本編
「……ぶはっ!」
反射的に海水を吐き出し、その反動で大和は意識を取り戻した。
「げほっ! げほっ! げへぇっ!」
よほど大量の水を飲んだのか、咳がなかなか止まらない。体が防衛本能の命じるまま、彼の意志とは関係なく必死に命をつなごうとする。
「よかった。気がついたみたいですね」
だから、耳元で呟かれたその声も、すぐには彼の耳に届かなかった。
「けほっ! ……はぁ……はぁ……」
やがて呼吸が落ち着いてくると、ようやく目を開くことができた。
目の前に青空が広がり、頬を撫でる潮風の香りが鼻先を霞める。自分の五感が世界を認識し始めると、少しずつ助かったのだという実感が湧いてきた。どうやら船の甲板に横たわっているらしい。
「大丈夫ですか?」
今度はその声もはっきり聴こえた。清楚な女性を思わせる淑やかな声色だ。
横になったまま、首を右に傾けて声の主を確認する。
ぼやけた瞳に映ったのは、命の危機に瀕していてもなお見惚れるほど、美しい少女だった。やや蒼色を帯びた雪のように白く短い髪に、愛らしい円らな蒼い瞳。すれ違えば万人が漏れなく振り返る、そう言っても過言ではない美貌がいま、彼の前にあった。その身なりは、肩を広く露出したノースリーブのシャツに、黒と白のチェック柄のスカートと黒のニーソックス、そして首元に空色のネクタイと凛々しくも可憐。一方、その上に羽織った黒のコートからは、得も言われぬ威厳が感じられた。
彼女が助けてくれたのだろうか。こんなコスプレじみた格好、イベント参加者のなかには見かけなかったが。
「……あ、ありがとう、ございます……たすかりました……」
なんとか上半身を起こし、息を整えながら謝意を伝える大和。
「いえ。とりあえずご無事でなによりです。……ですが、助かったかどうかは、もう少し待っていただく必要があります」
「えっ?」
立ち上がった彼女が口にした言葉は、なにやら不穏な響きを伴っていた。
いったいどういう意味だろうか……。そう疑問に思った、そのときだった。
「ハードスターボード! ミズンスパンカー、ホールイン!」
少女が叫んだ。面舵一杯。
直後、船が大きく右へ動くと同時に、左舷の至近距離で爆音が轟いた。猛スピードのトラック二台が正面衝突したかのような凄まじい炸裂音だ。同時に巨大な横揺れが船体に襲いかかり、彼の横たわる地面を大きく右へ傾ける。
「ひぃぃぃッッッ!」
地面から引き剥がされる大和の体。同時に心臓が潰れそうなほど強烈な恐怖が彼を襲う。《海成丸》の沈没した瞬間が脳裏でフラッシュバックしたのだ。
途端に四肢から力が失われ、抜け殻と化した彼の体が護謨鞠のように甲板を転がる。舷側に衝突するもその勢いは止まらず、彼はそのまま海へと投げ出された。
(……あ)
―――だが、今度は海には落ちなかった。
舷側から転げ落ちた直後、彼の右腕を先ほどとはべつの少女が握った。その細い両腕で大根でも引っこ抜くかのように。
小学生くらいの年頃の少女だ。ボリュームある碧色の髪を子犬の尻尾のように後ろで束ねており、その瞳も同じく鮮やかな碧眼。どこか眠そうな童顔には、齧歯類のような愛らしさを感じる。服装は先の少女と同じで、ネクタイではなく緑色のリボンを首元に結んでいた。
少女はそのまま、宙吊りになった大和の体を甲板へ引き上げる。助かった彼は猛烈な安堵感に襲われて崩折れ、飢えたように何度も呼吸を繰り返した。
「ティオ、その方をなかへ。あなたはそのあと魔導甲板で指揮を」
「……はい」
先の蒼い瞳の少女に指示された碧眼の少女が小声で頷く。そして掴んだままの大和の腕を引っ張って「……こっち」と促した。
状況に流されるがまま、大和は彼女についていく。
だが、そのとき周囲の光景が目端を過り……歩き出した両脚が途端に驚愕で凍りついた。
(―――ッ!? な、なんだ、これ……!?)
