本編
それは誰もが予想していなかった言葉だろう。
この軍議は北岸に集結しているグランディア海軍への対処を議論している。それにもかかわらず、レイナが打ち出したのは南岸、リディア海の入口に当たるギルヴァンティへ戦隊を派遣するという一手だったのだから。
「……あんた、自分がなに言ってるか分かってるわけ?」
当然のように、クローディアが食ってかかる。
「もちろんです」
「だとしたら、ずいぶんと頭がお花畑みたいね。軍議の邪魔だから出てってくれないかしら」
「それはできません」
「は?」
「それでは、イグニスが敗北してしまいます」
その挑発めいた一言に、クローディアの眉根がぴくりと震えた。
「……それは私に喧嘩を売ってると取っていいのよね?」
「私は事実を言ったまでです」
「ふ……ッ、ざけんじゃないわよッッッ!」
瞬間、クローディアは両手をテーブルに激しく叩きつけ、怒りに任せて立ち上がった。大和をはじめその場にいた一同が恐怖にびくりと肩を震わせる。動じなかったのは座っている三人とフレイアだけだ。
「……意味不明な戦略ぶちあげたかと思いきや、言うにこと欠いて、このままだとイグニスが敗けるですって? ぽっと出てきてたいした実績もないくせに提督の座についたり、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのかしらねぇあんたはぁあッ!?」
いまにもレイナに殴りかかりそうな剣幕のクローディア。しかし、レイナは瞳を閉じたまま微動だにしない。
その態度が火に油を注いだのか、
「……あぁもう限界。一度でいいからそのすかした横っ面を一発ぶん殴ってやりたいと、ずっと思ってたのよね。いまこの場でその首から上、ふっ飛ばしてやるわ」
言い終わると同時にクローディアはレイナに向かって一歩を踏み出した……が、
「座りな、クローディア。軍議中だよ」
彼女の正面に《いつの間にか》フレイアが立ちはだかった。あまりに一瞬のことで、大和には彼女がいつ動いたのかもわからなかった。
「これが黙ってられることだと思いますか!? そもそもこんな女、ここにいること自体、間違って……ッ!」
「聴こえなかったのかい? あたしは座れと言ったんだ」
その穏やかな口調とは裏腹に、クローディアと対峙するフレイアの眼光はまるでいまにも獲物を食い殺さんとする獅子そのものだった。
「……は、はい」
一度は牙を向いたクローディアも、その気迫に負けて大人しく席についた。
(……こ、こわ)
一触即発の事態がようやく収まり、大和は思わず大きく息を吐き出す。
「レイナ」
場の雰囲気が落ち着くと、それまで沈黙を守っていたカタリナが口を開いた。
「クローディアの肩を持つわけではないけど、私にもあなたの狙いが理解できないわ。ギルヴァンティを押さえることで、いまのこの状況がどう変わるの?」
この場の誰もが同じ疑問を持っていたのだろう。全員の視線が改めてレイナに集中する。
大和は息を呑んだ。
「―――それは」
そしてレイナは、彼が授けた戦略を一同に向かって語り始めた。
⚓
「……よかったのかい?」
軍議が終わって人気がなくなった会議室にカタリナとフレイアの姿だけがあった。カタリナは部屋の窓を開けて外の様子を眺めており、フレイアはその隣で硝子窓に背中を預けている。
「なにが?」
「今回の決定さ。たしかにアイデアは斬新で面白いし、戦略的にも理に適っていた」
「なら問題ないでしょ?」
幼馴染のフレイアに話しかけるカタリナの口調は、レイナたち三人に対するものよりもかなり砕けていた。
「ならいいけど……。それにしてもレイナのやつ、いったいなにがあったんだか。一ヶ月前とはまるで別人だ」
「……たぶん後ろにいた男の子の入れ知恵じゃないかしら」
「あの新顔?」
「ええ。ティオにあそこまでの戦略眼があるとも思えないし……。誰かはわからないけど、レイナが近くに置くくらいだから、よほどのものを持ってるんでしょうね」
