本編
◯8月1日 第6回ミーティング
『すみません! 日が変わるくらいになりそうです、もう少しだけ時間ください!』
第6回ミーティング前々日の7月30日、悠奈のもとに幸太から原稿が遅れるとの連絡が届いた。
最近、二人とも送ってくるタイミングにラグが出てきた。幸太は夜9時くらいだったのが日をまたぎはじめ、火恋も1、2時間ほど遅れてきている。
なんとか4日ごとの提出は守れているが……。このペースが崩れるのも時間の問題だろう。
とはいえ、そうなることは初めから予想していた。何事も計画通りにはいかない。宿題だって文化祭の準備だってあるだろう。
だからメールを打つ悠奈の指も、自然と「わかりました」と入力した。
(……)
だが。
頭ではわかっていても、心はそうもいかない。
理解はできても、納得はなかなかできない。
これで2回目。しかもこの間はクラスメイトと遊びに行っていた。
それでもう少し時間がほしいって言うのは……。
―――沸々と心に滲み出す、かすかに仄暗い感情。
いくら高校生離れした思考力や分析眼を持ち得ても、彼女は高校生。心はまだ未熟だ。些細なことで喜び、悲しみ、怒り、苛立つ、そんな幼気な少女に過ぎない。
加えて、最近は仕事のストレスや人間関係の悩みも重なり、余計に精神が不安定だった。
なんとかメールを返信するも、書かれたのは結局「わかりました」という淡白な承諾の一言のみ。自分の微かな苛立ちが現れているとも気づかず、悠奈はそのまま仕事に戻る。
自分の部屋。目の前のローテーブルには見開いたノート。プロットのアイデア出しで広げたそれは、3時間たっても白紙のままだ。
もう猶予はなかった。担当も痺れを切らしている。
だが、ノートは白紙。
積み上がるのは、焦りと苛立ちばかり。
結局、その後も作業は捗らず、手にしたペンを投げるように転がす悠奈。
(……寝よう)
そのまま部屋の電気を消してベッドへ潜り、逃避するように頭から布団を被った。
眠りに落ちるまで、心の靄は晴れなかった。
「……え? 土日も文化祭の準備するんですか?」
2日後の8月1日。第6回ミーティングで予定はさらに狂った。
「そうなんです。実はノコギリだとちょっと難しい作業があって、近くの中学校の技術室を借りることになったんです。でも、借りられるのが土日しかなくて」
幸太が言うには、技術室の糸ノコを借りたくて、クラスメイトが母校の中学校に交渉したらしい。結果、許可はもらったが、いつも部活などで使っているため、土日しか空いていないとのことだった。
「そういうわけで、すみません……明後日の土曜もちょっと厳しくて……」
頭を下げて謝意を示す幸太。
「あ、い、いえ、大丈夫です。今日の次が明後日だとむしろ早すぎますし……じゃあ……少し開きますけど10日の土曜にしましょう」
悠奈が予定を確認すると、幸太と火恋も頷いた。
「あ、そうそう。悠奈ちゃんに渡すものあったんだ」
「え?」
ミーティングが終わると、火恋が自分のリュックを漁りはじめる。
「はいこれ、うちの入場券!」
笑顔で差し出されたのは、4枚綴りのチケットめいた紙束。受け取って見ると、悪戯っぽく舌を出す愛らしいお化けのイラストと「2―2 こわい入場券」の文字が書かれている。
「こ、これは?」
「うちのクラスの入場券。なくても入れるんだけど、これあるとちょっと怖くなるから」
「こ、怖く?」
「そ。ホントなら開場開始から先着50組限定で配布するんだけど、みんな友達とか家族とかには先に配ってるの。よかったら友達と来て!」
「は、はぁ……」
「あーその……無理しないでいいですよ。クラスの連中、来た人全員泣かすって息巻いてるくらい気合入ってるんで、わりとリアルに怖いといいますか……」
「ホラー映画、何本も見て勉強してるしねー。このあいだ練習でお客さん役やらされたとき、怖すぎてちょっとちびっちゃったよ……」
「ち、ちび……っ! お前! 外でそういうこと言うなッ!」
「いやだって茜ったらひどいんだよ! あのときさぁ―――」
その後、文化祭の話で盛り上がる二人。
