本編
「……こ、凍った?」
目の前で白鯨が凍りつくという驚愕の現象を前に、ジャンヌは真っ先にアイリーンを振り返った。彼女がやったと思ったのだ。
だが、アイリーンは即座に首を横に振る。
では、いったいだれの仕業か?
その答えは、考えずとも一つしかなかった。
「急いで船を西へ逃がしてください! 一海里も行けば白鯨は追ってこられません!」
船の外から声が聴こえる。舷側から身を乗り出して海面を見下ろすと、はたしてそこにはあの《白鯨殺し》の姿があった。
「あんた、なんで……」
「いいから早く船を出して! 白鯨は一時的に凍りついているだけです! すぐに砕いて自由になってしまいます!」
問答を繰り返している余裕はなかった。
「……全艦に信号! 全速で西へ逃げろ! 物資はすべて捨ててかまわない! 急げ!」
先ほどは届かなかったジャンヌの指示が、今度はクルーたちに届いた。一時的とはいえ白鯨の脅威が去ったことで、多少なりとも落ち着きを取り戻したのだ。
しかし、この狂獣はまたすぐに動き出すという。
「……あんたはどうするんだ?《白鯨殺し》」
ジャンヌが尋ねる。
「全艦が安全圏へ逃げ切るまで、白鯨の足を止めます」
予想通りだった。おそらくいまから全艦が全速で西へ走りつづけても、殿がいないと白鯨に追いつかれるのだろう。
だが、彼女一人で白鯨を本当に足止めできるのか、ジャンヌには疑問だった。仮にもこの自分にすら勝てなかったのだから。
―――それなら、やることは一つだ。
ジャンヌは舷側を飛び越えると、そのまま《白鯨殺し》が凍らせた海面に降り立った。
「ジャ、ジャンヌ、サン!?」
アイリーンが船から飛び降りそうな勢いで舷側に駆け寄る。だが、そのときにはすでに船が西へ回頭し終えていた。船はそのままジャンヌから離れ、西へ向かって走り出す。
アイリーンは甲板から何事か叫んでいたが、ジャンヌは敢えて無視した。
「……どういうつもりですか?」
目の前の《白鯨殺し》の少女が尋ねてくる。
「あんたがここに残ってるってことは、殿がいなきゃ誰もあいつから逃げられないんだろ? だから私も残ったまでだ」
「ですから、それは私が……」
「あんた一人であいつが止まるとはさすがに思えない。私は一度あんたに勝ったが、その私があの化物と対峙しても必ず勝てるって自信が湧かないからな」
そのとき、鈍く不気味な音が響いた。白鯨の氷像に巨大なひびが入ったのだ。その一線から亀裂が一気に全体へ広がり、轟音と共に砕け散った巨大な氷塊が次々と海へ降り注ぐ。
「どうする《白鯨殺し》。もう時間がないみたいだが?」
直後、白鯨を封じていた氷が完全に砕け、数多の氷片を撒き散らしながら、その巨体が海へと沈む。
―――そして、再び浮上。
『アアアアァァァァアァアアァアアァァアァァアアァアアァァァァアアア!』
怒りのままに巨大な顎を開き、獰猛な咆哮を撒き散らす。
目の前の状況から《白鯨殺し》はついに諦めたのか、呆れた風に溜め息を一つ零した。
「……前にも名乗りましたが、私の名前はレイナです。世間が勝手につけた二つ名で呼ぶのは止めてください。それと……足だけは引っ張らないでくださいよ。ジャンヌ・リーゼロッテ」
「ははっ! 言うねぇ! いいさ。どっちが足手まといかすぐ分からせてやるよ!」
高々と笑いながらジャンヌはその両腕に爆炎を纏う。そしてレイナは海面から氷剣を生成。同時に一帯の海面が一気に凍りつき始めた。
宿縁で結ばれた稀代の航戦魔道士―――レイナとジャンヌ。
対するは最狂にして最悪、海の覇王にして悪魔―――白鯨。
生死を懸けた一戦の火蓋がいま、白鯨の吠え声と共に切って落とされた。