彼の目に飛びこんできた光景。
それは、いままさに戦争中の帆船たちだった。
優に一〇隻を超える帆船が海上を走っており、その舷側から互いに砲撃を放っている。だが飛び交うのは砲弾ではなく、真っ赤に燃え盛る炎の塊や水の塊と思しき球体だ。それらの弾丸が方々で激突し、弾ける衝撃が海域一帯の大気を震わせている。
さながら、ファンタジー世界の魔法の応酬のようだった。
しかし、帆船同士の戦争など大和の世界ではあり得ない。そんな時代はとうの昔に過去のものとなった。まして魔法など、そもそも存在したことすらない。
(い、いったいなにがどうなって……)
だが、考えている余裕はなかった。
「……はやく」
「え? ……は、はぁ」
少女に催促された大和は、訳が分からないまま、彼女に続いて船内へと入っていった。
⚓
「……ここで待ってて」
相変わらず眠そうな碧眼の少女に案内されたのは、船内の一室だった。木造の小部屋で二段式の寝台が左右の壁際に一つずつ置いてある。どうやら戦いが落ち着くまでここで待機していろということらしい。
「……じゃあ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
立ち去ろうと背中を向けた少女を、大和が堪らず呼び止める。少女は彼に向き直ると、その首を不思議そうに傾げた。
「教えてください。ここはいったいどこなんです? あなたたちはいったい……」
血相を変えて尋ねる大和。だが、少女はきょとんとしている。いったいこの人はなにを言っているのか……そう言いた気な無表情だ。
だが、大和からすれば重要なことだった。
(……ここは明らかに、僕がさっきまでいた横浜じゃない。乗ってる船は《海成丸》じゃないし、外で行われてたのは紛れもない戦争だ。それも魔法つきの……)
あまりにも不可解極まりない状況に、大和は完全にパニックになっていた。
そんな彼の焦りを察したのか、碧眼の少女はすぐに彼の質問に答えてくれた。
「……あたしは、ティオ。ティオ・フランネル。イグニス海軍・第一一戦隊の副長兼魔導部隊長。いまは近海を警備中に敵の船と遭遇して、しかけられたから、これからやり返す」
「や、やり返す……?」
平然と報復を口にした幼気な少女。眠気いっぱいのとろんとした瞳とのんびりした口調のせいで、まるで冗談のように聴こえる。
「……とにかく、ここから出たら危険。終わったらまた来る。それまで待機」
「わ、分かりました……」
話が終わると、ティオは部屋から出ていった。おそらく、先ほど上で蒼い瞳の少女が言っていた《マドウカンパン》とやらへ向かうのだろう。
(字面からすると……魔道甲板? ガンデッキの魔法版かな……じゃあ、さっきの炎や水の塊に見えたものは、やっぱり本当に魔法……ああもうなんなんだよ一体!)
考えれば考えるほど、受け入れがたい現実で頭がいっぱいになり、大和は思わず後頭部を掻き毟る。
そんな苛立ちを一瞬で吹き飛ばすほどの大きな物音が廊下から聴こえた。
「な、なんだ!?」
反射的に扉へ向かって駆け出す大和。
だが、その足が咄嗟に止まる。敵が乗りこんできたのではという不安が脳裏を過ったのだ。
もしそうだったらどうする? 自分はただの高卒フリーターだ。これまで戦争どころか学校の柔道以外で武道の経験すらない。しかも弱い。
なら隠れているほうがいいか? だがこの狭い部屋に押し入られたらどうする? それこそ一巻の終わりだ。
考えた挙句、大和は恐怖を覚えつつも、覚悟を決めて恐る恐る扉を開いた。音の正体を探り、もし敵であれば逃げ出す機を窺うために。
―――そんな彼の心配は、一瞬で徒労に終わった。
廊下にいたのは敵兵ではなくティオだった。どうやら外に出てすぐ転んだらしく、前進途中の芋虫のようにお尻を持ち上げたへの字の格好で地面に突っ伏している。
「……だ、大丈夫……ですか?」
あまりに間の抜けた格好に、気遣う大和の口調もぎこちない。
するとティオは、大和をきっと睨んだ。その目尻に薄っすらと涙を溜めて。
その思わぬ気迫に、反射的に怯む大和……だったが、
「……ころんでない」
「はっ?」
一気に緊張感が抜けた。
「……ぜったいにころんでない」
「い、いや、でも……」
「……ねむくて、たおれただけ」
