本編
ギルヴァンティでの任務を終えた大和たちはランドエンドへ戻り、しばしの休暇に入っていた。第一一戦隊はこれまで三ヶ月以上まともに休んでいなかったらしく、久しぶりの長期休暇だそうだ。ちなみに彼女が離れたギルヴァンティには今、エルヴィンの戦隊が派遣されている。
休暇中、大和は毎日のようにレイナの家の図書室に顔を出していた。しばらくここで暮らさなければならない以上、この世界についてもっとよく知っておこうと勉強を始めたのだ。
「それは『雨』ですね。神が千日にわたって雨を降らせたと書いてあります」
「な、なるほど」
だが、言葉が分からなければ本も満足に読めない。そういうわけで、まずはレイナに頼み、この国の言語―――イグニス語について教わっている。話せはするが、文字がわからないので、読み書きは欠片もできなかった。
正直この歳で言葉を手取り足取り教えてもらうのはかなり恥ずかしかったが、この世界で自分は赤子同然なのだと割り切った。生きていくには恥など邪魔なだけだ。
いまは、この国の誰もが幼少期にふれる『創海記』という神話の絵本をもとに、基本的な単語や文法について習っていた。これはノアの方舟に瓜二つの物語で、神の怒りを買った人類が大洪水で地上から洗い流された歴史を戒めている。ちなみにいま読んでいるページには、まさに平らな大地から人類が洪水で押し流される瞬間の挿絵があった。どうやらこの世界はまだ地動説で動いているらしい。
「えっと……雨を降らせた……そして、人々は……水に流されて……」
「そこは『大洪水』ですね。『水』の複数形は強調詞がつくことで『洪水』を意味します」
「あ、はい。……大洪水に流されて……大地から落ちてしまった」
そこで見開き一ページの文章が終わった。と言っても、中学レベルの英語の教科書くらいしか文量がない。それでも時計を見ると、すでに勉強を始めてから一時間が経過していた。
「ここまでは大丈夫そうですね。では少し休憩にしましょう。また一五分後に再開しますね」
「ひぇぇ……」
疲れ切った大和は思わず机に突っ伏した。頭が完全に茹だっており、これ以上なにも考えたくない。
一方のレイナは、心なしか楽しそうだ。他人にものを教えるのが好きなのか、それともややSっ気があるのか……。
「……レイナさま。お茶です」
ちょうど良いタイミングでティオがティーセットを持って入ってきた。先の海戦で受けた負傷も帰国後の治療で完治しており、いまはすっかり元気だ。
「ああ、ありがとうございます。私は少し席を外すので、ヤマトさんに差し上げてください」
レイナが部屋を出ていくと、ティオが彼女の指示どおり、お茶を用意してくれた。
「……どうぞ」
「あ。ありがとうございます」
頭を上げてお礼を述べる大和。だが、遠慮なく口にすると……、
「苦ッ!?」
それは思わず咽るほど、とんでもなく苦い紅茶だった。
「ティ、ティオさん……イグニスのお茶って、こんなに苦いんですか?」
咳きこみながら尋ねる大和。
すると、ティオはぷいと無言無表情で顔を右に背けた。なんと嘘の下手な子なんだろうか。
「……ティオさん?」
彼女の正面に回りこむ大和。すると今度はぷいと左を向いた。すかさずそちらへ回りこむとまた右。そして左。徹底して知らぬ存ぜぬを決めこむつもりのようだ。
「二人ともなにをしているんですか?」
戻ってきたレイナが不思議そうに尋ねる。端から見るとさぞ妙な二人に見えたことだろう。
「……ちょっと遊んでただけです」
「あっ!」
レイナに告発してやろうと思っていた大和だったが、先を越されてしまった。
「……めずらしいですね。ティオがほかの人と遊ぶなんて。いつの間にそんなに仲良くなったんですか? まぁいいことですけど」
