本編

「レイナさん! 前方三海里に船影! あのツィーロン戦隊だ!」

 見張りの報告を聴いた大和とレイナは、しかし慌てることはなかった。まさか今回の作戦を読み切られるとは思わなかったが、二人ともあるいは……とも思っていたからだ。

「……いったいどんな理屈で東へ出てきたんでしょうか」

 レイナの声は相手の力量を思い知ってか、どこか感嘆を帯びていた。

「……すみません、僕にもさっぱりです。こればかりは読まれないと思ったんですが……」

 反対に大和の声は沈んでいた。レイナの裏切り疑惑を晴らすためには、敵の裏を完全に衝く必要があったからだ。だが、敵が待ち受けていたとあっては、疑惑が再燃しかねない。さらに今回の作戦は奇策も奇策であるため、そう勘繰られる可能性がかなり高いと言える。

「大丈夫ですよ、ヤマトさん」

 だが、隣のレイナは自信に満ちた表情だ。

「勝てばいいだけです。なにも心配ありません」
「は、はい……」

 頷く大和。
 しかし、彼の脳裏には先ほどからケープサンドの一幕が離れなかった。またあんなことにならないか……もしそうなったら……そんな不吉な想像だけが執拗に駆け巡る。
 そんな大和の不安をよそに、両戦隊は距離を詰めていった。
 敵は単縦列で突っこんでくる。

「輸送船団に信号! 南へ下って本隊から距離をとり、インペリウム東岸への接岸を第一に航行! 第一一戦隊は彼らの北に回り、旗艦を先頭に縦列で壁をつくります!」

 レイナの指示を受けて陸軍輸送船団二〇隻は南西へ変針。第一一戦隊はその北側に縦列を形成。輸送船団を守る壁役として走る。
 敵戦隊が針路を東へ向け直した。こちらと並行する針路をとる。
 そして、両戦隊の先頭を走る旗艦がすれ違ったとき、

「交戦開始!」

 レイナの一喝と共に、魔導甲板の右舷から次々と水弾が放たれた。
 同時に敵戦隊からも大量の炎弾が飛来。両者は海上で衝突し、一斉に破裂。うち数発の炎弾が水弾の壁を抜けて戦隊付近に着弾し、巨大な波濤が吹き上がる。
 やはり両戦隊の魔道部隊の実力は互角。しかし、それが両戦隊の力は厳密な意味で互角ではないことを大和は理解していた。

(……このままじゃ、守るものがあるぶんこっちが不利だ。輸送船団に合わせて走らなきゃいけないから速度も遅いし、走れる航路も限定的で被弾する可能性が高い。向こうは輸送船団さえ沈めれば陸軍の揚陸を阻止できる。……どうする? なにか手は……)

 魔弾が飛び交う戦場で、戦況を睨みながら必死に頭を回す大和。わずかな勝機も見逃すまいと我が身を顧みずにレイナの横に立ち、その機を窺う。
 しかし、そう都合よく打開策など生まれるはずもない。
 無情に過ぎる時間。
 大和の心に焦りだけが募る。

(くそっ! いったいどうしたら……っ!)

 行き場のない苛立ちに歯を軋らせた……そのときだった。



 ―――突如、海が天を衝いた。



「……ッ!?」

 咄嗟に顔をしかめる大和。
 優に一〇〇発を超える魔弾がぶつかりあう戦場にあっても鼓膜を破らんと轟く、雷のような衝撃が耳を突き抜けたのだ。
 反射的に音のした東の彼方を振り返る。
 視線の先にあったのは、空に達するほど巨大な瀑布だった。
 その高さ、およそ五〇メートル。

(な、なんだあれ……っ!?)

 思わず畏怖すら覚える戦慄の光景に、大和の全身が恐怖で総毛立つ。
 その水柱は意志を持ったかのように、尚も高々と空を昇りつづける。
 そして、雲にも届かんとするほど舞い上がった先で……それはついに水のヴェールを脱ぎ捨てた。

 最初にその正体を口にしたのは、レイナだった。



「―――白鯨……ッ!」



     *



「は、白鯨……だと!?」

 その出現に、さすがのジャンヌも度肝を抜かれた。
 はるか東の空を高々と舞い上がったのは、陽を浴びて神々しいほどに輝く純白一色の巨体。もはや生きた伝説と化した海の怪物。

 ―――白鯨。

 世界に三頭しか存在しないと言われる最大最悪の狂獣は、そのまま空から急降下。海を割らんばかりの激震が海面を奔り、一海里は離れたジャンヌたちの船をも大きく揺らす。
 あまりにも唐突な白鯨の出現を前に、船上は一瞬にして狂騒に包まれた。海へ逃げ出すようなものこそいなかったが、船内へ駆けこんだりその場で慌てふためいたり、もはやまるで統制がとれていない。

「落ち着け! すぐ交戦を中止して西へ逃げるんだ! 急げ!」

 喉が張り裂けんばかりの声で叫ぶジャンヌ。だが、その指示は誰の耳にも届かない。彼女が士気も練度も一流だと自負していたクルーたちはいま、一人残らず白鯨の恐怖に呑まれていた。もはや海戦どころかまともに走ることすら叶わない。
 そんなジャンヌたちに、さらなる追い打ちがかかる。
 白鯨がこちらへ急接近してきたのだ。

(……くそっ! このままじゃまずい!)

