本編

 悠奈が佳苗宛にサインした後、幸太は彼女から「どこかのお店で待っていてください」と告げられた。
 彼はサイン本を受け取ると、そのまま異例の早さで退散。朝と同じカフェに入り、彼女にその旨を連絡。それから40分後に悠奈が現れた。
 会場にいた時とは違い、今は学校でよく見るパーカーにスカート、そして眼鏡という身なりだ。ただ人格は由仁に変わっていた。
 変装のおかげか、サイン会にいたと思しき周りの客も、彼女の正体に気づく様子はない。
 待っているよう言われた理由は簡単だった。彼女は予想外すぎる宛名を目にして、その理由がどうしても気になってしまったのだ。
 幸太は事情を説明する。

「……そういうことだったんですね」
「すみません……こっちの都合に巻きこんじゃって……」
「いえ、それはべつに大丈夫です。かなり驚きましたけど。……というか知られたくなければミーティングのときにでも言えば良かったじゃないですか」
「い、いや……それはさすがにずるいといいますか……」

 他のファンは好きな時にサインなどもらえない。

「そういうことですね。……まぁ誰にも言いませんから安心してください」
「あ、ありがとうございます」

 マグカップを口に運んで気持ちを落ち着ける幸太。

「……そういえば、サイン会のときは普段どおりなんですね」
「普段? ―――あぁ、人格のことですか。私はサイン会とかイベントごとは面倒臭くて嫌いなので、ぜんぶ悠奈に任せてます」
「な、なるほど……」

 人格とは家の灯りのようにあっさり切り替えられるものなのだろうか。

(……それにしても)

 ちらりと上目を遣わし、由仁に視線を向ける幸太。
 強気で勝ち気、言動も鋭く容赦や加減という言葉を作家なのに知らなそうな由仁が、清楚で淑やか、小動物のような愛らしさを振りまく悠奈と同じ格好をしているのを見ると、妙に興奮を覚える。萌え袖気味の小さな両手を温めるようにマグカップを優しく持つ姿には、危うく目眩を覚えそうなほど心が泡立った。

「なに興奮してるんですか?」
「はひぃっ!?」

 見抜かれた。

「な、なな、なななにがですか!? べ、べつに興奮なんて……っ!?」
「その態度で隠せてると思ってます? というか人間観察は作家の基本です。先輩が興奮してるときの様子は、もうだいたいわかってます」
「……」

 喪失感や恐怖、諦め……あらゆる負の感情が、幸太の心の底からじわりと滲む。

「でも、ちょうどよかったです。思い出したことがあるので、ここで話しておきます。如月先輩もいないことですし」
「……へ?」
「先輩たちの過去の作品、ようやくぜんぶ読ませてもらいました。その上で少し早めに言っておきたいことがありまして」

 由仁はリュックからパソコンを取り出す。

「先輩。恥ずかしがり屋ですね?」
「……はい?」

 唐突にして不可解な質問に困惑する幸太。
 由仁がつづける。

「先輩の作品には照れが見え隠れします。ストーリー展開もそうですけど、特にキャラクターです。みんな当たり障りのないセリフしかしゃべりませんし、振る舞いも至って普通です。読んでいて泣けるくらい熱血だったり、恥ずかしくなるくらい甘々だったりエッチだったりするシーンが全然ありません」
「……えっと?」

 話を掴みかねた幸太が無意識に頬を掻く。
 反応の鈍さから彼の戸惑いを察したのか、由仁は一度マグカップを口に運ぶと、

「たとえば、先輩が女の子のパンツを見て興奮するとします」
「ぶふっ!」

 一緒のタイミングで喉を潤していた幸太が豪快にアイスコーヒーを吹き出した。

「……汚いですよ」

 心底迷惑そうな視線を向けながらリュックを引き寄せティッシュを取り出す由仁。パソコンを横に退け、いそいそテーブルを拭きながら話をつづける。

「……先輩が女の子のパンツを見たとき、どんなこと考えてますか? ああ答えなくていいです。でも、まさか作品にあった『顔を赤く染める』とか『思わず目を逸らす』程度の反応で終わるわけないですよね?」
「……」

 尋問めいた由仁の視線に目を逸らして黙りこむ幸太。答えたら大切なものを失う気がした。

「まぁそれは半分冗談としても、つまりはそういうことです。どれほどテンプレ的な振る舞いやシーンでも、その魅力を書き切らなければ、理性には響いても心には響きません」
「心に……」

 由仁の言葉を反芻する幸太。確かにテンプレを盛りこむことばかりに目がいき、その見せ方まで意識できていたかというと自信は持てない。

「当然ですけど、心に響かない作品は面白くありません。ありのままの感情を曝け出さないと誰もついてきませんよ。まぁ出しすぎてもついてきませんけど」
「で、でも、その……そういうのって気まずいというか……言うとおりちょっと恥ずかしいというか……」
「なんでですか? 友達に見せるわけでもないのに。読むのはこっちの顔なんて知らない編集者です。知られたところでどうということはありません」
「いや理屈の上ではそうなんですけど……」

 理屈で心は説得できない。いま彼女が言ったことだ。気になるものはどうしても気になってしまう。

「恥ずかしさは武器です。熱苦しすぎて読むのが恥ずかしい、甘すぎてこれ以上読めない。そう言われたらしめたものです。だから、書いていて自分が恥ずかしくなるくらいのストーリーやキャラクターがちょうどいいんです。……まぁ今回のプロットに関していえば、少しだけ頑張った跡が見えましたけど」
「……? なんのことですか?」