レイナは嬉しそうに笑った。それを見た大和は、彼女の笑顔を崩したくないという思いに負けて、告発する気を挫かれてしまった。
鼻歌を奏でながら自分のお茶を用意するレイナ。
―――そのとき、隣でティオがぼそりと呟いた一言から、大和は彼女が悪行に及んだ理由を知ることになる。
「……独り占め、ずるい」
それは思わず呆れるほど、なんとも間の抜けた愛らしい理由だった。
⚓
そして、しばしの休憩時間も終わろうかというときだった。
「レイナさん、失礼します。よろしいですか?」
メルティが図書室に姿を見せた。
「メルティさん、どうしたんですか?」
「来客です。カタリナを応接間で待たせています」
「カタリナさんが? ……わかりました。すぐに行きます」
「はい。あと、ヤマトさんにもご同席してほしいと言っています」
「え……僕ですか?」
海軍のトップが一般人を直々に呼び出すとは、いったいなんの用件だろうか。大和は疑問に思ったが、その狙いはすぐに検討がついた。
おそらく彼女は、レイナのブレーンとしての自分の存在に感づいているのだ。
面会したい理由は、次なる一手を引き出すためか、あるいは素性確認か……どちらにしても、昼下がりの穏やかな世間話で済まないことだけは確かだろう。
「大丈夫ですよ、ヤマトさん」
大和の様子から彼の不安を察したのか、レイナはそう口にした。彼は決意を表明するように無言で頷き返すと、図書室を出るレイナにつづいて応接間へ向かう。
中へ入ると、あのとき軍議で見かけた一人の女性がソファに座っていた。
(あの人が……)
―――カタリナ・コールドウェル。イグニス海軍総司令官にして、ただ一人、雷光系のマナを宿したイグニスが誇る最強の航戦魔道士。
「久しぶりね、レイナ。元気そうでなによりだわ」
大和たちの入室に気づいたカタリナが、母性的な微笑みを浮かべて立ち上がり、こちらへ近づいてきた。
「い、いえ。カタリナさんも、その……お元気そうでなによりです」
一方のレイナは、トップ直々の訪問に緊張しているのか、態度がややぎこちない。
(軍議の場であれだけ堂々と話してたのに……なんか意外だなぁ)
だが、そんな大和の疑問は、あっさりと吹き飛んだ。
「それにしても……あーもう! 相変わらずかわいいわねーレイナー!」
カタリナがいきなりレイナに抱きついたのだ。
あまりに突然の展開に、茫然と立ち尽くす大和。
「ちょ……カタリナ、さん……落ち着いてください……」
「一ヵ月前はまともに話もできなかったけど、この一年でほんとさらに可愛くなったわねー。特にこことか」
「ど、どこ触ってるんですか!?」
「むね♪」
「い、いえ、なんでそんな当たり前みたいに……」
「むんぎゅ~♪」
「ちょ、止めてくださいっ!」
「ホント大きくなったわねー。まえはもうちょっと手に収まったのに」
「い、いったいなんの話をして……だ、だから、やめてくださいって!」
騒がしく盛り上がる二人の様子を、口をあんぐり開けたまま唖然と眺める大和。すると、ついてきていたティオがその理由を説明してくれた。
「……カタリナさんは可愛いものが大好き。可愛い動物や可愛い人や可愛いものを見かけると見境なく手を出しちゃう」
「……セクハラ魔ってことか」
「……特にレイナさまの私服姿が大好き」
「……はぁ」
もはや呆れることしかできない。
(……まぁ、たしかにレイナさんの私服姿は可愛いけど)
ちらりとレイナを見やる大和。いまの彼女は長袖のインナーの上に空色のワンピースという、普段の制服姿とは真逆の女の子らしい格好だった。その可憐な姿を初めて目にしたとき、大和は思わず言葉を失うほど見惚れたのを鮮明に覚えている。
―――そのとき、部屋に一陣の風が走った。
(……え?)