「それほどのやつには見えなかったけどね。軟弱で気も弱そうだったし、クローディアが怒り出したときはずっとびくびくしてたし。……それよりいいのかい?」
「なにが?」
「もし本当にそこまで軍略に長けているやつだとすれば、よその海軍の人間だって可能性もある。あるいは間者かもしれない。最初からうちにいれば、いままで目につかないはずがないからね」
「そこに考えが及ばないほど、馬鹿な子じゃないわ。大丈夫よ、きっと」
「きっと、って……。相変わらず適当だね」
呆れるフレイアに、カタリナは無言で微笑む。
「……しかし、クローディアとエルヴィンからすれば、面白くないだろうね。あの二人は明らかにレイナをライバル視してる。仕方ないと言えば仕方ないし、実戦に影響が及ばない限りはむしろ良いことなんだけど……」
「あの二人の考えも、大筋では正しいわ」
「じゃあ、なんでレイナの話に乗ったんだい?」
「私が求めてるのは、《この戦争に勝てる》戦略よ。あの二人にはそこが足りなかった。レイナの戦略だけが唯一、将来的な勝利を予感させてくれたのよ」
「なるほどね。まあ、勘の鋭いあんたが言うならそうなんだろうさ。……さて。それじゃあ、あたしは腐ってる二人のフォローにでも行ってくるかね」
「……悪いわね。いつも厄介事ばかり」
「それが仕事だよ。文句なんか言わないさ」
フレイアは窓際を離れ、扉へ向かう。
「……わたし、間違ってると思う?」
彼女の背中に、カタリナが振り返ることなく、呟くように尋ねる。
まるで「お前は間違っていない」と、そう言ってほしがるように。
フレイアは、その足を止めた。
「そうやって、決断の根拠をあたしに委ねる癖、止めろって言ったはずだよ」
「……そうだったわね。ごめんなさい」
「すべてを決めるのが、あんたの仕事だ。そしてあたしたちは、あんたが決めたその道を切り拓く剣。不可能を可能にする剣だ。だからあんたの決断は、あたしたちがいる限り決して間違わない。それがイグニス海軍だ。―――黙って見てな」
そう言い残して、フレイアは振り返ることもなく、部屋を後にした。
静まり返った会議室。
一人残されたカタリナは、その言葉に自然と頬を緩めた。
「……ありがとう」
⚓
翌朝から、イグニス海軍はレイナの戦略のもとで動き始めた。
彼女の戦隊も出港の準備を急いでおり、いまはクルーたちが荷樽をせっせと船に積みこんでいる。大和も最初は手伝おうとしたが、あまりに非力で邪魔にしかならず、いまは港の端に胡座をかいて大人しく出港を待っていた。
(……でも、ほんとに通るなんて)
そうして特にすることもない彼はいま、昨日の軍議について考えていた。
まさかただの高卒が趣味で身につけた知識が正規の海軍に採用されるなどとは思いもよらなかった。いくら知識格差があるとはいえ、正直かなり驚きだ。
そして……通ってしまった以上、もう本当に後戻りはできない。
そう思うと、一度は決めたはずの覚悟が揺らぎかけるのを大和は感じた。
―――手が震えてくる。
(……は、はは。どこの世界にいても、同じだなぁ……)
両手を眺めながら、思わず自嘲する大和。
いつもそうだった。自分はいざというときになって意気地がなくなり、いろんなことから逃げ出してきた。高校卒業後のアルバイトの面接ですら、当日になぜか不安になってボイコットしたことも一度や二度じゃない。その程度の人間が戦争の恐怖と向き合うなど、土台無理な話だ。
「ヤマトさん、準備ができましたので……ヤマトさん?」
呼びに来たレイナが、彼の様子を見て不思議そうに立ち止まる。
「……どうされたんですか?」
「あ、ああ、いえ……なんでもありません」
手の震えを必死に抑えながら、大和は笑顔で答える。だが、自分でも引きつっているのがわかるくらい不器用な笑顔だった。
レイナはしばし大和の様子を不思議そうに眺めていたが、すぐにその裏に潜む彼の本心に気づいたのだろう。
そっと彼に近づくと、その手を祈るように握り、
「大丈夫ですよ」
そう笑顔で口にした。
その温もりを感じて、震えが少しだけ収まった。
「さぁ。行きましょう」
「は、はい」
