本編
ほぼ一年に及んだグランディアとインペリウムの戦争は、佳境に入っていた。
昨年末からデニス海での攻勢を強め始めたグランディア海軍の前に、インペリウムのデニス海戦隊は守勢を強いられ、その隻数が半減。ついに沿岸まで接近を許していた。いまは軍港を拠点とした要塞警備を軸に懸命に凌いでいる状況だ。
両国国境付近で展開されていた陸軍本隊による決戦でも、グランディアがさらに攻勢を強めていた。南岸戦隊の一部を解体して南岸拠点の防衛に回したことで、南岸警備に当たっていた陸軍が本隊に合流したためだ。
イグニス海軍は予備隊まで動員してリディア海の前線をさらに東へ伸ばし、デニス海付近までを完全に掌握。しかし、ダンジェネス海峡を張るグランディア海軍の防衛を突破できず、デニス海へ進入できずにいた。またイタリカ半島北東から陸軍を揚陸してアンクルへ地上軍を送りこむも、要所であるがゆえにグランディア守備隊の防衛も堅く占領には至っていない。
その戦況を眺めながら、インペリウムの隣国は「このままグランディアが押し切るだろう」という思いを次第に強くし始め……そして、その猛威の次なる標的とならないための対策を必死に練り始めた。
―――そんななか、ジャンヌたちはデニス海へ急いだ。
まだ自分たちの脱走の一報は本隊へは伝わっていない。いまなら追加の戦力で派遣された体を装って、ダンジェネス海峡を通過できる。
その後、デニス海へ入ったら、ヴィオーレ水道から大陸の東域へ向かう手筈だ。
それから先のことは特に考えていなかった。だが、ほかの国へ駆けこむなり無人島を探して暮らすなり、やりようはいくらでもある。イグニスは最近、はるか西に新大陸を見つけた。それなら未開拓の東方海域にも、まだ見ぬ大陸があるかもしれない。
戦隊はまずイタリカ半島の海岸線に沿って、ダンジェネス海峡へ向かった。
道中、イグニス海軍との遭遇は一度。半島先端に浮かぶサルディニカ島付近を通過したとき、四隻の少戦隊と出会した。
そこまで戦線が伸びていることにジャンヌは驚いたが、逆にこれは好都合だとも思った。自分たちを発見したことで、連中はデニス海に増援が送りこまれたと勘違いして、少しでも戦力を削ごうと攻勢をかけてくるだろう。そうなれば、デニス海のグランディア海軍はさらに防衛に忙しくなる。自分たちが逃げる隙が大きくなるというわけだ。だから、ジャンヌはこの戦隊を一隻だけ捕縛して残りを逃がした。
その後、彼女たちはダンジェネス海峡へ到達。そこで増援に派遣されたと嘘を報告する。嘘だと気づかせないよう、対応は牢獄にいるはずのジャンヌではなく副長に任せ、捕らえたイグニス艦も合わせて手土産として。
嘘は意外なほどあっさりと信用され、戦隊は海峡を通過してデニス海へ入り、本隊にしばらく合同。逸る気持ちを抑えながらデニス海の後方支援、具体的にはヴィオーレ水道の封鎖および周辺の哨戒任務を勤めつつ、逃亡の機会を慎重に見極める。
―――そして、一月一四日。
そのときがきた。
闇の深い夜が訪れたのだ。
これを好機と見たジャンヌたちは、哨戒中の航路を外れて密かにヴィオーレ水道へ入る。
その夜、偶然にも時を同じくして、アンクルに設置されたデニス海戦隊の臨時作戦本部へツィーロン戦隊・第二分隊逃亡の一報が届けられた。
だが、時すでに遅し。まさにほんの少しの差だった。
ジャンヌたちは最後に、ヴィオーレ水道の出口を張っていたインペリウム海軍を躱して、ついに東の大海へ到達した。
前方に広がるは、どこまでも果てしなく広がる可能性に満ちあふれた大海。
そして、後ろから追っ手は来ない。
逃げ切った。夜明けと共に誰もがそう確信し、歓喜の声が戦隊中にあふれかえった。さすがのジャンヌも極度の緊張と重責から解放された気の緩みからか、素直にそう思った。
―――彼女が見据える遥か東の彼方から、最悪の脅威が接近しているなどとは、露ほども思わずに。
*
「……さて。ここまで来たはいいが……」
見果てぬ海を眺めながら、ジャンヌはどこかしみじみと呟いた。
一月一五日。ツィーロンを逃げ出してから一〇日。戦隊は一隻も、一人も欠けることなく東の大海に浮かんでいた。
「これからドコ行きマス?」
ゆったりと東へ走り続けるなか、アイリーンが尋ねてくる。戦隊はあてもなく、ただ漫然と東へ走っていた。
