本編

 ―――響くのは、雫の垂れる音だけ。揺れるのは、小さな灯火が一つだけ。
 そんな薄暗くて陰気臭い暗室に閉じこめられて、ジャンヌは15日目を迎えた。木製の固い寝台が一つ置かれただけの狭い部屋で、彼女はいま力なく石壁に寄りかかっている。その両手首は天井から吊られた魔封じの鉄鎖に固くつながれていた。
 その全身は酷く傷だらけで、それが拷問の痕であることは誰の目にも明らかだった。彼女の体はもはや呼吸をするだけの抜け殻に等しい。

(……見回りも来なくなった、か。そろそろ死ぬと思われてんだろうな……)

 力なく嗤うジャンヌ。
 ケープサンドからツィーロンへ戻った彼女は帰港直後、海軍によって拘束され、そのまま牢獄へ放りこまれた。罪状はもちろん命令違反。クルーたちがその必要性を必死になって訴え酌量を求めたが、そんな意見が斟酌されるはずもなかった。
 以降、徹底した拷問と絶食を叩きこまれ、その体は死の寸前まで衰弱していた。
 だが、後悔はない。微かに漏れ聴こえてきた噂によれば、ケープサンドにも同地の商船をもとに即席の守備隊が組織され、防衛が施された。さらにデニス海でもグランディアが巻き返しており、あと少しでインペリウム南岸の軍港を制圧して上陸できそうとのことだ。
 ジャンヌを失うことはグランディア海軍にとって大打撃なのだが、上層部やライバルたちも戦況から自国の勝利を確信したのだろう。ゆえに己の利権を優先して、彼女の排除に踏み切ったに違いない。

(……敢えてリディア海を捨てたことで、再び主導権を取り戻すことができた。ダンジェネス海峡とデニス海を押さえてしまえば、イグニスがリディア海からインペリウムを支援するのは困難だ。ガネット石の補給路も確保したから、海峡に攻めこまれても十分に抵抗できる。そして北や南から迂回することは不可能。バルティア海から強引に揚陸しようとするなら、その隙に北岸の戦隊を結集して本土を制圧すればいい)

 もはや性なのか、死の淵にあっても軍略を巡らせるジャンヌ。
 そんな自分に思わず苦笑いが零れる。

(……はは。まぁこれしかやってこなかった人生だからな。普通なら家族や友人との思い出でも振り返るんだろうが……私も結局、根っからの軍人だったってことか)

 命よりも先に軍人としての使命を与えられて生まれた自分には相応しい末路だ。
 だが、その人生に後悔などない。
 腹の立つこと、納得できないことはいくらでもあった。
 しかし、たとえどんなときでも、自分は常に自分を貫いてきたのだから。
 ―――ただ、唯一、心残りがあるとすれば、

(……アイル、すまない。結局、助けてやれなかった……)

 アイリーンのことだ。
 あと一息だった。あと三ヶ月分の俸給だけで、彼女をベルガの束縛から救い出してやれた。
 だが、届かなかった。

(……疲れたな)

 途端に頭が重くなってきた。どうやらもうなにかを考えるだけの体力も残っていないようだ。
 瞼が自然と落ちてくる。おそらくここで眠ったら、自分は二度と目を覚まさないだろう。そんな予感が薄っすらと頭の片隅にあった。
 ―――その瞳が、いままさに、静かに閉じられようとしていた。

(……? なん、だ?)

