気紛れたラスボスを振り回す気紛れた群像
◯水晶霊月2節目 14:00 ブーゲンビリアの森
リリスの宮殿から遥か南方、ノルシュヴァイン山脈を越えた先に築かれた魔大陸最大の都市国家・娯楽都市マッカランの周辺には、広大な平原が広がっている。
元々は小さな森が点在していたが、マッカランの代々の領主が切り開いてしまい、今となっては平原の西に広がる海岸線沿いの森林のみが残っているだけだった。
そこも本来は切り開かれる予定だった。
だが、未だ手つかずのまま放置されている。
より正確には、手を出せなかったのだが……。
「ひぃ、ふぅ、みぃ―――――」
その森は人の手には到底負えない怪物や複雑に入り組んだ樹海構造、そして妖精の誘惑に満ちており、踏みこんだが最後、二度と抜け出せないと噂されていた。
万一森で迷った場合には、森の中に多く見られるブーゲンビリアの花を目印にして脱出する他に方法はない。この花は身に降り注ぐ日光や月光の光量に応じて様々な色に輝く特殊な性質を持ち、その色の具合を手掛かりに脱出経路を導くのだ。
先人たちが森の名前に「ブーゲンビリア」と冠したのも、その脱出方法を想起させるための配慮からだった。もっとも、言うは易し行うは難しが現実のため、脱出方法を知っていても近づく者は余程の物好きを除いて皆無に等しい。
「――――――んんんっ?」
そんな危険極まりない森の中で今、暢気に腰を下ろして何かを数えている青年が一人。大道芸人のような身形はやや間抜けで、森の探索には明らかに相応しくない。
その後ろには彼の仲間と思しき三人の人影が控えていた。
そして青年の前には、何故か正座させられている半べその少女が一人。
人の手に依るとは思えない継ぎ目も縫い目もないワンピースのような碧色の服、背中から生える透き通るほどに綺麗な羽が、人外の存在であることを容易に窺わせる。それらの身体的特徴から察するに、おそらくは妖精の類だろうか。
「どうしたのよ? 急に黙っちゃって」
仲間の一人、腰の革ベルトに短剣を差した踊り子風の女が青年に声をかける。
だが、その声が聴こえていないのか、青年は噴火寸前の火山のように肩を震わせるだけで、振り返る素振りすら見せない。
やがて、絞り出すように一言、静かに呟いた。
「……少ない」
「少ない? 何がだ?」
別の一人、筋骨隆々で如何にも拳闘士といった風情の男が疑問を口にした。上腕筋や腹筋を誇示するような露出多めの服装で、なぜか爪先だけで立っている。
残る一人、真紅の外套と頭巾に身を包んだ少女は魔導士だろうか、小柄な体格のため袖口や裾がかなり捲られている。明らかに服装のサイズが合っていない。―――彼女は冷静な他の二人と違い、青年を止めるべきか迷っているような狼狽を見せている。
そんな三人の視線と問いかけを余所に、青年は突然、妖精の少女の胸倉を両手で掴みにかかった。
「ひえええっ!」
当然のように怯え出す妖精の少女。
「一体どういうことだ! お前はキッチリ5万5000ギル持ってる筈だろ! それが1500ギル少ないってのは一体どういうことなんだ!? ええっ!?」
問答無用で妖精の少女を乱暴に揺する青年。少女が宙に浮く程の荒々しい様は、文字通り恐喝に等しい。
青年は今まで戦闘後の入手ギルを勘定していた。彼の過去の記録によれば、相手の妖精の少女は一人につき5万5000ギルを所有している筈だった。
だが、実際には5万3500ギルだけしか持っていなかったのだ。
「……そ、そんなこと、言われても……」
妖精の少女は脚をじたばたさせながら必死に逃れようと暴れている。だが、ほぼ宙吊りで息が詰まっているためか、だんだんと抵抗にも勢いがなくなってくる。