真っ先に動いたのはジャンヌだった。その巨口を開いて凍りついた海面を呑み下しながら猛進してくる白鯨に構わず、自らその顔面へ真っ直ぐ突っこんでいく。
「ちょうど人間相手は飽きてきたとこだ。どれほどのもんか試させてもらおうか!」
そのまま跳躍。白鯨の背中めがけて落下すると、その勢いのまま右拳を撃ち抜いた。
『ガァァアアアァァァアァアアアァァアアァァアアァァァ!』
白鯨の絶叫と共に豪炎が噴き上がり、その体躯が海老のように驚くほど反り返る。
(……とんでもないですね。白鯨の外皮は並大抵の航戦魔法では傷の一つもつけられないのですが、まさか一撃で撃ち破るとは……)
白鯨の脅威を肌で知るレイナだからこそ、ジャンヌの人外ぶりが理解できた。
だが、もちろんその程度で終わる白鯨ではない。
絶叫はすぐ怒りの咆哮へ変わり、その体を力任せに揺さぶってジャンヌを振り落とす。そしてすぐに海中へ沈み、そのまま凍りついた海面の下へ入りこんだ。
「ちぃっ! 逃げられたか!」
周囲を警戒するジャンヌ。だが、白鯨はよほど深く潜ったのか、その影すら海面に映りこまない。
「右から来ます!」
レイナが叫ぶ。直後、ジャンヌの右側の海面を白鯨が砕き、彼女を呑みこまんと大口を開いた。
だが、レイナの声に咄嗟に反応していたジャンヌは、なんとか前方へ転がるように退避してその一撃を躱す。
白鯨はそのまま再び海中へ潜った。
「……おいおい。ちょっと動きが早すぎないか?」
いったんレイナの横まで退避して、苦笑いを浮かべるジャンヌ。
「さきほど船を追ってきた速度を見たでしょう。こちらに気取られないように海中から襲撃するなど白鯨には容易なことです」
「なるほどね。……ところで、あいつに弱点とかないのか? さっきの一撃で風穴くらい開けられると思ったんだが、あそこまで頑丈だと少しやばい」
「前に私たちが倒したときは、凍らせて動きを止めた後、あの口から体内に直接、魔法を叩きこみました」
「なるほど。それなら、あんたがあいつの動きを止めればそれで終わりじゃないか。なんでやらない?」
「簡単に言わないでください。あれほど巨大な白鯨を完全に凍りつかせるための航戦魔法ですよ? 詠唱にどれだけ時間がかかると思っているんですか。前はクルーの皆さんがその時間を稼いでくれたんです」
「だったら、私が時間を稼げばいいわけだ」
「なっ! なに馬鹿なこと言っているんですか! 一人で白鯨を足止めするなど無茶です!」
「最初に一人で足止めしようとしていたあんたに言われたくないな。いいから、あんたはあいつを止めることだけ考えな。動きが止まったら私があいつの体内に一発ぶちこんでやる」
半ば突き放すように言い残すと、ジャンヌはレイナから距離をとった。そして海中に向かって炎槍を連発して煽り、白鯨を自分のほうへ誘う。その狙い通り、白鯨はジャンヌの真下の海面をぶち破り、彼女を呑み潰そうとした。しかし、ジャンヌはこれも躱す。
(……なにを言っても無駄ですね)
レイナは覚悟を決めて詠唱に入る。
「―――汝、咎人を祓い、その罪と贄の血で地獄の盃を満たす者よ。咎人を裁き、その罰と贄の死で地獄の門を開く者よ」
これでもう自分で自分の身を守ることは不可能だ。最上級の航戦魔法の詠唱は、ほかに気を回して完遂できるほど甘いものではない。
想像を絶する恐怖が背筋を駆け抜ける。
あとはもう、ジャンヌを信じるしかない。
今日まで宿敵だった因縁の相手を。
その力と心を。
*
「ちぃっ! あの巨体でどうやってあんなに速く動いてやがんだ!」