 だが、直後にそれを許さないと言わんばかりの轟音が遠くから響いた。扉を思い切り蹴破ったかのような巨大な物音だ。
 すると今度は足音がつづく。それはこちらへ近づいてきており……なぜかジャンヌの牢獄の前でぴたりと止まった。
 誰だ? なんとか瞼を押し上げるも半開きにしかならない。
 そのわずかな隙間で認められたのは、黒い人影だった。
 線は細い。女か?
 だがいったい誰だ。私は軍に女の知り合いなどいない。
 女が何事か話しかけてくる。だが、聴こえない。
 腕から鉄輪が外されるのが分かった。
 なんだこいつは? 私を助け出そうとしているのか? 馬鹿か、重罪人を助け出すなど間違いなく死罪だ。いったいなにを考えている……。
 空回るジャンヌの疑念をよそに、彼女の体がついに束縛から解き放たれた。
 萎れるように崩折れる体を、女が抱き締める。ほのかに甘い香りが鼻先を霞めた。
 女の肌が目に入る。黒い。自分と同じ褐色だ。
 ―――そのとき、ジャンヌは女の正体に気づいた。
 この香り。この肌。

「……ンヌ、サン」

 そして、かすかに届いた、その涙声。
 最愛の人とようやく巡り逢ったかのように、その抱擁に力がこもる。
 ジャンヌは、それに応えるかのように女の名前を……ただ一人、彼女が心の底から救い出したいと願いつづけた相手の名前を振り絞った。

「……ア、イ……ル?」



 ジャンヌを助け出しにきたのは、アイリーンだった。
 彼女はジャンヌを寝台に寝かせると、その体を綺麗に拭いた。それから彼女の回復を待って持ってきた水と食料を分け与える。そうして一時間ほど経過したところで、ジャンヌはなんとか体を起こすことができる程度には回復した。

「……なんでこんなことをしたんだ?」

 開口一番、ジャンヌが口にしたのは感謝ではなく、彼女を責めるような疑問だった。

「こんなことをすれば、お前が無事では済まないんだぞ。いったいなにを考えている」

 だが、アイリーンはジャンヌの威圧感にまるで屈しなかった。

「……もう待ってるだけなの、イヤなんデス。私のために誰かが命を賭けて、傷ついてくの、見てるダケなの、イヤ。だから決めたんデス。自分の力でデキることヤルって。少しでも自分の力で変えるッテ」

 拙いグランディア語で力強く言い切るアイリーン。その瞳には、いつもベルガの横でびくついているだけの少女からは想像できないほど強い光が宿っていた。
 しかし、ジャンヌの怒りは収まらない。

「そんな理屈がこんな馬鹿なことをする理由になるか! 私を助けた時点でお前は反逆者なんだぞ! これからどうするつもりなんだ!」
「この国を出マス」
「………………は?」

 まるで予期せぬアイリーンの唐突な告白に、ジャンヌは思わず面食らった。

「一緒にグランディア、出まショウ。私が……私タチがジャンヌサンを外まで連れて行きマス。だから安心してクダサイ」
「……ちょ、ちょっと待て。私たちってなんだ? お前いったいなにを……」

 そう尋ねつつも、ジャンヌは薄々感づいていた。
 そもそも、アイリーンが一人でこんなところまで来られるはずがない。

 ……協力者でもいなければ。

 はたして、ジャンヌの予想は当たった。
 ……当たって欲しくはなかった予想が。

「―――船の皆サンも一緒デス。だから、大丈夫デス。きっと」

 笑顔のアイリーンとは逆に、ジャンヌは呆れたように頭を振って真っ先に心中でこう毒づいた。

(……あの馬鹿どもが)



 アイリーンの案内で牢獄の外に出ると、夜空が広がっていた。
 地下二階の牢獄から裏口へ抜け出すまで、驚くほど誰とも会わなかった。アイリーンに理由を尋ねると「見張りサンとかいろんな人が協力してくれてるんデス」とのことだ。奴隷身分の自分に人望などないと思いこんでいたジャンヌにとって、その事実はかなり意外だった。確かに自分の船を降りて海軍関連の施設で働いている人間は大勢いるが。

「……ところで、どこに行くんだ?」
「船デス。皆サンが出発の準備してくれてマス。船を出したら東へ行ってデニス海の船に混ざって援軍のフリして、そのまま大陸の東に出マス。西はまだイグニスの船がたくさんデス」