そして大和は彼女に引かれるがまま立ち上がり、船に向かって歩き出した。
⚓
「入るぞ」
ジャンヌはノックもなしに、扉を開けた。
そこはギルヴァンティにあるグランディア海軍の臨時支部の一室だ。もともとエメラダ海軍の施設だったが、同地をグランディアが領有して以降は、彼女たちが利用している。
そして彼女がいま入ったのは、かつて当地の戦隊の司令室だった部屋だ。
「来たか。金は持ってきたんだろうな」
つまり、なかで待っているのはベルガだ。彼はいま部屋の奥にある執務机に座っていた。上層部からの指令書だろうか、なにやら手紙に目を通していたようだ。
そして、その隣には一人の少女が立っていた。
ジャンヌと同じ褐色の肌に透き通るような短い白髪。その服装は上物の絹によるドレス調の服で、まるで妖精の羽衣を思わせるように幻想的だった。
だが、そんな彼女の表情はなぜか浮かない。いや、怯えていると言ってもいい。
その理由は、ベルががいま口にした「金」にあった。
「……ああ」
ジャンヌは持っていた革袋を机の上に投げつけた。ベルガはそれを手に取ると口の紐を解いて逆さにする。すると中から、大量の銀貨が転がり出てきた。
「これで残り一五〇フラン銀貨だ。払い終えたらアイルは私が預からせてもらう」
「かまわねぇよ。払い終えればな」
そう。ベルガの隣に立つ少女―――アイルことアイリーン・パウラは、彼専属の奴隷だった。私掠船を率いていた時分に彼が捕らえたのだ。
ジャンヌにはこれが許せなかったのだが、私掠行為は皇帝が許可した船に限っては正当な行為だ。そのため、アイリーンはいまでも彼の「所有物」として皇帝によって保証されている。
そこでジャンヌは、彼女を「買う」ことで救おうとしているのだ。
だが、今日の本題はこの銀貨の受け渡しではなかった。
「……で。用件はなんだ」
ベルガはジャンヌに、読んでいた手紙を投げて寄越す。
「イグニス海峡の近海で監視にあたっていた哨戒艇から急送公文書が届いた。連中、どうやらランドエンドの四戦隊のうち二つを東へ向かわせたそうだ。おそらくスピットファイアへ合流させるためだろう。だが、それと同時にもう一つ、べつの戦隊をなぜか南へ向かわせたっつぅ妙な報告が入った。上はその狙いを見極めて対策を講じろだとよ」
「お前の仕事だろ」
「てめぇの仕事でもある。それに、てめぇは俺がいねぇと上に評価されねぇぞ。こいつを買い戻すことができなくなってもいいのか?」
「評価なんざどうだっていい。私が戦略を提案したところで、どうせ上にはお前が全部考えたと報告してるんだろうが」
「俺の評価は戦隊の評価だ。稼ぎたいなら素直になるんだな。奴隷身分で成り上がったてめぇの意見なんざ、俺を通さない限り採用されない。てめぇは俺がいない限り、グランディア海軍で生きていけねぇんだよ」
彼の暴言に、ジャンヌは拳を必死に握り締め、いまにも殴りかかってしまいそうな怒りを抑えこんだ。だが、悔しいがベルガの言うとおりなのも事実だ。
(……グランディア海軍の上層部は陸軍から左遷されたやる気も実力もないくせに虚栄心だけは一人前の屑ばかりだ。そんな連中に戦争を任せていたら海軍は間違いなく滅ぶ。……だが、奴隷身分の私が戦略を提案したところで連中は絶対に認めない。ベルガがいない限り……)
だからこそ、ジャンヌはこれまでベルガの口を通じて海軍上層部にその戦略を採用させてきた。彼は口が上手いのか、上層部の覚えが非常に良い。もっとも、裏で娼婦や奴隷を融通しているからだとの黒い噂もあるのだが……。
「で? てめぇの意見は?」
すべてこの男の掌の上だと思うと、無力な自分に無性に腹が立ってくる。だが、いまはそんな場合ではないと自分に必死に言い聴かせた。
「……連中も馬鹿じゃないということだ。おそらくこっちの狙いに気づいたやつがいるんだろう。それだけのことだ」
「こっちの狙いが本土侵攻じゃないことに気づいたってのか?」