海中に巡っては死角から容赦なく呑みこもうと襲いかかってくる白鯨に、ジャンヌは手を焼いていた。すんでのところで躱し続けてはいるが、このままだとこちらの体力が保たない。
(どうする……出ては入ってを繰り返されたんじゃ、こっちから手が出せない。だが、私の方が脅威だと思わせないとあいつが狙われる)
しかし、思考の最中にも白鯨は容赦なくジャンヌを襲う。
「くっそ……っ! 考える余裕もないな……」
しかたない。ジャンヌは一つだけ思いついた一手を講じるために、左脚の金属輪のガネット石をいくつか無造作に外した。そして静かに白鯨の出現を待つ。
後方の海面が鈍い音を立てた。咄嗟にジャンヌはその場にガネット石を捨て、前方へ大きく踏み出す。
直後、海面を割って白鯨が現れ、氷や海水と共に大量のガネット石を呑みこんだ。
そして、その口が閉じられようとした瞬間、ジャンヌは自身のマナをガネット石に干渉させる。
白鯨の頭が盛大に爆発。巨大な爆炎の塊がその頭部を包みこみ、怒りとも悲鳴ともつかない叫喚が大気を切り裂かんと轟いた。
(……どうだ!?)
白鯨を見上げるジャンヌ。
空に充満する巨大な噴煙。
そのなかから、白い巨体がゆっくりと煙を引きながら抜け出てきた。
―――そのおぞましい巨口を開きながら。
「……ッ!?」
瞬間、全身を悪寒が襲うのと同時にジャンヌは両腕のガネット石をすべて砕いた。その身を焦がすほどの豪炎が迸り、彼女の全身を覆い尽くす勢いで燃え上がる。
脅威の気配を察して咄嗟に両腕を前で交差するジャンヌ。
直後、天から神の鉄槌めいた激流が猛然と押し寄せた。
白鯨が吐き出した瀑布のような水流だ。
炎をまとって咄嗟に防御するも、分厚い海面に一瞬で大穴を穿つほど凄まじい圧力がジャンヌを容赦なく吹き飛ばす。その体は為す術なく海面を跳ね回り、乱立する氷山を次々と砕いていった。
「が……はっ……ッ!」
白鯨を凍らせていた巨大な氷山の残骸に衝突したとき、ようやくその勢いが止まり、ジャンヌの体が地面に転がる。
そして、この好機を逃すまいと、白鯨は彼女めがけて猛然と押し寄せた。
(く……っそ……っ!)
よろよろと必死に体を起こすジャンヌ。だが立ち上がったときには、白鯨の巨大な口が目前に迫っていた。
「な……める、なぁ……っ!」
ジャンヌは左足のガネット石を複数砕き、再び炎槍を生成。白鯨の両眼めがけて放った。うち三発が右眼に直撃し、白鯨は堪らずに頭部を振って暴れ回る。その隙にジャンヌは相手の右側に回りこもうとした。だが、その気配を察したのか、白鯨がその体躯を横に回転させ、巨大な尾びれを振り回して彼女の体を弾き飛ばす。
「ぶっ……っ!」
まるで壊れた人形のように果てしなく吹き飛ばされたジャンヌ。その体は海面に突っ伏したままぴくりとも動かない。
(……ち、ぃ……っ……右脚、が……っ)
折られていたのだ。
それでも、なんとか四肢を踏ん張り立ち上がろうとするジャンヌ。だが、途端に右膝に激痛が奔る。
そんな脚で立ち上がることなどできるわけもなく、彼女は頭から海面へ倒れ伏した。
『オォォオオォォオオオォォォオオォオオオォォォオオオオォ!』
そこへ右眼を潰されて怒り狂う白鯨が、突風めいた雄叫びと共に突っこんでくる。
「こ……んの、ば……け、もん……が……ぁッ!」
万事休す。
その巨大な顎が、いままさに彼女を呑み砕かんと目の前に迫っていた。
食われる。
怒りにも似た悔恨にジャンヌが顔を歪めた。
―――白鯨が海中へ沈んだのは、そのときだった。
目の前で白鯨が凍りつくという驚愕の現象を前に、ジャンヌは真っ先にアイリーンを振り返った。彼女がやったと思ったのだ。
だが、アイリーンは即座に首を横に振る。
では、いったいだれの仕業か?