しかし、徐々に弱る少女にも青年は容赦しない。
「1500ギルあれば、どれだけのことが出来ると思ってんだ! 宿屋なら素泊まり七泊八日、薬草なら150個、一人なら大陸間定期便にも乗れる大金だぞ!」
青年の苛烈な仕打ちに観念したのか、妖精の少女は息も絶え絶えに白状し始める。
「……ちょっとお腹空いちゃって……森に帰って来る前に、買い食い……」
「……はぃ?」「……はっ?」「……えっ?」
あまりにも俗っぽい理由に、青年以外の三人は思わず呆気に取られてしまった。
だが、青年は呆れるどころか、その怒りは臨界を突破した。
「なんだそのふざけた理由は! そんな理由で俺の素晴らしいモンスター図鑑に穴開けられてたまるかぁ! お前の所持金はキッチリ5万5000ギルって書いてあんだ!」
「そ、そんな……あたしのお金をどう使っても自由…………」
「細かいことはどうでもいい! とにかく出せぇっ! 残り1500ギル! 出せ! 出せ! 出あぁせぇっ!」
「な、なによ、あの守銭奴は……」
そんな討伐隊一行の様子を、木陰からこっそり覗いている半妖の女―――ノエル。
予期せぬ流れのままに「さっさと討伐隊一行を魔宮に連れてこい」と命じられてしまった彼女は、とりあえず連中の現状を把握すべく偵察に出向いていた。
自分を討伐する部隊を進んで招くなど正気の沙汰ではないが、ここ暫く暇を持て余していた主のリリスは、それすらも楽しみにしようと目論んでいるようだ。
かねてから聖大陸最大の軍事都市国家・アインシュヴァルツでは、近年の魔物の暴走の完全鎮圧を目指し、リリスの討伐を計画していた。北方の町で彼女によって幼子が攫われたなどというデマも相まって、人々が魔族に対する警戒感を強めていたからだ。
そこで魔女の討伐隊を募ったのだが、流石に相手が野生の魔物レベルではなく魔女リリスということで、志願者は微々たるものだった。とは言え手をこまねいているわけにもいかない。国王は仕方なく少数精鋭という建前で暫定部隊を特派するに至る。
それが、今目の前で怒号を張り上げる金の亡者の一行だ。
「それにしても、メルのやつ何であんな一方的にやられてるのよ。そこまで戦力に差があるわけないと思うけど…………あっ、行った」
1500ギルは諦めたのか、討伐隊一行はようやっと森を後にした。
彼らの姿が完全に見えなくなった所で、ノエルは残された妖精の少女に近づく。すっかり体力を使い果たしたのか、ぐったりと俯せに倒れ付したまま動く気配がない。
「うぅ……ううぅぅっ……」
「……メールー、大丈夫……なわけないわよね」
恐る恐る声をかけてみると、泣き伏していた妖精の少女―――メルリープがゆっくりと顔を上げる。
「……ま、まずだぁー……?」
鼻声で呼びかけられたノエルは、メルリープの面を直視して若干身を引いた。顔中泥で汚れていたり、鼻や涎を恥ずかし気もなく垂らしていたり、もはや妖精と呼ぶには些か多くのものを彼女は失っていたからだ。
だが、それでもメルリープは自分の家族だ。無下に対するわけにはいかない。
「なんとまあ派手にやられて……。一応でも私の使い魔なんだから、もう少し頑張って欲しいんだけど……」
「ずびばじぇん……ぜっがぐぼらっだおごづかいがぁ……」
奪われたギルについて謝罪しながら這い寄って来るメルリープに、ノエルは反射的に距離を置きながら早口で言葉を繋ぐ。
「い、いや、それは別にいいんだけど……。そ、それよりまず鼻、鼻、鼻かんでくれない? あと泥とか涎も拭いて。色々凄いことになってるから」
「は、はひぃ」
ノエルから差し出されたちり紙で激しく鼻をかむメルリープ。
やがて彼女の鼻も涎も気持ちも落ち着いた所で、ノエルは話を切り出す。