「いや。スピットファイアに戦隊を集めているんなら、その可能性も考えての再編成だろう。こっちにいますぐ本土を侵攻する気がなくても、向こうにはあるように見える。なにせ南岸主力のツィーロン戦隊の半数以上がブレストウッドに合流したんだからな」
「だが二隊を東へ、もう一隊を南へやったなら、ランドエンド周辺の防衛にあたる戦隊が一つしか残らねぇ。それで十分なわけがねぇってことは連中もわかってる。ってことは、なにか企んでるはずだ」
「ギルヴァンティさえ落とせば、いまうちが握っている主導権を奪うことができる。それで少なくとも戦況をグランディア優位から膠着状態に戻すことが可能だ。とりあえずはそこまで押し戻したいんだろう」
「危険を承知で、ここを潰しにくるってことか。ならこっちはどう出る?」
少しは自分で考えろと言いたかったが、ジャンヌは敢えて呑みこんだ。
「……やることは変わらない。まず相手の出方を見る。東に隙ができれば、陸軍をバルティア海から揚陸。西に隙ができれば、ランドエンド戦隊を撃滅。正面から来るなら、これを迎え撃つ。この場合、ブレストウッドかブロントに蓋をされたら、可能ならもう片方が敵戦隊を撃滅。両方に蓋をされた場合は、ただ黙っていればいい。どちらも動けず睨み合いになるだけだから、損をするのは向こうだ。大陸の戦争は現状、グランディア有利だし、物資もある程度なら陸路でなんとかなるからな。いずれにしても、こっちが優位にある以上、重要なのは攻め急がず反撃に徹することだ」
「……いいだろう。上の連中にはそれで納得させる。てめぇは準備にかかれ。明後日には出る」
「……ふん」
鼻を鳴らして踵を返すジャンヌ。
部屋を出る直前、一度だけアイリーンのほうを振り返った。彼女は無言を貫いていたが、その視線は明らかになにかを懇願している。だが、ジャンヌと目が合うと、その気持ちを察せられるのを避けたのか、気不味そうに視線を逸らした。
(……待っててくれ、アイル。あと少しだから……)
悔しさを奥歯で噛み潰しながら、ジャンヌは無言で部屋を後にした。
―――そして、九月二九日。
後世、ギルヴァンティの海戦と呼ばれる世紀の一戦が勃発した。
この軍議は北岸に集結しているグランディア海軍への対処を議論している。それにもかかわらず、レイナが打ち出したのは南岸、リディア海の入口に当たるギルヴァンティへ戦隊を派遣するという一手だったのだから。
「……あんた、自分がなに言ってるか分かってるわけ?」
当然のように、クローディアが食ってかかる。
「もちろんです」
「だとしたら、ずいぶんと頭がお花畑みたいね。軍議の邪魔だから出てってくれないかしら」
「それはできません」
「は?」
「それでは、イグニスが敗北してしまいます」
その挑発めいた一言に、クローディアの眉根がぴくりと震えた。
「……それは私に喧嘩を売ってると取っていいのよね?」
「私は事実を言ったまでです」
「ふ……ッ、ざけんじゃないわよッッッ!」
瞬間、クローディアは両手をテーブルに激しく叩きつけ、怒りに任せて立ち上がった。大和をはじめその場にいた一同が恐怖にびくりと肩を震わせる。動じなかったのは座っている三人とフレイアだけだ。
「……意味不明な戦略ぶちあげたかと思いきや、言うにこと欠いて、このままだとイグニスが敗けるですって? ぽっと出てきてたいした実績もないくせに提督の座についたり、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのかしらねぇあんたはぁあッ!?」
いまにもレイナに殴りかかりそうな剣幕のクローディア。しかし、レイナは瞳を閉じたまま微動だにしない。
その態度が火に油を注いだのか、
「……あぁもう限界。一度でいいからそのすかした横っ面を一発ぶん殴ってやりたいと、ずっと思ってたのよね。いまこの場でその首から上、ふっ飛ばしてやるわ」
言い終わると同時にクローディアはレイナに向かって一歩を踏み出した……が、
「座りな、クローディア。軍議中だよ」
彼女の正面に《いつの間にか》フレイアが立ちはだかった。あまりに一瞬のことで、大和には彼女がいつ動いたのかもわからなかった。
