本編

 ―――船が転覆した。
 そう気づいたときには、すでに手遅れだった。

「ご、ごぼっ! ば、ばべっ……が……っ!」

 少年の体は傾く船体から為す術なく海に落ち、一瞬で海面から数メートルの深さにまで引きずりこまれた。咄嗟に助けを求めた叫びも飲みこんだ海水に押し戻され、そのまま水が肺へ入ったのか、想像を絶する激痛が全身を駆け巡る。
 やばい―――そう思って必死に藻掻くも、体はどんどん海中を沈んでいき、やがて、その視界が端から闇に侵食されていく。足掻いていた手足もついに力尽き、もはや指一本も動かせなくなった。

(……い、い……や、だ……)

 そして、最後に残された意識の欠片が押し寄せる死の恐怖に呑まれた瞬間、その瞳は光を失い……、
 少年―――加賀大和の体は、静かに、海底へと落ちていった。



 ―――その手を誰かが握ったことに、彼はもちろん気づかなかった。



     ⚓



 2018年、夏、某日。
 その日、神奈川県で全国的なニュースとなった「ある事件」が起こった。
 横浜港で開催されていた帆船《海成丸》の試乗イベント中、参加者23名と乗組員を乗せた同船が突如、その行方を眩ましたのだ。
 乗員乗客は漏れなく行方不明。捜査当局は、なんらかの原因で《海成丸》が沈んだ事故と見て港の近海をくまなく調査した。
 だが、何日かけても行方不明者どころか、その巨大な船体さえ発見することができなかった。
 その後も懸命の捜索が続いたが、事件は一向に解決の兆しを見せなかった。

 そんな、当局の捜索に一抹の虚しさが漂い始めた、ある日のこと。
 インターネットの片隅、とある巨大掲示板のスレッドに、この事件をまったく違う角度から切り取るものたちが現れた。
 彼らは、こう書きこんだ。
《海成丸》は沈んだのではない。
 消えたのだと。
 まるで神隠しのような現象に巻きこまれ、忽然と姿を消したのだ、と。
 それはさながら《魔の三角地帯》を彷彿とさせる荒唐無稽な与太話だった。
 だが、その仮説は世に知れ渡った途端、意外なほどの信憑性をもって世間に浸透していった。事件当時の状況に「消えた」と解釈するほうが都合の良い材料が揃っていたからだ。
 この説を面白がってか、やがて「横浜港沖には異世界への入口があるに違いない」などと主張するものも現れ出し、ついには自らの人生を憂いた二次元中毒者が異世界召喚を夢見て海に潜ったという、冗談にしても阿呆らしい実話まで出回り始める。
 ―――しかし、どんな事件もいつかは忘れ去られるもの。
 発生当時はわりと騒がれた《海成丸》神隠し事件も、ひと月もすると人々の記憶から完全に消え去った。異世界への召喚を夢見ていた二次元中毒者たちの夢は当然かなわず、彼らもあっさりと普通の日常生活へと戻っていった。
 事件はそのまま迷宮入りが確実となった。



     ⚓



 ―――加賀大和は、そんな忘れ去られた犠牲者の一人だ。
 年齢は18歳。職業はフリーター。四人家族の長男として生まれ、小中高とどこにでもある平凡な人生を送ってきた。率先して善行を重ねる性格ではなかったが、逆に悪いことも一切せず、素行はいたって普通。学業も運動も平均付近を上下するばかりで、先生の覚えは良くも悪くもなかった一方、手を煩わせることもなかった。
 唯一、他人に迷惑をかけたことといえば、高校を卒業後にフリーターになったことくらいだろう。向学心も向上心もなかったため、大学進学も就職も端から選択肢になかったのだ。しかし、それとてべつに悪事ではない。
 そんな、およそ溺死という悲惨な最期を迎えるべき悪逆非道ではなかった大和だが、どうやら神様は存外に気まぐれだったようで、彼に苦しい最期を用意していた。
 ―――あの日、大和は《海成丸》の試乗イベントに参加していた。それは彼の唯一の趣味だった。
 中学時代にある帆船漫画と出逢って以来、その魅力にやられた彼は、帆船や海戦にどっぷりはまった。高校時代の愛読書はコーベットの『海洋戦略の諸原則』。あえてマハンを選ばないあたりが、いかにも通を気取りたい捻くれた若者という感じだ。
 そして、その日は彼にとって、人生で初めて帆船に乗った記念すべき日となり……同時に命日ともなってしまった。

 ……おそらく、事件の報道で彼を知った誰もが、そう思っただろう。

 ―――もし。
 そんな彼のいまの行方を、かの二次元中毒者たちが知ったら、彼らはいったいなにを思うだろうか。



 ―――大和が、彼らの言う《異世界》へ、本当に降り立っていたのだと知ったら。
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