「でも、何でそんなボロボロにされたわけ? あんな遊び人とか踊り子とか混ざってる連中なんて、みんなを呼べば大丈夫でしょ?」
討伐隊一行が倒されてしまってはノエルの任務が失敗となるのだが、メルリープがあまりに易々と倒された驚きが彼女の思考を麻痺させていた。
だが、続くメルリープの一言が、ノエルを更に困惑させる。
「それが……呼んでも誰も来てくれなかったんです」
「えっ? 誰もって……一人も?」
メルリープはしゅんとしたまま小さく頷く。どうやら事実のようだ。
彼女は二六人姉妹で、元々は生みの親のリリスの使い魔として魔宮で暮らしていた。
使い魔にしては珍しく、誰から見ても愛らしい妖精の外見をしている。その一見しただけで魔女の仲間と見分けにくい姿を活かして、本来は密偵や暗殺などの裏仕事を任せる筈だった。
だが、親のリリスに似たのか、徐々に自己中心的な性格に育ち始め、姉妹同士で協力しては魔術修行を抜け出したりするようになった。その六年後、面倒を見切れなくなったリリスがその世話をノエルに押しつけて今に至る。
結果、メルリープたちは今、ノエルの寓居があるブーゲンビリアの森を守護する役を与えられている。だが、そもそも神秘の森として名高い為、近寄る一般人は少ない。
よって、彼女たちは皆、自由気侭な毎日を思う存分謳歌していた。
その間、二六人という大所帯にも関わらず、彼女たちは喧嘩一つせず、いつも一緒に飛び回っていた。それほどに仲の良い彼女たちが、姉妹が助けを呼んでも一人も駆けつけなかったという事実に、ノエルは妙な違和感を覚えた。
「一人も来てくれなかったって……、マドハ◯ドでもそこまで薄情じゃないと思うけど……でも一体何でなのよ? 喧嘩でもしたの?」
試しに尋ねてみても、彼女は首を横に振る。
「BからIは分かりませんけど、JからZは『どうせ出番ないから』って、どっか遊びに行ったのかもしれません。前からちょくちょく、そういうことはあったので」
「あ、遊びにって……あいつら……」
メルリープの告白にノエルは思わず頭を抱える。
AやZというアルファベットは姉妹を便宜的に区分する名前のようなものだ。
別々に名前を与えれば良いのにとノエルは思ったが、生みの親であるリリスの「覚えるの面倒臭い」という理由で現在の方式に落ち着いた。
もっとも、メルリープたちは姉妹とは言え、正確には全員で一つの存在として存在している為、リリスの判断は彼女たちの存在という観点から見れば正しかったと言える。メルリープとは一つの「意識」に与えられた名前であり、その意識を共有する形で生み出されたのが、具象化された個体としての彼女たちである。
ちなみに、このアルファベットの割り振りは固定ではない。
メルリープたちは毎朝、何らかの勝負事を行い、敗北した順にAから割り振っているらしい。AからIは寓居と森の見回りを担う為、言わば罰ゲームという扱いだ。
中でも、いま目の前でへたりこんでいるメルリープはここ最近、連日のようにAを割り振られている為か、体中に生傷が絶えない。
使い魔たちの暴挙を知って黙りこんでいたノエルが、やがて静かに口を開く。
「……いくら何でも、呼んでも来ないっていうのは問題ね……。みんなは屋敷?」
メルリープは頷く。
「そう。じゃあ、とにかく一旦戻りましょう。あんたの傷も手当てしないといけないし。……って言うか、最近やけに傷だらけ無一文で戻ってくると思ったら、ギル稼ぎの餌食になってたってわけね」
「め、面目ないです……」
「これに懲りたら少しは魔術の修行もしときなさい。このままじゃ毎日あの守銭奴にいたぶられるだけよ。リリス様からも、これ以上の経費申請は認めないって言われたから、もうお小遣い奪われてもあげられないしね――――――」
