本編
◯5月25日 立河 オリオン書堂
第2回ミーティングから1週間後の土曜日。
幸太は朝8時から立河駅北口のファストカフェにいた。駅前のオリオン書堂で11時から開かれる霧島由仁の新刊発売記念サイン会に参加するためだ。
(……どうする……どうする……)
だが、いつもなら抑えきれない高揚感を宥めるのに苦労する彼も、この日ばかりは様子が違った。落ち着きがないのは同じだが、その顔色は動揺一色だ。
原因は、目の前のテーブルに置かれた1冊の文庫本にあった。
担任・真名島佳苗から渡された、ミスティック・フリゲートの1巻。
彼女に頼まれたのは、この本に霧島由仁のサインをもらってくること。さもなければ待ち受けるのは保体の成績1。それだけは避けなければならない。
もっとも、サインをもらうのは簡単だ。
問題はもう一つの条件。決して学校の関係者に知られるなという壁は、どうやっても乗り越えられない。霧島由仁その人が、國立高校の生徒なのだから。
他人に暴露するなど彼女はしないだろう。だが、どこから漏れるか知れないのが噂だ。サインをもらう現場を学校の生徒に目撃される可能性も否めない。
結局、明確な打ち手を思いつかないまま、こうして今日この日を迎えるに至る。
携帯で時間を確認。間もなく10時。
現実逃避で手を出したプロットづくりも1時間で煮詰まり、かわりに手をつけた刊行書の分析も持参した本を読み終わってしまった。
空白の時間。目を背けたい現実を、嫌でも直視せざるを得ない。
(……あぁ! もういいイライラする! どうせバレるんだから考えるだけ無駄だっつぅの!)
サイン会まで10分。幸太は半ば自棄を起こして席を立つ。
どうせ1を取ったところで留年するわけではない。親は烈火の如く怒り、しまいには趣味のものを処分にかかる可能性もあるが、買い直せないレア物は普段から巧妙に隠してある。ほかを買い戻すのは骨が折れるが。
ひとたび吹っ切れると、思考はその決断を擁護するために回転。待ち受ける暗い未来を見越して、あらかじめ自分の心を慰めるかのように。
店を出ると天気は憎らしいほど快晴だった。目に刺さる日差しを痛く感じるくらいには、夏の足音を感じさせる。
もちろん幸太にそんな機微を解する余裕などない。
店の前で足を止め、そこで大きく深呼吸。
彼は書店へ向けて、歩き出した。
―――鬱陶しい人。
それが、悠奈がはじめてのサイン会で幸太に抱いた感想だった。
彼は列の最後尾に並び、皆が帰ったあとに飽くことなく延々と作品の感想やら魅力やらについて熱く語ってきた。
正直、鬱陶しかった。早く終わらないかなぁ。帰って休みたいのに。そう思った。ファンと話せるのは嬉しい一方、さすがに長時間も椅子に座っていると、疲労が酷かったから。
……でも。
1分も聞くうちに、彼の作品に対する愛に驚いた。すべてのセリフを一言一句、誤ることなく覚えている読者など、まずいない。
5分後には、自然とうんうん頷き出していた。自分でも予想しなかった読み方が新鮮で、発見の連続だった。
10分後には、自作以外の作品について、時間を忘れて一緒に盛り上がっていた。
―――常日頃から、飢えていた。学校では出逢えなかった、同じ趣味の話でいつまでも楽しめる、好きなことを好きなだけ語り合える、そんな友達に。
ようやく出逢えた。そう思った。
放したくない。そう思った。
だから、お店の人や担当が時間だから止めたがっているのを知った上で無視した。担当が会を半ば強引に閉めたのは、終了予定時刻を1時間も過ぎた後だった。
