
『か、勝手なのはどっちですかっ! もとはといえば締め切りの話からすり替えたのは先輩です!』「こっちはさっき謝ったじゃないで」『どこかですか! あんなの口だけです! 3回も約束やぶっといてなに言』「口だけってなんですか! それにこっちにだってこっちの事情があるんですよ! 忙しいのは霜月さんだけじゃな」『お願いしてきたのはそっちです! その責任をこっちになすりつけないでくだ』「頼む前からどんなことをやるのかなんて知るわけないじゃないですか! だったら締め切り決める前にこっちのスケジュールを聞くくらいし」『聞きましたよ! それで大丈夫だって言ったのは先輩です!』「中身なんにも説明しないで聞いたなんておかしいで」『おかしいのは先輩のほうです!』
……もはや不毛な言い争いでしかなかった。
互いが互いの理屈を振りかざし、論点を自らの土俵へ寄せようとするだけ。
その後も二人は、いくつもの無益な言葉をぶつけ合った。ただの時間の無駄でしかない、互いを、そして自分を傷つけるだけの言葉を。
……その行き着く先は、一つしかなかった。
『……もういいです。先輩の言いたいことはよくわかりました……ッ!』
「ちょ、ちょっと、それいったいどういう……ちょ……っ!」
―――切れた。
耳元で虚しく響くビジートーン。
それまでの喧騒が嘘のような静寂。
途端、押し寄せる猛烈な脱力感。
茫然と、虚空の一点に結ばれる視線。
激情に任せるがまますべてを吐き出した幸太の心が、急速に冷えていった。
たった数分の電話。
その一本を境に、別の世界へ迷いこんだような虚無感が身を縛る。
(……ッ!)
歯を食いしばる幸太。
それは文化祭を貶められたことへの怒りなのか。
あるいは……。
―――同刻。
「はぁ……はぁ……」
電話を切った悠奈は、肩で息をしながら、両手で携帯を握りしめていた。
額に薄っすらと光る汗の玉。頬は朱く染まり果て、汗ばんだ背中一面にはTシャツが、首筋には結ばずに下ろした髪がべったり張りついている。
「はぁ…………は、ぁ…………」
自分がなにを考えていたのか、まったく覚えていない。
ただ、身の内より湧き上がる激情に任せるがまま、気がつけば幸太に心ない言葉の数々をぶつけていた。
……信じられなかった。
自分の心のなかに、こんなにも汚れた感情が潜んでいたなんて。
止めることも、遮ることもできないほどに、強く歪んだ負の感情が……。
(か、勝手なのはどっちですかっ! もとはといえば締め切りの話からすり替えたのは先輩です!)
……違う。
(どこかですか! あんなの口だけです! 3回も約束やぶっといてなに言って!)
……違う。ちがう。
(お願いしてきたのはそっちです! その責任をこっちになすりつけないでください!)
ちがう!
私はそんなこと言いたかったんじゃない……ッ!
言いたかったんじゃ……
ない。
「……っ……う、っ…………」
後悔に堪えきれなくなった心から嗚咽が漏れる。
力なく萎れる両腕。
滑り落ちる携帯電話。
重々しい音。
両手が悠奈の顔を覆う。
……わからない。
なぜあんなことを言ってしまったのか……。
はじめて、心を許せた人だったのに。
はじめて、趣味の話で盛り上がれた人だったのに。
はじめて、本当の友達になれたかもしれない人……だったのに。
「……ひ、ぐ……っ……うう、っ…………え、う………っ………!」
こんな形で、離れたくなどなかった。
こんな形で、終わりたくなどなかった。
そんなつもり、少しもなかった。
……でも、心が抑えられなかった。
原稿の遅れに対する怒り、高校でも一人で過ごす寂しさ、努力が空回る虚しさ。
そして……クラスメイトと仲良く過ごす二人に対する密かな妬み。
数多の感情が混ざり合ってしまった成れの果て。その結実たる今の気持ちが彼女自身にも理解できなかった。
だから、吐き出すしかなかった。
膨れ上がる不可解な感情に胸が押し潰される、その前に。
―――いくら大人びていても、所詮それは能力の話。
彼女の心と体は、まだ幼い少女のままだ。
自分の思い通りにならないと、心のままに苛立ち、羨み、悲しみ、苦しむ……
本音を抑える術も、ごまかす術も、やわらかく伝える術も持たない……
そんな幼気な16歳だ。
「う……っ……あ、あぁ…………あ、う……ふ……ぅぅ………ひ、うぅ……っ……」
悠奈と幸太のつながりは、怒りや妬みを和らげてくれるほどには……相手の声に耳を傾けられるほどには……強くはなかった。
故に、すべてを失った。
最も失いたくなかったはずのものを。
大切な、つながりを。
その可能性を……。
―――かわりに手にした痛みは、到底、堪え切れるものではなかった。
悠奈は、泣いた。
泣き続けた。
夜が、更けても。
陽が、昇っても。
泣き続けた。
泣き疲れるまで。
……涙が、枯れ果てるまで。
そして、この日を境に。
幸太と悠奈、そして火恋の関係は、歪んでいく……。
たとえ三人が、それを望まなくとも―――。