「……あまり考えもなしに東へ走りつづけるのも危険だな。イグニスが新大陸を見つけたみたいに新たな大陸でもあればいいが、無人島を見つけたところで、そこが生活に適しているとも限らない。なら、どっかの国に身を寄せるほうが確実だ」
「どこの国デス?」
「そうだな……アフィーリカ大陸にはグランディアの息がかかっていない国も多いが、近くにあるから将来的にもそうとは限らない。……ならいっそのこと、西へ向かってイグニスが発見した新大陸に流れ着いたほうがいいかもな」
「え、大丈夫デスカ?」
「しかたないだろ。グランディアと敵対しているあの国のなかが実質、最も安全だ。仮にインペリウムが敗れても、イグニスは島国である以上、その本土を簡単に脅かされたりはしない。あと私が言うのもなんだが、第二分隊が抜けたことでツィーロン戦隊、ひいてはグランディア海軍は大打撃を受けた。この穴を埋めるのには時間がかかるだろうから、たとえ陸上の覇権は握れても、海上覇権はしばらくイグニスのものだろう」
「デモ……受け入れてくれマスカ?」
「なんとかするしかないさ。ほかの国はグランディアと陸続きである以上、その脅威からは逃れられないしな。―――だが、いずれにしても……ん?」
ジャンヌが唐突に言葉を切った。
その瞳は怪訝そうに東の彼方を睨んでいる。
「どうしたんデスカ?」
アイリーンの問いかけにも彼女は応じない。その瞳はだんだんと脅威を前にしたかのような気迫に満ちていき、見る見る鋭くなる。そんな彼女の横顔にアイリーンも不穏な気配を察したのか、表情が次第に曇っていった。
「見張り! 東の水平線上を見ろ! なにかいないか!?」
メインマストの見張り台で待機していた青年が、慌てて望遠鏡を手にして東を視認する。
「……ナニかいたんデスカ? ジャンヌサン?」
「……勘違いならいいんだがな」
だが、ジャンヌは半ば確信していた。自分の見たものが一体なんであるのかを。―――それがいまこのときに最も出逢ってはいけないものであり、しかし同時に、彼女の心を無性に昂ぶらせるものであることを。
そして、見張りの一言がその正体を告げた。
「せ、戦隊だ! 見えるだけでも三〇隻はある!」
「どこの船だ!」
尋ねずとも、彼女には分かっていた。
「―――国籍はイグニス! あの《白鯨殺し》の船です!」
一気にざわつき始める船上。ついに安息を手にしたと思った矢先、その面前に立ちはだかったのは《白鯨殺し》の戦隊だった。
その出現に、ジャンヌも堪らずに驚愕する。
「……いったいどんな魔法を使ったんだ。北は流氷で通れないし、南を通ればアフィーリカ沿岸のうちの警備戦隊に見つかったはずだ。というか、そもそも東から現れるわけがない」
しかし同時に、彼女の心には密かな昂揚感があった。
(……なんの因果だろうな。もう二度と戦場で逢うことはないと思っていたが……)
まさか三たびも同じ相手と相まみえるとは想像もしなかった。大抵の相手を一度で沈めてきたジャンヌにとって、同じ相手と戦場で三度も出会すなど初めてのことだ。
指揮官として敗れ、航戦魔道士として勝利した因縁の相手。
もはや軍籍ではなくなったいまでも、なぜかこの血が昂ぶる、ただ一人の宿敵。
(……思えばここまで一勝一敗。私も心のどこかで、もう一度だけあいつと戦いたいと思っていたのかもな)
広がるのは、なに一つ障害のない穏やかな大海。
そして、第一分隊のような足手まといもいない。
一切の言い訳が通用しない、文字通り指揮官そして航戦魔道士としての力だけが勝敗を決する最高の舞台だ。
「―――全艦臨戦態勢! 旗艦を先頭に縦列に並べ!」
ジャンヌは戦闘準備を指示。クルーたちが戦闘配置につき、準備を急ぐ。
「……戦う、デスか? 降参シテ、イグニスまで連れてッテもらうハ?」
「白旗を揚げても向こうが真摯に応じてくれるとは限らない。こっちに戦う気がないのをいいことに油断させて一網打尽にされる可能性もある。前回の戦闘のせいで、連中は少なからずこっちのことを恨んでいるだろうしな。退けるのが最も安全だ」
さも当たり前のように説明するジャンヌ。
だが、その言葉は半分、嘘だった。
彼女は、ただ戦いたかったのだ。
いまや因縁とすら呼べる宿敵と。
もう二度と出逢うことはないと思っていた宿敵と。
(……いいだろう。最後の海戦にはもってこいの相手だ。ここで決着といこうじゃないか!)