以来、様々なイベントで彼と再会すると、彼女は止まらなかった。なるべく贔屓にならないよう配慮しながらも、少しでも多く彼と話せる時間をつくろうと画策した。
名も知らない、年に数回しか会えない、たった一人の密かな友達。
まさか同じ高校になるとは思いもしなかった。ましてライトノベルの書き方を指導してくれと言われるとも。
普段は学年も違うため、話すことはない。会えるのはせいぜい同好会のミーティングくらいだ。しかし二人には時間がないから、一緒に長々と過ごすのも難しい。それ以前にミーティングは由仁が顔を出すから、自分の出番はない。本当はもっとたくさん話したいのに。
だから悠奈は、今日のサイン会を心待ちにしていた。
彼はきっと来る。久しぶりにまた会える。
そこで、この数ヵ月で溜めに溜めた山のような話をぜんぶ聞いてもらうのだ。
「……………………はい?」
―――そんな彼女の淡い願いを打ち砕いたのは、当の彼……幸太だった。
案の定、最後に現れた彼は、1冊の文庫本を差し出してきた。
ミスティック・フリゲートの1巻だ。
妙だと思った。彼はすでに1巻にサインをもらっている。てっきり発売されたばかりの5巻を持ってくるものだと思っていたのだが……。
「あ、あの……1巻でいいんですか?」
「は、はい……でも、その……名前を別の人にしてもらいたくて……できますか?」
「……べつに大丈夫ですけど、どなた宛に?」
「え、ええっと……その……」
自分から切り出したにもかかわらず、なぜか答えを濁す幸太。
双方無言のまま、十数秒。
その僅かな時間が勇気を与えたのか、幸太は申し訳なさそうに頭を掻きながら、小さなメモを彼女の前に置いた。
「……………………こ、この人へ、って……」
悠奈は差し出された紙片に視線を落とす。
「…………え゛?」
変な声が出た。
「……」
「……」
「……」
「……」
ペンを取るまでに、1分はかかった。
希望された宛名は、およそライトノベルに興味も関心も、そもそもジャンルの存在自体も知らなそうな、母校の恐怖の代名詞だった。
第2回ミーティングから1週間後の土曜日。
幸太は朝8時から立河駅北口のファストカフェにいた。駅前のオリオン書堂で11時から開かれる霧島由仁の新刊発売記念サイン会に参加するためだ。
(……どうする……どうする……)
だが、いつもなら抑えきれない高揚感を宥めるのに苦労する彼も、この日ばかりは様子が違った。落ち着きがないのは同じだが、その顔色は動揺一色だ。
原因は、目の前のテーブルに置かれた1冊の文庫本にあった。
担任・真名島佳苗から渡された、ミスティック・フリゲートの1巻。
彼女に頼まれたのは、この本に霧島由仁のサインをもらってくること。さもなければ待ち受けるのは保体の成績1。それだけは避けなければならない。
もっとも、サインをもらうのは簡単だ。
問題はもう一つの条件。決して学校の関係者に知られるなという壁は、どうやっても乗り越えられない。霧島由仁その人が、國立高校の生徒なのだから。
他人に暴露するなど彼女はしないだろう。だが、どこから漏れるか知れないのが噂だ。サインをもらう現場を学校の生徒に目撃される可能性も否めない。
結局、明確な打ち手を思いつかないまま、こうして今日この日を迎えるに至る。
携帯で時間を確認。間もなく10時。
現実逃避で手を出したプロットづくりも1時間で煮詰まり、かわりに手をつけた刊行書の分析も持参した本を読み終わってしまった。
空白の時間。目を背けたい現実を、嫌でも直視せざるを得ない。
(……あぁ! もういいイライラする! どうせバレるんだから考えるだけ無駄だっつぅの!)