「これが黙ってられることだと思いますか!? そもそもこんな女、ここにいること自体、間違って……ッ!」
「聴こえなかったのかい? あたしは座れと言ったんだ」
その穏やかな口調とは裏腹に、クローディアと対峙するフレイアの眼光はまるでいまにも獲物を食い殺さんとする獅子そのものだった。
「……は、はい」
一度は牙を向いたクローディアも、その気迫に負けて大人しく席についた。
(……こ、こわ)
一触即発の事態がようやく収まり、大和は思わず大きく息を吐き出す。
「レイナ」
場の雰囲気が落ち着くと、それまで沈黙を守っていたカタリナが口を開いた。
「クローディアの肩を持つわけではないけど、私にもあなたの狙いが理解できないわ。ギルヴァンティを押さえることで、いまのこの状況がどう変わるの?」
この場の誰もが同じ疑問を持っていたのだろう。全員の視線が改めてレイナに集中する。
大和は息を呑んだ。
「―――それは」
そしてレイナは、彼が授けた戦略を一同に向かって語り始めた。
⚓
「……よかったのかい?」
軍議が終わって人気がなくなった会議室にカタリナとフレイアの姿だけがあった。カタリナは部屋の窓を開けて外の様子を眺めており、フレイアはその隣で硝子窓に背中を預けている。
「なにが?」
「今回の決定さ。たしかにアイデアは斬新で面白いし、戦略的にも理に適っていた」
「なら問題ないでしょ?」
幼馴染のフレイアに話しかけるカタリナの口調は、レイナたち三人に対するものよりもかなり砕けていた。
「ならいいけど……。それにしてもレイナのやつ、いったいなにがあったんだか。一ヶ月前とはまるで別人だ」
「……たぶん後ろにいた男の子の入れ知恵じゃないかしら」
「あの新顔?」
「ええ。ティオにあそこまでの戦略眼があるとも思えないし……。誰かはわからないけど、レイナが近くに置くくらいだから、よほどのものを持ってるんでしょうね」
「それほどのやつには見えなかったけどね。軟弱で気も弱そうだったし、クローディアが怒り出したときはずっとびくびくしてたし。……それよりいいのかい?」
「なにが?」
「もし本当にそこまで軍略に長けているやつだとすれば、よその海軍の人間だって可能性もある。あるいは間者かもしれない。最初からうちにいれば、いままで目につかないはずがないからね」
「そこに考えが及ばないほど、馬鹿な子じゃないわ。大丈夫よ、きっと」
「きっと、って……。相変わらず適当だね」
呆れるフレイアに、カタリナは無言で微笑む。
「……しかし、クローディアとエルヴィンからすれば、面白くないだろうね。あの二人は明らかにレイナをライバル視してる。仕方ないと言えば仕方ないし、実戦に影響が及ばない限りはむしろ良いことなんだけど……」
「あの二人の考えも、大筋では正しいわ」
「じゃあ、なんでレイナの話に乗ったんだい?」
「私が求めてるのは、《この戦争に勝てる》戦略よ。あの二人にはそこが足りなかった。レイナの戦略だけが唯一、将来的な勝利を予感させてくれたのよ」
「なるほどね。まあ、勘の鋭いあんたが言うならそうなんだろうさ。……さて。それじゃあ、あたしは腐ってる二人のフォローにでも行ってくるかね」
「……悪いわね。いつも厄介事ばかり」
「それが仕事だよ。文句なんか言わないさ」
フレイアは窓際を離れ、扉へ向かう。
「……わたし、間違ってると思う?」
彼女の背中に、カタリナが振り返ることなく、呟くように尋ねる。
まるで「お前は間違っていない」と、そう言ってほしがるように。
フレイアは、その足を止めた。
「そうやって、決断の根拠をあたしに委ねる癖、止めろって言ったはずだよ」
「……そうだったわね。ごめんなさい」
「すべてを決めるのが、あんたの仕事だ。そしてあたしたちは、あんたが決めたその道を切り拓く剣。不可能を可能にする剣だ。だからあんたの決断は、あたしたちがいる限り決して間違わない。それがイグニス海軍だ。―――黙って見てな」
そう言い残して、フレイアは振り返ることもなく、部屋を後にした。
静まり返った会議室。