その表情は紛れもなく輝いており、心の底から準備が楽しくてしかたないのだとわかる。
だから。
(……っ)
もし目の前の光景が陰って見えるとすれば、その原因は明白だった。
無意識に胸中を渦巻きはじめる淀み。およそ愛らしい外見からは想像もつかない黒い感情を二人が知ったら、さぞ驚くだろう。
だが、それが霜月悠奈という人間の偽らざる一面だった。
望んだ夢のためなら弛まぬ努力と己が身を厭わない鋼の意志を持ち、行動は常に有言実行。人はその姿を天才と評してきた。それが霜月悠奈、そして霧島由仁という少女の表の姿だ。
だが彼女は、嫉妬深く、傲慢で、負けず嫌いでもあった。
落選すれば、他の受賞者に激しく嫉妬し、絶対に自作のほうが面白いと業を煮やし、いつか絶対に抜き去ってやると決意を新たにした。
新人賞というレースを突破する上で、その気質は間違いなく幸いしただろう。
だが、日常生活においては、間違いなく災いした。
二人とは違い、文化祭の準備にも行けず、友人との交流も皆無。望んだものは尽くその手から零れ、最も身近な存在である二人はそのいずれも謳歌している。
そこへ重なった2度のスケジュール遅延。自身の創作の停滞。増え続ける担当からの催促、そして小言。
―――それだけ揃ってしまえば、十分だった。
(……ただの文化祭の準備で……)
疼いた嫉妬心が限界を迎えるまで、時間はかからなかった。
(なにそんなにはしゃいで……)
無意識に地面を叩き出す右足。苛立ちが理性の束縛を振り切り体を支配しはじめる。それでもなお平静を保とうと踏ん張るが、二人の楽しげな声がそれを許さない。
あれだけ本気でやるって言ったのに……
ほかのことにばっか時間つかって……
こっちは時間がない中で苦労してやってるのに……
―――無意識に脳内を駆け巡る非難や自己正当化の数々。
「……悠奈ちゃん? どしたの? 調子でも悪いの?」
様子の変化を察して尋ねてきた火恋の声で、はたと我に返る悠奈。
「あ、いえ……なんでもないです……」
自分でもわかるほど引き攣った作り笑顔を返す。
程なくしてミーティングは解散となった。
悠奈は「用事があるので」とカフェの前で二人と別れ、一人で家路についた。
「……なんかあったのかな?」
「うーん、どうだろ……そうっぽいけど……」
残された幸太は火恋と、そんな悠奈の様変わりを案じていた。
今日の彼女の、特に別れ際の様子は妙だった。普段から物怖じして言葉少なではあるが、今日は輪をかけて静かな上、どこか体調が悪そうにも見えた。
なにかあったのだろう。それは間違いない。
では、いったいなにが? 心当たりはない。
(もしかしてと思ったけど……)
正確にいえば、一つだけ思い当たる節があった。
わずかとはいえ、原稿を遅らせてしまっていることだ。
今まで提出日の夜9時に出してきたが、ここ最近それが深夜0時や1時になっている。幸太自身は、深夜は実質同日のような感覚のため、内心多少はびくつきながらも問題ないだろうと無意識に楽観していた。
実際、由仁も悠奈も、特に咎めてはこない。悠奈は性格的に怖気づいて指摘できないかもしれないが、由仁は容赦しないだろう。
その彼女がなにも言わない。クラスメイトと遊びに行っていいか尋ねたときも「私はかまわないですけど」と寛容だった。
「……でも、考えてもわかんないし、とりあえず気にするくらいしかなくないか? 一時的に体調が悪いとかかもしれないし」
「そうだね、こっちからあんまりずけずけ聞くのもなんだし」
一応の落とし所を見つけると、二人もカフェを離れた。
……確かに由仁は言った。
(まぁ、私はかまわないですけど。夏休みですし)
だから幸太は、これまでの自分の小さな遅れやクラスメイトとの交流も問題ないと思い込んでいた。まだ実質的に目安の締め日に間に合ってもいるから。
―――それこそが、大きな勘違いだとは露ほども気づかずに。
そう。彼は大きな、そして決定的な思い違いをしていた。
……確かに由仁は言った。
(私はかまわないですけど)
だが……幸太は勘違いをした。
(私はかまわないですけど。お二人の原稿は大丈夫ですか?)