サイン会まで10分。幸太は半ば自棄を起こして席を立つ。
どうせ1を取ったところで留年するわけではない。親は烈火の如く怒り、しまいには趣味のものを処分にかかる可能性もあるが、買い直せないレア物は普段から巧妙に隠してある。ほかを買い戻すのは骨が折れるが。
ひとたび吹っ切れると、思考はその決断を擁護するために回転。待ち受ける暗い未来を見越して、あらかじめ自分の心を慰めるかのように。
店を出ると天気は憎らしいほど快晴だった。目に刺さる日差しを痛く感じるくらいには、夏の足音を感じさせる。
もちろん幸太にそんな機微を解する余裕などない。
店の前で足を止め、そこで大きく深呼吸。
彼は書店へ向けて、歩き出した。
―――鬱陶しい人。
それが、悠奈がはじめてのサイン会で幸太に抱いた感想だった。
彼は列の最後尾に並び、皆が帰ったあとに飽くことなく延々と作品の感想やら魅力やらについて熱く語ってきた。
正直、鬱陶しかった。早く終わらないかなぁ。帰って休みたいのに。そう思った。ファンと話せるのは嬉しい一方、さすがに長時間も椅子に座っていると、疲労が酷かったから。
……でも。
1分も聞くうちに、彼の作品に対する愛に驚いた。すべてのセリフを一言一句、誤ることなく覚えている読者など、まずいない。
5分後には、自然とうんうん頷き出していた。自分でも予想しなかった読み方が新鮮で、発見の連続だった。
10分後には、自作以外の作品について、時間を忘れて一緒に盛り上がっていた。
―――常日頃から、飢えていた。学校では出逢えなかった、同じ趣味の話でいつまでも楽しめる、好きなことを好きなだけ語り合える、そんな友達に。
ようやく出逢えた。そう思った。
放したくない。そう思った。
だから、お店の人や担当が時間だから止めたがっているのを知った上で無視した。担当が会を半ば強引に閉めたのは、終了予定時刻を1時間も過ぎた後だった。
以来、様々なイベントで彼と再会すると、彼女は止まらなかった。なるべく贔屓にならないよう配慮しながらも、少しでも多く彼と話せる時間をつくろうと画策した。
名も知らない、年に数回しか会えない、たった一人の密かな友達。
まさか同じ高校になるとは思いもしなかった。ましてライトノベルの書き方を指導してくれと言われるとも。
普段は学年も違うため、話すことはない。会えるのはせいぜい同好会のミーティングくらいだ。しかし二人には時間がないから、一緒に長々と過ごすのも難しい。それ以前にミーティングは由仁が顔を出すから、自分の出番はない。本当はもっとたくさん話したいのに。
だから悠奈は、今日のサイン会を心待ちにしていた。
彼はきっと来る。久しぶりにまた会える。
そこで、この数ヵ月で溜めに溜めた山のような話をぜんぶ聞いてもらうのだ。
「……………………はい?」
―――そんな彼女の淡い願いを打ち砕いたのは、当の彼……幸太だった。
案の定、最後に現れた彼は、1冊の文庫本を差し出してきた。
ミスティック・フリゲートの1巻だ。
妙だと思った。彼はすでに1巻にサインをもらっている。てっきり発売されたばかりの5巻を持ってくるものだと思っていたのだが……。
「あ、あの……1巻でいいんですか?」
「は、はい……でも、その……名前を別の人にしてもらいたくて……できますか?」
「……べつに大丈夫ですけど、どなた宛に?」
「え、ええっと……その……」
自分から切り出したにもかかわらず、なぜか答えを濁す幸太。
双方無言のまま、十数秒。
その僅かな時間が勇気を与えたのか、幸太は申し訳なさそうに頭を掻きながら、小さなメモを彼女の前に置いた。
「……………………こ、この人へ、って……」
悠奈は差し出された紙片に視線を落とす。
「…………え゛?」
変な声が出た。
「……」
「……」
「……」
「……」
ペンを取るまでに、1分はかかった。
希望された宛名は、およそライトノベルに興味も関心も、そもそもジャンルの存在自体も知らなそうな、母校の恐怖の代名詞だった。