 アイリーンの先導で闇夜のなかを走るジャンヌ。牢獄は港の外れにあるため、船までの距離はそれほどでもない。だがいまは戦時中のため、昼夜を問わずに警戒が強まっている。
 倉庫群や工廠の陰を巧みに使いながら、二人は第二分隊の船が停泊している埠頭へ向かう。相当念入りに準備したのか、アイリーンの案内は完璧だった。
 そしてついに第二分隊の旗艦に辿り着いた二人。港の連中の目を盗み、足早に旗艦の陰に滑りこむ。そして梯子を急いで駆け上がると、そこには見慣れたクルーたちの姿があった。

「ジャンヌさん! 無事だったんですね!」

 二人の姿を認めて真っ先に駆け寄ってきたのは副長の青年だ。
 しかしその笑顔を見た途端、ジャンヌのなかで溜めこんでいた怒りが爆発した。

「馬鹿かお前たちは! 自分たちがなにをしたか分かっているのか!?」
「静かにしてください。外に聴こえたら洒落になりませんよ」

 だが、彼はまるで堪えない。むしろ再会できて嬉しいのかへらへらしている。
 それを見たジャンヌは、もうなにを言っても無駄だと早々に諦めた。

「……もういい。どいつもこいつも馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさかここまで馬鹿だったとはな」
「大将が馬鹿ですから仕方ないです」
「燃やすぞ」
「ははは」

 副長だけでなくほかのクルーも小声で笑う。どうやら全員、筋金入りの大馬鹿者らしい。
 呆れて溜息を零すジャンヌ。
 だが、彼女はそこで、どうしても気になることを尋ねた。

「……お前たち分かっているのか。国を捨てるということは、家族をこの国に残していくことになるんだぞ。どうするつもりなんだ」

 しかし、その質問も予期していたのだろう。副長の青年は「ああ」と応じると、

「それなら問題ありません。すでにみんな船倉に隠れてますから」
「……は?」
「だから。家族も全員、国外へ逃げるんですよ。今日までのあいだに少しずつこっそり船倉に移住させたんです」

 ジャンヌは空いた口が塞がらなかった。まさかそこまで話が大きくなっているとは思いもしなかった。

「……まぁそういう細かい話は、ちゃんと逃げ切ってからにしましょう。ここまでは上手いこといきましたが、問題はこっからです。まずは無傷でここを出港して、あと追っ手が来ないようにほかの船をすべて潰していかなければなりません」
「…………いいだろう。逃げ切ったあとで全員、徹底的に追及してやるから覚悟しておけ。―――全艦すぐに出られるのか?」
「ええ。一〇隻すべて準備完了です」
「よし。なら伝書矢で『合図』があったら急ぎ出港しろと全艦へ伝えろ。この船は最後に出るから待機だ。あとガネット石を持ってこい」

 ジャンヌの指示を受けて、クルーたちが魔導甲板からガネット石の詰まった鉄製の箱を持ってきた。彼女はそこから腕輪を満載できる分だけ掴み取る。
 そして全艦への連絡が完了すると、ジャンヌは再び梯子を伝い、港へ降りた。
 ―――と。