由仁は、確かに言った。
「私」は大丈夫だ、と。
―――悠奈が大丈夫とは、言わなかった。
『すみません! 日が変わるくらいになりそうです、もう少しだけ時間ください!』
第6回ミーティング前々日の7月30日、悠奈のもとに幸太から原稿が遅れるとの連絡が届いた。
最近、二人とも送ってくるタイミングにラグが出てきた。幸太は夜9時くらいだったのが日をまたぎはじめ、火恋も1、2時間ほど遅れてきている。
なんとか4日ごとの提出は守れているが……。このペースが崩れるのも時間の問題だろう。
とはいえ、そうなることは初めから予想していた。何事も計画通りにはいかない。宿題だって文化祭の準備だってあるだろう。
だからメールを打つ悠奈の指も、自然と「わかりました」と入力した。
(……)
だが。
頭ではわかっていても、心はそうもいかない。
理解はできても、納得はなかなかできない。
これで2回目。しかもこの間はクラスメイトと遊びに行っていた。
それでもう少し時間がほしいって言うのは……。
―――沸々と心に滲み出す、かすかに仄暗い感情。
いくら高校生離れした思考力や分析眼を持ち得ても、彼女は高校生。心はまだ未熟だ。些細なことで喜び、悲しみ、怒り、苛立つ、そんな幼気な少女に過ぎない。
加えて、最近は仕事のストレスや人間関係の悩みも重なり、余計に精神が不安定だった。
なんとかメールを返信するも、書かれたのは結局「わかりました」という淡白な承諾の一言のみ。自分の微かな苛立ちが現れているとも気づかず、悠奈はそのまま仕事に戻る。
自分の部屋。目の前のローテーブルには見開いたノート。プロットのアイデア出しで広げたそれは、3時間たっても白紙のままだ。
もう猶予はなかった。担当も痺れを切らしている。
だが、ノートは白紙。
積み上がるのは、焦りと苛立ちばかり。
結局、その後も作業は捗らず、手にしたペンを投げるように転がす悠奈。
(……寝よう)
そのまま部屋の電気を消してベッドへ潜り、逃避するように頭から布団を被った。
眠りに落ちるまで、心の靄は晴れなかった。
「……え? 土日も文化祭の準備するんですか?」
2日後の8月1日。第6回ミーティングで予定はさらに狂った。
「そうなんです。実はノコギリだとちょっと難しい作業があって、近くの中学校の技術室を借りることになったんです。でも、借りられるのが土日しかなくて」
幸太が言うには、技術室の糸ノコを借りたくて、クラスメイトが母校の中学校に交渉したらしい。結果、許可はもらったが、いつも部活などで使っているため、土日しか空いていないとのことだった。
「そういうわけで、すみません……明後日の土曜もちょっと厳しくて……」
頭を下げて謝意を示す幸太。
「あ、い、いえ、大丈夫です。今日の次が明後日だとむしろ早すぎますし……じゃあ……少し開きますけど10日の土曜にしましょう」
悠奈が予定を確認すると、幸太と火恋も頷いた。
「あ、そうそう。悠奈ちゃんに渡すものあったんだ」
「え?」
ミーティングが終わると、火恋が自分のリュックを漁りはじめる。
「はいこれ、うちの入場券!」
笑顔で差し出されたのは、4枚綴りのチケットめいた紙束。受け取って見ると、悪戯っぽく舌を出す愛らしいお化けのイラストと「2―2 こわい入場券」の文字が書かれている。
「こ、これは?」
「うちのクラスの入場券。なくても入れるんだけど、これあるとちょっと怖くなるから」
「こ、怖く?」
「そ。ホントなら開場開始から先着50組限定で配布するんだけど、みんな友達とか家族とかには先に配ってるの。よかったら友達と来て!」
「は、はぁ……」
「あーその……無理しないでいいですよ。クラスの連中、来た人全員泣かすって息巻いてるくらい気合入ってるんで、わりとリアルに怖いといいますか……」
「ホラー映画、何本も見て勉強してるしねー。このあいだ練習でお客さん役やらされたとき、怖すぎてちょっとちびっちゃったよ……」
「ち、ちび……っ! お前! 外でそういうこと言うなッ!」
「いやだって茜ったらひどいんだよ! あのときさぁ―――」
その後、文化祭の話で盛り上がる二人。
その表情は紛れもなく輝いており、心の底から準備が楽しくてしかたないのだとわかる。