その答えは、考えずとも一つしかなかった。
「急いで船を西へ逃がしてください! 一海里も行けば白鯨は追ってこられません!」
船の外から声が聴こえる。舷側から身を乗り出して海面を見下ろすと、はたしてそこにはあの《白鯨殺し》の姿があった。
「あんた、なんで……」
「いいから早く船を出して! 白鯨は一時的に凍りついているだけです! すぐに砕いて自由になってしまいます!」
問答を繰り返している余裕はなかった。
「……全艦に信号! 全速で西へ逃げろ! 物資はすべて捨ててかまわない! 急げ!」
先ほどは届かなかったジャンヌの指示が、今度はクルーたちに届いた。一時的とはいえ白鯨の脅威が去ったことで、多少なりとも落ち着きを取り戻したのだ。
しかし、この狂獣はまたすぐに動き出すという。
「……あんたはどうするんだ?《白鯨殺し》」
ジャンヌが尋ねる。
「全艦が安全圏へ逃げ切るまで、白鯨の足を止めます」
予想通りだった。おそらくいまから全艦が全速で西へ走りつづけても、殿がいないと白鯨に追いつかれるのだろう。
だが、彼女一人で白鯨を本当に足止めできるのか、ジャンヌには疑問だった。仮にもこの自分にすら勝てなかったのだから。
―――それなら、やることは一つだ。
ジャンヌは舷側を飛び越えると、そのまま《白鯨殺し》が凍らせた海面に降り立った。
「ジャ、ジャンヌ、サン!?」
アイリーンが船から飛び降りそうな勢いで舷側に駆け寄る。だが、そのときにはすでに船が西へ回頭し終えていた。船はそのままジャンヌから離れ、西へ向かって走り出す。
アイリーンは甲板から何事か叫んでいたが、ジャンヌは敢えて無視した。
「……どういうつもりですか?」
目の前の《白鯨殺し》の少女が尋ねてくる。
「あんたがここに残ってるってことは、殿がいなきゃ誰もあいつから逃げられないんだろ? だから私も残ったまでだ」
「ですから、それは私が……」
「あんた一人であいつが止まるとはさすがに思えない。私は一度あんたに勝ったが、その私があの化物と対峙しても必ず勝てるって自信が湧かないからな」
そのとき、鈍く不気味な音が響いた。白鯨の氷像に巨大なひびが入ったのだ。その一線から亀裂が一気に全体へ広がり、轟音と共に砕け散った巨大な氷塊が次々と海へ降り注ぐ。
「どうする《白鯨殺し》。もう時間がないみたいだが?」
直後、白鯨を封じていた氷が完全に砕け、数多の氷片を撒き散らしながら、その巨体が海へと沈む。
―――そして、再び浮上。
『アアアアァァァァアァアアァアアァァアァァアアァアアァァァァアアア!』
怒りのままに巨大な顎を開き、獰猛な咆哮を撒き散らす。
目の前の状況から《白鯨殺し》はついに諦めたのか、呆れた風に溜め息を一つ零した。
「……前にも名乗りましたが、私の名前はレイナです。世間が勝手につけた二つ名で呼ぶのは止めてください。それと……足だけは引っ張らないでくださいよ。ジャンヌ・リーゼロッテ」
「ははっ! 言うねぇ! いいさ。どっちが足手まといかすぐ分からせてやるよ!」
高々と笑いながらジャンヌはその両腕に爆炎を纏う。そしてレイナは海面から氷剣を生成。同時に一帯の海面が一気に凍りつき始めた。
宿縁で結ばれた稀代の航戦魔道士―――レイナとジャンヌ。
対するは最狂にして最悪、海の覇王にして悪魔―――白鯨。
生死を懸けた一戦の火蓋がいま、白鯨の吠え声と共に切って落とされた。
真っ先に動いたのはジャンヌだった。その巨口を開いて凍りついた海面を呑み下しながら猛進してくる白鯨に構わず、自らその顔面へ真っ直ぐ突っこんでいく。
「ちょうど人間相手は飽きてきたとこだ。どれほどのもんか試させてもらおうか!」
そのまま跳躍。白鯨の背中めがけて落下すると、その勢いのまま右拳を撃ち抜いた。
『ガァァアアアァァァアァアアアァァアアァァアアァァァ!』
白鯨の絶叫と共に豪炎が噴き上がり、その体躯が海老のように驚くほど反り返る。
(……とんでもないですね。白鯨の外皮は並大抵の航戦魔法では傷の一つもつけられないのですが、まさか一撃で撃ち破るとは……)