リリスの宮殿から遥か南方、ノルシュヴァイン山脈を越えた先に築かれた魔大陸最大の都市国家・娯楽都市マッカランの周辺には、広大な平原が広がっている。
元々は小さな森が点在していたが、マッカランの代々の領主が切り開いてしまい、今となっては平原の西に広がる海岸線沿いの森林のみが残っているだけだった。
そこも本来は切り開かれる予定だった。
だが、未だ手つかずのまま放置されている。
より正確には、手を出せなかったのだが……。
「ひぃ、ふぅ、みぃ―――――」
その森は人の手には到底負えない怪物や複雑に入り組んだ樹海構造、そして妖精の誘惑に満ちており、踏みこんだが最後、二度と抜け出せないと噂されていた。
万一森で迷った場合には、森の中に多く見られるブーゲンビリアの花を目印にして脱出する他に方法はない。この花は身に降り注ぐ日光や月光の光量に応じて様々な色に輝く特殊な性質を持ち、その色の具合を手掛かりに脱出経路を導くのだ。
先人たちが森の名前に「ブーゲンビリア」と冠したのも、その脱出方法を想起させるための配慮からだった。もっとも、言うは易し行うは難しが現実のため、脱出方法を知っていても近づく者は余程の物好きを除いて皆無に等しい。
「――――――んんんっ?」
そんな危険極まりない森の中で今、暢気に腰を下ろして何かを数えている青年が一人。大道芸人のような身形はやや間抜けで、森の探索には明らかに相応しくない。
その後ろには彼の仲間と思しき三人の人影が控えていた。
そして青年の前には、何故か正座させられている半べその少女が一人。
人の手に依るとは思えない継ぎ目も縫い目もないワンピースのような碧色の服、背中から生える透き通るほどに綺麗な羽が、人外の存在であることを容易に窺わせる。それらの身体的特徴から察するに、おそらくは妖精の類だろうか。
「どうしたのよ? 急に黙っちゃって」
仲間の一人、腰の革ベルトに短剣を差した踊り子風の女が青年に声をかける。
だが、その声が聴こえていないのか、青年は噴火寸前の火山のように肩を震わせるだけで、振り返る素振りすら見せない。
やがて、絞り出すように一言、静かに呟いた。
「……少ない」
「少ない? 何がだ?」
別の一人、筋骨隆々で如何にも拳闘士といった風情の男が疑問を口にした。上腕筋や腹筋を誇示するような露出多めの服装で、なぜか爪先だけで立っている。
残る一人、真紅の外套と頭巾に身を包んだ少女は魔導士だろうか、小柄な体格のため袖口や裾がかなり捲られている。明らかに服装のサイズが合っていない。―――彼女は冷静な他の二人と違い、青年を止めるべきか迷っているような狼狽を見せている。
そんな三人の視線と問いかけを余所に、青年は突然、妖精の少女の胸倉を両手で掴みにかかった。
「ひえええっ!」
当然のように怯え出す妖精の少女。
「一体どういうことだ! お前はキッチリ5万5000ギル持ってる筈だろ! それが1500ギル少ないってのは一体どういうことなんだ!? ええっ!?」
問答無用で妖精の少女を乱暴に揺する青年。少女が宙に浮く程の荒々しい様は、文字通り恐喝に等しい。
青年は今まで戦闘後の入手ギルを勘定していた。彼の過去の記録によれば、相手の妖精の少女は一人につき5万5000ギルを所有している筈だった。
だが、実際には5万3500ギルだけしか持っていなかったのだ。
「……そ、そんなこと、言われても……」
妖精の少女は脚をじたばたさせながら必死に逃れようと暴れている。だが、ほぼ宙吊りで息が詰まっているためか、だんだんと抵抗にも勢いがなくなってくる。
しかし、徐々に弱る少女にも青年は容赦しない。