だから。
(……っ)
もし目の前の光景が陰って見えるとすれば、その原因は明白だった。
無意識に胸中を渦巻きはじめる淀み。およそ愛らしい外見からは想像もつかない黒い感情を二人が知ったら、さぞ驚くだろう。
だが、それが霜月悠奈という人間の偽らざる一面だった。
望んだ夢のためなら弛まぬ努力と己が身を厭わない鋼の意志を持ち、行動は常に有言実行。人はその姿を天才と評してきた。それが霜月悠奈、そして霧島由仁という少女の表の姿だ。
だが彼女は、嫉妬深く、傲慢で、負けず嫌いでもあった。
落選すれば、他の受賞者に激しく嫉妬し、絶対に自作のほうが面白いと業を煮やし、いつか絶対に抜き去ってやると決意を新たにした。
新人賞というレースを突破する上で、その気質は間違いなく幸いしただろう。
だが、日常生活においては、間違いなく災いした。
二人とは違い、文化祭の準備にも行けず、友人との交流も皆無。望んだものは尽くその手から零れ、最も身近な存在である二人はそのいずれも謳歌している。
そこへ重なった2度のスケジュール遅延。自身の創作の停滞。増え続ける担当からの催促、そして小言。
―――それだけ揃ってしまえば、十分だった。
(……ただの文化祭の準備で……)
疼いた嫉妬心が限界を迎えるまで、時間はかからなかった。
(なにそんなにはしゃいで……)
無意識に地面を叩き出す右足。苛立ちが理性の束縛を振り切り体を支配しはじめる。それでもなお平静を保とうと踏ん張るが、二人の楽しげな声がそれを許さない。
あれだけ本気でやるって言ったのに……
ほかのことにばっか時間つかって……
こっちは時間がない中で苦労してやってるのに……
―――無意識に脳内を駆け巡る非難や自己正当化の数々。
「……悠奈ちゃん? どしたの? 調子でも悪いの?」
様子の変化を察して尋ねてきた火恋の声で、はたと我に返る悠奈。
「あ、いえ……なんでもないです……」
自分でもわかるほど引き攣った作り笑顔を返す。
程なくしてミーティングは解散となった。
悠奈は「用事があるので」とカフェの前で二人と別れ、一人で家路についた。
「……なんかあったのかな?」
「うーん、どうだろ……そうっぽいけど……」
残された幸太は火恋と、そんな悠奈の様変わりを案じていた。
今日の彼女の、特に別れ際の様子は妙だった。普段から物怖じして言葉少なではあるが、今日は輪をかけて静かな上、どこか体調が悪そうにも見えた。
なにかあったのだろう。それは間違いない。
では、いったいなにが? 心当たりはない。
(もしかしてと思ったけど……)
正確にいえば、一つだけ思い当たる節があった。
わずかとはいえ、原稿を遅らせてしまっていることだ。
今まで提出日の夜9時に出してきたが、ここ最近それが深夜0時や1時になっている。幸太自身は、深夜は実質同日のような感覚のため、内心多少はびくつきながらも問題ないだろうと無意識に楽観していた。
実際、由仁も悠奈も、特に咎めてはこない。悠奈は性格的に怖気づいて指摘できないかもしれないが、由仁は容赦しないだろう。
その彼女がなにも言わない。クラスメイトと遊びに行っていいか尋ねたときも「私はかまわないですけど」と寛容だった。
「……でも、考えてもわかんないし、とりあえず気にするくらいしかなくないか? 一時的に体調が悪いとかかもしれないし」
「そうだね、こっちからあんまりずけずけ聞くのもなんだし」
一応の落とし所を見つけると、二人もカフェを離れた。
……確かに由仁は言った。
(まぁ、私はかまわないですけど。夏休みですし)
だから幸太は、これまでの自分の小さな遅れやクラスメイトとの交流も問題ないと思い込んでいた。まだ実質的に目安の締め日に間に合ってもいるから。
―――それこそが、大きな勘違いだとは露ほども気づかずに。
そう。彼は大きな、そして決定的な思い違いをしていた。
……確かに由仁は言った。
(私はかまわないですけど)
だが……幸太は勘違いをした。
(私はかまわないですけど。お二人の原稿は大丈夫ですか?)
由仁は、確かに言った。
「私」は大丈夫だ、と。
―――悠奈が大丈夫とは、言わなかった。