「……海戦中に眠気で倒れるって、それもそれで駄目な気がしますけど……」
大和の指摘に一段と睨みを鋭くしたティオは、擦りむいたせいか、はたまた恥ずかしさゆえか、顔を真っ赤に上気させながらうんしょと立ち上がる。そして、衣服についた埃をぱっぱと払い落とすと、再び涙目で彼を睨み、そのまま目的地へと向かって走っていった。
(……だ、大丈夫なのかな、あの子……)
他人事ながら、さすがに大和も少し心配になった。
反射的に海水を吐き出し、その反動で大和は意識を取り戻した。
「げほっ! げほっ! げへぇっ!」
よほど大量の水を飲んだのか、咳がなかなか止まらない。体が防衛本能の命じるまま、彼の意志とは関係なく必死に命をつなごうとする。
「よかった。気がついたみたいですね」
だから、耳元で呟かれたその声も、すぐには彼の耳に届かなかった。
「けほっ! ……はぁ……はぁ……」
やがて呼吸が落ち着いてくると、ようやく目を開くことができた。
目の前に青空が広がり、頬を撫でる潮風の香りが鼻先を霞める。自分の五感が世界を認識し始めると、少しずつ助かったのだという実感が湧いてきた。どうやら船の甲板に横たわっているらしい。
「大丈夫ですか?」
今度はその声もはっきり聴こえた。清楚な女性を思わせる淑やかな声色だ。
横になったまま、首を右に傾けて声の主を確認する。
ぼやけた瞳に映ったのは、命の危機に瀕していてもなお見惚れるほど、美しい少女だった。やや蒼色を帯びた雪のように白く短い髪に、愛らしい円らな蒼い瞳。すれ違えば万人が漏れなく振り返る、そう言っても過言ではない美貌がいま、彼の前にあった。その身なりは、肩を広く露出したノースリーブのシャツに、黒と白のチェック柄のスカートと黒のニーソックス、そして首元に空色のネクタイと凛々しくも可憐。一方、その上に羽織った黒のコートからは、得も言われぬ威厳が感じられた。
彼女が助けてくれたのだろうか。こんなコスプレじみた格好、イベント参加者のなかには見かけなかったが。
「……あ、ありがとう、ございます……たすかりました……」
なんとか上半身を起こし、息を整えながら謝意を伝える大和。
「いえ。とりあえずご無事でなによりです。……ですが、助かったかどうかは、もう少し待っていただく必要があります」
「えっ?」
立ち上がった彼女が口にした言葉は、なにやら不穏な響きを伴っていた。
いったいどういう意味だろうか……。そう疑問に思った、そのときだった。
「ハードスターボード! ミズンスパンカー、ホールイン!」
少女が叫んだ。面舵一杯。
直後、船が大きく右へ動くと同時に、左舷の至近距離で爆音が轟いた。猛スピードのトラック二台が正面衝突したかのような凄まじい炸裂音だ。同時に巨大な横揺れが船体に襲いかかり、彼の横たわる地面を大きく右へ傾ける。
「ひぃぃぃッッッ!」
地面から引き剥がされる大和の体。同時に心臓が潰れそうなほど強烈な恐怖が彼を襲う。《海成丸》の沈没した瞬間が脳裏でフラッシュバックしたのだ。
途端に四肢から力が失われ、抜け殻と化した彼の体が護謨鞠のように甲板を転がる。舷側に衝突するもその勢いは止まらず、彼はそのまま海へと投げ出された。
(……あ)
―――だが、今度は海には落ちなかった。
舷側から転げ落ちた直後、彼の右腕を先ほどとはべつの少女が握った。その細い両腕で大根でも引っこ抜くかのように。
小学生くらいの年頃の少女だ。ボリュームある碧色の髪を子犬の尻尾のように後ろで束ねており、その瞳も同じく鮮やかな碧眼。どこか眠そうな童顔には、齧歯類のような愛らしさを感じる。服装は先の少女と同じで、ネクタイではなく緑色のリボンを首元に結んでいた。
少女はそのまま、宙吊りになった大和の体を甲板へ引き上げる。助かった彼は猛烈な安堵感に襲われて崩折れ、飢えたように何度も呼吸を繰り返した。
「ティオ、その方をなかへ。あなたはそのあと魔導甲板で指揮を」
「……はい」
先の蒼い瞳の少女に指示された碧眼の少女が小声で頷く。そして掴んだままの大和の腕を引っ張って「……こっち」と促した。
状況に流されるがまま、大和は彼女についていく。
だが、そのとき周囲の光景が目端を過り……歩き出した両脚が途端に驚愕で凍りついた。
(―――ッ!? な、なんだ、これ……!?)