白鯨の脅威を肌で知るレイナだからこそ、ジャンヌの人外ぶりが理解できた。
だが、もちろんその程度で終わる白鯨ではない。
絶叫はすぐ怒りの咆哮へ変わり、その体を力任せに揺さぶってジャンヌを振り落とす。そしてすぐに海中へ沈み、そのまま凍りついた海面の下へ入りこんだ。
「ちぃっ! 逃げられたか!」
周囲を警戒するジャンヌ。だが、白鯨はよほど深く潜ったのか、その影すら海面に映りこまない。
「右から来ます!」
レイナが叫ぶ。直後、ジャンヌの右側の海面を白鯨が砕き、彼女を呑みこまんと大口を開いた。
だが、レイナの声に咄嗟に反応していたジャンヌは、なんとか前方へ転がるように退避してその一撃を躱す。
白鯨はそのまま再び海中へ潜った。
「……おいおい。ちょっと動きが早すぎないか?」
いったんレイナの横まで退避して、苦笑いを浮かべるジャンヌ。
「さきほど船を追ってきた速度を見たでしょう。こちらに気取られないように海中から襲撃するなど白鯨には容易なことです」
「なるほどね。……ところで、あいつに弱点とかないのか? さっきの一撃で風穴くらい開けられると思ったんだが、あそこまで頑丈だと少しやばい」
「前に私たちが倒したときは、凍らせて動きを止めた後、あの口から体内に直接、魔法を叩きこみました」
「なるほど。それなら、あんたがあいつの動きを止めればそれで終わりじゃないか。なんでやらない?」
「簡単に言わないでください。あれほど巨大な白鯨を完全に凍りつかせるための航戦魔法ですよ? 詠唱にどれだけ時間がかかると思っているんですか。前はクルーの皆さんがその時間を稼いでくれたんです」
「だったら、私が時間を稼げばいいわけだ」
「なっ! なに馬鹿なこと言っているんですか! 一人で白鯨を足止めするなど無茶です!」
「最初に一人で足止めしようとしていたあんたに言われたくないな。いいから、あんたはあいつを止めることだけ考えな。動きが止まったら私があいつの体内に一発ぶちこんでやる」
半ば突き放すように言い残すと、ジャンヌはレイナから距離をとった。そして海中に向かって炎槍を連発して煽り、白鯨を自分のほうへ誘う。その狙い通り、白鯨はジャンヌの真下の海面をぶち破り、彼女を呑み潰そうとした。しかし、ジャンヌはこれも躱す。
(……なにを言っても無駄ですね)
レイナは覚悟を決めて詠唱に入る。
「―――汝、咎人を祓い、その罪と贄の血で地獄の盃を満たす者よ。咎人を裁き、その罰と贄の死で地獄の門を開く者よ」
これでもう自分で自分の身を守ることは不可能だ。最上級の航戦魔法の詠唱は、ほかに気を回して完遂できるほど甘いものではない。
想像を絶する恐怖が背筋を駆け抜ける。
あとはもう、ジャンヌを信じるしかない。
今日まで宿敵だった因縁の相手を。
その力と心を。
*
「ちぃっ! あの巨体でどうやってあんなに速く動いてやがんだ!」
海中に巡っては死角から容赦なく呑みこもうと襲いかかってくる白鯨に、ジャンヌは手を焼いていた。すんでのところで躱し続けてはいるが、このままだとこちらの体力が保たない。
(どうする……出ては入ってを繰り返されたんじゃ、こっちから手が出せない。だが、私の方が脅威だと思わせないとあいつが狙われる)
しかし、思考の最中にも白鯨は容赦なくジャンヌを襲う。
「くっそ……っ! 考える余裕もないな……」
しかたない。ジャンヌは一つだけ思いついた一手を講じるために、左脚の金属輪のガネット石をいくつか無造作に外した。そして静かに白鯨の出現を待つ。
後方の海面が鈍い音を立てた。咄嗟にジャンヌはその場にガネット石を捨て、前方へ大きく踏み出す。
直後、海面を割って白鯨が現れ、氷や海水と共に大量のガネット石を呑みこんだ。
そして、その口が閉じられようとした瞬間、ジャンヌは自身のマナをガネット石に干渉させる。
白鯨の頭が盛大に爆発。巨大な爆炎の塊がその頭部を包みこみ、怒りとも悲鳴ともつかない叫喚が大気を切り裂かんと轟いた。
(……どうだ!?)