いったい何事か。大和がそれに気づいたときには、すでに事は起こっていた。
一瞬のうちに、カタリナが地面にうつ伏せに組み伏せられていたのだ。
メルティによって。
「私がちょっと見ないうちにずいぶん勝手な真似するようになったわねぇ、カタリナァ! いったい誰がレイナさんに抱きついていいなんて許可だしたのかしらぁぁあぁぁッッッ!?」
「せ、せせせ先輩その角度無理無理無理! 折れる折れる折れる折れる!」
「当然じゃない折る気満々なんだからねぇッ!」
「いいいい痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
大和は事態が落ち着くまで、とりあえずじっと待つことにした。
休暇中、大和は毎日のようにレイナの家の図書室に顔を出していた。しばらくここで暮らさなければならない以上、この世界についてもっとよく知っておこうと勉強を始めたのだ。
「それは『雨』ですね。神が千日にわたって雨を降らせたと書いてあります」
「な、なるほど」
だが、言葉が分からなければ本も満足に読めない。そういうわけで、まずはレイナに頼み、この国の言語―――イグニス語について教わっている。話せはするが、文字がわからないので、読み書きは欠片もできなかった。
正直この歳で言葉を手取り足取り教えてもらうのはかなり恥ずかしかったが、この世界で自分は赤子同然なのだと割り切った。生きていくには恥など邪魔なだけだ。
いまは、この国の誰もが幼少期にふれる『創海記』という神話の絵本をもとに、基本的な単語や文法について習っていた。これはノアの方舟に瓜二つの物語で、神の怒りを買った人類が大洪水で地上から洗い流された歴史を戒めている。ちなみにいま読んでいるページには、まさに平らな大地から人類が洪水で押し流される瞬間の挿絵があった。どうやらこの世界はまだ地動説で動いているらしい。
「えっと……雨を降らせた……そして、人々は……水に流されて……」
「そこは『大洪水』ですね。『水』の複数形は強調詞がつくことで『洪水』を意味します」
「あ、はい。……大洪水に流されて……大地から落ちてしまった」
そこで見開き一ページの文章が終わった。と言っても、中学レベルの英語の教科書くらいしか文量がない。それでも時計を見ると、すでに勉強を始めてから一時間が経過していた。
「ここまでは大丈夫そうですね。では少し休憩にしましょう。また一五分後に再開しますね」
「ひぇぇ……」
疲れ切った大和は思わず机に突っ伏した。頭が完全に茹だっており、これ以上なにも考えたくない。
一方のレイナは、心なしか楽しそうだ。他人にものを教えるのが好きなのか、それともややSっ気があるのか……。
「……レイナさま。お茶です」
ちょうど良いタイミングでティオがティーセットを持って入ってきた。先の海戦で受けた負傷も帰国後の治療で完治しており、いまはすっかり元気だ。
「ああ、ありがとうございます。私は少し席を外すので、ヤマトさんに差し上げてください」
レイナが部屋を出ていくと、ティオが彼女の指示どおり、お茶を用意してくれた。
「……どうぞ」
「あ。ありがとうございます」
頭を上げてお礼を述べる大和。だが、遠慮なく口にすると……、
「苦ッ!?」
それは思わず咽るほど、とんでもなく苦い紅茶だった。
「ティ、ティオさん……イグニスのお茶って、こんなに苦いんですか?」
咳きこみながら尋ねる大和。
すると、ティオはぷいと無言無表情で顔を右に背けた。なんと嘘の下手な子なんだろうか。
「……ティオさん?」
彼女の正面に回りこむ大和。すると今度はぷいと左を向いた。すかさずそちらへ回りこむとまた右。そして左。徹底して知らぬ存ぜぬを決めこむつもりのようだ。
「二人ともなにをしているんですか?」
戻ってきたレイナが不思議そうに尋ねる。端から見るとさぞ妙な二人に見えたことだろう。
「……ちょっと遊んでただけです」
「あっ!」
レイナに告発してやろうと思っていた大和だったが、先を越されてしまった。
「……めずらしいですね。ティオがほかの人と遊ぶなんて。いつの間にそんなに仲良くなったんですか? まぁいいことですけど」
レイナは嬉しそうに笑った。それを見た大和は、彼女の笑顔を崩したくないという思いに負けて、告発する気を挫かれてしまった。