「1500ギルあれば、どれだけのことが出来ると思ってんだ! 宿屋なら素泊まり七泊八日、薬草なら150個、一人なら大陸間定期便にも乗れる大金だぞ!」
青年の苛烈な仕打ちに観念したのか、妖精の少女は息も絶え絶えに白状し始める。
「……ちょっとお腹空いちゃって……森に帰って来る前に、買い食い……」
「……はぃ?」「……はっ?」「……えっ?」
あまりにも俗っぽい理由に、青年以外の三人は思わず呆気に取られてしまった。
だが、青年は呆れるどころか、その怒りは臨界を突破した。
「なんだそのふざけた理由は! そんな理由で俺の素晴らしいモンスター図鑑に穴開けられてたまるかぁ! お前の所持金はキッチリ5万5000ギルって書いてあんだ!」
「そ、そんな……あたしのお金をどう使っても自由…………」
「細かいことはどうでもいい! とにかく出せぇっ! 残り1500ギル! 出せ! 出せ! 出あぁせぇっ!」
「な、なによ、あの守銭奴は……」
そんな討伐隊一行の様子を、木陰からこっそり覗いている半妖の女―――ノエル。
予期せぬ流れのままに「さっさと討伐隊一行を魔宮に連れてこい」と命じられてしまった彼女は、とりあえず連中の現状を把握すべく偵察に出向いていた。
自分を討伐する部隊を進んで招くなど正気の沙汰ではないが、ここ暫く暇を持て余していた主のリリスは、それすらも楽しみにしようと目論んでいるようだ。
かねてから聖大陸最大の軍事都市国家・アインシュヴァルツでは、近年の魔物の暴走の完全鎮圧を目指し、リリスの討伐を計画していた。北方の町で彼女によって幼子が攫われたなどというデマも相まって、人々が魔族に対する警戒感を強めていたからだ。
そこで魔女の討伐隊を募ったのだが、流石に相手が野生の魔物レベルではなく魔女リリスということで、志願者は微々たるものだった。とは言え手をこまねいているわけにもいかない。国王は仕方なく少数精鋭という建前で暫定部隊を特派するに至る。
それが、今目の前で怒号を張り上げる金の亡者の一行だ。
「それにしても、メルのやつ何であんな一方的にやられてるのよ。そこまで戦力に差があるわけないと思うけど…………あっ、行った」
1500ギルは諦めたのか、討伐隊一行はようやっと森を後にした。
彼らの姿が完全に見えなくなった所で、ノエルは残された妖精の少女に近づく。すっかり体力を使い果たしたのか、ぐったりと俯せに倒れ付したまま動く気配がない。
「うぅ……ううぅぅっ……」
「……メールー、大丈夫……なわけないわよね」
恐る恐る声をかけてみると、泣き伏していた妖精の少女―――メルリープがゆっくりと顔を上げる。
「……ま、まずだぁー……?」
鼻声で呼びかけられたノエルは、メルリープの面を直視して若干身を引いた。顔中泥で汚れていたり、鼻や涎を恥ずかし気もなく垂らしていたり、もはや妖精と呼ぶには些か多くのものを彼女は失っていたからだ。
だが、それでもメルリープは自分の家族だ。無下に対するわけにはいかない。
「なんとまあ派手にやられて……。一応でも私の使い魔なんだから、もう少し頑張って欲しいんだけど……」
「ずびばじぇん……ぜっがぐぼらっだおごづかいがぁ……」
奪われたギルについて謝罪しながら這い寄って来るメルリープに、ノエルは反射的に距離を置きながら早口で言葉を繋ぐ。
「い、いや、それは別にいいんだけど……。そ、それよりまず鼻、鼻、鼻かんでくれない? あと泥とか涎も拭いて。色々凄いことになってるから」
「は、はひぃ」
ノエルから差し出されたちり紙で激しく鼻をかむメルリープ。
やがて彼女の鼻も涎も気持ちも落ち着いた所で、ノエルは話を切り出す。