ジャンヌが見せた笑顔は、満面の戦意に満ちていた。
昨年末からデニス海での攻勢を強め始めたグランディア海軍の前に、インペリウムのデニス海戦隊は守勢を強いられ、その隻数が半減。ついに沿岸まで接近を許していた。いまは軍港を拠点とした要塞警備を軸に懸命に凌いでいる状況だ。
両国国境付近で展開されていた陸軍本隊による決戦でも、グランディアがさらに攻勢を強めていた。南岸戦隊の一部を解体して南岸拠点の防衛に回したことで、南岸警備に当たっていた陸軍が本隊に合流したためだ。
イグニス海軍は予備隊まで動員してリディア海の前線をさらに東へ伸ばし、デニス海付近までを完全に掌握。しかし、ダンジェネス海峡を張るグランディア海軍の防衛を突破できず、デニス海へ進入できずにいた。またイタリカ半島北東から陸軍を揚陸してアンクルへ地上軍を送りこむも、要所であるがゆえにグランディア守備隊の防衛も堅く占領には至っていない。
その戦況を眺めながら、インペリウムの隣国は「このままグランディアが押し切るだろう」という思いを次第に強くし始め……そして、その猛威の次なる標的とならないための対策を必死に練り始めた。
―――そんななか、ジャンヌたちはデニス海へ急いだ。
まだ自分たちの脱走の一報は本隊へは伝わっていない。いまなら追加の戦力で派遣された体を装って、ダンジェネス海峡を通過できる。
その後、デニス海へ入ったら、ヴィオーレ水道から大陸の東域へ向かう手筈だ。
それから先のことは特に考えていなかった。だが、ほかの国へ駆けこむなり無人島を探して暮らすなり、やりようはいくらでもある。イグニスは最近、はるか西に新大陸を見つけた。それなら未開拓の東方海域にも、まだ見ぬ大陸があるかもしれない。
戦隊はまずイタリカ半島の海岸線に沿って、ダンジェネス海峡へ向かった。
道中、イグニス海軍との遭遇は一度。半島先端に浮かぶサルディニカ島付近を通過したとき、四隻の少戦隊と出会した。
そこまで戦線が伸びていることにジャンヌは驚いたが、逆にこれは好都合だとも思った。自分たちを発見したことで、連中はデニス海に増援が送りこまれたと勘違いして、少しでも戦力を削ごうと攻勢をかけてくるだろう。そうなれば、デニス海のグランディア海軍はさらに防衛に忙しくなる。自分たちが逃げる隙が大きくなるというわけだ。だから、ジャンヌはこの戦隊を一隻だけ捕縛して残りを逃がした。
その後、彼女たちはダンジェネス海峡へ到達。そこで増援に派遣されたと嘘を報告する。嘘だと気づかせないよう、対応は牢獄にいるはずのジャンヌではなく副長に任せ、捕らえたイグニス艦も合わせて手土産として。
嘘は意外なほどあっさりと信用され、戦隊は海峡を通過してデニス海へ入り、本隊にしばらく合同。逸る気持ちを抑えながらデニス海の後方支援、具体的にはヴィオーレ水道の封鎖および周辺の哨戒任務を勤めつつ、逃亡の機会を慎重に見極める。
―――そして、一月一四日。
そのときがきた。
闇の深い夜が訪れたのだ。
これを好機と見たジャンヌたちは、哨戒中の航路を外れて密かにヴィオーレ水道へ入る。
その夜、偶然にも時を同じくして、アンクルに設置されたデニス海戦隊の臨時作戦本部へツィーロン戦隊・第二分隊逃亡の一報が届けられた。
だが、時すでに遅し。まさにほんの少しの差だった。
ジャンヌたちは最後に、ヴィオーレ水道の出口を張っていたインペリウム海軍を躱して、ついに東の大海へ到達した。
前方に広がるは、どこまでも果てしなく広がる可能性に満ちあふれた大海。
そして、後ろから追っ手は来ない。
逃げ切った。夜明けと共に誰もがそう確信し、歓喜の声が戦隊中にあふれかえった。さすがのジャンヌも極度の緊張と重責から解放された気の緩みからか、素直にそう思った。
―――彼女が見据える遥か東の彼方から、最悪の脅威が接近しているなどとは、露ほども思わずに。
*
「……さて。ここまで来たはいいが……」
見果てぬ海を眺めながら、ジャンヌはどこかしみじみと呟いた。
一月一五日。ツィーロンを逃げ出してから一〇日。戦隊は一隻も、一人も欠けることなく東の大海に浮かんでいた。
「これからドコ行きマス?」
ゆったりと東へ走り続けるなか、アイリーンが尋ねてくる。戦隊はあてもなく、ただ漫然と東へ走っていた。