一人残されたカタリナは、その言葉に自然と頬を緩めた。
「……ありがとう」
⚓
翌朝から、イグニス海軍はレイナの戦略のもとで動き始めた。
彼女の戦隊も出港の準備を急いでおり、いまはクルーたちが荷樽をせっせと船に積みこんでいる。大和も最初は手伝おうとしたが、あまりに非力で邪魔にしかならず、いまは港の端に胡座をかいて大人しく出港を待っていた。
(……でも、ほんとに通るなんて)
そうして特にすることもない彼はいま、昨日の軍議について考えていた。
まさかただの高卒が趣味で身につけた知識が正規の海軍に採用されるなどとは思いもよらなかった。いくら知識格差があるとはいえ、正直かなり驚きだ。
そして……通ってしまった以上、もう本当に後戻りはできない。
そう思うと、一度は決めたはずの覚悟が揺らぎかけるのを大和は感じた。
―――手が震えてくる。
(……は、はは。どこの世界にいても、同じだなぁ……)
両手を眺めながら、思わず自嘲する大和。
いつもそうだった。自分はいざというときになって意気地がなくなり、いろんなことから逃げ出してきた。高校卒業後のアルバイトの面接ですら、当日になぜか不安になってボイコットしたことも一度や二度じゃない。その程度の人間が戦争の恐怖と向き合うなど、土台無理な話だ。
「ヤマトさん、準備ができましたので……ヤマトさん?」
呼びに来たレイナが、彼の様子を見て不思議そうに立ち止まる。
「……どうされたんですか?」
「あ、ああ、いえ……なんでもありません」
手の震えを必死に抑えながら、大和は笑顔で答える。だが、自分でも引きつっているのがわかるくらい不器用な笑顔だった。
レイナはしばし大和の様子を不思議そうに眺めていたが、すぐにその裏に潜む彼の本心に気づいたのだろう。
そっと彼に近づくと、その手を祈るように握り、
「大丈夫ですよ」
そう笑顔で口にした。
その温もりを感じて、震えが少しだけ収まった。
「さぁ。行きましょう」
「は、はい」
そして大和は彼女に引かれるがまま立ち上がり、船に向かって歩き出した。
⚓
「入るぞ」
ジャンヌはノックもなしに、扉を開けた。
そこはギルヴァンティにあるグランディア海軍の臨時支部の一室だ。もともとエメラダ海軍の施設だったが、同地をグランディアが領有して以降は、彼女たちが利用している。
そして彼女がいま入ったのは、かつて当地の戦隊の司令室だった部屋だ。
「来たか。金は持ってきたんだろうな」
つまり、なかで待っているのはベルガだ。彼はいま部屋の奥にある執務机に座っていた。上層部からの指令書だろうか、なにやら手紙に目を通していたようだ。
そして、その隣には一人の少女が立っていた。
ジャンヌと同じ褐色の肌に透き通るような短い白髪。その服装は上物の絹によるドレス調の服で、まるで妖精の羽衣を思わせるように幻想的だった。
だが、そんな彼女の表情はなぜか浮かない。いや、怯えていると言ってもいい。
その理由は、ベルががいま口にした「金」にあった。
「……ああ」
ジャンヌは持っていた革袋を机の上に投げつけた。ベルガはそれを手に取ると口の紐を解いて逆さにする。すると中から、大量の銀貨が転がり出てきた。
「これで残り一五〇フラン銀貨だ。払い終えたらアイルは私が預からせてもらう」
「かまわねぇよ。払い終えればな」
そう。ベルガの隣に立つ少女―――アイルことアイリーン・パウラは、彼専属の奴隷だった。私掠船を率いていた時分に彼が捕らえたのだ。
ジャンヌにはこれが許せなかったのだが、私掠行為は皇帝が許可した船に限っては正当な行為だ。そのため、アイリーンはいまでも彼の「所有物」として皇帝によって保証されている。
そこでジャンヌは、彼女を「買う」ことで救おうとしているのだ。
だが、今日の本題はこの銀貨の受け渡しではなかった。
「……で。用件はなんだ」
ベルガはジャンヌに、読んでいた手紙を投げて寄越す。