彼の目に飛びこんできた光景。
それは、いままさに戦争中の帆船たちだった。
優に一〇隻を超える帆船が海上を走っており、その舷側から互いに砲撃を放っている。だが飛び交うのは砲弾ではなく、真っ赤に燃え盛る炎の塊や水の塊と思しき球体だ。それらの弾丸が方々で激突し、弾ける衝撃が海域一帯の大気を震わせている。
さながら、ファンタジー世界の魔法の応酬のようだった。
しかし、帆船同士の戦争など大和の世界ではあり得ない。そんな時代はとうの昔に過去のものとなった。まして魔法など、そもそも存在したことすらない。
(い、いったいなにがどうなって……)
だが、考えている余裕はなかった。
「……はやく」
「え? ……は、はぁ」
少女に催促された大和は、訳が分からないまま、彼女に続いて船内へと入っていった。
⚓
「……ここで待ってて」
相変わらず眠そうな碧眼の少女に案内されたのは、船内の一室だった。木造の小部屋で二段式の寝台が左右の壁際に一つずつ置いてある。どうやら戦いが落ち着くまでここで待機していろということらしい。
「……じゃあ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
立ち去ろうと背中を向けた少女を、大和が堪らず呼び止める。少女は彼に向き直ると、その首を不思議そうに傾げた。
「教えてください。ここはいったいどこなんです? あなたたちはいったい……」
血相を変えて尋ねる大和。だが、少女はきょとんとしている。いったいこの人はなにを言っているのか……そう言いた気な無表情だ。
だが、大和からすれば重要なことだった。
(……ここは明らかに、僕がさっきまでいた横浜じゃない。乗ってる船は《海成丸》じゃないし、外で行われてたのは紛れもない戦争だ。それも魔法つきの……)
あまりにも不可解極まりない状況に、大和は完全にパニックになっていた。
そんな彼の焦りを察したのか、碧眼の少女はすぐに彼の質問に答えてくれた。
「……あたしは、ティオ。ティオ・フランネル。イグニス海軍・第一一戦隊の副長兼魔導部隊長。いまは近海を警備中に敵の船と遭遇して、しかけられたから、これからやり返す」
「や、やり返す……?」
平然と報復を口にした幼気な少女。眠気いっぱいのとろんとした瞳とのんびりした口調のせいで、まるで冗談のように聴こえる。
「……とにかく、ここから出たら危険。終わったらまた来る。それまで待機」
「わ、分かりました……」
話が終わると、ティオは部屋から出ていった。おそらく、先ほど上で蒼い瞳の少女が言っていた《マドウカンパン》とやらへ向かうのだろう。
(字面からすると……魔道甲板? ガンデッキの魔法版かな……じゃあ、さっきの炎や水の塊に見えたものは、やっぱり本当に魔法……ああもうなんなんだよ一体!)
考えれば考えるほど、受け入れがたい現実で頭がいっぱいになり、大和は思わず後頭部を掻き毟る。
そんな苛立ちを一瞬で吹き飛ばすほどの大きな物音が廊下から聴こえた。
「な、なんだ!?」
反射的に扉へ向かって駆け出す大和。
だが、その足が咄嗟に止まる。敵が乗りこんできたのではという不安が脳裏を過ったのだ。
もしそうだったらどうする? 自分はただの高卒フリーターだ。これまで戦争どころか学校の柔道以外で武道の経験すらない。しかも弱い。
なら隠れているほうがいいか? だがこの狭い部屋に押し入られたらどうする? それこそ一巻の終わりだ。
考えた挙句、大和は恐怖を覚えつつも、覚悟を決めて恐る恐る扉を開いた。音の正体を探り、もし敵であれば逃げ出す機を窺うために。
―――そんな彼の心配は、一瞬で徒労に終わった。
廊下にいたのは敵兵ではなくティオだった。どうやら外に出てすぐ転んだらしく、前進途中の芋虫のようにお尻を持ち上げたへの字の格好で地面に突っ伏している。
「……だ、大丈夫……ですか?」
あまりに間の抜けた格好に、気遣う大和の口調もぎこちない。
するとティオは、大和をきっと睨んだ。その目尻に薄っすらと涙を溜めて。
その思わぬ気迫に、反射的に怯む大和……だったが、
「……ころんでない」
「はっ?」
一気に緊張感が抜けた。
「……ぜったいにころんでない」
「い、いや、でも……」
「……ねむくて、たおれただけ」
「……海戦中に眠気で倒れるって、それもそれで駄目な気がしますけど……」
大和の指摘に一段と睨みを鋭くしたティオは、擦りむいたせいか、はたまた恥ずかしさゆえか、顔を真っ赤に上気させながらうんしょと立ち上がる。そして、衣服についた埃をぱっぱと払い落とすと、再び涙目で彼を睨み、そのまま目的地へと向かって走っていった。
(……だ、大丈夫なのかな、あの子……)
他人事ながら、さすがに大和も少し心配になった。