「……なにをしている。お前は船に乗っていろ」

 なぜか、アイリーンも彼女と一緒に港へ降り立っていた。

「さっき言いましたヨネ? もう待ってるダケなの嫌デス。私も戦いマス」

 笑顔で強気に言い放つアイリーン。
 そんな彼女にジャンヌは聴こえない程度の小声で「こいつも馬鹿だったか……」と溜息混じりの愚痴を零すと、

「……脚を引っ張ったら捨てていくからな」
「ハイ」

 すっと右腕を持ち上げた。
 直後、腕輪に闇夜を切り裂く緋色の輝きが宿る。
 それで一帯の警備兵が不穏な事態を感知したのか、港が次第に慌ただしくなっていった。

「……悪いな。お前たちに恨みはないが……」

 赤々と猛る燐光。渦巻く豪炎。
 港一帯を埋め尽さんと熱気が迸り、そして―――、

緋鳳乃翼エル・カーレイト

 一本の炎槍が放たれ、停泊中の第一分隊の艦船を次々と貫通。一瞬にして爆炎が港を赤々と染め上げ、途端に阿鼻叫喚と怒声が方々から上がった。
 だが、ジャンヌは容赦なく停泊中の艦船や商船へ次々と炎槍を叩きこみ炎上させていく。死者が出ないよう火力を抑えてはいるが、それでも尋常ならざる破壊力だ。
 巡回中の警備兵がジャンヌの仕業だと気づき、直後、彼女に向かって一斉に炎弾が放たれた。
 だが、そのすべてが彼女に直撃する寸前で突如、煙を噴き上げて爆発。
 その後も何十発と立て続けに撃ちこまれるが、ジャンヌには一つも届かない。
 やがて蒸気が晴れると……そこには巨大な氷の壁が立ちはだかっていた。
 それはアイリーンの魔法だった。
 彼女はその髪の色からも自明の通り氷雪系の素養を宿している。その力はあの《白鯨殺し》には遠く及ばないが、並の航戦魔道士がすぐ打ち破れるものでもない。

「私のほうはいい。出港する船の防御に集中しろ」
「分かりマシタ」

 ジャンヌが港の船と港湾施設を次々と破壊し、アイリーンが第二分隊の背面に大量の氷壁を並べる。炎槍を倉庫群に放つと、ガネット石が備蓄されていたのか天を衝く勢いで爆炎が噴き上がった。その火勢に港が一段とパニックに陥る。
 ジャンヌは埠頭を確認する。第二戦隊は旗艦を残して、すでに港を離れていた。

「アイル、もういい! 船に戻れ!」
「ハイ!」

 二人は急いで船まで駆け、そして梯子を登って甲板へ戻る。

「よし出せ! 針路七〇度! スパンカーブーム、ホールイン!」

 号令を受けて旗艦は港を出港。北西から吹きつける追い風を受けて、その速力を徐々に上げていく。
 見張りが叫んだのは、そのときだった。

「―――ッ! ジャンヌさん! 誰かが巨大な炎弾を練ってる! 崖の上だ!」

 咄嗟に後ろを振り返るジャンヌ。
 すると、港の両脇を固めるように聳える断崖の上に太陽のように巨大な炎弾が浮かんでいた。

(……ベルガのやつか)

 騒動を聴きつけて出てきたのだろう。ベルガは炎系の航戦魔道士のため上級航戦魔道士ではないが、天性のマナの総量とその扱いに秀でており、魔道士としての実力だけなら超一流だ。

「ジャンヌさん! 下がってクダサイ!」

 咄嗟にアイリーンが海面にマナで干渉し、船の前に分厚い氷壁を何枚も生み出す。
 ―――だが、直後に撃ち出されたベルガの炎弾が衝突し……一秒も保たずにすべてが蒸発した。

「……エ」

 絶句するアイリーン。
 炎弾はすぐ目の前まで迫っていた。
 ―――だが、旗艦には届かなかった。
 氷壁を突破した直後に炎弾は豪快に破裂。
 ジャンヌが放った炎槍が炎弾を貫いたのだ。
 数百に及ぶほどの火の粉が天から港へ降り注ぎ、港の喧騒を一段と高める。

「無理をするな。お前にはまだ無理だ」
「ハ、ハイ……」

 そのまま旗艦は沖へ出て、ほかの船と合流。第二戦隊はついに全艦が沖へ出た。

「……だがまぁ、よくやってくれた。……ありがとう」

 落ちこむアイリーンの頭を照れ臭そうに撫でるジャンヌ。アイリーンはそれが嬉しかったのか、こどものように「へへへ」と愛らしく微笑んだ。

 ―――そして、第二戦隊は針路を東へ取る。



 決死の逃避行が始まった。
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