「イグニス海峡の近海で監視にあたっていた哨戒艇から急送公文書が届いた。連中、どうやらランドエンドの四戦隊のうち二つを東へ向かわせたそうだ。おそらくスピットファイアへ合流させるためだろう。だが、それと同時にもう一つ、べつの戦隊をなぜか南へ向かわせたっつぅ妙な報告が入った。上はその狙いを見極めて対策を講じろだとよ」
「お前の仕事だろ」
「てめぇの仕事でもある。それに、てめぇは俺がいねぇと上に評価されねぇぞ。こいつを買い戻すことができなくなってもいいのか?」
「評価なんざどうだっていい。私が戦略を提案したところで、どうせ上にはお前が全部考えたと報告してるんだろうが」
「俺の評価は戦隊の評価だ。稼ぎたいなら素直になるんだな。奴隷身分で成り上がったてめぇの意見なんざ、俺を通さない限り採用されない。てめぇは俺がいない限り、グランディア海軍で生きていけねぇんだよ」
彼の暴言に、ジャンヌは拳を必死に握り締め、いまにも殴りかかってしまいそうな怒りを抑えこんだ。だが、悔しいがベルガの言うとおりなのも事実だ。
(……グランディア海軍の上層部は陸軍から左遷されたやる気も実力もないくせに虚栄心だけは一人前の屑ばかりだ。そんな連中に戦争を任せていたら海軍は間違いなく滅ぶ。……だが、奴隷身分の私が戦略を提案したところで連中は絶対に認めない。ベルガがいない限り……)
だからこそ、ジャンヌはこれまでベルガの口を通じて海軍上層部にその戦略を採用させてきた。彼は口が上手いのか、上層部の覚えが非常に良い。もっとも、裏で娼婦や奴隷を融通しているからだとの黒い噂もあるのだが……。
「で? てめぇの意見は?」
すべてこの男の掌の上だと思うと、無力な自分に無性に腹が立ってくる。だが、いまはそんな場合ではないと自分に必死に言い聴かせた。
「……連中も馬鹿じゃないということだ。おそらくこっちの狙いに気づいたやつがいるんだろう。それだけのことだ」
「こっちの狙いが本土侵攻じゃないことに気づいたってのか?」
「いや。スピットファイアに戦隊を集めているんなら、その可能性も考えての再編成だろう。こっちにいますぐ本土を侵攻する気がなくても、向こうにはあるように見える。なにせ南岸主力のツィーロン戦隊の半数以上がブレストウッドに合流したんだからな」
「だが二隊を東へ、もう一隊を南へやったなら、ランドエンド周辺の防衛にあたる戦隊が一つしか残らねぇ。それで十分なわけがねぇってことは連中もわかってる。ってことは、なにか企んでるはずだ」
「ギルヴァンティさえ落とせば、いまうちが握っている主導権を奪うことができる。それで少なくとも戦況をグランディア優位から膠着状態に戻すことが可能だ。とりあえずはそこまで押し戻したいんだろう」
「危険を承知で、ここを潰しにくるってことか。ならこっちはどう出る?」
少しは自分で考えろと言いたかったが、ジャンヌは敢えて呑みこんだ。
「……やることは変わらない。まず相手の出方を見る。東に隙ができれば、陸軍をバルティア海から揚陸。西に隙ができれば、ランドエンド戦隊を撃滅。正面から来るなら、これを迎え撃つ。この場合、ブレストウッドかブロントに蓋をされたら、可能ならもう片方が敵戦隊を撃滅。両方に蓋をされた場合は、ただ黙っていればいい。どちらも動けず睨み合いになるだけだから、損をするのは向こうだ。大陸の戦争は現状、グランディア有利だし、物資もある程度なら陸路でなんとかなるからな。いずれにしても、こっちが優位にある以上、重要なのは攻め急がず反撃に徹することだ」
「……いいだろう。上の連中にはそれで納得させる。てめぇは準備にかかれ。明後日には出る」
「……ふん」
鼻を鳴らして踵を返すジャンヌ。
部屋を出る直前、一度だけアイリーンのほうを振り返った。彼女は無言を貫いていたが、その視線は明らかになにかを懇願している。だが、ジャンヌと目が合うと、その気持ちを察せられるのを避けたのか、気不味そうに視線を逸らした。
(……待っててくれ、アイル。あと少しだから……)
悔しさを奥歯で噛み潰しながら、ジャンヌは無言で部屋を後にした。
―――そして、九月二九日。
後世、ギルヴァンティの海戦と呼ばれる世紀の一戦が勃発した。