白鯨を見上げるジャンヌ。
空に充満する巨大な噴煙。
そのなかから、白い巨体がゆっくりと煙を引きながら抜け出てきた。
―――そのおぞましい巨口を開きながら。
「……ッ!?」
瞬間、全身を悪寒が襲うのと同時にジャンヌは両腕のガネット石をすべて砕いた。その身を焦がすほどの豪炎が迸り、彼女の全身を覆い尽くす勢いで燃え上がる。
脅威の気配を察して咄嗟に両腕を前で交差するジャンヌ。
直後、天から神の鉄槌めいた激流が猛然と押し寄せた。
白鯨が吐き出した瀑布のような水流だ。
炎をまとって咄嗟に防御するも、分厚い海面に一瞬で大穴を穿つほど凄まじい圧力がジャンヌを容赦なく吹き飛ばす。その体は為す術なく海面を跳ね回り、乱立する氷山を次々と砕いていった。
「が……はっ……ッ!」
白鯨を凍らせていた巨大な氷山の残骸に衝突したとき、ようやくその勢いが止まり、ジャンヌの体が地面に転がる。
そして、この好機を逃すまいと、白鯨は彼女めがけて猛然と押し寄せた。
(く……っそ……っ!)
よろよろと必死に体を起こすジャンヌ。だが立ち上がったときには、白鯨の巨大な口が目前に迫っていた。
「な……める、なぁ……っ!」
ジャンヌは左足のガネット石を複数砕き、再び炎槍を生成。白鯨の両眼めがけて放った。うち三発が右眼に直撃し、白鯨は堪らずに頭部を振って暴れ回る。その隙にジャンヌは相手の右側に回りこもうとした。だが、その気配を察したのか、白鯨がその体躯を横に回転させ、巨大な尾びれを振り回して彼女の体を弾き飛ばす。
「ぶっ……っ!」
まるで壊れた人形のように果てしなく吹き飛ばされたジャンヌ。その体は海面に突っ伏したままぴくりとも動かない。
(……ち、ぃ……っ……右脚、が……っ)
折られていたのだ。
それでも、なんとか四肢を踏ん張り立ち上がろうとするジャンヌ。だが、途端に右膝に激痛が奔る。
そんな脚で立ち上がることなどできるわけもなく、彼女は頭から海面へ倒れ伏した。
『オォォオオォォオオオォォォオオォオオオォォォオオオオォ!』
そこへ右眼を潰されて怒り狂う白鯨が、突風めいた雄叫びと共に突っこんでくる。
「こ……んの、ば……け、もん……が……ぁッ!」
万事休す。
その巨大な顎が、いままさに彼女を呑み砕かんと目の前に迫っていた。
食われる。
怒りにも似た悔恨にジャンヌが顔を歪めた。
―――白鯨が海中へ沈んだのは、そのときだった。