 咄嗟に後部甲板へ駆け上がるジャンヌ。白鯨はまるで海水を呑み干さんとするが如く高速でこちらへ向かってきていた。詠唱していては間に合わないと判断した彼女は、右腕の金属輪のガネット石をすべて砕き、即座に航戦魔法を発動する。

「―――緋鳳乃翼エル・カーレイト!」

 白鯨に向かって立て続けに炎槍が放たれ、その頭部へ次々と叩きこまれる。だが、白鯨を止めるどころかその速力を削ることすら叶わない。

(……威力が足りないか。だが、この距離じゃ上位魔法は詠唱が間に合わない)

 どうする。
 だが、考える時間はなかった。

『オオオォォオオオォォオォオォオオオォォオオォォォォオ!』

 白鯨が再び海中から飛び出した。そして世にも恐ろしい獰猛な吠え声と共に巨大な口を開いてジャンヌたちの船をめがけて急降下。猛烈な威圧感と共に深淵にも等しい漆黒の顎が迫る。

「ジャンヌ、サン!」

 アイリーンが生成した巨大な氷壁が白鯨の前に立ちはだかる。だが、旗艦並みに巨大な白鯨の巨躯を防ぎきれるわけもなく、氷壁は一瞬で粉々に砕かれた。

(くっ……そ……がぁっ!)

 万事休す。船はいままさに白鯨の顎に呑まれようとしていた。

 ―――その巨躯が、一瞬にして凍りついた。



     *



「す、すご……」

 突如、目の前に顕現した異様な光景に、大和は絶句していた。
 空に浮いた五〇メートル超の白鯨。その巨体が海面から屹立した氷柱によって捕らわれ、彫像のように氷づけにされていたのだ。

「……間に合いましたか」

 その隣で、レイナが大きく息を吐き出した。白鯨を捕らえたのは彼女の魔法だった。
 海面には旗艦から白鯨へ向かって何本もの巨大な氷が針山のように連なっている。その様相はまるで海中に眠る氷龍が目覚め、眠りを妨げた白鯨を怒りのままに追い立て噛み砕かんとしているようですらあった。

「信号旗! 輸送船団全艦に急いで西へ逃げるように伝えてください! 第一一戦隊はその殿を! 物資は当座の分を残して、ほかはすべて廃棄!」

 だが、それでも白鯨を倒せていないのか、レイナは急いでクルーに指示を飛ばす。かつて白鯨と一戦交えたからか、突然の怪物の襲来にもクルーたちは落ち着いていた。
 ―――すると、レイナは突然、舷側から凍った海面に飛び降りた。

「レ、レイナさん!? どこ行くんですか!」
「白鯨を足止めします」

 氷上の彼女は、なんの躊躇もなく即答する。

「あ、足止めって言っても……」
「インペリウムの東岸は遠浅ですので、ここから西へ一海里でも走れば、白鯨の巨体ではもう追ってこられません。全艦がそこへ辿り着くまで、私が白鯨をひきつけます。―――ティオ、船をお願いします」
「……分かりました」

 ティオが頷くと、レイナは白鯨へとつづく氷の上を駆け出した。
 かつて白鯨を倒したという彼女の力なら、あるいは足止めも可能なのだろうか。しかし彼女はケープサンドでグランディアの航戦魔道士に敗北を喫した。そして、そのとき相手だった航海魔道士がいかに史上稀に見る力を持つといえど、あの白鯨より強いとは考えにくい。

「ティ、ティオさん……大丈夫、なんですか?」

 恐る恐る尋ねる大和。心のなかでは、どうかいつものほんわかした調子で大丈夫と言ってくれと必死に祈っていた。
 ……だが、返ってきた答えは、

「……分からない。私たちが前に倒した白鯨は、あの半分くらいしかなかった……たぶんこどもだった。それに前のときはこの船一隻だけだったから、周りを気にする必要もなかった。でもいまは輸送船団がある」
「じゃ、じゃあ、助けに行かないと……っ!」
「……でも」

 ティオはレイナの背中を見つめながら、

「……私はレイナさまを信じてる。だからいまは船を逃がす。船団が少しでも早く安全圏に入れば、レイナさまが足止めする時間も短くできるから」

 そう力強く言い切る瞳には、一点の曇りも、微かな揺らぎもなかった。
 そして、それはほかのクルーも同じだった。周囲を見回すと誰もがレイナから与えられた最後の指示を全うするために甲板を駆けずり回っている。
 誰もが、レイナの言葉を、背中を、信じていた。
 欠片も疑わずに。
 ―――そして。
 その光景を目にした大和も、口を突きそうだったあらゆる言葉と感情を強引に呑みこんだ。
 そして、自分もレイナを信じて待つんだと己の心に強く言い聴かせ……その背中を最後まで見守るんだと決めて、甲板に立ち続ける決意を固めた。

(……レイナさん、絶対に帰ってきてください……っ!)
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