鼻歌を奏でながら自分のお茶を用意するレイナ。
―――そのとき、隣でティオがぼそりと呟いた一言から、大和は彼女が悪行に及んだ理由を知ることになる。
「……独り占め、ずるい」
それは思わず呆れるほど、なんとも間の抜けた愛らしい理由だった。
⚓
そして、しばしの休憩時間も終わろうかというときだった。
「レイナさん、失礼します。よろしいですか?」
メルティが図書室に姿を見せた。
「メルティさん、どうしたんですか?」
「来客です。カタリナを応接間で待たせています」
「カタリナさんが? ……わかりました。すぐに行きます」
「はい。あと、ヤマトさんにもご同席してほしいと言っています」
「え……僕ですか?」
海軍のトップが一般人を直々に呼び出すとは、いったいなんの用件だろうか。大和は疑問に思ったが、その狙いはすぐに検討がついた。
おそらく彼女は、レイナのブレーンとしての自分の存在に感づいているのだ。
面会したい理由は、次なる一手を引き出すためか、あるいは素性確認か……どちらにしても、昼下がりの穏やかな世間話で済まないことだけは確かだろう。
「大丈夫ですよ、ヤマトさん」
大和の様子から彼の不安を察したのか、レイナはそう口にした。彼は決意を表明するように無言で頷き返すと、図書室を出るレイナにつづいて応接間へ向かう。
中へ入ると、あのとき軍議で見かけた一人の女性がソファに座っていた。
(あの人が……)
―――カタリナ・コールドウェル。イグニス海軍総司令官にして、ただ一人、雷光系のマナを宿したイグニスが誇る最強の航戦魔道士。
「久しぶりね、レイナ。元気そうでなによりだわ」
大和たちの入室に気づいたカタリナが、母性的な微笑みを浮かべて立ち上がり、こちらへ近づいてきた。
「い、いえ。カタリナさんも、その……お元気そうでなによりです」
一方のレイナは、トップ直々の訪問に緊張しているのか、態度がややぎこちない。
(軍議の場であれだけ堂々と話してたのに……なんか意外だなぁ)
だが、そんな大和の疑問は、あっさりと吹き飛んだ。
「それにしても……あーもう! 相変わらずかわいいわねーレイナー!」
カタリナがいきなりレイナに抱きついたのだ。
あまりに突然の展開に、茫然と立ち尽くす大和。
「ちょ……カタリナ、さん……落ち着いてください……」
「一ヵ月前はまともに話もできなかったけど、この一年でほんとさらに可愛くなったわねー。特にこことか」
「ど、どこ触ってるんですか!?」
「むね♪」
「い、いえ、なんでそんな当たり前みたいに……」
「むんぎゅ~♪」
「ちょ、止めてくださいっ!」
「ホント大きくなったわねー。まえはもうちょっと手に収まったのに」
「い、いったいなんの話をして……だ、だから、やめてくださいって!」
騒がしく盛り上がる二人の様子を、口をあんぐり開けたまま唖然と眺める大和。すると、ついてきていたティオがその理由を説明してくれた。
「……カタリナさんは可愛いものが大好き。可愛い動物や可愛い人や可愛いものを見かけると見境なく手を出しちゃう」
「……セクハラ魔ってことか」
「……特にレイナさまの私服姿が大好き」
「……はぁ」
もはや呆れることしかできない。
(……まぁ、たしかにレイナさんの私服姿は可愛いけど)
ちらりとレイナを見やる大和。いまの彼女は長袖のインナーの上に空色のワンピースという、普段の制服姿とは真逆の女の子らしい格好だった。その可憐な姿を初めて目にしたとき、大和は思わず言葉を失うほど見惚れたのを鮮明に覚えている。
―――そのとき、部屋に一陣の風が走った。
(……え?)
いったい何事か。大和がそれに気づいたときには、すでに事は起こっていた。
一瞬のうちに、カタリナが地面にうつ伏せに組み伏せられていたのだ。
メルティによって。
「私がちょっと見ないうちにずいぶん勝手な真似するようになったわねぇ、カタリナァ! いったい誰がレイナさんに抱きついていいなんて許可だしたのかしらぁぁあぁぁッッッ!?」
「せ、せせせ先輩その角度無理無理無理! 折れる折れる折れる折れる!」
「当然じゃない折る気満々なんだからねぇッ!」
「いいいい痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
大和は事態が落ち着くまで、とりあえずじっと待つことにした。