 何の気なしに尋ねる幸太。
 それが、自ら地雷を踏み抜く行為だとも気づかずに。

「え? だってプロットのヒロインのモデル、これ如月せんぱ」
「わああぁあぁぁぁあぁぁ! ああぁぁぁああぁぁぁあッッッッッ!」

 途端、頭を支離滅裂に振り乱しながら発狂する幸太。

「……さっきからうるさいですよ。周りの迷惑ですから静かにしてください。っていうか、これだけ外見も内面も似せておいて、ばれないとか思ったんですか?」
「……そ、そうですよね……は、はは……ははは……」

 額がへそにつくほどの消沈に深々と項垂れる幸太。羞恥と悶絶の衝撃はあまりに大きく、もはや満足に声が出せないほど心は瀕死だ。

「安心してください。如月先輩には見せませんし言いませんから」
「……た、たすかります」
「それにしても、赤の他人に見せるのでも抵抗があるとなるとまずいですね。照れは力を無意識にセーブする要因ですから」
「……正直、自信ないです」

 自分で自分を恥ずかしがらせるなど拷問でしかない。

「まぁいいです。予想はしてましたから。ちゃんと対策も考えてあります」
「……た、対策?」

 恐る恐る尋ねる。ここまでの展開を鑑みるに嫌な予感しかしないが……。

「安心してください。べつに難しいことじゃないです。先輩がいつもやってることですから」

 いつもやっていることなら、すでに照れや恥じらいと無縁の創作を行えているはずだと思うのだが、そう考えるといよいよ不安で心が嫌に逸る。
 背中を伝い落ちる、一足早く夏を迎えたような大量の冷や汗。
 緊張から喉を鳴らしたその時、由仁がなんの躊躇も配慮もなく、こう言い放った。



「今度、如月先輩とデートしてもらいます」



「……」
「……」
「…………」
「…………」 
「……っ!? ななななななななななんで!? どうして!?」
「決まってます。恥ずかしさに慣れてもらうためです」
「い、いやいやいやでもだからってデートする必要なんてないじゃないですか!」
「時間がないんですから荒療治になるのはしかたありません」
「無理無理無理無理! 無理ですって絶対無理ですって!」
「なんでですか? いつも一緒にいるじゃないですか。いつもやってることを少しデートっぽくするだけですよ」
「いや、そういうことじゃなくて……その……」
「ひとつのドリンクにストロー2つ挿してみるとか」
「はぃぃっ!?」
「冗談です。とにかくこれは決定事項です。抗議は受けつけません。もう如月先輩にも、次のミーティングは気分を変えて遠出しますと言ってあるので」
「……」

 すでに退路は塞がれていた。もはやどんな抗議も封殺確定だ。

「べつに照れないようになれって言ってるわけじゃありません。でも、照れを乗り越えて、それをきちんとプロットや原稿に落としこめないと困ります。だから照れ臭いストーリーやキャラクターを紙に起こす以上に恥ずかしいことを体験して慣れてもらいます。よく言う『あれに比べたら怖くもなんともない』というやつです」
「…………」

 由仁の話が幸太の左耳から右耳へ抜けていく。脳内はそれどころではなかった。
 火恋とデート。想像するだけで恥ずかしさに心が押し潰されそうだ。
 告げるべきは告げたのか、由仁は彼の様子を気にもかけず、いそいそとパソコンを片す。

「あとデート中の会話はすべて録音してもらいます。日和らなかったか後で確かめるので」
「……………………ハイ」

 諦めた口から、従順な家来が主に告げるが如く無意識に零れ落ちる同意。
 腹を括る以外の選択肢は、考えることすら許されていなかった。


 
 ―――週明け。
 幸太は朝一番に登校し、佳苗宛のサイン本を教職員用の下駄箱へ隠した。
 そして、1限目。世界史の時間。
 校庭で1年生の体育を指導していた佳苗の声から察するに、サイン本はどうやら無事に彼女の手へ渡ったようだ。

「よし揃ったなぁガキども! 今日は気分がいいから特別だ! 私が相手をしてやる!」

 その声は、幸太たちのクラスにも届くほど高々と響く。甚く上機嫌だった。入学以来一度も聞いたことがない張りのある活気に満ちた声だ。
 ちなみに、その日の授業はテニス。
 彼女はインハイ、インカレでベスト8以内を外さなかった超強豪だ。

(……かわいそうに)

 しばらくたってから視線を窓の外に向けると……
 テニスコートの端には、死屍累々と化して倒れ伏す無残な生徒たちの山。
 その様子に怯え、身を寄せ合って震え上がる生徒たち。そして。
 今日が人生で最良の日とでも言わんばかりに声を弾ませながら、生徒に容赦ない白球を撃ち放つ嬉々溌剌とした佳苗の姿があった。



 その日の夜。
 悠奈から幸太と火恋のもとへ一通のメールが届いた。

『きょうはたいくでつかれたのでもらたぷろとのこめんとはあしたおかえししっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっm』

 いっさい無変換の寝落ちしたと思われる文面。どのように送信ボタンが押されたのか定かでないが、寝相を崩した拍子に指でも触れたのだろう。
 ―――もっとも、幸太にはそんな疑問に思い至るだけの余裕もなかった。
 きょうのたいく。
 つかれた。
 この二つの単語だけで、事態を把握するには十分に事が足り……、

「……………………ご、ごめんなさい」

 反射的に謝罪が口を吐くほど巨大な罪の意識に項垂れる。
 とりあえず、次のサイン会からは佳苗に強請られないようにしよう。そう固く誓い、現実から目を逸らすようにプロットへ向き直った。
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