「でも、何でそんなボロボロにされたわけ? あんな遊び人とか踊り子とか混ざってる連中なんて、みんなを呼べば大丈夫でしょ?」
討伐隊一行が倒されてしまってはノエルの任務が失敗となるのだが、メルリープがあまりに易々と倒された驚きが彼女の思考を麻痺させていた。
だが、続くメルリープの一言が、ノエルを更に困惑させる。
「それが……呼んでも誰も来てくれなかったんです」
「えっ? 誰もって……一人も?」
メルリープはしゅんとしたまま小さく頷く。どうやら事実のようだ。
彼女は二六人姉妹で、元々は生みの親のリリスの使い魔として魔宮で暮らしていた。
使い魔にしては珍しく、誰から見ても愛らしい妖精の外見をしている。その一見しただけで魔女の仲間と見分けにくい姿を活かして、本来は密偵や暗殺などの裏仕事を任せる筈だった。
だが、親のリリスに似たのか、徐々に自己中心的な性格に育ち始め、姉妹同士で協力しては魔術修行を抜け出したりするようになった。その六年後、面倒を見切れなくなったリリスがその世話をノエルに押しつけて今に至る。
結果、メルリープたちは今、ノエルの寓居があるブーゲンビリアの森を守護する役を与えられている。だが、そもそも神秘の森として名高い為、近寄る一般人は少ない。
よって、彼女たちは皆、自由気侭な毎日を思う存分謳歌していた。
その間、二六人という大所帯にも関わらず、彼女たちは喧嘩一つせず、いつも一緒に飛び回っていた。それほどに仲の良い彼女たちが、姉妹が助けを呼んでも一人も駆けつけなかったという事実に、ノエルは妙な違和感を覚えた。
「一人も来てくれなかったって……、マドハ◯ドでもそこまで薄情じゃないと思うけど……でも一体何でなのよ? 喧嘩でもしたの?」
試しに尋ねてみても、彼女は首を横に振る。
「BからIは分かりませんけど、JからZは『どうせ出番ないから』って、どっか遊びに行ったのかもしれません。前からちょくちょく、そういうことはあったので」
「あ、遊びにって……あいつら……」
メルリープの告白にノエルは思わず頭を抱える。
AやZというアルファベットは姉妹を便宜的に区分する名前のようなものだ。
別々に名前を与えれば良いのにとノエルは思ったが、生みの親であるリリスの「覚えるの面倒臭い」という理由で現在の方式に落ち着いた。
もっとも、メルリープたちは姉妹とは言え、正確には全員で一つの存在として存在している為、リリスの判断は彼女たちの存在という観点から見れば正しかったと言える。メルリープとは一つの「意識」に与えられた名前であり、その意識を共有する形で生み出されたのが、具象化された個体としての彼女たちである。
ちなみに、このアルファベットの割り振りは固定ではない。
メルリープたちは毎朝、何らかの勝負事を行い、敗北した順にAから割り振っているらしい。AからIは寓居と森の見回りを担う為、言わば罰ゲームという扱いだ。
中でも、いま目の前でへたりこんでいるメルリープはここ最近、連日のようにAを割り振られている為か、体中に生傷が絶えない。
使い魔たちの暴挙を知って黙りこんでいたノエルが、やがて静かに口を開く。
「……いくら何でも、呼んでも来ないっていうのは問題ね……。みんなは屋敷?」
メルリープは頷く。
「そう。じゃあ、とにかく一旦戻りましょう。あんたの傷も手当てしないといけないし。……って言うか、最近やけに傷だらけ無一文で戻ってくると思ったら、ギル稼ぎの餌食になってたってわけね」
「め、面目ないです……」
「これに懲りたら少しは魔術の修行もしときなさい。このままじゃ毎日あの守銭奴にいたぶられるだけよ。リリス様からも、これ以上の経費申請は認めないって言われたから、もうお小遣い奪われてもあげられないしね――――――」