「……あまり考えもなしに東へ走りつづけるのも危険だな。イグニスが新大陸を見つけたみたいに新たな大陸でもあればいいが、無人島を見つけたところで、そこが生活に適しているとも限らない。なら、どっかの国に身を寄せるほうが確実だ」
「どこの国デス?」
「そうだな……アフィーリカ大陸にはグランディアの息がかかっていない国も多いが、近くにあるから将来的にもそうとは限らない。……ならいっそのこと、西へ向かってイグニスが発見した新大陸に流れ着いたほうがいいかもな」
「え、大丈夫デスカ?」
「しかたないだろ。グランディアと敵対しているあの国のなかが実質、最も安全だ。仮にインペリウムが敗れても、イグニスは島国である以上、その本土を簡単に脅かされたりはしない。あと私が言うのもなんだが、第二分隊が抜けたことでツィーロン戦隊、ひいてはグランディア海軍は大打撃を受けた。この穴を埋めるのには時間がかかるだろうから、たとえ陸上の覇権は握れても、海上覇権はしばらくイグニスのものだろう」
「デモ……受け入れてくれマスカ?」
「なんとかするしかないさ。ほかの国はグランディアと陸続きである以上、その脅威からは逃れられないしな。―――だが、いずれにしても……ん?」
ジャンヌが唐突に言葉を切った。
その瞳は怪訝そうに東の彼方を睨んでいる。
「どうしたんデスカ?」
アイリーンの問いかけにも彼女は応じない。その瞳はだんだんと脅威を前にしたかのような気迫に満ちていき、見る見る鋭くなる。そんな彼女の横顔にアイリーンも不穏な気配を察したのか、表情が次第に曇っていった。
「見張り! 東の水平線上を見ろ! なにかいないか!?」
メインマストの見張り台で待機していた青年が、慌てて望遠鏡を手にして東を視認する。
「……ナニかいたんデスカ? ジャンヌサン?」
「……勘違いならいいんだがな」
だが、ジャンヌは半ば確信していた。自分の見たものが一体なんであるのかを。―――それがいまこのときに最も出逢ってはいけないものであり、しかし同時に、彼女の心を無性に昂ぶらせるものであることを。
そして、見張りの一言がその正体を告げた。
「せ、戦隊だ! 見えるだけでも三〇隻はある!」
「どこの船だ!」
尋ねずとも、彼女には分かっていた。
「―――国籍はイグニス! あの《白鯨殺し》の船です!」
一気にざわつき始める船上。ついに安息を手にしたと思った矢先、その面前に立ちはだかったのは《白鯨殺し》の戦隊だった。
その出現に、ジャンヌも堪らずに驚愕する。
「……いったいどんな魔法を使ったんだ。北は流氷で通れないし、南を通ればアフィーリカ沿岸のうちの警備戦隊に見つかったはずだ。というか、そもそも東から現れるわけがない」
しかし同時に、彼女の心には密かな昂揚感があった。
(……なんの因果だろうな。もう二度と戦場で逢うことはないと思っていたが……)
まさか三たびも同じ相手と相まみえるとは想像もしなかった。大抵の相手を一度で沈めてきたジャンヌにとって、同じ相手と戦場で三度も出会すなど初めてのことだ。
指揮官として敗れ、航戦魔道士として勝利した因縁の相手。
もはや軍籍ではなくなったいまでも、なぜかこの血が昂ぶる、ただ一人の宿敵。
(……思えばここまで一勝一敗。私も心のどこかで、もう一度だけあいつと戦いたいと思っていたのかもな)
広がるのは、なに一つ障害のない穏やかな大海。
そして、第一分隊のような足手まといもいない。
一切の言い訳が通用しない、文字通り指揮官そして航戦魔道士としての力だけが勝敗を決する最高の舞台だ。
「―――全艦臨戦態勢! 旗艦を先頭に縦列に並べ!」
ジャンヌは戦闘準備を指示。クルーたちが戦闘配置につき、準備を急ぐ。
「……戦う、デスか? 降参シテ、イグニスまで連れてッテもらうハ?」
「白旗を揚げても向こうが真摯に応じてくれるとは限らない。こっちに戦う気がないのをいいことに油断させて一網打尽にされる可能性もある。前回の戦闘のせいで、連中は少なからずこっちのことを恨んでいるだろうしな。退けるのが最も安全だ」
さも当たり前のように説明するジャンヌ。
だが、その言葉は半分、嘘だった。
彼女は、ただ戦いたかったのだ。
いまや因縁とすら呼べる宿敵と。
もう二度と出逢うことはないと思っていた宿敵と。
(……いいだろう。最後の海戦にはもってこいの相手だ。ここで決着といこうじゃないか!)
ジャンヌが見せた笑顔は、満面の戦意に満ちていた。